夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

人の生きられる理由(わけ)

2007-07-28 07:00:03 | つれづれなるままに
 大学の後輩T君が3週間の滞在後、また故郷三重県に帰った。二度の大病に身体を冒され、生死を彷徨ったこと。その結果病院入院期間が3年間あまりとなり、左半身と言葉にもいくらか障害が残り、そして何よりも胃癌を告知されて胃の全部摘出手術を受けたことにより、食事習慣が大きく変わったことだろう。
 そんな中自分に鞭打ってヘルパー資格を取得し、まだ完全ではない身体で異境の津軽のわたしの施設を訪ねてくれたのだった。学生時代の後輩とはいえ3年後輩なので、格別親しく話したり付き合ったわけでもなく、顔を覚えている程度だった。2年下の長崎の後輩と親しくしていた関係で、彼との接点が生まれたことになる。それも彼が病魔に襲われてからの、卒業30年余を過ぎた頃なのだから、人生は不思議だと思う。「邂逅」とい言う言葉が相応しいような出会いだった。
 着いたばかりの1週間は、彼の体力、気力はまるで体力を失った爺さんのようで、ヒーヒーという息の繰り返しが耳に残って、歩く姿も今にも倒れそうなヨタヨタ歩きだった。
 しかし我が施設の利用者である青年や若きスタッフ達と交わり、少しずつ気力が湧き上がってきたようだった。施設のペンキ塗りから窓ガラス磨き、農場の草取りなどを日々主体的にこなしていくうちに、後半の彼は頭も言葉の回転もすこぶる明朗闊達に変化して行った。冗談を言ったり、話し出すと終わりもないほどの饒舌に、周囲を驚かせた。弘前の「断酒会」へも顔を出し、図書館へも足を運んで、勉強をしたらしい。
 別れの前の夜には弘前市内の蕎麦屋でお別れ会をし、二次会には津軽三味線のライブを聞きに行った。翌朝早く彼はバスの人になった
 故郷へ帰った後、まだまだ通院が続くことは予測できたが、これまでの彼と違って、この経験から何か自信のようなものをつかんで行ったような気がしている。
 翌朝施設に出勤すると玄関のガラス窓一面に彼流の挨拶、「さようなら。大変お世話になりました」という、独特な筆字の挨拶状が貼られていた。
 さて、人は絶望的な状況でも、希望を見出し生きようと強く思えるためには何が必要なのだろうか。それは、恐らく病気の直後には、医師や看護師との精神的な濃厚な信頼関係であり、予後に至る過程では、彼の存在を大切に思う近親者や友人の「お前が必要なんだ」という温かな励ましの関係が必要だろう。そして一番大切なのは、社会の人として復帰する段階なのかもしれない。以前とまったく同じ仕事への復帰は無理でも、現在の自分自身が無理なく楽しみながら行なえる自分を生かした仕事の再開。自分がそれを通じて、周囲から必要とされるような、あるいは評価されるような質の仕事場への復帰こそ彼の日々の気持ちををつなぐ大切な要素かもしれない。
 彼は故郷に戻って必ずまた手紙で近況を知らせて来るに違いないが、別れ際にあうんの新聞に文章を寄せていったので、ここに掲載させていただく。

 「あうんに寄せて」
 自分のような輩が寄稿文なんて恥ずかしき限り。
 学生時代先輩であった成田施設長を頼り、三重県津市よりノコノコ出てまいりました。さしたる目的(人のためだとか、ボランティアだとか)もなく、ただ自分のため思い立って出てきたお粗末さ。
 七月九日(月)津駅発午前八時二十九分列車に飛び乗り、途中八戸駅エスカレーターで、紙袋破れ、着替え(下着)・なぜかグレープフルーツ二個、キュウリ三本ホーム上に散乱。発車列車のベルは鳴る!!あせりあせりのドタバタ。通り行く人々に助けられて午後四時四十五分無事弘前駅に到着。
 三十数年ぶりに成田施設長と再会しました。お互い変貌したその風貌…。
 あうん宿泊施設にお世話になりました。快適も快適、贅沢なる生活。あうんご利用者・従事される方々。とてもじゃないが、わたしのような人間には語る資格はないのですが、一言云うならば『お互い素晴らしい関係』確かに最新の設備・機材・お金等々現実に必要でありましょう。しかし思うに最後はやはり「人」。この信頼関係に立った理解と空間。これこそあるべき社会なのではと痛感しました。正直なる鈍感なわたしの感想であります。末筆ながら、人と未来を信じ、皆様に幸多かれと祈念して。ありがとうございました。平成十九年七月 T・M拝