夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

慣れる

2009-08-30 17:46:20 | 創作(etude)
 人間には
 慣れるという
 能力がある

 悲しくても
 つらくても
 金持ちにも
 貧乏にも
 腹いっぱいにも
 腹ペコにも
 失恋にも
 恋の成就にも
 幸福にも
 不幸にも
 海の生活にも
 山の生活にも
 南の生活にも
 北の生活にも
 大家族にも
 一人きりにも
 妻の死にも
 夫の死にも

 慣れるという
 その力がなければ
 人間は
 どうなるのだろうか
 慣れるというのは
 よいことなのだろうか
 いけないことなのだろうか
 幸福なことなのだろうか
 不幸なことなのだろうか
 
 慣れるという
 慣れないという
 慣れきったという
 不慣れなという
 なれなれしいという
 なつかないという
 繰り返しの中で
 必要な慣れること

 この慣れがなければ
 人間は
 毎日毎日
 同じ境遇が続くかもしれない
 悲しい人は悲しんでばかり
 苦しい人はずうっとずうっと
 絶望の人はまた絶望の日々を 
 ひたすらひたすら
 抜け道もなく
 終えることのない暮らし
 だから
 慣れなければ
 ならないことだってあるのだ
 慣れたらきっと
 涙もおさまり
 食欲も出て
 腹ペコに気づいて
 鳥たちの声に
 心動かし
 季節のめぐりに
 感動もするのだ
 暑さの後に
 涼しさが来て
 涼しさの後に
 寒さがやって来て
 寒さの後に
 また
 新緑の春が
 やってくるように
 幸せだけで
 幸せは続かないように
 不幸があって
 幸せが
 感じられるように
 繰り返すことが
 感謝を生み出すように
 慣れるということの
 大切さを
 わたしは知るのだ
 神様の
 ささやかな
 贈り物    

「いただきます」

2009-08-30 16:24:04 | 創作(etude)
 食膳を前に
 「いただきます」と
 手を合わせる
 それは
 誰に向かって
 言っているのか
 考えもせずに
 五十数年間も
 そうするものだという
 しきたりのような
 儀式のような
 慣習のような
 儀礼のような
 形式として
 繰り返された
 
 「いただきます」は
 その料理を
 作った人に
 返す言葉なのだろうか
 あるいは
 食事を施してくださる方に
 向けられるべき
 ことばなのだろうか
 あなたの心をこめて
 私に調理してくださったという
 その労力や技術に感謝して
 発せられるのだろうか

 私は殺したことがある
 魚を鳥を鶏を
 殺すためだけに
 命を奪ったのではなく
 私たちのいのちを
 つなぐために
 いただいたいのちだった

 放し飼いの
 鶏を捕まえるためには
 今からお前を殺すために
 捕まえてやろうなどと
 そう思って近づくと
 鶏はその殺気を鋭く感じて
 とてつもなく素早く
 縦横無尽に
 必死になって
 逃げ回るのだ
 だからぼくは
 さも違うことを考えていると
 鶏に思わせながら鶏とすれ違って
 違う方向に行くと見せかけて
 いきなり
 その可愛い両足を払うように
 タックルするのだ
 こうでもしないと
 たった一羽の
 鶏ですら
 捕まえることなど
 できはしない

 捕まえた鶏を
 調理するには
 段取りがあって
 まずは
 そのいのちを
 葬らなければならない
 鶏の両足を
 左右に張った
 ロープに吊るし
 鶏の頭を
 左手でつかみ
 右手で
 よく切れる包丁で
 その首の血管を
 一気に引き裂くのだ
 すると
 鶏の首から
 鮮血が
 ぴゅっと
 噴出すのだ
 鶏は自分の身体に
 何が起きたのかすら 
 わからぬまま
 ただ羽をばたつかせ
 騒ぎまくる
 鮮血を周囲に振りまきながら
 幾度か声を「ケーッ」と振り絞り
 幾度か
 身体を痙攣させながら
 次第に
 絶命していくのだ

 台所では
 この鶏の
 羽根をむしりやすくするために
 大鍋が
 ぐつぐつと湯を滾らせて
 沸いている
 先ほど絶命したばかりの
 鶏をこの鍋に入れ
 しばらく煮ると
 今度は
 鶏の身体の羽根を
 むしりとっていく
 ブチッブチッという
 羽根をむしる時には
 音がする
 こうして
 鶏が素っ裸になるまで
 羽根という羽根を
 きれいにむしりとって
 丸裸の鶏が
 まな板の上に
 並べられる
 
 今度は包丁で
 鶏の両足の真上から
 一直線に皮を切り
 内臓を順番に
 切り分けていく
 胃だの心臓だの砂肝だの
 胆嚢だってある
 こうして切り分けられた内臓が
 水できれいに洗われて
 目の前の大皿に並べられて
 それはまた
 美しく輝いてさえ見える
 さらに解体は進んで
 今度は手羽先や、
 モモ肉などに切り分けられて
 ようやく
 調理へと進んでいくのだ
 鶏のスープ
 串焼き
 フライ
 炒め物
 一つとして捨て去るものはない
 小一時間もすればついに
 美味しい匂いが部屋中を
 殺戮の匂いをかき消すように
 満たしているだろう
 しかし
 ここまでに至る
 時間と
 手間隙と
 あの生きていた
 確かに生きていた
 死にたくなかった
 鶏の断末魔の声や
 飛び散った
 鮮血と
 羽根のまま煮ると
 鼻を突いた羽根の匂いを
 私の感覚は
 記憶し続けている
 
 私たちが
 命をつなぐために
 毎日繰り返さなければならない
 いのちの収奪行為は
 そのたびに繰り返されているのだ
 これだけの手続きがあって
 はじめて
 私たちの胃袋は満たされ
 飢えを知らないままに
 明日を迎えられるのだ

 あの逃げ回った鶏にだって
 父も母も兄も弟も姉も妹も
 家族がいたに違いない
 死のうと思って生まれたのではない
 食われたいために
 いのちをつないだのではない
 そのいのちの営みや
 希望や喜びを
 断ち切って 
 私たちは
 今を生きるのだ

 「いただきます」という
 その言葉は
 あの死んでいったものたちに
 向けられるべきものなのではないか
 「あなたの命を
 私たちが
 長らえるために
 命に代えさせていただきます」
 そういう言葉でもあるはずなのだ

 現代の食生活は
 豊かな食材で
 満たされているかのように見える 
 すべてのいのちは
 いのちの実感を感じない
 切り分けられた部分で
 売られている
 調理する人でも
 その料理を食べる人でも
 そのいのちの絶命する
 姿など
 思う人もない

 結局子どもたちですら
 そのいのちを
 途中で残したり
 好き嫌いをしたり
 残したまま
 未練もなく捨て去ったり
 「いただきます」の
 感謝の祈りが
 廃れていくのだ 

 省略すべきではないのだ
 「あなたの命を
 私たちの
 いのちを
 つなぐために
 いただきます」
 そうでも言わなければ
 誰もそのいのちの
 尊さや
 ありがたみが
 失われてしまうのだ

「こころ」2

2009-08-29 14:24:33 | 創作(etude)
 こころ

 この定まらないもの
 くだりの坂道に差し掛かると
 転がり始め
 上りの坂道になると
 おだてても
 なだめても
 すかしても
 頑として動かなくなる
 そうして
 道端の穴に
 落ち込もうものなら
 この世の終わりのように
 泣きわめき
 重病人のように
 やる気を失い
 赤子のように
 乳をほしがる

 それでも
 こころは
 育つ
 柔軟になる
 向かいからやってくる
 別の心とすれ違うたびに
 広くなり
 高くなり
 深くなる

 こころはだから
 変わらなければ
 ならないという
 特徴を持っている
 
 若い時代には
 みずみずしさや
 柔軟な弾力性をもち
 壮年期には
 落ち着きと
 自信
 そして
 協調性
 経験を糧とした
 企画力
 組織力
 何より
 実行力が伴っている
 晩年には
 ゆったりとした
 大河のように
 たどってきた
 いく筋者人生の小路を
 もう一度たどりなおすかのように
 ロッキングチェアに
 深く腰掛けて
 眼をつぶったままで
 柔らかな風に身を任せて
 そうして次第に
 眠りに落ちていくのだ

役員会終了

2009-08-29 05:51:43 | つれづれなるままに
 法人理事会・評議員会が昨夜開催された。議案の中心は「ケアホームの改築工事の予算化の承認」である。またそれに伴い、職員採用、給与規定等の改訂が承認された。また新規事業として11月1日から開始予定の「居宅介護」「相談支援」の両事業も承認された。
 2000年に法人が認可されて、今年満10周年である。格別なイベントを行うわけではないが、これまで事業の推進に協力をいただいてきた役員諸氏に対し感謝の夕食会となった。あうんの名物はなんといっても、建物の付属施設であるウッドデッキである。隣のリンゴ園の樹間から、半月が見えた。仕事を終えた職員が集まって、バーベキューの支度を手伝ってくれた。役員の一人が鹿やウサギの肉を提供してくれたので牛肉を混ぜて焼いた。珍しい食感で、みな恐る恐る手を伸ばしている。新潟からの土産の油揚げや日本酒も添えられ、生ビールなども振舞われた。
 午後9時に中締めが行われて、皆さん満足されて帰った。
 法人の目指すものなど私と中核のスタッフで、残り物をいただきながら話しをした。私が居なくなっても、私が目指し法人が実践した方向性をぜひ見失わずに、受け継いでほしいと思う。それは何よりも「社会の子ら」がこの世に生まれてきたことを祝福し、それを支えられるきめ細かなシステム作りなのだ。
 「社会の子ら」は、神様からの贈り物でもある。私たちはその存在から様々な弱さの中にある「社会のあるべき姿」「人間の矜持」を学ぶ機会を提供されているのだ。私たち自らが、この人々を支える姿を示すことによって、社会の人々がまた新たな支えの理念を広めてくれるはずなのだ。
 「見えないと思うことはない」というデンマークのことわざを、私はまさにこのしょうがい者福祉の中にいつも見ている。建物がまずあるのではなく、人がそこにまず暮らしているのだ。その暮らしの不足を支え、補い、高められるような支援を行うことが私たちの役割なのだと思う。
 宮沢賢治の思想「すべての人々の幸せの実現こそが、私自身の幸せ」につながるという願いを私はこれからも大切にしたい。
 

8月27日(木)法人の動き

2009-08-28 07:11:57 | 福祉について
 昨日から仕事場に復帰している。夏休みの子どもたちの喧騒も風のように去り、あうんも落ち着いた雰囲気を取り戻した。私が不在の間のいくつかの気がかりを確認して、たまった決裁書類に捺印している。
 最も締め切りを迫られていたケアホームの助成団体への書類がようやく出来上がって、提出の段階となった。若いスタッフが居なかったら、多分こういう段取は終えることができないでいたかもしれない。感謝の気持ちと、自分の施設での役割が終えつつあることを実感している。
 旧友が北海道の旅をしているという知らせや、夫婦で来月青森と長野を旅するという友人の近況を聞き、ああそういう人生のステップにあるんだなと実感する。
 柵(しがらみ)の多すぎることの幸せと、その柵によって起こる個別的な不幸が同居している自分である。人生に目標がありその目標値が100%とすれば、私の評価では120%を超えている。「上出来の人生」なのである。しかし辛口での評価をすれば、娘たちの本当の幸福を考えたら60%程度なのかなとも思っている。それは、形としての娘たちへの安住の住まいは確保しつつあるものの、本当に彼女たち個々の幸せの場足り得るかを思えば、少し開きはある。保険的な意味合いで妥協せざるを得ないというのが真相のようだ。
 「入所施設は決して作らない」という私のこれまでの考えに変わりないとしても、このケアホームは施設ではないのかという矛盾点をどう解決するのだろう。
 いずれにしても、親のケア水準に低下の傾向があり、その先に彼女たちの生活権が犯されることが予期されるとすれば、安心のできるシステム形成を図って委ねるしかないのだ。重度制約者は「社会の子」という私の考え方を、これからも社会に普及させてゆくべきだと思う。
 宮沢賢治思想の中核「自分の本当の幸せは、世界中の人々が幸せになる」ことなのだ。私もその思想を受け継ぎたいと今更ながら思っているし、それを我が法人の思想にしたいと強く思う。

POEM/「南天」

2009-08-27 20:02:42 | 創作(etude)
 南天

 南天の木は
 赤や白い
 可愛い実で
 毎年玄関わきを
 飾ってきた

 ぼくが
 小学生のとき
 雪が降った日には
 三つ下の妹が
 「オニイチャン
 ウサギヲツクッテ」と
 ねだるのだった

 ぼくがウサギの形を作ると
 最後にウサギの
 目を入れるのは
 妹だった

 あれから
 南天の木は
 五十年間も
 この家の
 日々の暮らしを
 見続けてきた

 そして
 その南天の木は
 今や背丈も
 優に三メートルを超え
 ついに
 瓦屋根を
 突き破り
 気持ちよさそうに
 風に小枝を
 揺らしている
 こんなに
 やわらかな
 南天の小枝が
 どこにそういう
 力をつけて
 いるのだろうか

 南天は
 ぼくに
 「人生
 諦めちゃ
 だめだよ」って
 そう
 生き方を
 身をもって 
 教えているようだ
   

帰郷しました

2009-08-27 06:01:05 | つれづれなるままに
 新潟への帰郷をしました。ブログはその間お休みをしています。皆様お元気でしょうか?
 新潟はお米の産地ですが、やはり日照不足や長期の雨などの影響で、生育の遅れがありそうです。それでも青森と比べれば田んぼによってではありますが、結構黄色くなって稲穂も垂れていました。
 久しぶりの実家はそんなに大きく変わっているわけもなく、前に帰郷した折に私と妹が清掃したり整理したままといったほうがよいのかも知れません。
 母は近在の老人保健施設に短期入所を繰り返しており、久しぶりに再会しています。大きな変化はなく、それでも会話の面では前よりも反応が良いなと感じました。短期入所は母にとって修行のようなもので、「話し相手が居ない」というのが率直な気持ちでした。認知症や難聴、そして意欲低下などによって、話すことのできない人が多いようでした。短期入所以外で、ディサービスを週二日、そしてそれ以外をヘルパーの派遣を受けていますが、兄も何とかそのことで生活は安定してきたように感じました。
 兄は昭和24年生まれですので、今年7月の誕生日で60歳になり、9月で定年です。毎日の夜勤の生活は兄の健康を損なう要因の一つであり、早くやめてほしかった私はそれを聞いてほっとしています。
 母の弟である叔父が定期的に手伝いに来てくれて、母の話し相手になっています。本当に兄弟はありがたいものだと思いました。
 男やもめにうじがわくといいますが、まさにその通りであり、兄は何にもできないわけではありませんが、それでもこの大きな旧家の保守管理は、まったくといって良いほど手が回らず、跡継ぎの居ないこの家はもはや、朽ちかけ始めているような気がしています。私が元気な内に、裏の竹林に植えられた杉の木を切り倒したり、家の保守を少しでもできたらと思いました。
 母は電動ベッドの上げ下げの技術はかなりマスターしていましたが、兄は車椅子への移動などは行う意志がありません。せめて私と叔父がいる間だけでも、食事はベッドではなくみんなで一緒にとらせたいと思い、車椅子を使いました。やはり車椅子で食事するだけで、母の身体の負担も少ない気がしています。何よりも一人での食事は孤立しますし、情報が少ない気がします。
 毎日起こしていると、母は新聞も読もうとしています。せめて車椅子だけでも日常的に移動の自助具として、使える環境にしてあげたいと思いました。
 兄が手をこまねいていた畑の草刈りをしようと、出かけてみました。畑の耕作を放棄してしまうと、本当に人も入り込めないほどの荒地になります。前には見なかった孟宗竹も、どんどん進入してきて、刈払い機ではどうにもなりません。この時期の屋外はアブに似たそれよりも小ぶりの、刺し蝿という虫が大群で襲い掛かります。慣れている農家の人は、頭からすっぽりかぶれる網を準備していますが、私はその準備がなかったために、青ざめています。長袖は着ていましたが、汗をかいていると、その上からでも刺してきます。気がついたときは既に刺された後で、小一時間で首筋や腕など7箇所も刺されていました。
 しかしそれよりも私のダメージは、側溝に足を落として右足の筋を伸ばしたことでした。おおよその草刈りはできましたが、この事故で最初はなんともないだろうとたかをくくっていた右足関節付近の筋が徐々に痛み出し、ついに草刈りを断念してしまいました。湿布をして、何とか一日でクリアしました。
 6月に結婚した姪(兄の娘)の結婚式・披露宴を、DVDで母や叔父に見てもらい、私の同級生が迎えに来て別れとなりました。母は車椅子で兄や叔父と見送ってくれました。

POEM/帰郷

2009-08-21 07:04:25 | 創作(etude)

 帰郷

 帰るという
 イメージがある
 タダイマ
 オカエリ
 たったこれだけの
 挨拶だが
 自分の生きてきた
 生活史が
 その言葉の中に
 含まれている

 故郷へ帰る
 これから何度
 繰り返すことができるのか
 わたしは今年も
 なんとか
 帰郷することができる
 幼い頃から
 家を出奔することが
 夢だったわたし
 自由の世界が
 わたしの
 羽ばたく力だった
 そうして
 大学から就職へと
 東京は
 わたしの
 暮らしの場となった
 
 結婚をするときも
 故郷は
 遠かった
 そしてさらに
 もっと故郷から遠い
 本州の北端の地
 青森県弘前市へ
 住み着いた
 あれから
 32年が過ぎようとしている

 父が死んで
 母は病臥した今
 わたしの
 帰郷回数は
 増えてきた    
 今なら
 タダイマ
 オカエリ
 そういって迎える
 母の声がある
 しかし亡くなってしまったら
 仏壇の中の
 母としか
 声を交わすことができない
 チーン チーン チーン

 ぼくの
 魂は
 ここから
 始まった
 ぼくを育ててくれた
 ぼくの大切な
 記憶の数々
 封印された
 わたしの過去
 わたしの故郷
 そこに
 また
 帰ろう
 ただいま
 お母さん 
 

ジャガイモ収穫

2009-08-20 16:12:00 | 原ヶ平農場
 午前中はいきいきファームのジャガイモ掘り、そして午後からは原ヶ平農場のジャガイモ掘りで一日の作業が終えた。とてもむしむしして、汗が噴き出るような一日だった。キタアカリ、メイクイーン、インカのめざめなどを植えたが、量的にはまあまあのできだった。味はしばらく陰干しをしてからの賞味となるので、まだわからない。それにしても、ネズミに食われたり、腐ったりも混じっていて、結構今年の天候を繁栄している。
 そろそろ秋風が吹き始めていて、これからの野菜収穫はどうなるのか心配なところである。夕方から雨が降り出してまた2,3日続きそうである。
 2ヶ月前に植えたマリーゴールドの花々が、威勢良くいきいきと咲いていて、こころ和むときもある。

ケアホーム整備

2009-08-19 05:09:10 | 福祉について
 ケアホームを整備するために、法人内に「プロジェクトチーム」を設置している。今のところチームには若手の二人のスタッフと、理学療法士、一級建築士、そして私という構成である。今回の整備は新築ではなく、築十七年の建物のリフォームという形をとっている。今回で三度目の図面を書き直してもらった。
 ケアホームに仕立て上げる建物は、総二階建ての40坪である。雪国では冬の対策がまず考慮されなければならない。屋根の雪下ろしをするのかしないのか。玄関先など駐車場の雪かきスペース確保、室内暖房をどうするかなどである。
 まずこの建物そのものには、雪下ろしの必要がないという無落雪型の屋根であった。また玄関先には車が3台駐車が可能で、その隣には二階建ての車庫が増設されていた。車庫には車の駐車は2台分確保可能である。そして目を見張るのは、灯油型のロードヒーティング設備である。高齢者、障害者住宅では最近見られるようになってきているが、実際使用している人は少ない。何故なら電気型にしても、灯油型にしてもその費用対価が馬鹿にならないからである。まだ除雪機を購入したほうが、はるかに経済的かもしれない。
 建物の内部は一階部分は浴室、洋式トイレ、台所、洗面所、ダイニング、個室が2室である。二階には、個室が3つ、納戸、洋式トイレ、洗濯物の干せるベランダとなっている。
 この建物に重度障がい者が3名と、二階には中軽度の知的障がい者が3名入居予定となっている。このためにリフォームするポイントは、玄関先に屋根をつけるほか昇降機を併設して段差解消すること。洋式トイレのスペースを確保するために、もう一箇所物置となっていたスペースを活用して、車椅子の重介護者が車椅子のまま入って使えるようにしている。ここにもリフトと介護台(跳ね上げ式ベッド)を設置することを想定した。
 一階部分の段差をすべてフラットにし、ドアを開き戸から引き戸に変える。和室を洋室にして、襖を壁にして個室のグレードを高める。旧洋式トイレについては、洗濯室に変える。浴室、更衣室にリフトを設置する。浴室は介護スペースをとって拡張する。一階部分の緊急避難場所をダイニング横に設けて、ウッドデッキ型でスロープを設置する。(出入り口の確保)
 二階の納戸を共有型にする。夫婦部屋だった場所(8畳)に、物置用のスペースを新たに設けることにしている。
 このほか福祉型のケアホーム住宅には、消防法の関連での設備が必要となり、自動火災報知機、避難誘導灯や消火器設備、煙感知器、熱感知器など約230万円の見積もりが出ている。今のところ総工費は15百万円弱になりそうである。この建築費用を何とか助成金でまかなうために、現在書類を作成し提出準備を行っている。うまくゆけば75%の助成金が出ることになっている。
 建物そのものについてはほぼ以上であるが、実際にはその建物に住む入居者の生活支援が最も重要なポイントでもある。どのようなケアシステムをそこに準備できるかで、そのよさ悪さが明確化されるのだ。
 平日の6日間は一日16時間滞在で、残りの8時間は施設での日中活動となる。日曜日については、24時間滞在を想定した支援システムを考案準備が必要となる。
 具体的には朝、昼、夕の食時準備。(平日は施設できっ食)室内清掃、入浴準備、洗濯、衣類管理などがハウスキーピングとして必要。そのほか身体介護で、個別にホームヘルパーの派遣を受ける。またそれとは別に夜間の安全確保と排泄ケアなどのために生活支援員の常駐(夜勤)が1名必要となる。前半の家事炊事は世話人さんが行う予定で進めている。このほか毎日の入浴ケアのスタッフも必要となる。
 10月からリフォーム工事になるが、ソフト面でも人材確保とシステムの準備作業が始まる。具体的には相談支援事業や居宅介護事業である。来月も何やら忙しくなりそうな雰囲気である。それでも私にはこれまでは望んでもなかった、若い人材がこの作業を取り仕切って行ってくれるのだ。今まではほとんど孤立無援だったことを考えれば、天地の差があることを感じ、スタッフの優秀さに感謝しなければならないだろう。