夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

「村 次郎全詩集」出版記念会

2011-09-30 05:07:12 | 私と福祉とであいの旅
「風よ おまへは

 確に人間だけを

 吹いてゐる時がある」

 9月24日(土)

 八戸市のグランドホテルで、わたしの気になる詩人「村 次郎全詩集」の出版記念会が開催され出席しました。これは私の敬愛する同じ業界で活躍する八戸市の先輩「上條勝芳氏」のご紹介によるものです。

 村次郎氏の人となりを、当時を知る作家さんたちが思いでとして聞かせてくれました。まるで村氏がそこに歩いているかのような語り口がとっても良かったです。
 村氏は詩という異彩を放つのですが、その他にも考古学や植物などにも見識がある方のようです。
これから少しずつ、村次郎という詩人を身近に出来るかと思うと、宝物が一つ増えたかのようなうれしい気分になります。

 種差海岸と村次郎氏の営業していた「石田旅館」、そして鮫駅は村次郎氏の3点セットかも知れません。
 今年の3月11日の東日本大震災の津波によって、「石田旅館」も被災したのです。そのこともあって旅館は解体されたのですが、解体一ヶ月前にたまたま上條氏に案内されて種差海岸と石田旅館をこの目に焼き付けることが出来ました。

 そして村次郎氏の全詩集(上、下巻)が、村次郎の会の手によって出版され、今私の目の前にあります。


 その一ページ目をめくると若き日の村次郎氏が、着物姿と下駄履きで海岸を歩く姿がモノクロ写真で紹介されています。

 兄さんの歌

 小さいとき 海をみなかった兄さんは
 だめだった

 小さいとき 山をみなかった兄さんは
 だめだった


 このフレーズを見ると
 三好達治の「雪」を思い起こす。

 「太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪降りつむ

 次郎を眠らせ、 次郎の屋根に雪降りつむ」

 これからこの詩人の一つ一つの詩を、旅のように訪ねていこうと思います。

夜更けの電話

2011-09-30 04:36:06 | つれづれなるままに
9月29日(木)

 明け方の4時、電話が鳴り響きました。この時間帯の電話で、良い知らせが来たことはありません。走って電話の受話器を取ると、ケアホームの夜勤者からでした。「マミさんが朝方から吐き出しました」という知らせです。急いで準備をして、家内と二人でケアホームに車を走らせました。次女マミのこの嘔吐は、今年6月から始まった症状です。6月に8日間入院し、9月に6日間、そしてまた今回です。お腹がゴロゴロ鳴り響き、その都度呼応するかのようにマミは吐いています。胃液だけなのか、嘔気が強く、結局8時まで収まりませんでした。それでも排便が多量にあって、少し楽になったのか30分ほど眠りの中に落ちています。
 朝9時30分にまた病院へ通院して、すっかり看護師さんの馴染みになっています。主治医のY先生とK先生は出張なのかお休みでした。結局絶食して点滴をたっぷりしてもらって、この日は何とか帰宅することが出来ました。腸管機能の低下が背景にあるようです。そのためには絶食して、水分だけで過ごす日が必要だと医師が説明してくれました。
 排便のパターンが少し空き過ぎていたような気もしています。排便管理をもう少しきちんと確認して行かないといけないと痛感しています。夕方布団で寝かせられたままの彼女は、おなかが空いたのか声をあげていました。
 根源的な治療法が見つからないと、不安が続きます。明日の水分摂取と嘔吐の有無の状態で、通院して点滴の可能性もありそうです。

印象派展~猿倉温泉

2011-09-30 03:55:02 | 一歩二歩、散歩~横道
9月28日(水)秋晴れ

 「青森県立近代美術館」に初めて入りました。縄文の遺跡「三内丸山」と同じエリアです。



 弘前から青森まで車で約1時間、東北自動車道の終点から間もなくの場所にこの「三内丸山」と「青森県立近代美術館」があります。平日でもさすがに今回の「印象派展」は人気が高く、来館者が多くてこの日ついに美術館来館者が8万人目を数えたとのことで、にぎやかなセレモニーも行われていました。

 建物は真っ白のデザインで、トイレのデザインも変わっていました。

 「印象派」という新しい流れを作っていった過程が、第6章までに区分されてわかりやすく並べられていました。
 私の知っている作家としては、ゴッホ、ルノワール、マネ、モネ、ゴーギャン、セザンヌ、そしてピサロ、ロートレックくらいですが、19世紀の絵画の歴史が意味深い時期であったことを感じました。今の時代に当たり前のようにある色彩も、この時代の絵具への創意工夫があったからだということもわかりました。

 約二時間をかけて館内の芸術作品を見て歩き、時計も午後二時近くなっていました。
 昼食を駐車場の車の中ですませて、車を八甲田に向けました。お休みのひとときを温泉に入って帰ろうということになり、八甲田山の猿倉温泉まで足を伸ばしました。9月の後半とはいえ、まだ最高で25℃、最低気温でも14℃付近を気温が上下しているのもあって、紅葉もまだまだでした。でも笠松峠に近づくに連れて、少しですが色づいてきているのがわかりました。

 

 酸ヶ湯温泉は平日とはいえ駐車場もいっぱいで、この日の好天では頷ける気がしました。


 地獄沼、睡蓮沼を過ぎて右手に看板が見えて、右折して坂道を下ると見えてくるのがこの日の目的地猿倉温泉です。



 午後4時で入浴だけのお客は終了ということで、午後3時を回っていたので滑りこみでした。本館の温泉は、露天風呂です。青みがかったお湯と、硫黄の匂いがすぐに鼻をつきます。お風呂から見えるのが八甲田の山壁で、これから紅葉時期には見事な景観になることでしょう。
 偶然なことに十和田湖の旅館「湖畔荘」のご主人と、お風呂の中で偶然にも出会いました。きょうは旅館の従業員と山を縦走してきたとかで、ロープウエイは人でごった返していたようです。
 この猿倉温泉も来月いっぱいで店じまいをして、来年の4月後半開業となるのだそうです。本当にひなびた温泉旅館という感じで、一度止まってみたいと思いました。

 あずましく入浴をすませ、夕景の八甲田を楽しみながら家路を辿りました。ちなみにこの後の写真は地獄沼の写真です。

 




etude 棄郷

2011-09-28 07:55:32 | 創作(etude)
雪深い
二月に
越後で
生まれ
十八年間を
過ごした
故郷
雪解けの
三月に
今はもう
見ることも
乗ることも
できなくなった
越後交通
栃尾鉄道
通称
トッテツの
小さな車両
その
一輌しかない
車両に
だれの
見送りもなく
ぼくは
ひとり
東京を目指した
振り返らなかった
決して
振り返りたくなかった

みっともなかった
自分の
十八年間
自分は
この土地では
うまく
生きていけないと
ようやく
わかった
それが
高校三年生
いつも
自分は
城壁のように
遠景となっていた
この越後連峰の
向こう側に
自分を
待っている
何か
そんな
夢を
見続けて
幼い頃から
屋根のてっぺんに
座り込んできた

トッテツが
「おい、
お前
気はたしかか」
そう肩を揺すって
いるかのように
車両を揺らし
車輪の音を
鳴らし続けた
なんにも
未練など
この土地に
残っていなかった
無様な
過去しか
自分には
ないように思えた
室生犀星の
「ふるさとは
遠くにありて
思うもの・・・」を
脳裏で
たどっていた
そうだ
もう二度と
この土地には
戻るまい
この土地を
自分が
遺棄するのだ
絶縁するのだ










塩の道を歩こう会~野田村

2011-09-26 07:09:38 | チームオール弘前
9月25日(日)快晴

 野田村でのイベント「野田・塩の道を歩こう会」に、家内と一緒に初めて参加した。野田村は塩が名産であり、昔からこの野田塩を牛(ベゴ)につけて盛岡や雫石などに運び、米や粟などと交換していたという。そのベゴ道なるものがこの道で、昔は十日間もかかって往復したという。野田村の歩こう会は、毎年5月と10月にこの会を開催していたらしいが、さすがに今回は震災後であり開催が危ぶまれたのだが、5月は中止となって今回は9月開催にこぎつけたらしい。約10キロのこの行程は、まずチャーターバスで久慈の道の駅「土風館」から川沿いにそのスタート地点に向かった。岩泉へ続くこの街道は急峻な両側の崖に導かれた狭い道路であり、美しい川並でもあった。こんな所にも集落があるのかと思うような辺境にの地にも、人々は暮らしているのだった。昔岩手県を日本のチベットと表現する言葉を聞いたことがあるが、それはまさにこうした場所を言うのだろうか・・。しかし私はその辺鄙さよりも、大切な何かがこの地方には確かにあることを五感で感じた。


【塩の道は人の道・・・】

 野田村の海岸で焚かれた塩は、北上山地を越えて雫石や盛岡近在に多く運ばれ、穀物と交換されていました。この塩は、牛の背につけられて運ばれていたので「野田ベゴ」と呼ばれ、海のない内陸部の人たちは冬が迫る晩秋の頃ともなると、塩行商の野田ベゴが来るのを待ちこがれていました。

長くて厳しい東北の冬を越すには、塩漬けの保存食に頼る以外に手段がなかった当時の人々にとって、塩は野田塩ならずとも生活に欠くことのできない貴重なものでした。その命の塩を運ぶ塩の道は、牛が通るだけの狭い厳しい山道ながらも、海と山を結ぶ切っても切れない血潮の道であり、人の道でもあったのです。

塩の道は米の道・鉄の道・・・
江戸時代の野田通りの海岸では、塩ばかりでなく、早くから鉄の生産が行われており、中国地方に次ぐ砂鉄の日本の二大産地として鉄山が各所にありました。このため、塩を煮る鉄釜が容易に手に入り、製塩の歴史を画期的なものにしました。

鹿田(しかた)、粗田(あらた)と言われた野田通りの農民たちは、生きていくための確かな家業として煮塩に精を出しました。それは、北上山地を越せば、塩一升が米一升に変わる価値のあるものだったからです。
(※野田道の駅で頂いた資料から)

 
 昔の塩の道は
1、野田-小峠-白石峠-下戸鎖-卯坂峠-小国-二又-平庭峠-江刈川-葛巻-黒森峠-吉ヶ沢(-尾呂部-沼宮内-盛岡-花巻)-中山-鹿角

2、野田-小鼻-二又-和佐羅比山-上戸鎖-安家-江川-黒森山-門-名目入-早坂峠-藪川-外山-大志田-山岸-盛岡(-花巻)-雫石-沢内

だったようで、昨日は1番の 途中を逆から約9Km歩いた形になる。

内間木地区から久慈市山根地区に入り、ここから野田の海岸まで峠を越して向かいます。冬期間は交通不能になる狭い道ですが、その頂上が白石峠になります。

奥の方に、「塩の道 白石峠 野田街道」と書かれた柱が立っています。今でこそ完全舗装の道路ですが、当時は牛一頭がやっと歩ける険しく狭い道だったと言います。

この峠を下ると、間もなく三陸鉄道北リアス線・陸中野田駅、道の駅「のだ」に着きます。
 今回は本来の目標の道が先日の台風の影響(大雨)で、道が壊れていたために舗装路を歩きました。



 参加者は野田村の住民のほか、小学校4年生や、弘前市などの参加で40人くらいだろうか・・。野田村で被災した桜庭さんが、「まだ野田村の人々にとって、半年なのだから・・・」という言葉が重たかった。

 スタート地点から約半分の3.3Kmが一里塚で、野田村の分岐である。


 
 この白石峠から東側に、野田村の十府ケ浦海岸が遠目に見ることができた。
 道々を秋の花々が咲き、目を楽しませてくれる。



 白石峠からは野田村までずっと下り坂が続く。水が豊富で、「姫ボタルの沢」という看板があった。

 

 山はすっかり秋で、所々で山栗や「ヤマボウシ」という果実が落ちていました。

途中山の岩から流れ出る美味しく冷たい水で喉を潤し、「滑沢橋(ショーワ年竣工)」を越えれば、野田村の人家が見えてきました。
 いろんな方々とお話をしながら、草花を観察し写真を撮りながらの塩の道は、いよいよゴールです。予定時間をかなり早めにゴールしたようでした。8.8Kmを約1時間でゴールインでした。野田村役場の方によれば、かなり速いペースだったようです。

 完歩した全員でバスにまた乗って、「アジアの広場」で開催されている野田村のイベント会場へと向かいました。

 


 「アジアの広場」では十割そばのサービスや、マツタケの炊き込みご飯(400円)、イワナの塩焼き(200円)、豆腐の味噌田楽(無料サービス)などや、搗き屋さんの餅を水車でついている小屋もあり、粢もちを焼いて販売されていました。

 初めての塩の道を歩き、本当に心身ともにリフレッシュした一日となりました。
 野田村役場前で「解散式」を行って、他のグループが戻るまで自由時間となりました。

 チームオール弘前のメンバーと、桜庭さん、一緒に歩いてくださった野田村のおばさんと立ち話で、震災当日のお話をまた伺うことが出来ました。
 

 私は初めて愛宕神社の80段くらいの階段を上って、神社にお参りしました。そしてこの神社の高台から見える野田村と海岸線を眺めました。がれきのほぼなくなった秋の野田村が、美しく見え始めていました。こういう景観が半年で見られるように
なったことだけでも感慨深いものがあります。

 野田村塩の道は今度10月には早蕨山登山計画もあるようですが、紅葉を楽しみにまた来てみたいと思っています。
 

マロンファームで昼食を

2011-09-24 06:50:39 | 私と福祉とであいの旅
9月23日(金) 彼岸の中日のこの日、秋分の日、連休の初日です。

 市ボランティア支援センターの主催による「マロンファーム・ボランティア交流会」が開催されました。秋の天気は女性の心に例えられたりもしますが、その心も先日の台風騒ぎで何とか津軽地区は強風は免れたのです。・・・が、大雨の影響で、栗園に続く道路が冠水どころか川となったらしく、大きく溝ができてしまいました。おまけに栗園もやや斜面になっているので、どうしても水が溜まっていました。それでも何とか天気は栗畑のイベントにしては上出来で、日差しもけっこうきつくて暑く感じられました。
 参加された方々は学生が4名(小学生1,中学生1、大学生2、女性6名、ボラセン2名の12名でした。法人の参加者は利用者が5名、スタッフが6名です。

 栗の収穫は早生種の栗ですが、これから10月にかけて晩生種の栗に移行しようとしています。

 10時過ぎに参加者到着後、スタッフから説明がありました。まずは栗ひろい競争です。約40分で手かごにどれだけの栗を拾えるかが、最初のイベントとなりました。結果は4.5キロを収穫した方の優勝です。そして次はその収穫した自分の栗から勝栗を選んで頂き、10名の方が大きさを競いました。

 11時過ぎに第二のイベントである、きょうの昼食作りです。「棒パン」づくりの説明があり

 皆さんで一人二本ずつの某パン生地を巻きました。

 次に、炭火を起こしておき、そこでみんなで棒パンを焼きました。
 
肉野菜炒めと、フレンチトースト、ノアトースト、焼き栗などが今日の昼食です。


 皆さんの手で焼かれた棒パンはきつね色に焼けて、早速頬張っていました。
 

 昼食後は栗の毬集めの作業を約1時間行なっていただき、この日の交流会は終了しました。
 最後まで何とかお天気は保ってくれたことが救いです。施設に帰着後片付けも終了すると、にわかに大粒の雨があたってきました。滑りこみセーフという感じです。でも屋外での行事はなんとも言えない魅力が満載です。

 この栗園近辺の畑にも、アライグマが出没するとかを近所の畑の方から伺い、弘前市内のあちこちに増え続けるアライグマに、農家の方々は頭を悩ませているようでした。

2012アートカレンダー Grand Cross 黎明の夜明け

2011-09-21 08:23:34 | 私と福祉とであいの旅
 来年の素敵なカレンダーが届きました。限定400部を「社会福祉法人 抱民舎後援会」の発注で12月末まで販売します。1冊2,100円(税込)
このカレンダーは後援会名誉顧問に就任いただいている兵庫県宝塚市在住でアーティスト・エッセイストの「はせくらみゆきさん」のご厚意で、版権をいただいて販売しております。
 (1月)

 



 今後の目標として法人では障がい程度の重い方々の利用する「ささえの家ノーム」の、入浴環境整備をすることにしています。(改修工事・リフト設置)
 ご注文は下記までお願いします。種子ご理解の上ご協力ください。
 〒036-1312
 弘前市高屋字安田735-3 社会福祉法人 抱民舎後援会事務局まで
 FAX 0172-82-6061 Tel 0172-82-6060
 mail aun@houminsya.com

雨降って地固まる~歴史の旅

2011-09-19 09:29:23 | 私と福祉とであいの旅
9月18日(日)


 それにしてもどうだろう・・・。宮原一行「レラの会」が弘前に来てからというもの、土砂降りの雨が続いている。どうやらそれぞれの告白によれば、雨男と雨女が集合したらしい。
 そういうわけで、この日の活動内容は大きく急旋回して、宮原さんといえば「古代からの歴史」というラインを思い、「弘前市藤田記念庭園の考古館」を訪問することにした。あいにくの雨にはちがいないが、物事というものは考え方一つにより大きく気分がマイナスにもプラスにも左右する。村上和雄さんの考え方にこのところ共感している自分としては、可能な限りプラス思考で楽しくいきたいと思っている。この雨があるからこそ、違う活動や体験もできるに違いないのだから・・・。
 まずは「腹ごしらえ」ということで、映画「津軽百年食堂」のモデルの一つの和徳町にある「三忠食堂」を目指したのだが、この日は定休日だった。そこで中華料理の「新雅食堂」に迂回する。
 この店は安さとうまさが同居していて、さらにはあまり知られていないのかいつも空いているのが救いでもある。だが私はこの店の味が好きだ。
 ラーメンをとも思ったが、どういうわけかみなさんご飯ものを注文している。

 食後予定の「藤田記念庭園考古館」を訪問した。縄文時代の土器や石器など興味深く見学した。
 遺跡などでは秋田県鹿角市のストーンサークルに匹敵する青森県は青森市の「小牧野ストーンサークル」、弘前市の「大森 勝山遺跡」などが上げられるが、「砂沢遺跡」(弥生時代)では最古の水田跡遺跡が発見されている。更にここでは土偶が上体と下腿が別々に発見され、9年ぶりに接合された土偶としても有名である。

 この考古館から足を延ばして、田舎館村にある弥生時代といわれる水田遺跡を見学に行った。弘前市の考古館と違って、ここでは自由に写真撮影もできるし、触ったりできる壺や実際に同じ地面を歩ける「水田跡」があって感激した。

 


 この時代の人の足形から推定した身長は150センチくらいで、足の大きさも最大25センチであった。水田の大きさが今に比べて小さい理由は、今のような苗を植えるのではなく、籾(もみ)を蒔いたということ。もう一つは水田面積が小さいと、水温が上がりやすいこと。一人で収穫するのに便利なことなどがあった。
 宮原説によれば、この時代は今よりも気温は高かったのではないかという。

 最後に田舎館村役場の天守部分から見える「田んぼアート」を見に行った。


 今年は「竹取物語」が水田を飾っていたが、間もなく収穫されるのでタイミングとしてはちょうどいい時期だったのかもしれない。

 こうして雨の二日間が有意義に過ごせることができたのであるが、いつもお別れはつらく寂しいものである。今度の再会を約して、レラの会のメンバーとお別れしたのである。



札幌市 レラの会

2011-09-19 06:24:37 | 私と福祉とであいの旅
9月17日~18日

 今年もレラの会の宮原さん・城越さん・五十嵐さん(学生)・林さん(学生)の4名が弘前抱民舎を訪ねてくれました。今年は宮原さんと城越さんとは、我々の北海道旅行の際にお目にかかったので2回目の再会です。

 「レラ」とはアイヌの言葉で「風」という意味だそうです。

 レラは人と人のつながりを大事にし、フォーラムや交流会や旅行など新しい企画を自分たちの力で手作りで作っていくサークル。また農業・歴史・文化を柱に実践型の学びをしています。その中で自分自身が成長し、生きていく力をつけています。大学生だけでなく、高校生、社会人と年齢を超えた人との交流をし、出会いの場を作っています。(語り部屋・レラから)

 札幌で再会して、家内と4人で炭素いいひとときを過ごさせていただいたのですが、この時にお話を伺ったのだ「原発と放射能」についてでした。札幌や函館では、こういうたいとるの学習会が催されて居るとのことでしたし、資料もたくさんいただきました。これまで私は原発について具体的な学習をしてきませんでしたし、その問題について何も知りませんでした。今回のレラの会の弘前抱民舎訪問のついでに宮原さんから「原発と放射能について」をお話しして欲しいと依頼したのでした。

 9月17日(土)13:31
 
 4人のメンバーと弘前駅で再会しましたが、皆さん元気そうでした。
 我が法人の活動をずっと見守ってくださっていた宮原さんと城越さんは、まだパン屋conaを見ていなかったので、はじめにそこを案内しました。

 畑などを案内したあと、岩木山神社の下側にある「三本柳温泉」に案内し入浴して頂きました。ここは温泉が比較的おとなしい泉質なので、四人には良かったようです。 
 PM6時30分からBBQと宮原さんの放射能の話です。約20名が参加して交流をはかりました。
 宮原さんのお話に合わせて、大間町の大間原発の開発にただひとり反対した農家の熊谷あさ子さん(故人)の生き方を絵本にしたものを城越さんが朗読してくれました。たった一人で大間原発の炉心部分に当たるという場所に持つ畑を死守して、原発ができるのを阻止ているという勇気と根性、その生き方の壮絶さに驚嘆させられました。

 宮原さんのお話は3時間にも及び、まだまだ話し足りないようでしたが私たち初心者にはショックな連続でした。初心者というよりも、言い換えれば無関心だった者と言ったほうが良いのでしょうか。
 日本社会は2つも原子爆弾を落とされたという忘れえない記憶と被害を持っている国家でありながら、便利な生活と経済的な発展だけを追い求めてきました。今回の福島原発事故はチェルノブイリ原発事故をはるかに凌ぐ規模の事故ですが、1984年のソ連のこの事故が今25年経ってどのような悲惨な状況になっているのかのお話を聞き、これから10年後の福島県の子供たちを始めとする放射能禍が心配となるお話でもありました。一番の問題点としては、そういう悲惨な歴史を持つ日本で原発54基もあるという事実です。そして日本列島の海沿いに原子力発電所が設置され地震列島と言われる日本が、これからどういう経路をたどろうとしているのかを考えるだけでも悩ましき問題なのです。私たちの住む青森県には六ヶ所村があり、大間町にも開発計画が進んで来たのですから、青森県民として今回の福島原発事故は不安だけが増幅する現在です。
 そういう意味では知らされない事実があまりにも多い情報大国日本なのです。
 もう一度日本の未来と安全について、私たちのできることを考えていく時が来たと思いました。