12月31日(土)
朝方風強く雪も横殴りに降っていたが、10時過ぎには日差しも出てきた。昨日は餅つきをし、三臼ついた。その年により、餅の出来不出来があるものだと思う。搗いてもついても、餅になりにくいというか米粒が残る場合もある。しかし今年の餅は、大層よくできた。
そしてきょうはついに大晦日。朝から市の除雪車が玄関先に残して行った重い雪塊を機械で除雪をした。一人暮らしのお年寄りがこの重たい雪の塊を玄関先に残されて行かれたら、どんなにその後苦労だろうと思う。
朝食後玄関の犬走りと言われる屋根付きの廊下天井の蜘蛛の巣や、屋内の天井、廊下の天井、電灯の笠のホコリなどの拭き掃除をした。
わが家は築18年になっただろうか・・・。平成5年に完成したので、たしかそういう年数は暮らしてきたのだ。
私にしては初めての自分で基本設計をしたもので、障がい者の通所施設をこの家で最悪の場合は行うつもりだった。だからか、建物を見る人は施設のように感じるかも知れない。居間は15畳、台所6畳、洋間の書斎兼用で6畳が同じスペースになっている。
娘たちや老母の老後を考慮して、バリアフリーである。廊下やトイレ、浴室など総て車椅子で充分に回転できるスペースを確保した。居間と、玄関は吹き抜けの明かり取りも設置しているし、廊下にも一箇所明かり取りをつけた。これがまた、日中の明かるい環境確保に役立つのである。総て平屋で、天井を高くしているので、大工さんから廊下の天井部分に部屋を作れそうと言われた。その分夏は涼しく、冬は温かい。何よりも私は無落雪住宅というものを信用していなかったので、建物の四方に雪が落ちるように設計した。お陰で雪下ろしは一切ない。だが、そのおかげで、雪が軒に壁になるくらいに高くなる。
年をとってから二階家の雪下ろしは、危険極まりないと思っていたのである。築18年といっても、そんなに使い勝手が悪くなったり、改修すべきところも今のところないのが救われる。この家を娘(長女)に合わせて設計に傾注している。その一つが廊下であるし、一番奥の部屋が客間兼娘のキーボードや家内の書斎となっている。この奥の書斎まで廊下が約10メートルくらいあるのだが、歩けない娘は上腕だけでスイスイとキーボードを目指して移動ができるようになっているのだ。自分の意志で遊びの確保と、お腹がすけばまた居間まで這っ来れることはとっても大切な運動で、ありがたいものだと思う。
さて、「四千万歩の男」第三巻の最終章「お栄」というところを読み終えた。伊能忠敬の測量の旅が一旦終え、また江戸に戻ってきたのである。自分の頼りとしていた女房「お栄」が、家出をしてしまう。というのも忠敬の測量が幕府にとっては中途半端なこととして理解され、蝦夷の東側しか測量して来なかったことをなじられる。忠敬は西側も測量(歩測)のたびにまた出る決意をするが、この計画をお栄が知って、家出をされるのである。この時代の寿命は50歳くらいだとすれば、忠敬は59歳であり、お栄は夫婦とは名ばかりのこの関係に嫌気が刺したものらしい。忠敬の地図は結局お上にその重大さを評価はされて、100両近く経費がかかってしまったのにもかかわらずたったの22両某のお手当て金としてのみ評価され受領することになったのである。
まだまだ鎖国をしている時代であり、自国のまもりしか考えられないことが、この偉大な実践と地図の価値がわからないのは、なんとも歯がゆいものである。
朝方風強く雪も横殴りに降っていたが、10時過ぎには日差しも出てきた。昨日は餅つきをし、三臼ついた。その年により、餅の出来不出来があるものだと思う。搗いてもついても、餅になりにくいというか米粒が残る場合もある。しかし今年の餅は、大層よくできた。
そしてきょうはついに大晦日。朝から市の除雪車が玄関先に残して行った重い雪塊を機械で除雪をした。一人暮らしのお年寄りがこの重たい雪の塊を玄関先に残されて行かれたら、どんなにその後苦労だろうと思う。
朝食後玄関の犬走りと言われる屋根付きの廊下天井の蜘蛛の巣や、屋内の天井、廊下の天井、電灯の笠のホコリなどの拭き掃除をした。
わが家は築18年になっただろうか・・・。平成5年に完成したので、たしかそういう年数は暮らしてきたのだ。
私にしては初めての自分で基本設計をしたもので、障がい者の通所施設をこの家で最悪の場合は行うつもりだった。だからか、建物を見る人は施設のように感じるかも知れない。居間は15畳、台所6畳、洋間の書斎兼用で6畳が同じスペースになっている。
娘たちや老母の老後を考慮して、バリアフリーである。廊下やトイレ、浴室など総て車椅子で充分に回転できるスペースを確保した。居間と、玄関は吹き抜けの明かり取りも設置しているし、廊下にも一箇所明かり取りをつけた。これがまた、日中の明かるい環境確保に役立つのである。総て平屋で、天井を高くしているので、大工さんから廊下の天井部分に部屋を作れそうと言われた。その分夏は涼しく、冬は温かい。何よりも私は無落雪住宅というものを信用していなかったので、建物の四方に雪が落ちるように設計した。お陰で雪下ろしは一切ない。だが、そのおかげで、雪が軒に壁になるくらいに高くなる。
年をとってから二階家の雪下ろしは、危険極まりないと思っていたのである。築18年といっても、そんなに使い勝手が悪くなったり、改修すべきところも今のところないのが救われる。この家を娘(長女)に合わせて設計に傾注している。その一つが廊下であるし、一番奥の部屋が客間兼娘のキーボードや家内の書斎となっている。この奥の書斎まで廊下が約10メートルくらいあるのだが、歩けない娘は上腕だけでスイスイとキーボードを目指して移動ができるようになっているのだ。自分の意志で遊びの確保と、お腹がすけばまた居間まで這っ来れることはとっても大切な運動で、ありがたいものだと思う。
さて、「四千万歩の男」第三巻の最終章「お栄」というところを読み終えた。伊能忠敬の測量の旅が一旦終え、また江戸に戻ってきたのである。自分の頼りとしていた女房「お栄」が、家出をしてしまう。というのも忠敬の測量が幕府にとっては中途半端なこととして理解され、蝦夷の東側しか測量して来なかったことをなじられる。忠敬は西側も測量(歩測)のたびにまた出る決意をするが、この計画をお栄が知って、家出をされるのである。この時代の寿命は50歳くらいだとすれば、忠敬は59歳であり、お栄は夫婦とは名ばかりのこの関係に嫌気が刺したものらしい。忠敬の地図は結局お上にその重大さを評価はされて、100両近く経費がかかってしまったのにもかかわらずたったの22両某のお手当て金としてのみ評価され受領することになったのである。
まだまだ鎖国をしている時代であり、自国のまもりしか考えられないことが、この偉大な実践と地図の価値がわからないのは、なんとも歯がゆいものである。