夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

岩木しょうがい児者を守る会「新年の集い」

2010-01-31 16:40:30 | 私と福祉とであいの旅
 きょうで一月も終わりですね。日中はとってもよいお天気でした。
 きょうは岩木守る会の新年会でした。日曜日はあうんのメンバーは日中一時支援の8名。守る会の子どもたちは7名。スタッフが5人、保護者7名。事務局2名で、総勢29名。
 温かな日差しの中、みんなで餅つきからスタートです。その後は焼きそばと焼肉を準備しました。あうんは餅つきとアウトドア料理はお任せくださいという感じのスタッフが育っています。お餅をみんなで丸めるグループでは、パン工房に勤めているH君が一番上手でした。黄な粉餅、ごま餅、あんこ餅も出来上がり、みんなで楽しい食事会です。

 日ごろ会えないメンバーの保護者もこのときとばかり、いろんな情報交換をしています。
 10数年前にはこの会で通所施設を町のまん中に作ってくださいという陳情活動を町長にしたこともありました。今在宅の親たちは何の心配も要らないくらいに、至れり尽くせりの社会資源がそろって心配がないのでしょうか。

 おなかも満腹なので、グループ分けしていよいよレクリエーションです。
 ボーリングゲーム、すごろくゲーム、空き缶魚釣りと楽しく過ごしました。景品もたくさんもらって、きょうの新年会を終えました。今度は本物のボーリング場に行こうという提案があり、次回の活動計画にしたいと思っています。

コラボしませんか!?

2010-01-30 16:06:33 | 岩木山麓 しらとり農場日記
 岩木山麓しらとり農場のオーナーと、久しぶりにお話をする機会がありました。農場には2008年には「であいの家あうんメンバー」が1年間通いました。畑の一部をお借りして、野菜を作る勉強をしたのです。白取農場のこのころは、有機農法を中心に薬を一切使わないという徹底振りです。そして今や「自然農」という、畑を起こさないで栽培する方法に変わっているようです。ジャージー牛1頭と鶏50羽を飼育し、えさもオカラと野菜くずなどだけで育てています。
 昨年このジャージー牛に子牛(オス)が生まれて、ついに牛乳を搾り始めています。初めて飲ませていただきましたが、なんとまろやかで甘い牛乳ではありませんか!!オーナーはこの牛乳を加工して、バターを作ったり、チーズを作って食べているようです。私たちのパン屋さんでも、ぜひ加工販売できないかを考えてみることになりました。牛1頭ではその搾乳量もたかが知れているかもしれませんが、それでもこれから将来的な戦略として、自然農の安全野菜で育て上げた野菜で飼育する乳牛のミルクはとっても夢がある気がします。
 これから何人かでそれぞれの得意分野を持ち寄って、夢の実現を図ろうという熱っぽい話をしています。
 
 さて、少し美味しくて怖いお話を・・・。

 去年生まれたオスの子牛ですが、名前をなんと言うのか?
 「網焼き 牛太郎」という名前を考えているとのこと。その心はオス牛は食肉にするしか活かす道はないのだそうです。
 日本版の「ドナドナ」という感じがしますね。でもしょうがないよね・・・。僕も牛肉は好きだしなあ・・・。

人生の分岐点

2010-01-30 09:11:01 | 私と福祉とであいの旅
 26歳のわたしは、東京から一家で岩木に引き上げて来たのはいいが、内定していた就職先の身体障害者療護施設が開所の年を一年延期したことがわかった。情報をもう少し早く提供してもらえれば、前職を辞めずにすんだのだが、結局あとの祭りだった。プータロー生活が一ヶ月ほど続いて、職業安定所通いが続いた。当時の職安は弘前城公園内の東側(今は土塁でその跡形は見えない)で、かつて弘前警察署、現在の中南土地改良事務所の向かいから入り口があった。かつて陸軍の兵器庫とか聞いたが、古い建物で暗い室内の印象があった。
 私の仕事先を何とかしようと、亡義父と義母は自分の関係のあった伝の人を何人か紹介してくれた。
 一人は市役所の助役をしたN氏(既に亡くなられたが、社会福祉法人理事長も後半勤められた)で、もう一人の方は元弘前市の民生部長を勤められたT氏(故人)である。
その方々の紹介もあって、わたしは5月から弘前市の福祉事務所保護課(生活保護)医療係での嘱託職員としての職を得たのだった。
 
 昨日私の元へ、そのときにお会いしお力添えをいただいたT氏のひ孫に当たるMさんが、私とほぼ同じ年齢で東京からUターンして来て仕事を探して目の前に座った。私はその彼の話を伺いながら、自分の当時の状況と重ね合わせていた。
 聞けば彼は母子世帯で育ち、関東の大学に進学した。その後幼稚園に勤務し母を東京に呼び寄せようとしたが固辞され、結局彼が弘前に帰ることにしたというのである。母親を残しての東京住まいは、気がかりなのだろう。そのやさしさが妙に気になったのである。
 大学では児童学科に属して、絵本なども関心を持っている。前の幼稚園には障害児も一緒のインクルージョンクラスにいたという。まだまだ若い彼のこれからの人生を少し後押ししてみたいとそう思う今の私である。
 
 

三寒四温~もう直ぐ春ですね!

2010-01-29 07:46:08 | つれづれなるままに
 「暑さ寒さも彼岸まで・・・」とか、「三寒四温」という言葉が示すように春を感じる機会が増えてきました。夕方4時30分ごろまだほんのり明るくて、日が長くなったなと思います。
 でも、一方で青森では「ノロウイルス」やら「新型インフルエンザ」などで学級閉鎖などもあって、気が抜けません。
あうんでも、スタッフは予防でマスクをしている人が増えています。風邪引きの方が結構いるのは、乾燥しているからかもしれません。
 ノロウイルスは牡蠣など二枚貝からの感染が知られていますが、人から人へうつることも多いようです。症状は嘔吐や下痢などですが、嘔吐をした吐しゃ物や下痢便の処理をする際や、吐しゃ物が床に残ってそこから感染することもあるようです。
 <処理方法>
 ノロウイルスの消毒方法は塩素系の消毒剤や家庭用漂白剤(ハイター・ブリーチ)でないと効果が上がりません。
 マスク・メガネをかけていない場合はゴーグル、丈夫なゴム手袋、をしっかりと着用し、雑巾、タオル等で嘔吐物、下痢便をしっかりふき取る。ふき取った雑巾・タオルはビニール袋に入れ密封し、捨てる。
 汚れたい類は大きな感染源になる。たらいに一度つけて水洗いして、更に塩素系消毒剤(200ppm以上)で消毒してから、洗濯機で洗う。

<予防法>
 流水による十分な石鹸での食事前の手洗いが効果的。

<治療法>
 特効薬がなく、脱水症状にならないように水分補給が大切。場合により、病院で点滴が最も効果的。

 あうんのスタッフも年度末になり少し疲れ気味なのか・・・体調を崩す人が多くなっています。皆様もお気をつけて!!

 


採用試験/面接

2010-01-29 07:30:38 | 創作(etude)
 
 面接者「アンダノナメッコド、シェイネンガッピシャベッテケロ」

 受験者「ハッ?」

 面接者「ナメッコド、イヅマレタンダバ?」

 受験者「ハッ?」

 面接者「ナーンモワガンネンダベガ・・・。ナ、チガルベンワガンネノナ?」

 受験者「すみません。よくわかりません。」

 面接者「チガルサキタンダバ、チッドハチガルベンズモノシャベッタリサネバ、シゴトサナンネベナ・・・・」

 受験者「はあ・・・・」

 面接者「アイワガッダ。アドイイハンデェ、シラッセッコイグマデマチデケヘ」

 受験者「ハッ?」

 ・・・・・・・・

 これはわたしの30数年前の姿をディフォルメサさせたものですが、かなりこれに近い状態で面食らったものです。本当に自分は異国に来たんだと、痛感した瞬間です。

 

りんご

2010-01-28 07:42:04 | 創作(etude)
 ・手に載せて紅き林檎を感じてる冷たき素肌無口な重み
 
 ・わが妻は林檎農家に育ちしも皮剥く音を苦手としている

 ・幼き日雪兎見て育ちしが林檎の兎を今は食べおる

 ・蔓割れの林檎の秘密を知りてのち我の価値観変わりつつあり

 ・ふるさとを林檎の国に持ちし人実って何ぼの暮らしを立てぬ

 ・津軽より木箱の届きぬ籾殻の中より出し紅き感動



 

記憶の断片~幼少時の記憶

2010-01-28 06:37:39 | つれづれなるままに
 私が小学校に入学するころまでは、祖父母や父の兄弟姉妹なども養蚕をしていた時期がある。一階の勝手口を入り直ぐの部屋には。お蚕様の食事をさせる部屋だった。桑の葉を蚕がむしゃむしゃと食べるさまは、今でも忘れられない光景である。部屋中に蚕の桑の葉を食べる音が響いていた。
 そのほか一階には座敷、奥座敷(仏間含む)、父母の部屋、祖父母の部屋があり、トイレ、浴室、台所である。
 二階には階段を上がると、父の兄弟の部屋や、蚕の繭になる部屋があり、繭を糸にする作業部屋となっていて、結構な広さである。
 この家には当時祖父母、両親、両親の弟姉妹3人、母方祖母、そして私たち兄弟妹3人。そして農繁期には近郷から食をつなぐ若者が4,5人住み込んで働いていたから、15,6人が暮らしていたので、食卓も賑やかであった。水田の数も結構あったのだろう、田植えや稲刈り時にはこうしてそれがしまうまでこの大所帯が暮らすことになる。教員をしていた母の生活も当然その影響を受けて、朝も3時ごろから食事準備をしなければならない生活だったような気がする。したがって幼かった私と妹は、母に甘えたくてもかなわず事情を理解できるまではかなり聞き分けなく泣いていた記憶がある。そのためか母に甘えたり、抱きしめてもらったという記憶もない。私と兄は両親ではなく、祖父母と一緒に寝ていたので、祖父の昔語りが唯一の寝物語で楽しい記憶でもある。
 隣の家とは親戚ではなかったが、親戚以上のお付き合いをしていて私も寂しさを紛らすために、ほとんど毎日出入りし、時には隣の家に泊まることも結構あった。隣には祖母と夫婦、姉妹の5人で、夫婦には子はなかったので、いつも本当の子どものように可愛がってもらった記憶は両親以上にある気がする。隣のおばあさんは囲炉裏で笹竹を曲げ、手かごを編む名人であった。一本の刃物を根元に切り込んで、あとは自分の手で細く開いていく様やその細く裂いた竹を今度は編み上げていく様などは、まさに芸術的でもあった。
 我が家には牛や豚、鶏、ウサギ、ヤギなどの家畜がいて、父の一番下のKが世話をしていた。私もこのKから世話の仕方や、ヤギの乳絞りを教えてもらった。このほか、我が家にはあちこちに錦鯉を養殖していた時期もあり、真鯉などは冬にさばいて鯉の洗いや鯉こくなどでいただいた記憶もある。台所にはつば釜を炊く竈、そして水は山から弾いてきた水や井戸水が使用され、台所の隅には水をためる貯水槽のようなものがあって、こんにゃく玉などが浮いていた。そして私の遊び場の一つは、我が家が所有する水車小屋であった。当時は結構水量もあって、祖父がこの水車の動力を使って粉を挽いたりするのを珍しそうに見ていた。
屋敷の裏手には小高い山があり、その山は孟宗竹の林となっていて、この山の下をくりぬいた横穴はひんやりとした横穴で、主に穀類などの貯蔵庫として使用されていた。中は薄暗くて、木の扉を開けてはいるのだが、洞窟の天井には蝙蝠が住み着いていて驚かすと大騒ぎとなった。家の前を通る私道には石垣が高さ1メートルくらいに詰まれ、その上に松、紅葉の木、お茶の木、つつじの木などが植えられていた。
 庭には深さ3メートルほどの深さの井戸が掘られていた。
 忘れもしない小学校一年生のころ、妹と一緒に井戸端で遊んでいてその事故が起きた。妹がのどが渇いたというので、私が井戸から水を汲んでつるべを落とし上に引き上げる際に、私が井戸の中に落ちたのだった。私がいどに落ちたのを見た妹が驚いて泣きわめいてくれたおかげで、ちょうど近くの水田の草取りをしていた近所の叔父さんに助けてもらって命拾いをしたのである。庭先の木々の根が井戸の中にも幾本か出ていて、その根につかまって助かったわけである。二人が私の命の恩人ということになる。
 

幼少時の記憶から~家屋構造

2010-01-26 07:34:02 | つれづれなるままに
 幼少時の実家のあり様が、脳裏に焼きついて消えない「原画」がある。村の中ではかなり大きな農家だった。屋号は「小林」といって、村の庄屋から譲られた屋号らしい。戊辰戦争で敗走する「長岡藩」河井継之助らが陣屋を張ったのは二軒と聞く。一軒は庄屋で、もう一軒が小林家であったとか。
 私の記憶の中の実家は、二度目の建築らしい。雪深い新潟にあって、不思議の一つは瓦屋根であることだろうか。二階家で鬼瓦も鬼門に葺かれていた。正面玄関と勝手口とがあり、客人でないと正面玄関からは入らない。
 勝手口から居間に入ると、まず右手には囲炉裏や竈で使用する薪置き場があった。そして20畳ほどのスペースには、煙抜きのある囲炉裏があり、自在鍵が囲炉裏に下がっている。五徳には鉄瓶が置かれていて、囲炉裏の四角い木枠はいつも黒光りしてきれいだった。
 掘りごたつが一つ囲炉裏の脇にあり、冬場は納豆作りのための大きなツトが藁で編まれ茣蓙様のものに巻かれて掘りごたつの一画を占めていた。
 ツト納豆といえば、自家製の納豆はなかなかおいしいのだが糸を引きにくく、食べるときは粗塩を入れてかき回していると、白い糸を引いてくるのを熱い炊き立てのご飯にかけて食べていた記憶がある。勿論台所には竈があって二つの丸いつば釜が入るように並んでいた。このつば釜で炊くご飯は手間がかかるが、釜の下側にできるおこげが絶品だった。祖父は「早起きは三文の得」といって、早朝に目覚めるわたしに祖母が塩味のおにぎりにして食べさせてくれた。

キム・ヘジンさんの第1回送別会

2010-01-26 06:55:36 | つれづれなるままに
キム・ヘジンさんが2月21日に帰国することになった。気の早い私は、ヘジンさんがまだ考えたくもなかった(らしい)お別れの集いを催していた。場所は岩木・鳥成(とりせい)という焼き鳥屋さん。
 スタッフと講師合わせて14名が、ヘジンさんを囲んでの「韓日交流会」という感じ?なんたってこの店の焼き鳥がみんな大好き!そして最後の締めのラーメンがまたうまい!!細麺でちじれ面、煮干出汁はやや塩味風のしょうゆ味。
 みんなが一人ずつへジンさんにまつわるエピソードや、韓国への思い、ハングル教室とそこで食べた韓国料理を語っていた。ヘジンさんは日本に来てからの心理的な変化、そして愛着を語って涙を流した。クライマックスは勿論ヘジンさんの澄んだソプラノでの「きみは愛されるために」(タンシヌン サランバッキ ウィヘ)を歌ってくれ、私たちも口ずさんだ。旧岩木地区もこうしてハングルの歌が焼き鳥屋で合唱されるようになって、国際化して来たといえるのではないだろうか。国際交流のキーワードは「焼き鳥」かも知れない。
 来月中旬まではヘジンさんのあうん通いは続く。

Together/ハンケ/一緒に

2010-01-25 22:54:46 | 私と福祉とであいの旅
 キム・ヘジンさんの故郷韓国・大邱市(テグ市)の人口は300万人だという。宮城県の人口が260万人弱だから、かなり大きい都市なのだと思う。青森県などは140万人だから、どれだけ大きいのかがわかる。ソウルから特急で2時間かかると聞いた。そしてへじんさんの住むアパートは36階とか言っていたから、高層ビルということになる。11階でも結構な高さなのだから、その3,4倍も高いビルとなればその場所での生活とはどんな気分なのだろうか。高所恐怖症のわたしとしては、毎日お尻がむずむずする感じもする。
 韓国地図全図を見ると、慶州とか釜山に近い南側といったほうがぴんと来るのかもしれない。雪も降らず、果物が美味しいらしい。いつか訪れてみたいと思う都市である。