光の風☆★

~画家すずきゆきおの世界~
 夢と希望に癒しの芸術を
生み出す画家の日々の、つぶやき

雑感147(マロンと過ごした時間)

2017-02-16 | 
年末に引越したので
非常に慌ただしい日々だった。
以前に住んでいた場所から
歩いて10分ほどの所ですから、
地元感覚のままである。

しかし僅か10分移動しただけで地元は地元でも、
住む場所が変わることによって
当たり前だか景色が変わる。

まして戸建からマンションに変わったから、
なおさらである。
変化も含めて新しい環境になれつつある。

制作も正月の二日から開始した。

読書も復活してきた。

ただマロンがいない。

マロンが天国に旅立った。
午前と午後のマロンとの長い散歩がなくなった。

正確には散歩は半年前から無くなった。
散歩は無くなってもオムツ交換や、
食事を食べさせていたその
マロンと共有する時間が無くなった。

マロンが寝たきりで、
オムツをする介護状態になってから
つくづく思ったのは、

今にして思うとマロンとの
約17年半の散歩は貴重な時間だった。

マロンと一緒だから心おきなく道端の草花を、
立ち止まって見たり、
空を眺めたりしていても変に思われない。

いい大人が用事もなく道端の雑草や、
長い時間、空を眺めていたら、
それこそ変なオジサンです。

マロンと歩きながら、
絵のイメージが浮かんだり、
とりとめもなく色々な考えが浮かんだりは消えて、
時には考えが結実したりしていた。

マロンが若くて元気な時は、
もちろん私も今より若い。

一緒に走ったものです。
リードをつけてです。

マロンの速さに歯がたたない。

今にして思うと、
実に多くの制作のヒントをマロンの散歩で、
与えられたことになる。

具体的な何かを考えようとしないからこそ、
頭も心も囚われていない自由な状態で、
散歩しているからこそ生まれてくるものがある。

有用な時間だと思っていないからこそ、
豊饒な時が流れていた。

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雑感147(マロンと過ごした時間)

2017-02-16 | 
年末に引越したので
非常に慌ただしい日々だった。
以前に住んでいた場所から
歩いて10分ほどの所ですから、
地元感覚のままである。

しかし僅か10分移動しただけで地元は地元でも、
住む場所が変わることによって
当たり前だか景色が変わる。

まして戸建からマンションに変わったから、
なおさらである。
変化も含めて新しい環境になれつつある。

制作も正月の二日から開始した。

読書も復活してきた。

ただマロンがいない。

マロンが天国に旅立った。
午前と午後のマロンとの長い散歩がなくなった。

正確には散歩は半年前から無くなった。
散歩は無くなってもオムツ交換や、
食事を食べさせていたその
マロンと共有する時間が無くなった。

マロンが寝たきりで、
オムツをする介護状態になってから
つくづく思ったのは、

今にして思うとマロンとの
約17年半の散歩は貴重な時間だった。

マロンと一緒だから心おきなく道端の草花を、
立ち止まって見たり、
空を眺めたりしていても変に思われない。

いい大人が用事もなく道端の雑草や、
長い時間、空を眺めていたら、
それこそ変なオジサンです。

マロンと歩きながら、
絵のイメージが浮かんだり、
とりとめもなく色々な考えが浮かんだりは消えて、
時には考えが結実したりしていた。

マロンが若くて元気な時は、
もちろん私も今より若い。

一緒に走ったものです。
リードをつけてです。

マロンの速さに歯がたたない。

今にして思うと、
実に多くの制作のヒントをマロンの散歩で、
与えられたことになる。

具体的な何かを考えようとしないからこそ、
頭も心も囚われていない自由な状態で、
散歩しているからこそ生まれてくるものがある。

有用な時間だと思っていないからこそ、
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雑感146(タラントン)

2017-01-17 | 精神世界、道徳
だいぶブログの更新が滞ってしまった。
年末の引っ越しで慌ただしかったと言い訳をしても、
大した意味もない。

住む場所が変わると心機一転の気持ちになる。
それと同時に古希という年齢からくる感慨もある。

繰り返しになるが
まぎれもなく人生第4楽章に入っているという
実感がある。

そして暦は新しい年を迎えている。

しきりに近頃、タラントンの譬えを考えている。

神さまから授かった預かりものを、
十分に生かしきっているだろうか?

人として生を授かったということは、
誰もがそれぞれのタラントンがある。

私のタラントンを生かしきっているだろうか?
神さまから預かったタラントンを2倍までに増やせただろうか?
そして神さまから、よくやった!と褒めていただけるだろうか?

とてもとても心もとない。

ならばタラントンを生かすことだけの第4楽章にしたいものです。

「天の国はまた次のようにたとえられる。
ある人が旅行に出かけるとき、僕(しもべ)たちを呼んで、
自分の財産を預けた。
それぞれの力に応じて、
一人には5タラントン、
一人には2タラントン、
もう一人には1タラントンを預けて旅に出かけた。
(マタイ25章14~15)」

かなり日が経って主人が旅行が帰ってきて清算をすると、
5タラントン預かった人は、さらに5タラントン増やしていた。

2タラントン預かった人も、さらに2タラントン増やしていた。

この2倍に増やした人たちは主人から褒められるが、

1タラントン預かったひとは、それを地の中に隠しておいたから、
増えもせず減りもしなかったので、
主人から叱られてしまう。

という譬えがある。

これは財産の蓄財の話しではない。

それぞれの人が神さまから預かった賜物を、
存分に生かしきっているかどうかを、
問いかけていると思う。

ならば私はどうだろうか

そう思うと第4楽章を輝かせることが
出来るかどうかは賜物を、
しっかりと意識していくことしかない。

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雑感145(私の古典)

2016-12-29 | 日常
先日、打ち合わせの前に少し時間が空いたので、
久しぶりに本屋に入った。
今、現在の売れ筋の本がタイトルもきらびやかに、
表紙も鮮やかなのが沢山展示されていた。

著者の方々には申し訳ないが、
読まれた後には、ほとんどゴミになるだろうと思った。

手に取って拾い読みしてみると
衝動的に買いたくなる魅力があるにしてもゴミになる。

なぜそのように感じたのか?
引越しにさいして私はかなりの量の本を、
自分の手元から手離した。

たとえ社会的に評価されている本でも、
これからの私の人生において、
たぶんもう再読しないと思われたら処分をした。

社会的に古典として評価されていても
私の古典になりえないのが多くあった。

もちろん私の古典と社会的に評価されている古典と
一致しているものもある。

普遍的な価値観に基づく判断ではなく、
あくまでも、これからの私に必要かどうかの基準です。

大幅な本の断捨離をしてつくづく思ったのは、
手元に残った本が、今、現在の私にとっての古典です。

断捨離された多くの本はゴミとなり、
不必要になってしまった。

時代を経て古典として残る、
文学、美術、音楽、等々の文化の陰というか裏には、
膨大な量の生産された文化があったにせよ、
時代の変遷の中でゴミとして処分された死屍累々の文化の山がある。

文化の三角形の頂点を支えている大量に消費され
楽しみとして享受された文化の死屍累々の数々です。

私個人に限っても、
私の古典になりえなかったゴミの本が沢山あるわけです。
しかし最初からゴミであったわけではない。
その中から多くのものを吸収して学んでいたのですから、
たまたまゴミになる宿命の本があったからこそ、
本当に必要な本が残ったということです。

いうなれば今、手元に残った本は私の古典です。

それは若い時からその時々に応じて興味を感じたものを
読んできた、その結果としての私の古典です。
その裏というか陰には膨大なゴミになる本があった。

しかし、たとえば先生なりに、
時代の変遷を経て評価の定まった
古典だけを読みなさいと、
薦められて、
その他の本を読まなかったら、
つまり無駄なものゴミになる宿命の本を読まなかったら、
教養なんて痩せ細ってみすぼらしいものになる。

最初からゴミにしかならない本とは思わずに
価値があり必要だと思って読むわけですからね。

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雑感144(18歳の君!)

2016-12-13 | 精神世界、道徳
片付けをしていたら、
15歳~20歳頃の日記が出てきた。
日記帳の他にも、
広告の裏側、小さなメモ帳にも、

そして学校のノートにも、
肝心の授業内容を疎かにして、
思うこと感じることを、
そして詩の類が、びっしり書いてあった。
絵の展覧会の感想もある。

日記の類は書いていたのは覚えていたが、
こんなに大量に書いていたとは信じられない思い。

50年前の事だが読むと当時を鮮明に思い出す。

15歳~20歳の中間の年齢を18歳とすると、
古希をむかえた今の私が、
あの当時の18歳の私(君)に出会えたら、
どうのように見えるだろうか?

たぶん青くさくて生意気であり、
妥協をしらない生一本さは息苦しくもある。

それらは良くも悪くも現在の私に繋がっていくのは、
確かなことで否定しえないわけであっても、

大量の日記帳やメモは古希の私には見るに堪えない
恥ずかしいものです。

ですから全部、廃棄処分をした。

しかし中編童話の一作だけは残した。
ストーリーは書いた本人が忘れていたからこそ、
筋書きの展開が予想外に面白かった。

テーマも意外に良いと自画自賛。

しかし、18歳の君よ!
本当に、人生の起伏や機微まで、
そんなことがわかっていたの?
と言いたくなりますが。

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