夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

ウエルカム⇒ウエルカニ KANITAへ

2012-04-30 06:53:31 | 一歩二歩、散歩~横道
4月29日(日)快晴の一日。日中最高気温25℃。

 弘前市はさすがに桜祭りで大混雑している中、昼過ぎに娘たちとともに東津軽郡外ヶ浜町蟹田へ向かった。

 その目的は「シロウオ漁」を見ることと、もちろん「シロウオの踊り食い」か「かき揚げ」で夕食のおかず獲得が主目的。

 弘前市から青森市まで約1時間、青森市の新城から油川方面に左折して、「上磯」と言われる地域(東端は龍飛岬)に向かう。今は青森市からのバイパスが直線道路で走り、その左手(西側)には北海道新幹線の橋梁工事が進んでいる。海沿いなのに桜の蕾は依然として固く、花らしいものはなんにも見えない。野木和公園付近から約30分で蟹田に到着。右折し線路を超えまた左折すると蟹田駅へ向かう。駅の手前には六ケ所村原燃の補助金で整備されたという休憩施設と「ウエル蟹物産館」が駐車場のそばにあった。

 北海道方面から特急が到着したが、観光客らしい人は降りて来なかった。
 早速店の中に入って「シロウオ」を探すがどこにも「ない」。
 
 毎年4月29日から5月の連休には「シロウオ祭り開催」と書かれた記事をインターネットで見たので、ここではないのかと駅周辺を探した。すると申し訳程度に、駅前に小さな手書き看板があった。どうやら蟹田川で、その祭りは開催されているらしい。徒歩15分と書かれていた。
 

 娘たちと休憩所でおやつタイムのあと、早速蟹田川に向かう。それにしても狭い道路と交差点がいくつかあるのに、祭りののぼりとか目印方向を示す張り紙一枚ない。ヤル気があるのか?とブツブツ言いながらも、車を勘で進めた。道路の突き当たりの土手沿いにあるのが「蟹田川」で、そこを左折すると、ありましたありました。シロウオ漁のヤナ場というのか、仕掛けをする小屋と板場などいくつか川の両側に設置されています。そしてしばらく行くとテントと「シロウオ祭り」のノボリが立てられていました。
 

 午後3時を過ぎていて、お日様も落ち加減。テントの周辺に祭りのはっぴを着ているおじさんたちがいたので、「シロウオ売り切れですか?」と尋ねると「シロウオ?まだ上ってこねえよ」
「えっ?まだっていうと・・・」「雪しろがよけいで、いつもよりも川の水温が低いのでシロウオも上がってこれねんだな」「はー、水温が低いんですね?」「んだ、水温が上がれば、すぐに産気づいて上ってくるんだばって・・・」「はあー、シロウオが産気づくんですか?」「んだ、シロウオが卵腹サいっぺはらんで、卵産みに来るんだ」「はあ、よくわかりました。また来年来る楽しみができました」「んだあ。また来てけろ」

 
やむなく蟹田川のシロウオ漁のしかけである、簗場を写真撮影しました。

 こうしてシロウオの踊り食いも、かき揚げの楽しみも消えてしまいましたが、このオジサンたちの「シロウオの産気づく土産話」がとっても気に入りました。
 
               

          



昭和35年ごろの暮らし その1 転校

2012-04-29 09:47:22 | 創作(etude)
 昭和35年といえば、私は小学3年生。それまでの父の実家の農家で祖父母に預けられていた生活から、町場の小学校に転校させられていた時期である。それは小学校二年生までの自分が学校にほとんど行かず、山や川で遊びまくっていたことも一つの原因だった。猟師を生業とする農家が一軒村の入口にあって、私はその家が学校よりも身近な場所となっていた。何しろ自分の兄弟のような子供たちが6人ほどいて、私も家族同然に扱ってもらえたことがそういう気分をさらに後押しをしていた。
 私の両親は小学校の教員で、兄と妹を伴って町場の学校に通っていた。私はみんなと週末にしか会うことはなかった。そんな自分ではあったがちっとも寂しさなど感じるどころか、遊び場の拡張工事で山の雑木をのこぎりで切り倒しては、村人から悪童として苦情が出始めていた。それを心配した両親が、町場の学校に転校させて教育しなおそうということだったように思う。
 転校した小学校は体育館が二つもあるマンモス校で、団塊の世代の最後のほうだった。この体育館には、いつも子供たちで溢れかえっていた時代である。
 転校後の住まいは、学校から歩いて30分はかかる山手の市営住宅である。ここは元の結核患者を隔離していたという「避病院」の後を再利用した住宅なのであった。住宅を隔てた谷あいの反対側の山には、レンガ造りの火葬場もあったので子供たちの肝試しの場所となっていた。
 当時の地方公務員は給料は安くて、こういう住宅でもなければとても暮らしていけなかったのだろう。
 ともかくこの市営住宅には、学校の先生やその家族、あるいは保健所の職員、電電公社職員などがほとんどだった。高台に建てられたこの住宅群は、県道から坂道を巻くように登って行かねばならなかった。ほとんどが4軒ほどがひとつの長屋風にできていて、10棟ほどの集落であった。
 住宅に暮らす人達は、長屋同然の建物だからお互いの暮らしがより身近に感じられた。聞きたくない夫婦喧嘩や、生活の音が耳をふさいでも入ってきたのである。子供たちも自然と似通った年代のものが多くて、兄弟はたいてい3人ずつで学年構成も似通っていた。
 私はそういう中にあって村の小学校と町場の小学校での、いわゆるカルチュアショックを受けることになった。

 

コブシ咲く

2012-04-28 08:28:17 | サイクリング
4月28日(土)

 昨日も朝は快晴なのに、昼過ぎから曇って最後は雨でした。

 「春の雨はやさしいはずなのに・・・」と歌ったのは小椋佳さんですが、さすがに雨が降ると冷え込んできます。帰りの自転車でのコースも、指先が凍えました。

 写真は朝の岩木山です。通勤コースの岩木小学校の校庭には50本ほどの梅が植えられていますが、まだ蕾でした。
 今朝は白い辛夷(コブシ)の花が満開でした。このこぶしの花が咲くと津軽ではいよいよ水田の土を起こしてから、水田に水が入れられます。辛夷の花は津軽では別名田打ち桜というそうです。岩木山の残雪の形で農作業を進めたり、いろんな農家の知恵が感じられます。
 この時期水田に水が入ると、岩木山の逆さ富士が美しく映ります。田植え後も、しばらくは鏡のような水田には、様々な景色が映り込んで目を楽しませてくれそうです。

 豪雪だったために、農事総てが滞っているようです。岩木川も雪解け水で、水面がかなり高く流れています。
 りんごも雪に枝が引っ張られて枝折れが続出だとか・・・。

 弘前城の櫻はゴールデンウイーク位にぴったりはまって、お天気もよく今日からのゴールデンウイークは人がたくさん出そうです。

あかちゃん

2012-04-27 06:55:52 | 創作(etude)

 あかちゃん


 生まれて
 まだ
 ニヶ月目
 わたしは
 両親から
 その
 いのちを
 受け取り
 左腕に
 抱いた
 生まれた時
 三千グラムしか
 なかったのに
 二ヶ月で
 五千グラムに
 なったという
 
 母乳は
 すばらしい
 母から
 受け継ぐ
 免疫と
 ほんとうに
 必要な
 神からの
 贈り物だ
 母の
 胸の
 命の音を
 聞きながら
 温かで
 柔らかな
 乳房
 その
 触感を
 自らの手で
 確認しながら
 生きる
 意欲を
 つないでいくのだ

 ふしぎな
 いのち
 いのちは
 変転する
 あるとき
 父に似て
 あるとき
 母に似る
 先祖返りさえ
 時にはしながら
 結局は
 一番
 自分の
 見つめた人に
 似ていく
 ふしぎな
 いのちだ

 この
 いのちは
 これから
 どんな
 自己主張を
 遂げようと
 するのだろうか
 純白の
 ゲレンデに
 シュプールを
 描く
 スキーヤーの
 ように
 他人に
 渡したくないと
 今から
 心配する
 父親の
 存在を
 きみも
 疎ましく
 思う時が
 来るのだろうか

 よく飲み
 よく眠り
 よく泣き
 よく笑う
 今が
 いのちの
 原点
 今が
 いのちの
 蓄え
 女として
 DNAの
 設計図を
 組み込まれた
 いのちは
 歴史を
 刻んで
 呼吸を
 しながら
 父と
 母と
 祖母と
 掻き抱く
 その違いを
 感じ取り
 やがて
 自分を
 見出す時が
 来るのだ
 

 
 
 

春だよね!?

2012-04-25 17:16:48 | つれづれなるままに
4月26日(木)晴れ

 きょうの最高気温は予報では23℃です。一気に春を飛び越えようとしているような、おかしな気分です。写真はあうんの敷地内にあるソメイヨシノですが、少し蕾も膨らんできたのが解るでしょうか?
 

 昨日から弘前城公園の「桜祭り」がスタートしました。カレンダー的には連休に向かって開花予報(28日)が出ていますから、今日からの陽気でかなり進むのだろうと思います。

 小生の健康日記は、ラジオ体操とウォーキングから、ラジオ体操とサイクリングに変わりました。朝7時45分スタートだと、それでも結構寒いのです。自宅から職場に向かう道には今は雪割草がピンクの花を開いています。

 職場までは自転車でぴったり15分。ウォーキングで少し筋力をつけておいたのが足と心肺機能の動きで解ります。町内で上とか下とか表現しますが、往路と帰路の違いがそこにはっきり解ります。水が高い方から低い方に流れるように、自宅から職場方向は全体がスムーズに走ってくれます。しかし帰りになると逆にかなりの圧力が感じられるのです。そしてこの時期、結構風が強い日が続き自転車はモロにその力を感じます。
 でもまずまずの快調な出だしができて、良かったと感じています。
 

4月・穀雨の頃

2012-04-24 06:48:44 | つれづれなるままに

4月25日(水)曇り 日中の最低気温は5℃・予想最高気温は19℃である。

 厳寒の日々が嘘のように、次第に雪の塊も消えかけている。それでも季節は例年よりもかなり遅れ気味に推移している。施設の入口付近に昨日つくしんぼがたくさんで初めて致し、水仙も黄色い花が咲き始めている。もう少しと言いながらも、あと10日ほどで、5月の声が聞こえてきた。

 昨日までの二日間雨が振って、自転車を準備しながら乗れずに居る。なんとかラジオ体操だけは続けているが、運動量としてはかなり少ないと感じている。歩いての通勤を考えると、自転車での運動量も片道15分である。少し距離を増やさないと、とても足りない気がする。

 連休に新潟の友人夫婦2組(1組は埼玉から)がやってくることになっているのだが、如何せん櫻がなかなか咲いてはくれない。花より団子になりそうな気分である。
 還暦を過ぎいよいよこうした邂逅も、「思いでの」といった行事になっていく。
 職場での私の立ち位置を少し変えようと思い始めている。若手に進路を考えてもらえるように、きょうの職員会議から私は前から後ろに座席を移動し、発言をいつもの半分以下に抑えていこうと思っている。

わが法人の今後の方向性は・・・?

2012-04-21 08:06:57 | 私と福祉とであいの旅
4月21日(土)

 昨日、わが法人にはない機能をもつNPO法人に、まだこの事業所にないというベッドを運搬して行きました。わが法人のあうんと同じ「生活介護」という障害程度の重い方の通所事業所と、児童ディサービスを運営しようとこの4月にオープンしたばかりです。

 この13年間ずっと通い続けたAさん(女性)は、私の娘と同じ脳性麻痺と重度の知的障害、重度の肢体不自由という重複障害者です。でも、これまでは元気で通っていたのです。食事は固形のものが摂れませんでしたが、インシュアリキッドという缶詰に入った栄養材を飲んでいました。しかし先月から口からの摂取を拒み始め、口を開けようとしませんでした。
 お母さんは主治医の指示で経管栄養(鼻腔栄養)を始めました。しかし。わが法人には看護師さんの配置は必須要件となっていないために、非常勤で配置されています。その結果、月、水、金の3日だけの勤務となっており、火、木、土は不在です。経管栄養は胃袋にチューブが入っているかを聴診器で確認する作業があり、この部分が医療的ケアとされています。医療的ケアは医師からの指示で看護師以外には保護者しか許されていません。
 それではと「訪問看護」の制度を利用できないかと市の福祉課に問い合わせましたが、市は県に問い合わせた結果として、生活介護と訪問看護は併用できないというのです。法律上の矛盾がこういうところにあります。生活介護事業所には看護師が配置されているという前提で判断されていますが、ならば何故必須要件としての看護師配置をしなかったのでしょうか。職員配置基準に通所施設は看護師は必須要件とはされていないのです。
 このためやむを得ず今後の方向性が決まるまで、看護師をパートでお願いすることにしました。引き受けて下さったのは、ともに岩手県野田村に昨年半年間通った仲間の一人でした。
 この間P・T(理学療法士)とお話をしながら問題点の整理を行いましたが、何故Aさんは口を開けなくなったのだろうか?という素朴な疑問が残りました。Aさんの全身状態としての水準は変わらないのですが、単に口を開けなくなったのは口の中に問題があるからではないかという仮説に行き当たったのです。P・Tも以前からAさんの口の中を何度か見たことがあり、Aさんの治療していない虫歯のあとのかけた刃などが歯茎に刺さっていたりしたことを思い起こしていました。
 こうしてP・Tに依頼して早速開口器を使って口の中を懐中電灯で照らして見ると、「ありました」。大きな虫歯が左上にポッカリと空いていました。そして口の中の衛生状態も悪く、舌も白い色に変わっていました。苔が生えているようです。
 歯茎も歯槽膿漏でブヨブヨになっていて、両耳下腺がこの炎症のためか腫れて熱を帯びていました。
 写真をとってその日のうちにお母さんにこのことを知らせるべく、P・Tからも初見を書いて頂きました。
 こうしてようやく国立病院で口腔外科を受診することができ、大学病院宛てに紹介状を出してもらうことができたのです。全身麻酔でないと、治療ができないということです。青森県には麻酔科があるのは県立中央病院や大学病院など限られています。重度の障害者には、このことは大きな命へリスクとなっています。治療を断念する患者さんがいるからです。

 口腔の問題が治療により解消されれば、初めて医療ケアも不要になります。当面の方向性で、件の4月オープンした生活介護事業を運営する結という法人にお母さんをわが法人のスタッフが案内し、看護師の配置状態、送迎サービスの対応などを確認することができました。Aさんの自宅から6,7分の距離だということで、今までのように1時間近くかかるわが施設よりも、Aさんの負担が少ないように感じられました。そして加齢とともに、Aさんの健康状態の変化する頻度も多くなるような気がします。
 オープンしたばかりなので、この事業所ではまだ20名定員に対して2名しか通所していないということで、スタッフも「両者が良かったね」と思ったそうです。しかし、お母さんの不安はまだまだあるようで、「あうんの看護師の不在の火曜日だけ」をお願いしますという意思表示に、その場にいた事業所の方も同行したスタッフもその回答にがっくりしたようでした。
 お母さんの思いは、果たして何処にあるのでしょうか?
 NPO法人と社会福祉法人の違いがよくわからないので、「将来的に運営面で大丈夫なのかしら?」ということをお母さんがスタッフに漏らしていたとのこと。そしてあとは私の推理ですが、愛さんの医療以外の面も含めて、わが法人の支援内容を重く捉えてくれていたのではないかと思いました。
 私としてはそのことの報告をスタッフから受けて、わが法人が常勤看護師を今後配置する必要があることを実感した瞬間だったのです。
 津軽地区にはかなり通所の事業者が整備されてきたという実感はありますが、そういう中で重度障害者の受け入れ先が格段に少ないし、あってもサービス水準が低いというのが現実かも知れません。

 そういう意味でのわが法人の、これからの重度障害者への行うべき手立てや方向性を再確認させてもらいました
 

第2回書を楽しむ会

2012-04-19 16:30:05 | 私と福祉とであいの旅
 4月19日(木)

 西福寺の若き僧侶・工藤先生から「書を楽しむ会」の第二回目の講習が行われました。障害のあるメンバーさんたちとはこれが二回目のふれあいの時間ですが、皆さんはもう先生がリラックスしてという前に、のびのびと筆を運んでいました。
 



 あうんと書いた方は書道半紙では足りないために、半紙を二枚に貼り合わせて練習をしています。
 今日は初めて書の基本動作を習いました。線の引き方と止め方、筆の弾力性についてを教えていただきました。

 何事も基本が身について、初めて様々な応用が利くものだとあらためて実感します。
 

60歳以上人口の3人に1人

2012-04-18 06:54:42 | 福祉について
4月18日(水)

 今朝の朝刊に60歳以上のシニア人口が4,100万人で人口の3分の1が60歳以上だと書かれていた。自分も含めてその中に位置するのを見て、高齢社会がずんと重たくなっているのを感じる。
 そしてさらに記事の中には、平均余命についての記載があり、男性が23年、女性が28年で、何れにしても平均的には人生90年時代の到来ということがうかがえた。
 ショッキングなことは更に続き、年金の年間所得平均では一人年間198万円で、世帯収入は平均308万円だという数字である。私の65歳からの年金額はこの額よりの低くて、本当に年金だけで暮らせるのだろうかと思う。家内の年金と合わせても、300万円を下回るのだ。私は80才まで生きる自信はないが、残された家内は果たして貯金を崩しながら90歳まで暮らせるのだろうかと思う。
 そういう意味では、いかに健康生活と質素倹約的な生活がこれから求められるのかと想わざるをえない。働けるうちは働いていた方が、生活水準は安定することは間違いない。あと5年間はなんとか健康で暮らしていこうと強く思う所以である。
 ウォーキングでの通勤生活もようやく1週間で、いよいよ来週からサイクリングをスタートさせたいと心ひそかに思っている。

福祉夢プラン

2012-04-17 06:21:08 | 私と福祉とであいの旅
4月17日(火)曇り

 娘たちが毎週土日に帰宅してくることが、わが家の定例行事になっている。私のウォーキングも、したがって火曜日から土曜日の朝のプログラムである。
 何やらガソリンがエライ高くて、それが状態化しつつある。リッター160円は昨年の東日本大震災のガソリン不足の時でもなかったのではないだろうか?
 そういう中で私なりの健康策は、こうして省エネにもなっていることになる。最近よく見かけるのは、○○プリ○○という軽そうな車である。音も静かで省エネんだという。おしりも若い女性のおしりのようにツンと上がっていてかっこいいのかもしれないが、どうも私はひねくれているのか心が動かない。そもそもこの高齢化の時代に、静かな車は危険この上ない。後ろから走ってきても気づかないのでは、危険の防ぎようもない。
 歩いていると、シュワーッと突っ走る車が棺桶に見えてくる。

 さて、出だしはブラックユーモアになってしまったが、「福祉夢プラン」である。
 今から15年ほどになるのだろうか、青森県障害福祉課が「福祉夢プラン21」と銘打って青森県の福祉を日本一にという公約で県知事が誕生した。その公約実行のための会議が開かれたのである。その会議がどの程度夢を実現できたのか検証する資料などはないのだが、今にして思えば。それなりにヤル気を出してきた自分としてはひとつの水準にまで来たなと感じている一人である。

 夢は人が見るものであり、多くの夢はうたかたとなって消えてしまう。儚(はかな)いという字は、まさにその構成になっているからよく考えていると思う。
 消えてしまう夢もあれば、実現できる夢もある。私は常に夢は見たいと思うし、その夢は自分で成し遂げようと思うかどうかの違いだろうと思う。自分で諦めていては、どんな夢も達成できないだろう。
 今年度自分はいくつの夢を見ることができるのだろうか・・・。