夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

「生きる!中村久子物語」

2008-09-30 07:16:13 | つれづれなるままに
 明治30年岐阜県大野郡高山町(現高山市)に生まれる。3歳のとき、突発性脱疽が原因で両手両足を切断。数々の想像を絶するピンチに見舞われながらも、「いのちの力」を最大限に発揮し続け、昭和43年に72年の生涯を閉じた。
 ヘレンケラー女史が来日した際に「私よりも不幸で、私よりも偉大な人」という表現で絶賛された。
 彼女の偉大さは、自らの努力ももちろんだが、母親あやの自立することへの躾の厳しさであった。親はいつまでも子どもを守り続けることはできないことを知っていたあやは、親の愛情として障害の重い娘を一人で生きられるように厳しく育てた。憎しみさえ感じていた母の躾が、やがて母亡き後にその愛情の深さを実感されるのである。
 久子の幼少時の母親役として、我が社会福祉法人 抱民舎後援会名誉会員の「はせくらみゆきさん」(画家・エッセースト)が出演している。
 彼女のチャレンジにも拍手を送りたい。
 
 

岩木山初冠雪

2008-09-29 07:45:00 | つれづれなるままに
 9月27日(土)朝岩木山を見上げると、粉をまぶした大福餅のように岩木山が白かった。初雪としては以外に早い印象を覚えた。記事を調べると、昨年は10月13日となっている。冬の訪れも早い予感がする。
 山の畑のカマキリの巣も、すでに冬支度を終えていた。地上80センチの高さであったが、昨年も同じくらいだったように思う。早朝は外気温11℃。結構な寒さである。我が家は日曜日の朝にストーブをつけた。

友好の絆

2008-09-27 07:19:01 | 私と福祉とであいの旅
 9月22日(月)朝食前に宋さん、熊岡さん、私の3人で、自宅から5分の距離のG温泉に出かけた。入浴者は3人だけで、静かだった。昨夜痛飲した別れ酒を、温泉熱で温めて流した。3人が今度そろうのはいつのことだろう。それにしてもほぼ同年代の異国の友人同士が、言葉もほとんど通じなくても、これだけ兄弟同然になれることに感動している。朝食後通訳の朴さんが車に同乗して、一路青森空港に向かった。快晴の朝である。
 17日からこの22日までの5泊6日を、我が家で過ごして戴いた。なんだかとてもあわただしい日々だったに違いない。しかしこの間に宋さんとはすっかり心もうち解けて家族同然に暮らし、10年間のブランクを見事に埋めることができたと思う。
 宋さんが冗談のように「ネネム、マミミは僕の友達。お父さんは運転手。お母さんは介護助手」とたどたどしく言っていた。それは宋さんが私たち家族への親近感の表れだと思う。韓国を離れて2週間近く、さぞ家族の皆さんも寂しかったことだろう。そして職場のディスクには書類が山積みのことだろう。そんなことを心の片隅に感じながら、宋さんが私の元を尋ねてくれたことへの感謝を心で感じていた。
 少し早い昼食をレストランで戴き、最後のなごりの会話を楽しんだ。12:20分いよいよ宋さんとの別れだ。記念撮影をして、固い握手を交わした。そして再会を誓って宋さんは機内の人となったのである。われわれは12:55発の大韓航空機をタラップから見送った。宋さんは私たちの姿が見えただろうか。いや、見えなくてもきっと、彼の瞼には私たちの見送りの姿が焼き付いていたことだろうと思う。
 
 ・ススキ揺れ異国の友は青空一路

 ・熱き手のソウルの友は彼岸空

 ・萩の花揺れてアン二ヨンヒケーセヨ
 

08SWセミナー当日

2008-09-26 07:08:03 | 私と福祉とであいの旅
 9月21日(日)青森市にて「08ソーシャルワークセミナー」が開催された。参加者は40名超。午前中は宋さんの記念講演だ。宋さんは韓国語で演説し、朴さんがそれを訳す。あうんでの講演と打ち合わせを数回行っていたこともあったためか、歯切れが良かった。朴さんもまだ学生ではあるが、この数日宋さんとの共に過ごす生活の中で確実に通訳の中身がしっかりしてきていた。「韓国の障害者福祉の現況と課題」と題しての熱演であった。一回だけではなかなか核心に近づくことができないまでも、両国の障害者福祉の考え方や課題は浮き彫りにされたように思う。共通する課題は、福祉というものが自由主義国家にあっては、常に景気や経済状況に左右されやすいことだろうと思う。そういう意味で、韓国もアメリカの経済に影響を受けやすい国なのだ。私が一番驚いたのは、韓国の障害者が障害年金をもらっていないと言う事実である。日本では当たり前のことが、韓国ではそれがない。その代わりと云えるのかわからないが、障害者のいる世帯への金銭給付代わりに、テレビ受診料、公共交通機関(飛行機代含む)、施設の利用料は無料だという。
 そして何よりも深刻なのは、労働者の最低賃金の50%(8万3千円)を来年1年間でクリアしなければならないということであった。現在の1万5千円という平均賃金から見ればそれは、飛行機とロケット位の高さの違いに感じる。その課題をクリアするための方策を聞くと、宋さんからはきめ細かな能力評価とそれに見合った賃金支給を実施することが優先するという。そして新たな生産資源の確保と言うことになるのだろうか。
 障害者の就労は日本も韓国もなかなか厳しい現実にあり、一般人の失業率などを見ればその困難さが更に明確になるだろう。
 午後からはNPO法人日本ソーシャルワーカー協会の会長・鈴木五郎氏と青森保健大学教授の渡邉洋一氏の「地域福祉」に関する対談であった。
 その後、交流会が会場近くの「時代屋」で開催され、参加者の自己紹介などで大いに盛り上がった。
 今回のセミナーには、わが施設の職員たちも今回は11名参加した。施設以外の場でいろんな立場の方々の意見を聞き、知見を広める機会を持つことはとても大切なことである。こじんまりとまとまるのではなく、一人ひとりが専門性を磨きながらその力を内外に発揮するようにする意識を持って欲しいというのが私の願いでもある。そういう意味では、私の期待にこたえようとする職員がいたことはありがたいことでもあった。

共通の友人来弘

2008-09-25 06:59:20 | 私と福祉とであいの旅
 9月20日(土)AM7:00 弘前に宋さんと私の共通の友人である熊岡氏が、夜行バスで群馬からやって来た。私と宋さんで出迎えを行った。
 昨年私は熊岡氏と再会していたが、宋さんは今年の6月に横浜市を訪問した際に新宿で再会したばかりである。二人の楽しそうな雰囲気が電話越しに届いたことが、昨日のように耳に残っている。
 午前中は家内が早番でもあり、パン工房の見学をしてもらった。移転予定の店やブルーベリー畑なども見て歩いた。お昼には家内も仕事を切り上げて、帰宅した。通訳の朴さんがなかなか起き出して来ないので少し心配したが、鼻風邪と咳だという。早速風邪薬を服用してもらって、昼食には薬膳も兼ねて弘前市内にある「カリーマハラジャ」を訪れた。宋さんの激辛ぶりは、一昨日の酸ヶ湯温泉食堂でのおそばの表面が真っ赤になったのを見ればわかるというものだ。この「カリーマハラジャ」はインドカレーのお店で、辛さも8倍までもある本格派である。そしてベジタリアンカレーもあるので、パーカッション奏者の奈良さんは、来弘時にはこの店の常連客となっている。
 日本のカレーとは香辛料の多さや、肉の種類などでも段違いである。私も辛みを2倍のものをいただいたが、それでも頭頂部や眼の下に汗をかいていた。そして宋さんはもちろん8倍カレーを戴きながら、平気な顔である。韓国ではキムチを初め、からい食事が大変多いそうである。「火の鶏」という食事はまさにその代表だそうで、完食すれば無料になるという店があるくらいだという。ちなみに宋さんもまだ、間食はできないくらいの辛さだと聞いた。風邪気味の朴さんも、なんだか気分が良くなったらしい。
 食後はりんご公園を訪問し、りんごのソフトクリームをいただいた。これがまたカレーの激辛食の後にはすっきりさわやかで、みんなの笑顔が広がったのは言うまでもない。
 そして今度は岩木山スカイラインを目指して車を走らせ、8合目の駐車場に立った。気温は平地と違って、もう半袖では肌寒い気がした。遠く白神山地や鰺ヶ沢町に面する日本海がうっすらとしたもやの中に見えた。日本側からはこの海を日本海とか呼んでいるが、韓国側からは「東海」と言うのだそうである。ちなみに津軽の人々は「西海岸」とも呼んで親しんでいる。この海は日本だけの海じゃないのだということを、あらためて知らされた。
 スカイラインを降りて嶽温泉では、今がまさに旬の「嶽キミ」をいただいた。

 この夜は少し気分を変えて、4人で庭先でのバーベキューを楽しんだ。宋さんはアウトドアが大好きだという。まさにそれを裏付けるように、炭を起こすのが手際良かった。こうして毎晩宴会をしていると、もう古くからの友人のような気分になっており、通訳の朴さんもいることにも助けられて、冗談もぽんぽんと飛び出している。
 いよいよ明日は青森市でのソーシャルワークセミナーが予定されており、宋さんと朴さんの出番である。思えば、この日のために滞在が延びたことも、私たちのつながりを深くしているのだった。
 

十和田湖へ

2008-09-24 07:05:38 | 私と福祉とであいの旅
 9月18日(木)宋さんと通訳の朴さん、そして我が家族4名の6名で十和田湖へ向かった。昼食を酸ヶ湯温泉でとり、その後八甲田山ロープウエイに乗った。天候は上々であったが、まだまだ秋の紅葉には至らない。それでも私たちの乗ったロープウエイには7,8名の乗客しかいなかったが、その前後のロープウエイは団体バスの観光客ですし詰め状態だったのだから幸運だったのかも知れない。
 PM3:30ごろには、奥入瀬川に到着。娘たちとカミさんには車での移動をお願いして、宋さんと通訳の朴さんそして私の3人で「石ヶ戸」から「雲井の滝」までの約2.5㎞を早足で歩いた。汗だくの楽しい時間もPM5:00となり、宿泊先のバリアフリーを備えた「湖畔荘」を目指して車を走らせた。すると十和田湖子の口付近では、湖に今まさに沈もうとする赤い夕陽を眺めることができた。何という幸運なことであったろうか。
 到着後我々は早速汗を流すために入浴をして、私たちだけのためにしつらえられた宴会場に向かった。
 この旅館は以前2,3回、青森県重症心身障害児(者)を守る会の行事で利用したことのある宿舎で、障害者トイレやスロープ、そして貸し切り風呂もあって娘たちの入浴はとても快適に行うことができた。車いすの高齢者などもこの時期多く見受けられた。宿の社長さんの粋な計らいで、食べきれない最上の宴となった。
 美味しい料理と美味しいお酒を戴きながら、通訳の朴さんがいてくれたことでお互いの思いは十分に通じ合うことができたのも幸運なことであった。
 翌朝旅館を出発するとき社長さんが、「今まで案内できなかった地元の人しか知らない場所をきょうは案内したい」と私たちを十和田湖の瞰湖台に案内してくれた。紅葉が進むとたちまちカメラマンでごった返す場所だということで、林の中を歩くと急にその景観が開け、思わず息をのむような急峻な崖の上にその場所はあった。快晴の朝、私たちの眼下には雄大な湖と、美しい青々とした景観が広がっていて思わず言葉を失っていた。
 こうして2日目の宋さんへのもてなしはこれ以上ない上々の天候と、美しい青森県の代表的な観光地を満喫することができたのであった。

韓国の賓客歓迎レセプション

2008-09-23 08:11:25 | 私と福祉とであいの旅
 9月17日(木)韓国ソウル市の「ボンドン作業場」施設長・宋 相天さんが来弘し、21日開催の「ソーシャルワークセミナー」まで我が家に滞在することになった。
 10年ぶりの再会である。青森駅まで通訳の朴さんと共に、お迎えをした。全国手をつなぐ育成会主催の「本人大会」(札幌市)が開催され、その出席後の来県である。
 10年ぶりの再会は宋さんと私はそれ相当の老化が進み、彼の方は白髪、私の方は薄毛である。しかし、今度の再会はその時を超えて、とても新たな絆をつなぐための十分のものとなっていくのである。
 午後6時からあうんを会場に歓迎レセプションが開催され、約40名の法人関係者が集って宋さんを歓迎した。
 宋さんの所属するボンドン作業場の活動の様子を紹介を受けた後、後援会長率いる津軽三味線グループが自慢の腕を披露して、宋さんを歓迎した。音楽療法士のSさんがピアノでの即興ジャズを披露した。その後みんなで両国の愛唱歌「さくら」「アリラン」を歌い合って、心の交流が深まった。通訳の弘前大学交換留学生朴さんがそばにいてくれたことが、今回の宋さんの来日には欠かせない重要な役割をしてくれたのである。
 翌日の18日からは宋さんと朴さん、私の家族で十和田湖一泊旅行という予定である。

韓国からの賓客来弘予定

2008-09-17 06:55:35 | 私と福祉とであいの旅
 いよいよ韓国ソウル市からのお客様、宋先生がやってくる。きょうの午後3時45分に青森駅への迎えです。通訳の弘前大学留学生で、私のハングルの先生と一緒の出迎えです。この点少し心が軽いのが救いです。5月からのハングル語教室での学習は、挨拶以外ほとんど役に立たないようです。
 宋先生はきょうから22日まで滞在予定で、21日には青森県ソーシャルワーカー協会のセミナーでの記念講演があります。ちなみに、きょうは午後6時からのあうんでの歓迎会。40人ほどが集まって、来日交流をお祝いします。明日は通訳の朴さんも一緒に、三内丸山遺跡と八甲田山、そして奥入瀬川をたどり、十和田湖で宿泊です。19日は施設見学をしてまた弘前に戻ります。20日は東京から元滝野川学園長の熊岡さんが来弘し、宋さんと再会します。宋さんを私に引き合わせてくれたのは、熊岡さんだったのです。今から10年ほど前になるのでしょうか。そして、旧岩木町の民生児童委員一行と社会福祉協議会職員でソウルの施設を訪問したのが思い出です。10年というと、お互いに頭には白いものが目立ち体型の変化と時の流れを感じさせますね。
 でもお互いに言葉も満足に話せないながらも思いだけはとても強く、共通の福祉人生を歩いているのを喜びとして感じています。
 韓日両国の文化や福祉、医療、教育などを初め、もっと身近にしたいと思っています。
 ということで、しばらくブログはお休みになりそうです。

地区社会福祉協議会主催敬老会「寸劇」終了

2008-09-16 07:41:18 | 私と福祉とであいの旅
 市町村合併後の敬老会で、行政が手を引き市社会福祉協議会に事業委託をした。市社会福祉協議会は24地区の社会福祉協議会ごとにさらにお金を助成して敬老会の開催を委託して行う形をとっている。地区社会福祉協議会によっては、手間暇を省くためにホテルで開催する所もあり、敬老会の中身も様々のようだ。団塊の世代が75歳になったときの敬老会ははて?
 昨年までは役場職員が会場づくりや式典などの準備に顔を出していたが、今回からは地区社会福祉協議会職員と民生児童委員協議会、ふれあいボランティア会、行動いわきシニア隊、津軽中学校の生徒などの協力で会場づくりが進められた。
 そして式典後のアトラクションも地元保育所や民生児童委員協議会、わが施設スタッフの支援による地区社会福祉協議会役員による寸劇などを行った。
 「昔の岩木はいかったきゃ(よかった)の・・・」である。
 今回の寸劇練習は前日を含めて3回で、その割に何とか進められるのは台詞が全てアドリブだからである。そして人生経験豊かな方々の協力があるからこそでもある。
 一番時間のかかるのは小道具づくりや、古い品物などを探し出すことであった。お酒のお銚子も昔のものが出てきたし、テレビなども白黒の時代のものが提供された。柱時計も、丸いちゃぶ台なども懐かしかった。七輪で魚を焼く姿、みんなで観桜会に出かけるシーンは本当に皆さんの気持ちが籠もっていた。お風呂を借りに来た夫婦が壁に着替えの褌や下着を掛けて、ァ、今着替えをしているんだとわかり、お年寄りに大受けしていた。張り切りすぎの町会長さんは、一人で台詞が多すぎたがこれもまた愛嬌かも知れない。こうして予定の時間を10分もオーバーして、寸劇は終えた。終了後の皆さんの達成感の晴れ晴れとした顔は、共通の目標があったからこそである。地域福祉のあるべき姿をこの役員さんたちが実践して示したことはこれからの活動に大きく影響することだろうと思う。協力し合えば何とかなるという自信に繋がることは間違いないと思う。
 それでもこの劇があったからこそ私たちの施設の協力姿勢が評価されたし、地域代表の役員さんたちとの信頼関係も生まれるのである。さあ、来年の計画がもう頭の中を回り始めている。