有名な作家や哲学者、高僧と言われる方が、自らのことを「未完成」とか「不熟」とか言う言葉に接すると、煩悩にまみれながら50代の後半を生きる私にとっても、どこか救われる思いがする。あの人ですらと思うからである。
過日亡くなられた河合隼雄「言葉との出会い」の中に瀬戸内寂聴と水上勉の「文章修行」(岩波書店)のやりとりが紹介されている。
この中には西行の歌のことで、「わが歌は真言だ」などと言っているが、あれはいつまでも西行が歌をやめられないので言い訳に言っている、「ついに捨てられない。これも煩悩ですか」と瀬戸内。すると水上が「煩悩でしょう、迷って迷って、そして途中で死ぬんですよ」「届かそうと思うことは計らいになってしまうんで…」と言われ、それを受けて、瀬戸内が、「そうです、みんな途中で死ぬのです」と言い切られる。
人間としての成熟と完成など、所詮迷ってばかりで悟りなど程遠い。それでもありがたいお言葉などくそ食らえと思ってしまう。結局こうして人間は未完成のままで死ぬことで、それが人間であり、それでよいのだと言われたほうが気楽な気がする言葉であった。
過日亡くなられた河合隼雄「言葉との出会い」の中に瀬戸内寂聴と水上勉の「文章修行」(岩波書店)のやりとりが紹介されている。
この中には西行の歌のことで、「わが歌は真言だ」などと言っているが、あれはいつまでも西行が歌をやめられないので言い訳に言っている、「ついに捨てられない。これも煩悩ですか」と瀬戸内。すると水上が「煩悩でしょう、迷って迷って、そして途中で死ぬんですよ」「届かそうと思うことは計らいになってしまうんで…」と言われ、それを受けて、瀬戸内が、「そうです、みんな途中で死ぬのです」と言い切られる。
人間としての成熟と完成など、所詮迷ってばかりで悟りなど程遠い。それでもありがたいお言葉などくそ食らえと思ってしまう。結局こうして人間は未完成のままで死ぬことで、それが人間であり、それでよいのだと言われたほうが気楽な気がする言葉であった。