夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

弘前城公園タスキリレー受付開始

2014-02-28 06:58:16 | チームオール弘前
2月28日(金)☂

 この数日間の好天と、そして今日の雨風が着実に雪を溶かし、春を誘っている。
 今朝の東奥日報の朝刊に、NPOのスポレク弘前代表・鹿内さんが、「第2回 弘前城公園タスキリレー」の受付を今日から開始という記事が掲載されていた。

 昨年私はチームオール弘前のメンバーとして、一念発起して走ることになった。
 日々に蓄積した身体の贅沢なお肉が、私の走りの第一の障がいだった。家内と二人で2ヶ月弘前城公園でジョギングをしたおかげで5キロ減量した。以来80キロ台だった体重は現在も辛うじて70キロ台に定着している。しかし今年こそ、60キロ台に落として、健康づくりを意識した生活をと考えている。

 職場でも給食担当者が気遣って、注文しなくてもご飯の量は軽くなっている。そして天候の良い日にはカメラをぶら下げて、散歩を30分から1時間行っている。この調子なら何とか行けそうかも・・・・と希望を持っている。

 それに昨年は、親しくさせてもらっているFさんとの岩木山登山の計画が台風で頓挫し、そのままになっている。今年こそと思って、それを意識した動きも加えている。Fさんは日々ジョギング三昧で、昨年は自転車での岩木山ヒルクライムを達成するなど、すごい人だなと敬服している。そこまでは考えられないが、昨年走った弘前鰺ヶ沢70kmサイクリングロードは、今年もぜひ挑戦したいものだ。オンボロ自転車でもそれは可能かもしれない・・・。

 雪解けを今か今かと待つ我は銀輪磨く手に力込め

 

 

 

弘前城リレーマラソン本番

2013-06-18 07:07:10 | チームオール弘前
6月16日(日)27℃

 朝方スコールのような雨が降り、その後徐々に晴れ上がって行った弘前市。
 ついにこの日「弘前城リレーマラソン」本番の日を迎えた。参加チームは109で、参加者総数は約1,000人。午前10時スタートで、午後2時30分がタイムアップ。私の走順は5番目。監督の李先生が初めに男子学生を並べてタイムを稼ぎ、後半に市民と女学生を並べた。
それはまさしく功を奏して、時間にゆとりが出来ていく。私のようなロートルがえっちらおっちら走るのだから、時間がどこかで浪費されるわけだ。





 この日の最高気温は27℃。朝方に降った雨も上がったが、徐々に蒸し暑くなり、太陽も出れば、汗も出る。
 はじめはマイペースで無理をせずと思いつつも、結局ほかのランナーが目に入ってくる。ショックなのは小学生に追い抜かれていくことである。ああ爺さんだなあと思いながらも、この坂を登ればなんとかなるさと、また走りを続ける。



 まあそれでも何とか皆さんの走りが繋がって、ゴールインは野田村のゆるキャラ「のんちゃん」と一緒にゴールイン!

 戦いすんでいざ「打ち上げ」・・爽快です!

 年をとっても努力さえすれば、結果が自ずとついてくるということがわかった大会でした。これからも鍛えて来年はさらに進歩した自分でいよう。
 
 

弘前城リレーマラソン顔合わせとコース下見

2013-06-15 07:00:00 | チームオール弘前
昨日は初めて「チームオール弘前」のメンバー7人が集合して、顔合わせをした後、コー^巣の下見がてら走りました。
 いよいよマラソン当日まで2日となり、地元新聞2社にマラソンの鹿内本部長が紹介されています。109チームの参加で、1,000人が参加するということで、応援も入れればその倍は集まるのでしょうか?


 それにしても若い現役の学生さんは、想像以上に体力があって素晴らしいと感じました。

 私も参加して1周した後、彼らだけで走ってもらうと一番早い人で7分/2Kmから8分/2Kmでした。20代と60代のエンジンが違うことを、まざまざ感じています。

 練習してから約10日間、それなりに私も努力をしてなんとか12,3分で2Kmを走り切ることが自信となっています。初めは2KMを走るなんて考えられませんでした。マラソン終了後も、可能な限り継続していこうと思っています。

 今日は午後1時から公園でゴミ拾いボラ、その後少し練習ランをして後は静養です。
いよいよ明日はAM8:00集合で、10:00スタート。どうなりますやら・・・完走が目標です。

 

久しぶりの秋の野田村

2012-09-30 07:35:07 | チームオール弘前
9月29日(土)

 同じボランティア会のM氏と一緒で、久しぶりの野田村である。弘前市役所駐車場をAM7:00に出発し、弘前大学正門前を7:15。大型バスに社会人16名、学生6名、教員2名の参加者となった。バスのメンバーである社会人は馴染みのK氏、S氏、T氏など常連組もいて心強い。
 作業内容のふれこみは稲刈りであったが、結局①小学生の学習指導(遊び援助)②砂利敷き③蕎麦刈というグループに分かれての作業となった。
 弘前を出る時の空は黒い雲が覆っていて、現地はどうなのか少し不安であった。高速道路を岩手時路に進み始めたら、雨がバスのウインドウを濡らし始めた。雨具の備えはなく、こりゃ困ったなと思い始める。
 現地に10時30分ごろ到着し、自分の作業場所拠点「餅のつきや」さんに到着する。
 

 被災地野田村は、昨年の3月11日から約半年が経過している。JR三陸鉄道北リアス線も久慈までは開通しており、これから避難所の住民たちの高台移住も決定済みとのこと。人口4,800人程度の村は、すこしずつではあるが復興が進んでいると聞いた。
 震災津波で打撃を受ける前から、三陸沿岸のこのちい行きの課題は高齢化と、若者の人口流出があったと聞く。そういう意味では、これから復興と同時に高齢者福祉の問題も含めて、町の産業経済は厳しい側面を持っている。

 餅のつきやさんのすぐ裏手には、特別養護老人ホームがあった。
 野田村の復興に大きなエネルギーを持つ、二人の女性リーダーがいる。その一人がこの餅のつきやさんの主人小野寺さんと、米田地区の豆腐田楽などを経営する米田やすさんである。この二人を弘前市のボランティアが支援することで、地域の活性化基盤が安定することにつながると考えていると、弘大イ教授は言う。

 ということでもうお昼近いのだが、ちんたら歩いてそば畑を目指した。小雨が降っている道を山手に向かい15分ほど歩くと、ようやくそれらしい畑に出た。枝豆や小豆、かぼちゃなどが作付けされている一画に、これから収穫するそば畑が1反歩程広がっていた。岩手県はこのほか粟や稗、キビ、などのほか、食用菊、花のリンドウなどが栽培されている。
 
 この地域はヤマセもあるためか、沿岸部の稲作はあまり期待できない。しかし少し山間に入ると水田が結構広がっていて、これから稲刈りが行われるのだろう。

 現地の畑で作業を教えてくれる二人の方のお一人は、自宅も財産の一つ車両も皆流されたと語っていて、将来への希望も見いだせないと愚痴めいていた。
 

 蕎麦刈作業に就くのは初めての経験の方ばかりで、私ものそ一人である。そばは荒地でも育つのが特徴で、逆に栄養が多すぎると枝ばかりが多きすぎて実がつきにくい。この畑はどちらかと言えば田んぼだったところなのか、少し栄養が多いようである。
 成長したそばの根本は赤色に染まり太いものは手でもポキリと折れるので初めは窯は使用しなかった。しかしノコギリガマが後で手渡されて、かなり効率的なことがわかった。普通晴れた日でないとそばの刈り取りはしないものらしいが、この日の私達のために配慮してくれたような気がする。雨の日のそば刈は、カビが生えると聞いた。
 そばの収穫作業はそばがらをノコギリガマで刈り取り、二つかみを一束に束ねて藁で縛る作業である。
 学生たちも初めての藁紐での束ね方を、年配のおじさんから体験で学んでいた。
 午前中はほぼ1時間程度で作業を終え、つきやさんに帰還した。搗きやさんではお馴染みの搗きや弁当やナスの漬物、じゃがいもや人参イカの煮物などが振舞われた。

 午後1時30分から午後2時30分までの小一時間また作業を継続。
 
 衣類はほぼびしょ濡れにはなったが、予定時間までの作業をクリアした。

 この収穫した蕎麦の束を干して乾燥させ、粉にしてお蕎麦をいただく。ここまでの工程を最後まで体験することが、これからの野田村訪問の楽しみとなるのだろう。
 周囲はまだ初秋ではあったが、萩の花やキバナアキギリ、ムクゲなどの秋の花が咲き乱れていた。
 もうすぐ本格的な秋が訪れるのだろう。10月も目の前である。
 イネキビとかいう黍のは行った一袋をいただき、女将さんたちとお別れをした。

 バスの車中で事務局の先生から、弘前大学人文学部のボランティアセンターが10月から組織を変えると聞いた。10月からは弘前大学の学部全体のボランティアセンターとして再スタートするらしい。
 来年度もつき1回ペースで、野田村へのバスは往復する予定と聞いた。現地の人々が心理的にも立ち直れるような支援活動が期待され、続けられる必要を感じている。

 そば刈りを縁としまた来ん味見しに

 

久しぶりの野田村で援農ボラ

2012-05-28 05:53:26 | チームオール弘前
5月27日(日)快晴

 先週の日曜日から始まった「野田村援農ボランティア」の第2回目。私は初めての参加。
 車中から見る野田村への車窓風景は既に初夏、ツツジがいたるところに咲いていました。
実は先週参加予定だったのですが、急用ができて参加できずにおりました。でもこの日久しぶりの野田村へ足を踏み入れることができ、そして懐かしいボラ仲間や若い人達、そして野田村の農家の方々との交流も出来ました。
 写真にも見られるように野田村の復興は進んではいるものの、海岸線などを中心に防潮堤は当時の残骸がまだむき出しです。三陸鉄道もこの5月にようやく八戸から田野畑村までの区間に鉄道路線が復帰したようです。
 役場前を中心にプレハブ商店街(写真)が、随分開店していました。学習センターそばのこの家は、主人が居ないのか、建物は未だに修復のめどが立たないのか、壁に穴が空いたまま放置されていました。
 さて、この日野田村では二つのイベントの計画があって、一つはチームオール弘前の「田植え後の援農ボラ」と「塩の道を歩こう」という昨年夏に参加したことのある行事が重なっていました。
 弘前から観光バス一台に、約20人が乗り込み学生と市民ボラが半々というところでしょうか。4人ほどが塩の道を歩く会に参加し、私たちは2班に分かれての田植えの後の苗箱を洗うボランティアでした。
  援農先の一つはこれまでもガレキの手伝いをした米田(まいた)地区の豆腐田楽の店・米田さんと、私達が昼食をお世話になっていた「餅の搗き屋」の小野寺さん宅のいずれも苗箱洗いです。
 快晴の天気の中5分ほど歩いて現場に到着。山の中の清流(小川)脇に苗箱がつまれており、みんなで分担して洗う係と、洗った箱を結んで積む係に分かれました。
 苗箱洗いはわが家で義父が存命中に行った経験があります。でも津軽では苗箱を洗う機械があって、とても楽でしたが、こちらでは全てタワシや車を洗うブラシでの作業。なかなか1千枚(10町歩分)を片付けるには2日では難しい状態でした。
 洗う係も次第に会話が途絶えたかと思えば、結構要領が良くなってきています。箱を10枚ずつまとめて紐を掛ける作業は、高齢者のTさんと私の役目です。
 最初はみな同じ箱としてまとめて結んでいましたが、次第に苗箱にも種類があることに気づきはじめ4種類を分けて縛ればまとまりやすいのが解りました。
 
 
 鶯の声や山鳥(雉)の鳴き声を聞きながら、透き通った小川でみんなが楽しい会話を交える中苗箱洗いが進みました。
 あっという間に午前中の作業が終了し、米田(まいた)地区の米田(まいた)さんの運営する豆腐田楽の店に到着。
 活躍した分お腹も空いて、大学側が手配した搗き屋さんの弁当・よもぎ餅セットと米田さんが準備してくれた豆腐の「ユカベ」をたくさんいただきました。

   
 食後私のもう一つの使命7月頃の「岩木ふれあいボランティア会の研修旅行」の打診を米田さんにして、なんとか受け入れていただけそうでした。
 午後1時にまた午後の作業が開始となって、午前中の経験がだいぶノウハウを高めていました。
 午後3時作業を終了して後片付け。搗き屋さんの好意で、お土産に全員が畑から新鮮なニラとお餅をいただきました。
 米田さんからは寄せ豆腐をお土産に頂き、なんだかみやげでいっぱいです。

 こうして今や野田村のボランティア活動も災害ボラから、交流支援という形に変わって来ています。対面型のボランティア活動は、とても心と心の通うのが気持ちよく残ります。また機会があれば来たいと、帰途の車中参加者は語っているのが印象的でした。
 それにしても、老体にとっての今回の作業は、足腰にかなりダメージがありました。イテテテテ・・・・・。
 

チームオール弘前~弘大4年生の追いコンパーティ

2012-03-22 07:00:32 | チームオール弘前
3月20日(火)

 チームオール弘前のメンバーである、弘前大学ボランティアセンターの4年生事務局三人が卒業する。この日集まったチームオール弘前のメンバーは約30名で、学生と市民、教員である。
 金が無いことと丁度よい会場がないことから、急遽わが法人の「ゆいまある」二階で開催することになった。ちょうどこの人数にはおあつらえのようにぴったしとはまって、皆さんは樂しく卒業生を送るセレモニーが続いた。
 PM5時から準備をして、結局8時30分の中締め後、午後11時まで話は尽きなかった。4年生から3年生のHさん、T君そして一、二年生事務局も揃って、万々歳の年度末である。ふと自分は40年も前の自分のサークル活動を思い起こしていた。
 地方から集まった学生たちが、ひとつの夢を追いかけて毎日交流し、徹夜で話したり、喧嘩もした。そして泣き、笑い、歩いた。山手線一周徒歩などもあの頃の強い記憶の中で未だに生きている。

 追い出される四年生のMさんは「本当は卒業したくない。弘前を離れたくない!」と弱気の声を出していた。出会って一年ではあるが、確実に昨年の春からは彼らは変わった。成長したのは、市民の人たちも皆気づいている。人生のようやくスタート台に立ったのだ。今から社会の荒波に、勇気を出して突き進むしかないのだ。野生の動物がするように、私達市民ボランティアの役割は、温かな目でそして毅然たる態度で彼らを見送ること。それこそが我々大人の取るべき態度ではないのか。
 「青年は荒野をめざす」べきなのだ。そしてまた、ふと疲れた時には魂のふるさとに戻ってくれば良いのだ。
 また会おう!後方を振り向かないで歩を進めろ!元気でいてほしい!!チャレンジして欲しい!そこからが君たちの、災害ボランティアとして身につけた翼の力を試すときなのだから・・・。

◎第2回弘前大学人文学部ボランティアセンター活動報告会

2012-03-10 07:07:49 | チームオール弘前
「チーム・オール弘前の一年間とこれから」
 日時:2012年3月9日17時30分~20時30分
 場所:弘前大学コラボ弘大8階八甲田ホール

 間もなく大震災が発生してから、1年が経とうとしています。チームオール弘前の第2回目の活動報告会が昨夜あり、参加してきました。受付を済ませると、昨年座談会をした内容の掲載された「チームオール弘前の一年」という活動記録集が刊行されており、私もいただきました。
 あいにく一昨日くらいから咳と鼻水、くしゃみという風邪症状が夫婦ともにあって、最初は懇親会も参加ということを考えていましたが、急遽会費だけ払って早々に帰宅しました。私が風邪を引くことなど本当に珍しいことですが、これも老化なのでしょうか?
 とはいえ熱もなくて、マスクをして皆さんにご迷惑にならない程度に後方の席に身を置きました。
 ボランティアの仲間が、前の方でワイワイやっているのですが、今回はおとなしくしていました。

 報告会は弘前大学長、弘前市長、野田村村長の挨拶の後、関西学院大学教授・室田益輝氏の基調講演、パネルディスカッションと進みました。

 私なりに自身の頭の整理として、一年間のボランティア活動と野田村の変化について書いてみたいと思います。

 1.弘前市が野田村支援を決め、職員やボランティア派遣を行ったこと。
 2.観光バスでの定期便を出して、ボランティアの参加しやすい環境を作ったこと。
 3.弘前大学人文学部がボランティアセンターを設立し、事務局機能を発揮したこと。
 4.窓口が当初たくさんあって、申し込みが混乱したこと。
 5.学生事務局が時間を追うごとに自信をつけて、リーダーとしての主体性が出てきたこと。
 6.市民ボランティアのベテラン組が、徐々に役割分担が出来るようになっていったこと。
 7.単に瓦礫撤去だけではなく、交流支援というテーマをチームオール弘前は持ったことが特徴の一つでもあった。
 8.野田村の変化
  (1)野田村は8月末でがれき撤去作業や、救援物資の仕分け作業などを終えた。
  (2)社協の県外応援部隊も撤去し、県外ボランティアの受け入れ機能も終えた。
  (3)避難所は6月で閉鎖されて、仮設住宅やみなし仮設住宅へと移転していった。
瓦礫の山も撤去が進んで、プレハブではあるが役場周辺にも仮設のお店が立ち並び始めていた。
  (4)八戸方面から野田村駅までの三陸鉄道が再開した。
  (5)被災したエリアの人たちの内、希望者が高台移転が進められていこうとしている。
 9.気になったこと
  (1)救援物資がたくさん集まっているのに、それが個々の人々に渡るまで時間がかかりすぎていたこと。毎回初めての人が関わるよりは、慣れている人を専属で毎回手伝ってもらったほうが効果的であったのではないか。もっと違った言い方をすれば、救援物資は被災地ではなく、都市部に集めてインターネットを使って送る方式をとったほうが人材を集めるのにも効果的ではなかったか。現地に行きたくてもいけない人達が多かったのではないか。
  (2)人手がほしいという現地ニーズと、パニックになることを恐れての抑制情報。ヤル気のある人たちが、この抑制機能でかなりやる気を失っていったのを感じる。
  (3)派遣前期には毎回行こうと思っているボランティアに、初めての人を優先したいという支援センターからの意見があって、ヤル気が削がれるような思いをしていた人もいた。現にそれは自分の日常の仕事をどのように処理して、現地に赴くかなどという気概にもつながっていたのである。ヤル気の起こるコーディネート機能が必要に感じた。

 9.今後の課題と方向性
  (1)新たな現地での活動の掘り起こし
    ①現地に野菜畑を作るなど、チームオール弘前のボランティアが継続していく環境づくり。
    ②現地のニーズとしては、これからホタテ貝の作業が人出を求めている。

    ③日帰り型ではなく、滞在型のボランティアの提案もなされていた。そうすることによって、もっと頼れる隣人になれる。早朝の漁に出かけることが可能となり、現地の人と夜は交流が可能となる。現地滞在が長くなることによって、もっと現地の人々のニーズに築けるようになる。などをチーム北りアス渥美先生が言われていた。
  (2)弘前市長が来年度もバスは出すという確約をされたので、現地往復の足は確保できる様子。
  (3)現地の情報を弘前市民にどのように情報提供し続けるか
  (4)現地の農産物や海産物を弘前市でどのように経済的支援を継続できるか
  (5)現地の傷ついている人々の心を、どのように回復支援するか 
  (6)ボランティアとしての関わり方
    ①阪神淡路大震災:1995年(平成7年)1月17日(火)⇒中越地震:2004年10月23 日18:31⇒東日本大震災:2011年3月11日(金)14:46
    この3つの地震によって、災害ボランティアの文化が育ってきた。それはこれからまだ継続されている震度5級の地震によって、東京を中心とした大震災の予感でもある。テレビを中心としたマスコミ上の視覚的な関心から、徐々に地球規模の危機感とそれに伴った人間社会のあるべき姿が変わりつつあるのかも知れないし、変わるべきだと思う。現に私達、いや私自身もこの災害ボランティアとして現地に赴いてその変化を見てきたが、体感的に多くを学ぶことができた。行政や社協などだけでは到底間に合わない個々への支援は、経験豊富な民間人ボランティアが入り込み、積極的に関わることの意義を痛感している。その時期ごとの人の手配の必要度、それは仮に自己満足的なボランティアであろうとなかろうと必要な時期もあるのだと思う。
 チームオール弘前という大学が中核的な働きをして、大いにその効果を果たしたという点で、私は今回の野田村の災害ボランティア活動は大きな特徴であると思う。今後の災害ボランティアの一つの指標として、大きな方向性を示していたのではないだろうか。 

 



 

 

弘前大学特別講座・最終講義

2012-02-04 17:19:00 | チームオール弘前
2月3日(金)PM4:00~PM5:30

「災害ボランティアの17年を考える」と題して、大阪大学大学院 人間科学研究科の渥美教授が最終講義を行った。先生は西宮市出身で、自らのご自宅も被災されたということである。
 渥美先生の講義で私が一番インパクトを受けたものは、災害ボランティアの二極化ということである。
 一つ目のグループは「秩序を求めるもの」で、2つ目が被災者に寄り添うというものである。

 私自身も頭の中でこうあるべきだという思いは、どちらかと言えば一つ目のドライブにあったような気がしている。鳥瞰図が欲しいとか、集会でネットワークを組むべきとか、ネットで数を把握したいや、コーディネートが必要などである。

 2つ目はあくまでも被災者を中心においてただそばにいるとか、足湯をして気持ちよくなってもらうなど何でも相手に合わせて対応支援する被災者を孤立させないというグループである。
 一年間の野田村への継続的な訪問活動を通じて、自分自身もその考え方は大きく変わりつつある。具体的には何かをやってあげなければならないという視点ではなく、あくまでも主体者である住民のそばでやってほしいという肥があったら動こうという姿勢がそれである。私たちが意図的に動くことで、ある意味では住民の主体性を奪っていくことにもつながっていくのである。人間と人間という対等性を重視した関係づくりこそが大切な視点なのだと思い始めている。

 3月11日で災害発生から丸一年が経ち、災害ボランティアの活動はどうなっていくのか・・・。どうして行くべきなのかについては、3月9日にボランティアセンターの李教授が総括集会を行うとお話されていた。チームオール弘前の今後については、現段階ではなんにも決まっていない。阪神・淡路大震災では、1年間で活動が終了したという。そしてボランティアの中では、個別に親しくなった人たちが交流して行く形が考えられるということである。

 東日本大震災の復興が進んでいるが、今また災害は様々な形で地球上では起きているのである。その事象を私たち自身の感性が傍観者的になっているか、思いを寄せようとするのかが問われなければならないのである。東北を始めとする豪雪の事象は、そのもうひとつの形でもある。限界集落を始めとする高齢者世帯の孤立を、講義の後の渥美教授との話の中でもそれは伺われた。
 来週から私は目前の救援を待つ人々に対して、行動を起こすための仕掛けを急がなければならない。

東日本大震災論・弘大特別講座

2012-01-29 06:32:16 | チームオール弘前
1月27日(金)

 朝から雪が降り止まないばかりか、厳寒の一日で踏む雪がギュッギュッと音を立てていた。凍(しば)れた日の雪は、音がするばかりではなく、一度粉砕すると細かく砂のようになってまるで「鳴き砂」かと思うような音でもある。冬の寒さもまた味な演出がある。

さて、この日は午後4時から弘前大学での特別講座「対人支援ボランティアの必要な視点」という題目で、約90分の講話の時間を頂いた。学生60名、教員4名の参加だった。
 近頃人前で話をするのは意識的に少なくしようと考えていたせいか、過日の横浜町での社会福祉大会以来久しぶりである。宮沢賢治を少し紹介した。

 宮沢賢治は、明治三陸地震(直後の大津波で2万2千人犠牲に)の2ヶ月後に生まれ、誕生4日後に内陸直下型の陸羽地震に遭い、亡くなる半年前に昭和三陸地震(3千人犠牲)の惨禍を見た、という
(山折哲雄著『絆』より要約)

 最初の大地震は1896年6月15日に起きた。「三陸地震津波」という地震としては奇妙な名前が付けられている。
 賢治が生まれたのは1896年8月27日だ ったから、生まれる2ヶ月前のときであった。

 もう一つの地震は1933年6月15日に起きた「三陸地震」である。プレートを断ち切る巨大地震だった。賢治が没したのは同年の9月21日で、死の直前であっただけではなく、その前1931年に倒れて以来、賢治は肺炎でずっと病床にあり、遺書もすでにしたためていた。なお、名作「雨ニモマケズ」を書いたのは、倒れた年の11月だと推定されている。これは生前に発表されることはなく、賢治の死後、手帳に書いてあるものが発見されたのである。

「雨にも負けず」 宮沢賢治

雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の朝にも負けぬ 丈夫な体を持ち
欲はなく 決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを 自分を勘定に入れずに
よく見聞きしわかり そして忘れず

野原の松の林の陰の
小さな茅葺き小屋にいて
東に病気のこどもあれば 
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくても良いと言い

北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
みんなにデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい


 これから交流支援をボランティ活動として取り組もうとしている学生たちに、障害者福祉、高齢者福祉の心理的特徴の視点でお話をさせていただいた。

 


野田村の小正月行事へ

2012-01-16 08:54:43 | チームオール弘前
1月15日(日)AM6時に弘前を立ち、一路野田村へ向かいました。総員46名でした。

 AM9時30分に野田村役場前に到着しましたが、晴天のこの日はまったく雪もありません。でも吹く浜風は無性に肌を刺し、しばれる感じです。たちまち手指、耳たぶは凍傷にかかりそうな冷たさです。
 野田村はこの日「小正月行事」で、どんと焼きや大黒舞、餅つきなどで村民がつどい、交流して楽しみました。
 神主さんの祝詞や関係者の玉串奉てん、村長さんの挨拶などの後、いよいよ「どんと焼き」の始まりでした。炎が強風に煽られ、火の粉が飛ばないように、門松などの上には金網がかけられていました。
 またも餅をまゆの形に作った「まゆ玉」を吊るすというように、農作物の豊作を願う形式も会場には見られ、ひとりひとりが色のついたまる餅を願い事と一緒に桜の枝につけていました。


 野田村の昨年は、ほとんど津波で被災した人々の対策を含め、復興計画の年だったといってもよかったのかもしれません。本当にこころから喜べない状態から、少しずつではあってもその復興の兆しを、村民の方々も感じられて来たのではないでしょうか。
 堆かったがれきの山々も、昨日は運搬処理作業が進んで先が見えるほどになっていました。
 三陸鉄道の復旧工事もかなり進んでいました。
 私たちボランティアも昨年8月末でいったんがれき撤去作業を終了し、以後村民への心理的支援活動という形で移行してきました。
 8月「復興祭」10月「塩の道ウオーキング」11月「男和佐羅比山登山」12月「クリスマス」そしてこの1月「小正月行事」支援活動です。

 昨日も「チームオール弘前」のユニフォームを着ていると、村民の皆さんの温かな声や表情を見るにつけ、私たちボランティアへの感謝の念が感じられとてもうれしく思いました。そしていよいよこれからこのユニフォームではなく、本当に個々の面識と信頼感の上に野田村の人々とと弘前市民が心からの友人として、相互交流活動ができる時代に入って行けるのだと思いました。

 

 昼食をバス車中でいただき、どんと焼きや行事の後片付けをお手伝いしました。そして初めて参加の人たちのために、津波の被災エリアを見学するために移動しました。
 野田村の海沿いを走る国道45号線、十府ケ浦海岸、そして三陸鉄道、西に下って下安家漁協などを車中から見ました。甚大な被害を受けた下安家川漁協の鮭ふ化場も再生し、通常営業を行えるところまできたと説明を受けました。津波は鮭のふ化場も飲み込んだそうですが、それでも鮭は川を遡上してきたそうです。そのことがふ化場の関係者を勇気づけたのではないでしょうか。

 この日の私の楽しみにしていた「なもみ」は、残念ながら午後5時からの登場ということで、バスは野田村発午後2時の予定のために諦めるしかありませんでした。
 「なもみ」とは、岩手県版「なまはげ」のことです。ナモミは囲炉裏のそばに座って終日動かずにいると、囲炉裏の熱さで赤みが膝に残ってしまうが、それを剥ぐ(怠ける気持ちをはぎ取る)ことをいう。ナモミ剥ぐが、「なまはげ」に転化したものらしいです。

 このことはとても残念に思っていたところ、帰途「道の駅大野」にバスが立ち寄ったのです。すると車窓から「ナモミ」を見る光栄に預かったのでした。
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 恒例となった車中での個別の感想披露は、それぞれの思いは異なりますが、総体的な声としては、住民との交流がこれほどありがたくうれしいと感じられたことはないのではないかと思うことです。それはチームオール弘前のメンバー2000人を超える方々の、4月からずっと時間と労力を積み重ねて来たからこそ得られた信頼関係だからです。
 8月末までのボランティア活動は、ひたすら「がれき撤去作業」だったこともあるのかも知れません。
 チーム北リアスの渥美先生が言われていたように、「寄り添うことの大切さ」を9月以降は特に感じてきました。
 どんなに私たちが野田の人たちのために良かれと思う活動をしても、それはまた日常生活という中では「見送る人」と「見送られる人」という関係なのだからです。寄り添う関係とは、そばにいつもいるという関係をいうものだとすれば、それはまた弘前市という遠距離の位置では、難しい状況もあるのです。その気持ちをまたもちつつ、野田村を訪問し続けたいと思っています。とりあえずは毎月最低1回の訪問活動をすることで、野田村を見続けることを自分に課していくつもりでいます。一緒に野田村と弘前でお花見ができること、それが今年の一番の夢かもしれません。