夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

東日本大震災~近未来への警告

2013-03-12 06:29:06 | 東日本大震災
3月11日(月)

 未曾有の死者と行方不明者、そして副次的に福島の原子力発電所の想定外の事故による放射能禍は、福島県を孤立させている。
 私たちはこの災禍をどのように見ればよいのだろうか。
 テレビ報道で明らかになったこと、それは原発の仕組みそのものの危機管理のずさんさであった。
 NHKが放送した「アメリカスリーマイル島の原発事故」これは日本と同じ構造の原発機械だという。そこからに何も学ばず、最悪のシナリオの肝心かなめの措置を関係者が誰も知らなかったために、最悪のシナリオに至ったことは、東電本社はもとより、規制委員会も含めて、国家的な失態以外何者でもない。そのような中にありながらも安倍政権は、これらの問題を棚上げどころかないがしろにして、原発の再稼働を目指しているのは許しがたい。

 沖縄も東北北海道も何時の世も変わらず、中央政権から遠い地方にその繁栄の犠牲を強いて来たのだ。こんな地震国のちっぽけな細長い島に、原発50基以上を配置しているという。更にはその原発そのものの機能上の問題と立地基盤の脆弱さにより、稼働している原発は限りなく少ないことをどう考えるのか。

 問題は福島第1から第4に至るまでの原発事故の処理が、これから40年間も先でなければ困難だという。
 今起きた事故すらその状態なのだから、もはや科学の限界を超えた機械としか言いようがない。
 この事故が起きたことによって大きな人命が失われ、未だに自らの責任外での難民が帰郷希望を持ちながら帰還できずにいる現状をこそ、もう一度みんなでどうすべきかを考え行動するべきではないだろうか。
 東通村や六ケ所村、大間原発、これらの事故の起きた時の、避難路などどこにもないのが現状だ。横浜町の避難先は弘前市で、5,000人を想定しているという。しかしこの地形の中で原発に近すぎて、逃げようにもどの方向に逃げるのだろうか。

 原発は人間の手によって引き起こされた、まさに史上最大の「欠陥製品」であると言わざるを得ない。
 私たちも日常生活のありようを、今から変えなければならない。いや、変えるというよりは、本来の生活に戻さなければならない。
 効率性だけではない、シンプルでスローで、循環型の暮らしである。
 「日本的なほどよい暮らし」は、昭和の30年代までで途絶えようとしている。アメリカナイズされた利便性ある暮らしがもっとも良いとされたが、結局はそこから始まった人間社会の精神崩壊である。
 日本人が、何故日本人なのか・・・同じ人間であっても、日本の気候風土によって形成された体質は、決してアメリカ人にはなれないのに・・・。
 むしろアメリカを象徴とする欧米的なマイナス部分をより多く、健康と引き換えようとして来たとも言えるかもしれない。

 

 

野田塩工房見学

2012-07-14 11:07:09 | 東日本大震災
7月7日(土)

 「野田塩工房」は、東日本大震災の際に、津波に襲われ壊滅した。
 現在地の「えぼし荘」のすぐそばには、5月に移転したらしい。

 昔の製塩の再現をしているが、この方法は海水を汲んできて、鉄釜で煮る方法である。


4日間もかかってできるという。だから全くの観光用で、結構高い値段がついている。
 市販されている国の塩とは違って、舐めると後から甘みが出てくる。


 久慈市から平日は、障がいのある方が二人ほど働きに来ていると聞いた。

 昔は塩は貴重品で、10日間もかかって、ウシに背負わせて塩の道を歩いて盛岡市や雫石まで行ったという。

 昨年塩の道を歩いたが、結構な坂道で往時の大変さが実感された。のんびりとした時代でもある。陸中野田駅前には、その当時の塩を運んだという牛の像が建っていた。

 翌朝一路また八戸に向かって、三陸鉄道に乗り込んだ。

観光客として野田村へ

2012-07-13 06:45:58 | 東日本大震災
7月7日(土)

 「岩木ふれあいボランティア会」の7名で、三陸鉄道・北リアス線に乗って野田村へ出かけました。
 これまではボランティアとしての訪問が主体でしたが、今回は観光客としての訪問です。米田地区の産直・安来(あんくる)店の代表・米田(まいた)やすさんを訪問しました。この日はあいにくの天候で、ヤマセで太平洋側は霧状態で景色がよく見えませんでした。
 午後12時45分陸中野田へ到着し、今夜の宿舎「えぼし荘」のマイクロバスをチャーターして、産直の店「安来」へと向かいました。プレハブ造りのこのお店は床屋さんなど3店舗が入居していました。
 早速米田さんにお目にかかりながら昼食を済ませました。
 
 
 

 米田さんのお話で強く印象づけられたのが、米田さんのリーダーシップです。去年の東日本大震災で、誰に言われたわけでもないのに自分が何をしなければならないのかを強くわかっている人だなと思ったのです。

               
 米田(米田地区)は国道45号線と、三陸鉄道北リアス線が海沿いを走る一つの沢のような水田地域です。それだけに津波が高く襲ってきたのかもしれません。津波は防潮堤と国道、三陸鉄道の線路も超えて米田地区を襲いました。野田村全体で37人の方がなくなった中で、この地域だけで8名の方がなくなったことや、3月30日に最後の行方不明者がこの地域から出たということも初めて知りました。


 米田さんの現在の仮店舗からも海が眺めることができます。
 米田さんのお話では、津波が国道を走る車を遅い流される光景も見たということでした。そして、震災津波の後、海側から米田地区に入る道路はがれきなどで遮断されて、食糧やガソリンなども途絶したそうです。野田村役場自体も津波で機能が低下し、自分達の生活は自分達で守るしかない1週間が待っていたのです。避難所にいる方々へ、米田さんはありったけの米や食糧を運んで、生活支援をしたそうです。
 米田地区には一本の道路が山側でもつながっていたので、他のとも行き来ができたのです。でも、ガソリンが少なかったことや、停電で寒い3月には暖房が必要だったそうです。
 あちこちからかき集めた、だるまストーブが結局大きな役割を担うことになりました。米田さんは人間として、アタリマエのことをしたという自負心だけで決してそれ以上自慢をするような方ではないことに気づきました。
 地震や津波さえなければ、米田さんたちが国道沿いで「豆腐田楽』を販売することができるのに、今は国道から結構離れた仮設店舗で営業を細々と続ける以外に道はないのです。
 米田さんたちと我々弘前市の有志がこれからどんな連携協力ができるのだろうかというテーマで、少しお話をしました。
 米田さんたちの作る豆腐田楽は塩発祥の街「野田村」だからこそ、苦汁を使って生きるのかもしれません。
 孫の「ゆめちゃん」たちの未来に、野田村を背負って生きていけるブランドとなれるように活性化できることを祈りながら、米田さんのお店を後にしました。
      
 


ふんばろう東日本支援プロジェクト

2012-04-03 16:36:28 | 東日本大震災
 4月3日(火)

 今朝がたNHKラジオ深夜便で「ふんばろう東日本支援プロジェクト」西條剛央氏が話しているのを聞き感心しました。

 「ふんばろう東日本支援プロジェクト」とは、2011年3月11日の東日本大震災を機に4月1日に立ち上がった被災地支援のボランティア組織です。仙台市出身で、自らの親族も被災した早稲田大学院(MBA)専任講師の西條剛央氏が、宮城県南三陸町に入り、被害の規模の大きさや物資が不足している現場を目の当たりにしたことをきっかけに、ボランティアでの物資支援活動を開始したことから始まりました。

 私も現地入りして初めて痛感したこと、それは救援物資がなぜこんなに滞留してしまっているのかということでした。西條氏はインターネットを使って、直接支援者から必要としている方を結び付けて効果を上げています。この方式では救援物資をいちいち集める必要がありません。今までの物資の送り方では、せっかく送ってもその送ったものがどうなったのかすらわからなかったのです。でも西條氏のやり方でいくと、救援物資をいただいた方から送られた方へのお礼が直接届くのです。送った側も役立ってよかったという喜びがありますし、送られた側も、必要としているときにそのものがゲットできることで大助かりなのです。
 西條氏の出した書籍をさっそく注文して学習することにしました。「人を助けるすんごい仕組み」という本です。この書籍の売り上げが被災者支援の費用として蓄積されるのだそうです。自分に簡単にできることを、このプロジェクトはいろいろ提案しています。
 少し関心を持ってみたいと思っているところです。皆さんもいかがでしょうか?


「さようなら原発」1000万人アクション

2012-03-12 07:17:12 | 東日本大震災
 3月11日(日)

 朝まだ咳が出ていて青森市に行けるかなと思いつつ、天気が少し回復しそうなので気持前向きに車に乗りました。
 きょうは青森市文化会館で「さようなら原発1000万人アクション」という集会がありました。
 この日は東日本大震災1周年目であり、各地で様々な集会が開催されています。
 私たち夫婦は今回の野田村行きを体調の悪いこともあって、急遽青森の反原発集会へ向かいました。

 鎌田 慧さん、山本太郎さん、そして以前に札幌レラの会が紹介してくださった大間原発に反対して土地の提供を拒んでいる熊谷あさ子さんの娘さんで函館に住む小笠原さんなど話を短時間だが聞く機会を得ました。

 前にもブログに書いたことがありますが、基本的な考えでとしては、原発での電力供給は反対である。その理由は日本が広島・長崎に原爆を落とされた世界で唯一の被爆国だからである。その国がいくらエネルギー対策とはいえ、核燃サイクルを主とする電力供給を行おうとすることに反対である。
 昨日の鎌田氏のお話はそういう意味でさらに具体的に、日本の取ってきた原子力発電の間違いを痛烈に非難してわかりやすかった。
 そもそも世界有数の地震国であり、島国の小国日本に何故54機も原燃があるのだろうか。そして今現在は2機しか稼働していない。しかしその状況でも、電気が足りずに大停電など起きてはいないのだ。
 原発の燃料はいつでも核ミサイルを作ることが可能である。自らが起こした間違いを反省もしないうちに、東南アジアに売り込むこともまた問題の一つでもある。一連の国の動きを見ていると、どうしてもアメリカの商売の押し売りをされている気がしてならない。
 青森県の下北半島の六ヶ所村、東通村、大間町のこの一連の国の事業は、何とか今回の福島原発事故を契機にすべて廃炉にすべきだと思う。そういう思いをますます強くしている。
 

岩手県民会館での救援コンサート

2012-03-08 16:21:48 | 東日本大震災
3月7日(水)
 シンガーソングライター板橋かずゆきさんの依頼で盛岡までエスコートをして、2日間行動を共にしました。板橋さんとは久しぶりの車での旅(珍道中)でした。
 
 私達二人は遅れに遅れて結局、オフコースの名ドラマーだった大間ジローさんが玄関先までお出迎えを頂いて、座席についた途端に幕が開きました。
 あとから聞いたのですが、2000人の観客は朝8時から開場の17:00を待っていたとのことでした。そういう意味でも、大変申し訳ないという思いがしました。

 岩手県民会館での古謝美佐子さん(58歳)と、夏川りみさん、中尾彬(70歳)さん・池波志乃(58歳)さんが出演しての、東日本大震災へのチャリティコンサートでした。

 東日本大震災も3月11日で、満1年が経つことになります。夏川りみさんも「涙そうそう」や古謝さんと一緒に歌ってくれましたが、生で聞いたのは初めてのことでした。その音域の広さや澄んだ歌声も素敵でした。岩手県宮古市と沖縄の宮古島は因縁があって、宮古市の漁師が台風で難破してついたところが宮古島だったということです。乗組員たちは宮古島で鋭気を養って、宮古市に戻ることができたということでした。
 古謝さんの歌に合わせて、中尾彬さんと池波志乃さんが沖縄方言の詩を翻訳して朗読してくれました。歌の意味がわかるととっても親しみが深く感じられました。

 この逸話は横浜市在住の鈴木画伯からも聞いたことがあって、確か和歌山県と沖縄県の縁も、遭難だったように記憶しています。

 さて結局私は板橋さんのエスコートとは言いながらも、とっても樂しく満足感たっぷりのコンサートで感激しました。
 中尾さん夫妻は、沖縄に移り住んで既に10年とのことでした。
 
 古謝さんの「アメージンググレース」や「童神」「黒い雨」などとても印象深い歌をたくさん聞かせて頂きました。アンコール場面では「安里屋ユンタ」を会場で合唱して、コンサートは終了しました。
 今度古謝さんのCDを買って、静かな環境で聞いてみようと思いました。

参考
 古謝美佐子(こじゃ みさこ )さんは日本の音楽家、沖縄音楽を代表する歌手の一人。沖縄県中頭郡嘉手納町生まれ。

災害ボランティア「虹」活動報告会

2012-02-11 16:18:59 | 東日本大震災
2月11日(ド)AM9:30~AM11:30 青森市アウガ研修室

 青森公立大学の災害ボランティアネットワーク「虹」の活動報告会が、きょう青森市のアウガで開催された。家内と二人で出かけた。青森公立大学の虹は昨年6月に結成されて、現在まで活動を継続してきた。チームオール弘前とは異なり、宿泊滞在型の災害ボランティアである。
 8/21~8/27まで気仙沼市の南三陸町まででかけたということである。彼らは宿泊滞在型ボランティアなので、キャンプ地の宮城県登米市にベースキャンプを置き、そこから活動現場へ移動するという方法をとっていた。活動時間はほぼ我々と同じで、AM9:00~16:00であった。活動内容も、救援物資の仕分けや、ボランティアの給食づくり、後片付けなどで、ボランティアのためのボランティア活動と言っていた。
 また気仙沼市はカキの養殖場所でもあり、筏にカキの稚貝を吊るす作業なども手伝いを行ったらしい。しかしこちらも時間の経過と共に、ボランティアが激減し、まだボランティアニーズはあっても人が集まらないという傾向にあるらしい。
 
 この他全国組織の「ユナイテッドアースレインボーフラッグプロジェクト」という社会貢献協力組織があり、それへの参加を行なって、47都道府県ごとに、虹の旗への寄せ書き活動を行い、それを本部に送って大きな虹の輪を旗で作ったという。これは国民がこの災害をいつまでも忘れずに、復興の希望を失わないようにするという意識啓発の運動でもあるらしい。

 11月からは次期の虹の若手である二期生が中心になって宮城県に青森大学と共に13名が出かけた。ガレキの撤去活動や仮設住宅の冬の準備活動手伝い、道の駅での秋祭りの手伝い、福島県福島市での福島の未来についての語り合い活動への参加状況が報告された。

 
 研修会の最後はグループ別に分かれてのワークショップが開催された。
 継続は力であるという言葉があるが、現地の人々への支援活動をどのような形で継続していくかという命題が大きな課題でもある。弘前から参加した学生から、共通目標を持つ学生同士、連携した活動を呼びかけていたが、そういう発想が今後の活動を活気づけていくのではないだろうか。
 何れにしても、学生という次代を担う若き力が、現在的な社会の課題に目を向けて考え活動をしていこうとすることは、新たなウエーブともいえる。市民としてもこのムーブメントに、支援していきたいと強く思ったひとときでもあった。

釜石~大槌は今・・・

2011-08-07 10:30:36 | 東日本大震災
8月6日(土)AM5:30あうん発

 きょうは抱民舎企画のボランティア活動を考える充電「被災地視察ツアー」です。集まったのは青森市から1名、いわき地区から市民が1名、法人役員1名と法人職員4名の計7名でした。野田村でのボランティア活動は4ヶ月を過ぎて次第に復興が進んできました。人々の暮らしが前の暮らしに近づきつつあるようです。前にも書いたように、青森県社協や市町村社協も次第に撤退して、地元社協に活動を戻していこうとしています。そのために土曜日や日曜日、祭日やお盆の期間は社協もお休みです。活動は平日に限られて、ボランティア活動に参加しにくい環境ができつつあります。
 今回の法人の企画ツアーは、災害ボランティアとして「今何を為すべきなのか」を再考する必要に迫られています。阪神淡路大地震の時の活動を思うと、どうしても今回の震災と二次災害(福島原発事故)は、どこかが違って見えてきます。
 何が違うのでしょうか?それは多分今回の東日本大震災では、人の命が大量に失われたというだけにとどまらずに残された課題としての「地球人」の果たすべき役割についてが問われているのだと思うのです。地球人と書いたのは、福島原発事故を始めとして、もはや日本だけでは収め切れない環境問題になっているからです。
 私たちが今復興のボランティア活動を行っていますが、もうひとつの課題は今起きつつある第三次被害なのです。福島県をはじめとする周辺地域の、「住民ジプシー化」が今後ますます規模を拡大しそうな気がしています。その人々の支援こそが第一の課題ではないでしょうか。そして次に、風評被害をどうするのか。また、食の安全をどう考えるのか。日本だけのp問題ではない気がしています。汚染水が大量に太平洋に流されているのですから、当然地球規模の食害が始まろうとしています。日本の主食である米ですら、その中心部が穴を空けそうな勢いです。私たちの命をつなぐ食の安全が、もはや危機的状況に向かいつつあるのです。
 党派を超えて、組織を超えて、今こそ真のリーダーシップが求められている時なのではないでしょうか。
 原発に頼らなくても生きて行くことを、日本は今こそ大英断すべき時なのです。生きるということの意味を、その真の価値観を問い直す時なのかも知れません。
震災5ヶ月目に入ろうかとしているこの時期、釜石市、大槌町の復興はほど遠く、唖然とさせられる光景が広がっていました。最後まで津波警報を出し続けた、大槌町役場屋上の女性職員の影がそこにありました。









 
 

No.15 野田村の日曜日

2011-07-04 05:37:36 | 東日本大震災
 野田村の役場前のボランティア駐車場にはバスが3台停車していた。盛岡市や葛巻町という岩手県と、北海道苫小牧からの団体での災害ボランティア一行である。そこに我々のグループの中型バスが加わった。

 この日は日曜日ということもあってか、その他の休日ボランティアの入り込みも多く、役場前は人にあふれていた。
 災害ボランティアセンターには弘前市の社協職員が対応していて、きょうは「側溝の泥上げ」であるという。Yさんの話によれば、昨日引っ越しが行われて、仮設住宅に殆どの人が入居が終えたらしい。これからは避難所としてのニーズよりも、仮設住宅という個々の生活がスタートし、ニーズも個別に分散することになりそうだ。
 何よりも野田村の復興はスピードアップして、7月後半から8月いっぱいは社協も土日はお休みになるという。平日はボランティアの数が少ないのだから、土日対応は継続して欲しいのだが、どうもそうはいかないらしい。それは野田村の社協は人員が少なく、他の自治体の社協職員が交代で応援している現状があるからだろう。

 私たちのこの日の作業場所は役場の正面を流れる川を超えた場所の側溝の泥上げであった。道路の両サイドにある側溝は、津波で運ばれたガレキと泥や砂が埋まっている。
 
 曇り空が続いているのが何よりの救いで、それでも時々顔を出す太陽で、汗がふき出してくる。30分作業をして10分の休憩の繰り返しで、この日は早めに休憩をパターン化していた。
 初めての参加者は今回半数の10名で、残りは複数回の参加者である。我が法人からは9名、いわき・ふれあいVが4名、一般参加者は9名でうち他法人職員は5名である。

 隣の敷地では盛岡市から来たグループが、同じ作業に汗していた。
 午前中の作業を11:30分でいったん終えてマイクロバスに戻って、昼食会場としてこの日は道の駅に向かった。
 二階のレストランは結構価格も安く設定されていて、麺類(500円台から)、ご飯物、海鮮丼でさえ1,000円と超割安である。私たちはおにぎりなどを持ち込んでラーメン、中華ざるなどを食べた。
 この他道の駅は野田村の特産である塩、塩を使ったラーメンや、キャラメルなどの加工品、海産物、魚なども販売されていて、国道45号線沿いの道の駅は結構活気にあふれていた。少しでも現地でお金を使うことすらも、復興の一助となるのだと参加者も買い物袋を手にバスに戻ってきた。
 午後1時にまた作業現場に戻って、午前中の続きを行った。

 さすがに午後からは、参加メンバーの口数は少なくなって行く。そしてなにより怖いのは、疲れて来た時に起きる事故である。寡黙となっている集団は、黙々と作業に集中しすぎている。一旦大声で作業を止めて、注意を喚起し一呼吸を入れてもらった。
 午前中に大きい土嚢袋10袋を使いきり、午後も土嚢袋を追加した。
 午後2時30分から後片付けを進めてもらって、またボランティアセンター脇に集合し、この日使用した一輪車やスコップを洗浄する作業に移っている。他の団体も続々と集まってきて、少ない蛇口に人が群がっている。

 
 しかし救いは沢山のボランティアがその蛇口を奪い合うどころか、皆で協力しながら道具の洗浄を進める雰囲気が出来上がって、なんとも皆さんの表情も優しいのだった。

 お互いに感謝しながら、労をいたわり合ってそれぞれのバスに乗り込んでいく。別れ際にはバスの中から「お疲れさんでした」と手を振り合ってまたそれぞれの生活の場に戻って行った。
 それにしても、来月からのこの土日対応はどうなるのだろうか・・・。


 

県学生ボランティアネットワーク「虹」設立記念報告会

2011-07-01 04:48:17 | 東日本大震災
6月29日(水)PM6:00~PM8:00
 この日の報告会への私の参加は、たまたま5月26日にたまたま公立大の三上氏に招かれた席上で出会いがあり決まったことである。5月27日に公立大学での三上氏の授業に講師として招かれて講和することになっていたために、彼の事務所に夜で向くと学生たちが15名ほど集まっていた。翌日の三上氏の授業に出られないという学生たちが私の話を聞きたいということで集まってくれていた。その中のメンバーに今回の災害ボランティアネットワークを立ち上げるという代表2名がいて、6月29日が決まったのである。

 設立代表者、副代表者2名が設立経緯を説明し、報告会が始まった。前半が虹の代表者のこれまでの災害ボランティア活動の報告と、もうひとつの団体「県立保健大学」の学生サークル「めいと」からの報告」があった。
 その後私の「野田村からの報告」を得て、この日のパネルディスカッションに移った。実はもう一人のパネラーがいたのだが、体調不良でおいでになれず、急遽私と「虹」の代表・飯村氏「NPO法人あおもりラジオクラブ」 専務理事 小笠原氏の進行で進められた。青森市には地元のラジオ局がなかったことから、小笠原氏が立ち上げたというインターネットを通じて報告会の模様が配信されていた。
 そして私には心強い助っ人の学生・北大教育学部・三上氏が会場に来ていたので、急遽前振りを依頼して野田村報告は圧巻となった。
 まずは県内の意識ある学生たちによる「災害ボランティアサークル」のネットワーク化の今後の可能性は、連帯による被災地の復興効果はより新たな局面を見いだせそうな予感を感じたのである。
 それは弘前大学の学生ボランティアセンターにとっても、その参加と連帯が、相互の社会学の具体的実践へと向上させていくものと思われる。
 野田村に限って言えば、復興のスピードがこのところかなり急ピッチで進んでおり、時間経過と共により住民福祉のニーズが次の局面へと移行し始めている。それは避難所から仮設住宅や、家屋修復などによる生活の再会がそれである。次の段階ではガレキなどの撤去作業から、個別支援へと移行していくのだろうと思う。その時に学生たちのマンパワーと社会人の専門性が生きてくるのだと思った。保健大学の学生は「社会福祉学科」「看護学科」があり、いわば卒業後には「相談支援」や「医療現場での看護やリハビリテーションコアスタッフとして働くのである。今回の震災という大きな教室で臨床体験を積むことは、その後の彼らにどんな一カラを与えてくれることだろうか。
 報告会終了後の懇親会で、さらにその確信は深まっていった。