夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

畑作業準備活動~ソンさんがやって来る

2010-04-30 06:38:04 | つれづれなるままに
 なかなか寒さが抜けず、畑の作業も遅れ気味です。昨年秋に雪融け水の流入を防ぐために、ユンボで溝を掘って暗渠をいれました。昨年の春先と違って、かなりその効果は見られました。
 今年の畑作業は助っ人が2人あり、一人は三月末で職を引退したカミサンで、もう一人は私たちと同年代の地域の方です。JAという農業協同組合の仕事を多く経験され、その後4年ほど福祉施設での経験もある方です。
 昨日は畑の場所と状態像を案内するために畑に行きましたが、早速お手伝いをしていただいて予定の作業が終わりました。今年は私の作業は少し軽減されそうかなと、痛い肘関節も余裕が感じられます。
 5月16日が「農場開き」なので、何とか畝作りまで終えたいのです。

 さて、もう一つの動きは韓国の障害者福祉施設長の宋(ソン)さんからメールがあり、5月下旬に秋田県の福祉施設の視察にやってくるというのです。だからうまくいけばまた弘前にも来れそうな雰囲気です。
 宋さんは日本語も少ししか話せず、私も韓国語はほとんど上達していません。なのに宋さんは夜中に電話をかけてきて、話そうとするのです。こんなときにあ^もっと勉強しなくちゃと思いますが、あとの祭りです。でも間もなくまた韓国の留学生があうんに来るので夜のハングル教室が始まります。もう少し会話が上達できるように勉強します!

「たいぞう+すずき」ミニコンサート

2010-04-28 16:05:09 | 私と福祉とであいの旅
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 4月28日(水)14:00~「たいぞう+すずき」コンサートが開催されました。
 すずきさんは青森市出身の方で、きょうが初めての「であいの家あうん」でのデビューでした。比較的前のミュージシャンの曲・井上 陽水や尾崎 豊、玉置 浩二などのスローな曲が披露されました。たいぞうさんは長谷川清の「分かれのサンバ」が素敵でした。
たいぞうさんは毎月1ミニコンサートを目標にしているそうです。
 社会福祉法人抱民舎では、7月31日の岩木夏祭りでの出演依頼をしています。
 

ミニコンサート「西尾まさきさん」

2010-04-27 06:42:36 | 私と福祉とであいの旅
 あうんで十周年を迎え、このところ板橋かずゆきさんのコンサートやたいぞうさんのミニコンサートなどコンサートづいている。
 昨日は大分県中津市出身で、現在福島市在住の「西尾まさきさん」が訪問してくれた。彼の特徴は「ブルース」だという。ブルースギターの演奏手法として、左手の指にウイスキーのビンの口(ガラス)を切ってはめて弦を抑える奏法がある。聞くところによれば、今は陶器製のものをはめて使っているという。面白い音色だなと思った。彼の声もそういえば、アリスの谷村新二の相棒に声も顔つきも似ていると思った。
 彼が何故あうんに来てくれたかといえば、重症児を守る会のつながりで八戸市の小保内さんのご主人が彼の友人だということだ。北海道へ演奏に行くとか東北ツアーなどで彼女の自宅を拠点に活動しているらしい。演奏終了後また彼は秋田市を目指して車を走らせて行った。

 明日28日は「すずき+たいぞう」両氏のミニコンサートがあうんでまた開催である。
 5月3日はスペースデネガでの岩川光さんのコンサートへ出かけることになっている。ライブコンサートって、直に伝わってくる波動が感じられていいなと思う。その時しか表現され得ないものが、必ずそこにはあるから・・・だと思う。
 

社会福祉法人 抱民舎保護者会総会

2010-04-26 07:37:11 | 私と福祉とであいの旅
 4月25日(日)施設見学者があり、ケアホーム、パン工房、福祉ショップ、あうんと案内して午前中があっという間に終わった。昼飯もそこそこに、昼からは保護者会の総会である。新任職員を紹介することもあって、会議室は人いきれでいっぱいだ。思えば三人からスタートした社会福祉法人 抱民舎も、今は32名と大所帯である。
保護者の皆さんの自己紹介も進んでいくうちに、保護者の口から「自分の息子は今まで自信をなくして家に閉じこもった生活をしてきた。しかし社会福祉法人 抱民舎に受け入れてもらってからは毎日が楽しくて、毎日出かけていくようになったのが嬉しい」そういって感極まったのか泣き出した。もう一人のお母さんも、「内の息子はどこの法人も門前払いだった。でも社会福祉法人 抱民舎が受け入れをしてくれた。息子は重度の知的障害者であるが、あうんにきょうも行くのだと、自分でかばんを持って行こうという。それが嬉しい」と泣いた。
 私たちの法人の姿勢が、こうして喜ばれる状況を耳にし私もこみ上げるものがあった。
 担当職員のみに保護者会を任せるのではなく、一般職員にもこうした親の苦悩を知ってほしいと思った。そうすることで、私たちの仕事の意義や目標が見えてくるのだから・・・。

木村 秋則さんに逢う

2010-04-25 06:36:26 | 私と福祉とであいの旅
 休日の土曜日。日差しは春なのだが、肌寒さと風の強さは残る。弘前城公園の桜祭りはオープンしたが、肝心の桜が外堀で蕾が紅く膨らむ程度で開花に至らない。
 午後2時30分に木村秋則さんという「奇跡のりんご」で有名になった「時の人」とお会いすることになった。「ひろさき親子内観研究所」主催者の竹中哲子先生の依頼で、この日の面会がかなった。
 木村さんは「奇跡のリンゴ」「リンゴが教えてくれたこと」などの著書のほか、絵本
「りんごのおじさん」 (おはなしのほん)
著 者 竹下 文子
イラスト 鈴木 まもる
出 版 社 ハッピーオウル社
まで出版され、
 「無農薬リンゴ」を核に「農業全体の健全化」で一躍日本中の農業を環境保護の頂点にまで変えようという主張は、国民の関心を高く受け続けている。
 竹中先生は、昨年弘前市で「第21回内観療法ワークショップ in 津軽 弘前市」を200名規模で開催し、来年は弘前の「めぐみの会15周年記念事業」の一環として、木村秋則さんと武術研究家の甲野善紀さん、臨床心理士の真栄城輝明さんの対談を企画したいのだという。 というのも甲野さんは一時期農業を学ぶために農業大学に入学するのだが、農薬をこんなにも必要とする農業に嫌気が差して中退したという。昨年の弘前大会で、津軽にもこういう木村さんのような立派な農家がいるんだという紹介をしておられた。その時真栄城先生も居られて、竹中先生が間に入っての今回の依頼となった。
 木村さんに会うために訪問した先は弘前市内の警察署通りの「みんぱい」という中華料理店の隣手前に事務所があった。オフィスの名前は「木村興農社」と命名されていた。
 若い事務方の男性が3人いて、木村さんが多忙なスケジュールを彼らが調整したりしている様子だった。彼らに内観の紹介や竹中さんの活動などを説明していると、木村さんがやって来た。相変わらず残しの低さと愛嬌のある笑顔がトレードマークである。
 木村さんは全国から講演依頼がひきりなくあって、北海道から沖縄、韓国まで請われればどこへでも行くというスタンスをお持ちの様子だった。しかしその中には様々な団体の思惑もあり、そういう意味では仕分けをする秘書のような存在も必要なのかもしれない。
 木村さんがその場で語り始めたことは、食糧の及ぼす地球全体の危機の問題だった。
 竹中さんが持参した書籍で「ミツバチがいなくなったことでこうむる農業危機」の本を出したことから始まった。
 国民があちこちで人殺し、子殺し、虐待、いじめなど多いのは、食生活の問題があるからだという。農薬の問題、そして家畜の飼料の問題は地球環境を破壊し、さらには動植物の生態系にまで影響を及ぼし始めている。
 韓国で養豚場視察をしたら、豚10万頭の農場で、尻尾がすべてなかった。なぜかといえば豚がストレスで、他の豚の尻尾を食いちぎるのだという。そのために農場では小さい時期に、豚の尻尾を切ってしまうのだという。牛肉の問題でも木村さんは、「最近の牛肉を鉄板で焼くと、糖尿病のにおいがする」という。それは飼料の問題で、手間隙を掛けずに直ぐに合成飼料を与えて終わりという農家の姿勢の問題でもある。野菜や草などを与えていれば、決してそういうことは起こりえない」と語っていた。
 今や木村さんは社会環境全体の、悪い価値観を正すために全国を駆け回っているように感じられた。
 来年7月末に木村さんのお話が聞ける、そういう楽しみがこの日にまた生まれ事務所を後にした。

 木村秋則氏のオフィシャルホームページのアドレスは下記のとおり

<http://shizensaibai.jp/blog/kimura/>木村秋則で検索しても直ぐに見ることができます。

短歌「内子」

2010-04-24 11:43:57 | 創作(etude)
 
 民人の古き町並往き交えし内子の姿に時の止まる

 木蝋の白き細身の姿良く内子の蝋は今に残せり

 縁側に座布団二つ何気なく内子の家並み旅を憩える

 内子座の歌舞伎文楽演舞場奈落の底に栄枯の姿

 内子座を興せる人も今はなく佳境の時を舞台に重ね

 

旅は道連れ・・・横浜そごうピカソ展

2010-04-23 06:28:13 | つれづれなるままに
 Tさんに案内をいただき、雨が降っていたが松山市内から30分ほどの砥部市の陶器センターで砥部焼なるものを見た。陶器の特徴は白磁様の下地に藍色を配した食器や器が多かった。近くに陶房の集落があるということで、そこも訪問することになった。若手の作家が多いのか、全体にかなりモダンな建物としゃれた佇まいの庭が特に美しく見えた。あいにく早朝の平日でもあり、間もなく陶器祭りが予定されているとかで、陶房の窯元は見ることができなかった。若手の作家の小作品であるコーヒー碗と皿などいくつか購入して、一路松山空港へと送っていただいた。
 松山空港を10分ほど遅れて、飛行機は一路羽田空港を目指した。天候は曇り。旅の疲れか、家内と二人少しの間眠りに落ちている内に、機は間もなく羽田という放送で眼を覚ました。
 羽田空港には4年来のブログ仲間といえばいいのか、横浜のすずき画伯が出迎えてくれた。この日関東地方は気温が異常に低くて風も強く、雨交じりであった。
 すずき画伯が横浜のスカイビルレストランを夕食会場に予約してくださっていて、その時間まで美術館を案内してくれることになった。しかし今度は雨風が強くなって、結局そごうビルで「ピカソ展」を開催しているポスターを見たことから急遽その見学となった。

 ピカソ、ブラック、クレー、マチスなどのキュビズムでおなじみの画家や以後20世紀初頭のポップアートの旗頭アンディウォーホルの作品に至るまでが展示されていた。
 鈴木画伯からの詳細な解説を受けながら、絵を見ることができてそのことの方がまたとてもそれぞれの画風の特徴を身近にすることができ愉快だった。
 ことに私にとって印象深かったのは、「モモ」や「ネバーエンディングストーリー」を書いたミヒャエルエンデのお父さんエドガーエンデの油絵を見ることができたのは、とっても嬉しかった。シュールレアリスム画家であるが退廃画家という酷評を受け苦労したらしい。しかしミヒャエルエンデはその父の影響を受け自らの児童文学に世界を広げたという。
 
 その後心地よく脳細胞も疲労して、スカイビル29階の和風のレストランで楽しい夕食のひと時を楽しませていただいた。
 家内はこの旅行中二度、誕生日のお祝いしていただいた。鈴木さんの奥様と同い年であるばかりか、同じ兎年の4月生まれという共通性もあって、なんだかとってもまた親しみがわいたのである。
 アーティスト・はせくらみゆきさんと油絵画家すずきゆきおさんという共通性は、この福祉の道を歩き続けて自然に惹かれあうように今共通の友人としてつながっている。不思議な縁であると思う。すずきさんが「はせくらさんと前にお会いしたとき、「三人が何故つながってきたのかはそれが決まっていたことだから・・・いつかその理由をお話をしましょう」と言われたとか。私もそれをお聞きしたいと思うし、三人でまた再会の日が来ることを信じている。
 結局夕食をすずきさんにすっかりご馳走になって、品川のバスターミナルまでお見送りをいただくことになった。なんだかいつの間にか、すずきさんとは親戚関係になっているようなそんな身近な存在となっていることに気づいている。
 再会を期し硬い握手をして、私たちはすずきさんとお別れをした。
 私たちの小旅行は、こうして終幕を迎えた。その終わり方もとっても相応しい終わり方だったと、我々夫婦は今更ながら満足していた。

 

旅は道連れ・・・友よ

2010-04-22 07:14:13 | つれづれなるままに
 レンタカーの旅もいよいよゴールの、JR松山駅そばのTレンタカーに到着した。何とか無事四国路の一部を2日間走り抜けた。外気はただただ肌寒く、四国は北国からやって来た龍に影響されているのか?とすら思う。
 乗りたかった路面電車に乗って、松山市内を目で観光した。ホテルにはすでに吉田町からYさんが到着して、私たちを待っているとメールが入った。10年ぶりの再会なので、果たして自分をわかってくれるだろうかという不安があった。待合室に本を読むYさんがいて、挨拶を交わした。カミサンがそばにいるのもあって、なんだか照れくさく挨拶がぎこちなかったかもしれない。10年前に広島で、守る会全国大会が開催された。どういういきさつだったのかすら思い出せないが、広島の役員の方々と一緒に楽しく飲んだメンバーの中にYさんが居たのだ。それから手紙のやりとりからメールでのやりとりに変わってはいるが、お互いの地域での障がい児者活動を随時情報交換していた。
 それから間もなく地元Tさんの奥さんがやって来て挨拶を交わした。Tさんの奥さんとは電話で挨拶はしていたが、初対面である。Tさんは大阪出張から今夜帰るということで、行きつけの飲み屋さんに先に案内して待つことになった。
 しばらく談笑しているとTさんがやって来て、硬い握手を交わした。私と違って体躯もスリムで、髪も十分に保たれまったくうらやましい限りである。彼とは東京の重症児を守る会本部からの帰り道、羽田空港までのお互いに北と西に別れるまで熱く話したことがあった。
 この三家族の共通点は、ハンディを負って生まれた子どもを地域で育て上げたという親としての共通点がある。それぞれの家庭の子どもたちはようやく親元を離れ、社会の中で支えられながらではあるが暮らし始めている。そしてYさん夫妻は何年かの時間をかけながら、今数箇所での八十八箇所結願を目前にしているところとのことだった。私たち夫婦もこういう流れの中で、初めて四国の地を踏むことができたのだった。
 限りある時間だったが、私たち夫婦にとってもとても思い出深い、そしてなんとも言いがたい幸せなひと時を過ごさせていただいたのだった。
 YさんとTさんご夫妻にあらためて感謝を申し上げたい。そしてまたどこかで必ずや会いましょう! 
 

旅は道連れ・・・松山城~道後温泉本館~内子

2010-04-21 06:15:07 | つれづれなるままに
 松山市二日目の朝。前日のうす曇から一転、松山市は雨が降り続きました。肌寒の朝です。朝のテレビニュースでは、例年に比べて19日ほど桜の開花が遅れているとのことでした。おかげでぼくたちの諦めかけていた松山城の桜もまだ一部見ごろでした。といっても既にツツジも咲き始めていました。松山城の印象は、石垣城という印象です。本丸に入るまでいくつかの門を潜り抜けるのですが、それにしても見上げるような石垣の壮大さや美しいループには感動しました。高台にある松山城は県庁そばからロープウエーでもたった2,3分で登れます。きょうは雨が降っていて、リフトはお休み、それに肌寒い。早朝9時台にお城を目指していたのは、数組の家族連れと、シルバーの皆さん。松山城本丸から見る松山市内は、とっても壮観でした。
 体が冷えた私たちが次に向かったのは、歴史的な三層楼仕立ての「道後温泉本館」でした。別名「坊ちゃん温泉」とか。
 宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」のモデルともいうこの道後温泉本館。
 「朝6時、「刻太鼓」の音で道後の1日が始まる。明治27年築の大屋根母屋造り木造3階建ての堂々たる姿で、温泉街の中心に構える「道後温泉本館」。その一番上に据えられた「振鷺閣」から1日に3回打ち鳴らされる「刻太鼓」が、今も道後の時を刻む。日本三大連立式平山城の1つ「松山城」の北東に湧く道後温泉は夏目漱石、正岡子規、高浜虚子をはじめとする“明治文学ゆかりの地”。町のあちこちに句碑が建てられ、漱石の「坊ちゃん」の舞台としてはあまりにも有名。」

 歴史を感じさせる建物は、玄関先の昔ながらの下駄箱と広い更衣室。男湯は二つに分かれていて、神の湯と霊の湯。(東湯・西湯)温泉の叔父さんに聞いたところ、昔は片一方が女湯で、後に増築したとのこと。
 我々は入浴のみの400円の入湯料金を支払って、お風呂を楽しみました。浴槽は結構深くて、浴槽の中央には湯樽のような丸い石樽があって、そこから滾々と湯が流れ込んでいた。津軽の温泉と比べると比較的お湯はぬるめに感じられた。午前中のお風呂は近所のおじいさんたちが中心で、松山弁での会話が旅情をかもし出します。木桶と木の腰掛がとっても懐かしく、そして浴槽内にその音が響き渡ります。

 すっかりあったまった我々は、道後温泉前に広がる商店街の一角で、昼食をとりました。ぼくは鍋焼きうどんと食堂の入り口で上げている牛肉入りのコロッケをいただきました。熱々でとっても美味しかった。カミサンはこの地ならではの「ジャコ天」ラーメンです。

 この後夜の友人たちとの待ち合わせ時間まで、歌舞伎や文楽などの有名な「内子」へ足を伸ばしました。
 内子の「内子座」
 明治末から大正にかけて内子の町が木蝋や生糸などの生産で栄えていた頃、地元の人々の娯楽の場として発案され、大正天皇の即位を祝して地元有志の出資により創建された。農閑期に歌舞伎や文楽、後に映画や落語なども演じられた。その後昭和40年代にはホール的に活用されていたが、老朽化により取り壊されようとしていた。しかしながら、町並み保存地区に近接していることもあり、まちづくりの核として活用していくべきとの町民からの要望により復原され、今日に至っている。
 内子の町並みはとっても風情にあふれ、木造の建物や瓦屋根、そして白い壁なども見事な、そして縁側のある素的な景観を守っていました。
 普段余り歩かない私たち夫婦は、この町並みに魅せられて結構な距離を歩いて回りました。帰途の寄り道で、道の駅で買った「八朔」がとっても懐かしく、疲れた脳を刺激してくれたのです。

旅は道連れ・・・友人との再会「松山市にて」

2010-04-21 05:32:17 | つれづれなるままに
 高知空港に昼過ぎ予定通り到着。初めての四国です。四国の徳島そして高知などを飛行機で上空から見ると、四国はまるで山深い海に囲まれた大きな島でした。海岸線を中心に民家が見えましたが、こんなに高い山々に囲まれて居たのだという新たな発見です。
 高知空港からレンタカーの会社まで移動して、早速手続きです。当初の予定では14日高松に一泊してうどんを食いまくり、15日に松山市入りの予定でした。ところが、松山の友人からの事前情報で、かなり厳しい道のりであることなどを聞いて、結局松山市に直行することにしました。
 レンタカーの良さはなんといっても今はナビがついていて、道案内をしてくれることでしょう。
 桂浜で竜馬さんの像を見たいなあという思いも、到着時間が1時30分になっていて、結局空腹感に負けて、高知の市場でカツオ丼と美味しそうなコロッケを食べて満足しました。

 高知自動車道から松山自動車道を通って、山越えでした。弘前とはやはり気候の移り変わりは違うようで、かなり山々は春の装いです。山がクレパスで書いたように、ぼんやりとした美しい春色に染まっています。
 結局走行距離100キロ超を、松山市にはPM5時30分ごろに到着することができました。早速ホテルのチェックインして、美味しいグルメの店探しがこの日の楽しみでした。
 昼食が遅かったことや、店探しをして1時間近くうろうろ歩きました。結局お魚の美味しいお店で、地酒やたこのてんぷらなどをいただいて満足して帰りました。四国まで来てもやはり娘たちが気がかりで、電話で娘達の情報を取り寄せています。「あーついにこういう親にとっての自立もあるんだなあ・・・」というのがこの日の実感でした。