夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

短歌/還暦

2012-01-30 17:05:49 | 創作(etude)
・還暦を迎える我の立ち位置は賞味期限か消費期限か

・還暦は所属からのフリーダム隠居大学入学せる我

・針供養八日は我の誕生日ここから先はリセットボタン

還暦まで9日

2012-01-30 06:18:17 | つれづれなるままに
1月30日(月)晴

 寒かったが、昨夜は雪は降らなかった。朝方4時に目覚めて、習慣となっているラジオのスイッチを入れた。もちろん家内や娘たちも眠っているので、イヤーホンを耳にねじ込んでだが・・・。
 毎月末の月曜の朝4時には、NHKのラジオ深夜番組で「隠居大学」があるのだった。天野祐吉というコラムニストがゲストを迎えて軽妙かつユーモアのある話で盛り上がるのだ。今朝はゲストが荻野アンナ氏。小説家であるらしいが、趣味多彩。
 
 著 書
『蟹と彼と私』『古武術で毎日がラクラク!』『ラブレーで元気になる』『トントン拍子』『けなげ』『ホラ吹きアンリの冒険』『まっかなウソのつき方』『空飛ぶ豚』『半死半生』『空の本』『百万長者と結婚する教』『アンナの工場観光』『名探偵マリリン』『生ムギ・生ゴメ・生アクビ』『桃物語』『週刊オギノ』『背負い水』他多数。

 彼女は1956年生まれというから、私よりも4歳年下の55歳である。話を聞いているとなかなか、愉快な女性であることがわかった。なにやら古典落語もやっているとか・・・。短編小説を題材にした、創作落語の話をしていた。中でも父親が船乗りで母親が絵描きだったとかで、同じ墓に入れるときは夫とお骨を離して入れてくれということと、娘が死んだらその二人の間にお骨を入れることが遺言であるらしい。

 さて、隠居話といえば今朝がた、藤沢周平の「三谷清左衛門残日録」を読了した。400ページを少し超えている程度だから、先日の井上ひさしの5巻の長さに比べればあっという間だ。
 この藤沢の残日録は隠居となった清左衛門の日々の記録で、一話ずつが短編であるために読みやすかった。そして隠居となってもまだ、完全に前職と切れないまま事件に巻き込まれていく様が、リアルで面白い成り行きを構成していた。
 友人である代官佐伯との深い心の絆は何ともまたうらやましい関係でもある。連れ合いに先立たれ、今は息子の嫁の身の回りの世話にならなければならない身の上を、感謝しつつもなんとも心の中では寂しさとわずらわしさもあることがうかがえる。妻であればストレートな物言いが許されもするのだろうが、嫁ともなればやはり気遣いをしなければならないこともまたうなづける。
 年を取ったという証拠の一つは、過去に記憶が遡っていくということが、物語の根底に流れてもいる。青春時代の仲間関係のことなどが、記憶としては新しく夢の中で再現するのだから仕方がない。まるでリスが秋口にエサをあちこちに隠して、冬になってどこに隠したのかも忘れた状態にも似ている。ふと気づくのはその木の実が、大地から芽を出してからなのだろう。
 誰にでもあるはずの些細な事象が、心の中で本人の負担になっていることがあることも、共感できるのだった。その記憶の不確かさを、隠居になってから確かめるという筋立ては、今の自分にもないわけではないのだから・・・。

  

のれそれ雪とろけ隊活動

2012-01-29 16:47:46 | 私と福祉とであいの旅
1月29日(日)9:00~12:00


 快晴の朝、「のれそれ雪とろけ隊」の活動日である。きょうは過日の弘前大学での特別講座で紹介したとおり、学生5名と市民1名の参加を得て、総勢10名のチームで、岩木山弥生地区の屋根の雪下ろしで汗を流した。結果的には3件の訪問を行った。
 昨日までずっと雪は降り続けたこともあって、かなりの降雪量があったことが伺われた。理工学部の学生2,3年生は、今回の活動が初めての様子だった。でも結構新鮮だったのか一生懸命雪と格闘していた。

 

 出発前に少し屋根の雪下ろしでの注意事項をオリエンテーションし、現場でも屋根の上で転倒している学生に、注意するポイントを教えた。

 3件とも高齢者独居世帯である。それほど危険な屋根はなかったので、少し安心した。

 一応全員が屋根の上には上がったので、そこそこに自身がついたことだと思う。ボランティアセンター事務局李教授から心配の電話をもらった。

 それにしてもこの日は快晴の一日で、絶好の雪下ろし美伴った。

 民生児童委員の方が挨拶に来たり、知り合いの方が差し入れにも来てくれて、ありがたいティタイムもあった。しばらく高齢者の皆さんも、安心の時が確保できたのではないだろうか。

東日本大震災論・弘大特別講座

2012-01-29 06:32:16 | チームオール弘前
1月27日(金)

 朝から雪が降り止まないばかりか、厳寒の一日で踏む雪がギュッギュッと音を立てていた。凍(しば)れた日の雪は、音がするばかりではなく、一度粉砕すると細かく砂のようになってまるで「鳴き砂」かと思うような音でもある。冬の寒さもまた味な演出がある。

さて、この日は午後4時から弘前大学での特別講座「対人支援ボランティアの必要な視点」という題目で、約90分の講話の時間を頂いた。学生60名、教員4名の参加だった。
 近頃人前で話をするのは意識的に少なくしようと考えていたせいか、過日の横浜町での社会福祉大会以来久しぶりである。宮沢賢治を少し紹介した。

 宮沢賢治は、明治三陸地震(直後の大津波で2万2千人犠牲に)の2ヶ月後に生まれ、誕生4日後に内陸直下型の陸羽地震に遭い、亡くなる半年前に昭和三陸地震(3千人犠牲)の惨禍を見た、という
(山折哲雄著『絆』より要約)

 最初の大地震は1896年6月15日に起きた。「三陸地震津波」という地震としては奇妙な名前が付けられている。
 賢治が生まれたのは1896年8月27日だ ったから、生まれる2ヶ月前のときであった。

 もう一つの地震は1933年6月15日に起きた「三陸地震」である。プレートを断ち切る巨大地震だった。賢治が没したのは同年の9月21日で、死の直前であっただけではなく、その前1931年に倒れて以来、賢治は肺炎でずっと病床にあり、遺書もすでにしたためていた。なお、名作「雨ニモマケズ」を書いたのは、倒れた年の11月だと推定されている。これは生前に発表されることはなく、賢治の死後、手帳に書いてあるものが発見されたのである。

「雨にも負けず」 宮沢賢治

雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の朝にも負けぬ 丈夫な体を持ち
欲はなく 決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを 自分を勘定に入れずに
よく見聞きしわかり そして忘れず

野原の松の林の陰の
小さな茅葺き小屋にいて
東に病気のこどもあれば 
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくても良いと言い

北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
みんなにデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい


 これから交流支援をボランティ活動として取り組もうとしている学生たちに、障害者福祉、高齢者福祉の心理的特徴の視点でお話をさせていただいた。

 


選ばれなかった道~分岐点

2012-01-26 07:03:43 | 創作(etude)
もしあの時
違う道を
選んだなら
どんな
人生が
私を
待っていたのか
そう思う時がある

地元の大学に
進んだなら
違う高校へ
進学をしたなら
大学受験をしないで
就職をしたなら
違う大学へ
進んだなら
たぶん
今の私は
ここに
いないことになる

人生の
すべての
条件が
変われば
当然
現在へと
影響するのだ
そして私の
感じ方
考え方も
友人も
家族も
総てが
変わっているのだ
そんな道が
過去の
私の
記憶にある

POEM/青春の分かれ道

2012-01-25 07:17:49 | 創作(etude)

いつも
目の前に
現れた
分かれ道
どちらに
進むにしても
小さな決意と
旅があった

だからといって
引き返してはいけない
運命のような
その決意は
自らが
その後も
引き受けなければならない
責任のような
そんな気がしていた

青春というのは
まさに
直球の
鉄砲玉の
四角四面の
そんな
どうしようのない
遠心力だった

大寒過ぎて・・・くわばらくわばら

2012-01-24 06:52:45 | つれづれなるままに
1月24日(火)
 このところ比較的好天に恵まれ、雪かきも必要のない日々だった。ただし昨日はうかつにも、氷の上を滑って後ろ向きに転んでしまった。私はこの時頭の中ではなんとかもがいて転ば体勢を元に戻そうと思いながらも、結局後ろ向きに空を見上げるように転倒したのだった。
 幸いにもというのか、背中には雨天にも濡れずにすむモンベル社製のリュックがありそれがクッションにもなってまったく体の痛みもない。雪の上では大抵の場合、滑って転ぶ時は後方に転倒したほうが怪我は少ない。もちろん私の場合だが・・・。私は幸いにも柔道の心得があって、前後どちらでも受身はできるのだが、前方への転倒の方がリスクは高い気がしている。受身がしにくい姿勢が多いことと、前方ではどうしても腕関節がやられる可能性があるからだ。前方への受身の仕方はもちろんある。だがそれは予め前方へ転んでいくことが判断と身体が一致するときに限られる。さすがにこの年になると、不意打ちを食らうときには、うまく行かないこともある。例えば自転車に乗っていて、勢いをつけて飛んだりする場合があったが、肩から落下したことがあった。その時も救ってくれたのはヘルメットとモンベルのゴム製リュックだった。
いずれにしても、後ろ向きに転ぶときに気をつけることは頭を打たないことである。あとはお尻の肉が守ってくれる。
 大寒(21日)を過ぎ、いよいよ今日あたりから1週間は最高気温零下の日々が続く予報だ。2月を控えて、冬本番はこれから・・・。足元にご用心というお話。

 大寒の滑りて見上ぐ月夜かな

オールナイトニッポン「ニューイヤーコンサート」

2012-01-21 10:37:58 | つれづれなるままに
1月20日(金)18:30~20:30 青森文化会館

 小椋佳・サエラ・中村雅俊の出演する、オールナイトニッポン「ニューイヤーコンサート」に家内と出かけました。2000人も集まったこのコンサート会場は、さすがに冬のコンサートでもあってか、青森県民の文化への飢餓感が感じられるような気がします。小椋佳は67歳、中村雅俊が61歳、サエラも50代ということでか、観客はほとんどが50代から60代のシルバーという感じでした。
 弘前での小椋佳や加藤登紀子のコンサートは前に聞きに行ったことがありますが、最近交通の便やらが新幹線効果も手伝ってか青森市でのイベントが多いと思うようになったのは気のせいでしょうか・・・。高橋真梨子はこのところ青森市文化会館が多い気がします。
 まあ東京や仙台などまで行けるわけでもなく、小一時間で会場の席に座れるのですからよしとしています。ちなみに私の学生時代からの小椋佳は身近な存在でした。小椋佳とは7歳離れていますが、活躍されたのは私の大学時代からですから、かなり親近感があります。小椋佳、井上陽水、吉田拓郎、中島みゆき、かぐや姫、さだまさしなどは同じ時代を生きた人といっても良いのかも知れません。
 小椋佳は昨日の公演で「さらば青春」「少しは私に愛をください」「シクラメンの香り」「愛燦燦」などを歌った。彼の話によればこれまで2000曲も作ったというのだから、すごい人だなあと思う。ただ作曲するだけでなく、それが何曲もヒットするのだから、その実力はすごいと思いますね。私がファンだから言う訳ではありませんが、私だけでもかなりの小椋佳の曲をしっています。中村雅俊に依頼されて作った曲も「ふれあい」「お前がいい」などがあり、二人で歌っていました。
 さて、その小椋佳さん、何やら今回は少し調子が悪かったのか・・・いや、実際に歯痛があって青森に来て我慢できずに歯医者に行ったとのこと・・・そのせいか、麻酔が効いていて、少ししゃべりがおかしかったようです。でも、可笑しいといえば、話の中身も格別愉快な小椋さんでした。
 物忘れのエピソード。何かしようとしてドアを開けて、部屋をでると何をするのだったか忘れて、入浴をしたそうです。そして浴槽の中で、「あ、そうだ。トイレでおしっこするんだった・・・」とか、奥さんが出掛けに「きょうは雨が降るみたいだから傘をお持ちになったほうがよろしいですよ」と言われ、「ああそうだね」といって靴を履いて、玄関を出てしばらく歩いてから、ふと気づくと傘の代わりに右手に靴べらを持っていたとか・・・。会場は割れんばかりの笑いがあふれていました。
 サエラさんは一昨年プロデビューをしたとかで、応援団が前の方の隻を陣取って、賑やかでした。私も今から8年ほど前に、サエラさんとは出会いがありました。だので、とても久しぶりに楽しみました。菊池さんはボーカルで、とっても良い声です。相棒の高橋さんはピアノですが、いつもにこやかに演奏をされています。
 中村雅俊さんは、宮城県女川出身とかで、今回の東日本大震災では、被災地の方でもあります。度々出向いて応援をしているようでした。それにしても、40年ほど前の彼の印象とは大違いで、ダンディスリムで61歳というのですから脱帽です。

 歌を聞きながら、一方の頭の中ではその頃の思い出も同時に思い出しているのですから、歌の力というものものすごいものだと思います。サミエル・ウルマンの詩で「青春というものは年齢ではなく、心の様相をいう・・・」と書いています。そういう意味では今の60代、70代は、一昔まえに比べると、気持若いような感じがしますね。ことに歌を人前で歌うということは、元気の秘訣かもしれません。
 前の方から9列目で中央席だったのですから、小椋佳さんと一緒に向かい合わせで合唱したような気分でした。
 来月は落語鑑賞の予定ですが、果たしてどうなりますやら・・・。
 

 

温泉浴

2012-01-20 07:00:18 | つれづれなるままに
 この数日間は快晴の日が続いて、その分朝夕冷え込んでいる。私の津軽の冬の楽しみは、なんといっても温泉浴である。それも選べるだけ、迷うほどに温泉の種類も多い。私が今通う温泉は、あたご温泉、境関温泉、長寿温泉、桜温泉、五代温泉、百沢のアソベの森いわき荘、白馬龍神温泉、鶴田町の鶴舞の湯くらいだろうか。春先から秋口は、車で遠出すれば、八甲田山の蔦温泉、猿倉温泉、大川原温泉などが楽しみの一つでもある。
 自宅から一番近い温泉までは車で7,8分。遠くても30分である。岩木山麓には温泉郷が広がり、津軽一体は温泉の宝庫で、まだ入っていない温泉はたくさんある。硫黄泉、鉄分の多い赤湯、ナトリウムの多い塩辛い温泉、明ばん泉のような赤い温泉もある。つるつるの美人の湯。とにかく安い料金設定。一番安い所で250円から高いところでも500円くらい。私はあまり利用しないが何しろサウナや露天風呂、うたせの湯もあり、朝は5時から夜は11時ごろまで開いていてくれる。家族風呂もあり、食堂、休憩所さえも付いている所がある。冬の農家の人々が、この時期最もレジャー感覚で憩いの時間をこの温泉場で過ごしている姿は、幸せそうだし楽しそうでもある。カラオケを思いっきり歌い、飲食し、合間に温泉浴もする。3月頃になればもう雪の上をカンジキをはいたりスキー板をつけて、りんご園の枝切りを始めているのだ。8月の一ヶ月と大雨や台風以外はほとんど収穫まで休みもなく働くのだ。額に刻まれた深い皺は、長年の喜びや苦しみ、そして苦労のかいなく台風に掛けがいのないりんごの果実を持っていかれ呆然としなければならなかった年輪でもある。
 そういう人々の日々のぐだめぎ(愚痴めく)を、湯壷の中で私も聞いている。温泉はただ体を温めるものではなく、無理をした筋肉の疲労をいたわり、翌朝までの快眠を保証してくれる。本当に足先までぽかぽかになって、布団の中で熟睡できる。そうすると翌朝の寝覚めもよく、つらい朝も起き上がりを約束してくれるのだ。青森県バンザイ!津軽バンザイ!温泉ありがとう!