夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

POEM/感極まる

2009-04-30 08:12:42 | 創作(etude)
 話をしようと思っても
 どうにもならないのである
 説明のしようのない
 こころの中の
 日ごろは
 しようのないものたち
 あきらめたり
 泣くわけにも行かないで
 そのままほっぽっていた
 さまざまな
 思いの数々が
 人前での話の途中
 急に溶け出すのだった
 そして
 思わずことばが続かなくなって
 涙を抑えきれなくなるのである
 
 あの日の病んだ娘との
 やりとりが
 急に目の前に
 よみがえるのである
 こんなにお前のことを
 心配しているのに
 何とかしてあげたくても
 どうにもならない
 自分のいのちを
 いつでもお前のためになら
 投げ出すことさえできるのに
 いつだって
 だから解決の道もなく
 どんどんこころの堰に
 溜まりこんでいくのである

 同じ思いの人々の前で
 はからずも
 流した涙と
 伝えきれずに終えた
 思いの数々を
 残したまま
 胸を熱くしているのである
 あなたがいるから
 ぼくたちは
 今日まで
 いられるのだよ
 でも
 それにだって
 限りの日は来る
 私の目の黒いうちに
 お前たちの幸せを
 見ておきたいのだよ

 話を中断した人の思い
 その話の先は
 はからずも
 聞いている人たちの
 共通の思いなのである
 どんなに愛おしくても
 別れの日は来るのだ
 その別れたくないのに
 別れなければならない
 置き去りにして
 行かなければならない
 その思いこそが
 下を向いて
 歯噛みする人たちの
 思いなのだった
 

帰郷報告 その6 「母を気遣う人」

2009-04-30 06:25:45 | つれづれなるままに
 母を気遣ってくれるのは、車で一時間ほどの新潟市に住む弟Tである。母の兄弟は長男と長女、次女は既に他界しており、残るは愛知県に住む弟と、東京に住む弟の3人だけである。
 新潟の弟Tは苦学をして新潟大学を出て、高等学校の教諭を務め退職している。経済的に進学できる状態ではなかったらしいが、父と母がいくらかバックアップしてくれたとT叔父は今でも感謝しているように語っていた。そのT叔父は写真が趣味でいつも年賀状には花々の写真を添えて送ってくれていたが、ここ数年男性には珍しい「リュウマチ」が進行して、歩行も困難な状態になってきた。それでも車は運転可能で、夏場になると毎週のように母の元を訪問して、畑の手伝いなどをしてくれている。叔父も70を超え、「ここが人生の楽園だ」と語っていた。力仕事は難しくなって、それでも私と、妹に送るといって「じゃがいも」の種芋を、お尻をつきながら植えている姿がそこにあった。
 家内と二人で山菜をたくさんとってきて、コゴミの和え物、タラの芽、ウドのてんぷらや竹の子ご飯などを夕食に出して食べてもらった。すると叔父は「初物を食べると75日命が延びるといわれているので、自分は400日以上長生きできる」と言って喜んで食べてくれた。
 連休には東京の弟が来る予定になっているらしく「こきつかってやる」とT叔父は張り切っていた。母も少しはこうした面会があり、気持ちもまぎれることだろうと思う。
 燐宅は老夫婦と幼女の住む家で、親戚づきあいをしている。老夫婦はほとんど父や母と同じ年代であるから、気持ちも近いのだ。子供の居ないおじさんたちは、私が小さい頃にはじぶんの子供のように私を可愛がり、そして時々は泊めてくれた。私も両親が町場の学校に転勤になって兄と妹がついていったために、私は祖父母との生活だった。このこともあって、隣の叔父さんの家に寄り付いていた。
 おばさんの腰が曲がって、耳が聞こえにくいなどの高齢者である。叔父さんは85歳ながら、いまだにかくしゃくとしてバイクに乗って畑に直行している。おばさんはそんな叔父さんを心配しているようだが、聞いてくれないとあきらめ顔だ。おばさんはすっかり涙もろくなっていて、会うたびに母の健康状態を悔やみ涙を流している。私がお別れに行くと「お母さんのことは時々行って見るから、また帰ってきて…。」と、また泣いた。私も今生のお別れでもないのに、「おばさんも元気で…」といって涙目になってしまっていた。
 母が倒れたときに一番最初におばさんが、たまたま様子を見に来てくれたらしい。
 今となってはこういう人々にすがって、時々の母の心を癒すことを期待する以外にないのが現状なのである。

帰郷報告 その5 短期入所先面会

2009-04-30 05:47:46 | つれづれなるままに
 帰郷しての目的である家の中の片付けもほぼ終了し、毎日欠かさずに行ったのは母の入所先への面会である。車で15分の社会福祉法人が運営するS園はまだ新しい印象の5階建ての建物である特別養護老人ホーム入所棟が二階から上で、一階にはリハビリ室や集会室、食堂、お風呂、デイサービス棟、短期入所棟などがあった。同じ敷地内にグループホームもあり、庭などには桜やチューリップなどが咲き乱れていた。
 母の居る部屋を訪問すると、入浴したての母がさっぱりした表情で車椅子でやって来た。すべて個室であり、手洗い場とベッド(電動)、箪笥、テレビが設置されていた。部屋の電気も、テレビも、リモコンを使って入・切が可能である。スタッフの教育がなされており、面会に行くとほとんどすれ違ったり、見かけた職員が「ありがとうございます」と声をかけてくる。部屋に滞在すると、必要分の椅子とお茶を持参して「ゆっくりしてください」と笑顔で対応している。主任者であろうか?「何か気がついたことがあれば何でもおっしゃってください」と真摯な態度で言ってくる。母の一番の喜びは、病院ではオムツを強要されていたのが、ここではトイレへ二人のスタッフが引率して介護をしてくれることのようだ。介護方法を見ていると、病院のスタッフと違って明らかに自立に向けた基本動作を支持していた。見ていて安心という印象であった。だからなのか、母の顔の表情も明るかった。母の顔を毎日見て、ゆったりとした時間の中で話せることは幸せなことであった。帰る前の日には午後に面会をして、差し入れの果物を二人で食べた。少し時期が早かったが、初物のスイカを細かくカットして容器に入れられており、パイナップルとイチゴも同様であった。これなら母も片手で食べることができると持参すると、おいしそうに食べてくれた。母の短期入所もいよいよ残り2日で終了となり、「明日はお花見に連れて行ってくれるんだ」と語った。
 「明日帰るからね」というと「苦労かけたね。ありがとう」と礼を言った。
 それにしても退所後の母を想像すると、その状態像には大きな隔たりがあると思う。一日3回の居宅介護訪問があり、デイサービスでの入浴も可能である。しかしながら一人での長い夜が待ち受けているだろうし、誰とも語れない時間がそこに存在することが不憫だと思う。なじみの在宅で最期を迎えるという生活を、私も望んでいる。しかしそれは、できれば家族とともにということなのではないだろうか。
 母を見ていると、面会時間の2時間の間にも、トイレに行きたいと2回も出かけている。つまり、自宅ではトイレにすら行きたいと思ってもいけない状態も待っているということなのだ。誰もそこには居ない状態と、そういっても良いのだ。長期入所をした方が、母にとっていいと心理面でそう強く思っていた。

帰郷報告 その4 「自立」

2009-04-29 16:41:30 | つれづれなるままに
 妹がほぼ片付けの目標を終え、一路滋賀へと戻っていった。この日から私の生活はすべてに渡って一人暮らしの力を試されていた。お風呂への入り方というのか、お風呂の管理の方法。まずはボイラーのスイッチが、ボイラーの箱にないのだ。早速今別れたばかりの妹へのメールで、ヘルプを求める。答えが来る前に、壁にそのスイッチらしき物を発見し片づく。次がお風呂の残り湯を使っての、自動洗濯機の使い方だ。私はこれまで全自動洗濯機での、洗濯は家族に任せてしたことがない。洗濯機の中に汚れ物を入れ、洗剤をカップ一杯入れる。次に洗濯機の電源を入れ、残り湯での洗濯スタート。すると水槽が2,3回グッグッと回り、次に水が出てきた。安心して離れると、しばらくして確認したらエラーマークだ。水槽の中には、浴槽に入れるべきホースが入っていたために、衣類と絡まったのだった。ここでも汗が出る、やれやれ…。あげくは兄のワイシャツをポイと入れて洗ったら、なんとポケットの中にタバコが一箱入っていた。お陰で洗い直し………。

 午前中に山へ出かけて、筍、ウド、タラの芽、ワラビを収穫した。家内にメールをして、筍の処理の仕方、ウドの煮方とレシピ、ワラビのアク抜きの方法を指導してもらう。ウドはパスタ料理に炒めて入れた。ウドの香りがパスタに絡まって、新鮮だった。(写真)タラの芽は天ぷらではなく、素揚げが良いと云われその通りに実行。ワラビもボールに熱湯を注ぎ、重曹をスプーン一杯入れ、その中にワラビの長さを揃えて入れた。翌朝食べられるように、そのままボールに放置。

 翌日はピーマン、もやし、牛肉、湯がいた筍を筋切りにして、チンジャオロース(青椒肉絲)の素で味付けをした。これはなかなか良い味だった。

 それにしても冷蔵庫の中には処理すべき物が山のようにあり、なかなか消え去ってくれないのだ。捨てるわけにも行かず、いいかげん食傷気味となっていった。

 兄は仕事からの朝帰りで、くたくたに疲れている。それでも母の元には一緒に毎日のように通ってくれた。午後からは就寝し、夜中の10時に出勤。だからぼくは本を読むか、片付けを続けるか、酒を飲むしか無くかなり静寂の中で飽きてきた。初めはうるさく思っていた猫たちが、やけに親近感を持って見えるようになっているのだった。
 

一行詩/ふるさと栃尾

2009-04-29 13:04:38 | 創作(etude)
 
 ・ふるさとは不自由さにて変わりなく若き春をも偲ばるる

 ・この道を下駄穿き鳴らし闊歩せる若き日の我町々に見つ

 ・我が恋は織物の町に染められし朝な夕なの川の色にて

 ・雁木なる商店街を踏み行けば角ごと匂う揚げの店々

 ・学徒にて油絵習う彼の人に失恋色を覚え初めし日

 ・錆色が雑草の中につながって幻の鉄路過去へと続く

 ・城跡の輪郭を見れば中学の集団脱走涙乾きて

帰郷報告 その2 「ひたすらごみ処理・片付け」

2009-04-29 06:05:44 | つれづれなるままに
 私が育ったこの家は、私が生まれた頃に建てられた。そしてその後に父が、リフォームを加えて現在の建物が完成した。新潟の気象にも関係するのかもしれないが、ことに栃尾市の冬は豪雪と夏は盆地特有の湿度の高さが特徴である。
 家屋の特徴はまずどの家も、外壁は杉の板である。板壁の内側は断熱材を使わずに、当時から土と萱を混ぜ合わせた材料で左官をしていた。一番奇異に見られるのが、屋根である。我が家は二階建てであるが、なんとこの屋根が豪雪地帯なのに瓦葺である。私が小学校5年生当時の昭和38年は、記録的な大雪の年で「38豪雪」と呼ばれた。何しろ降雪量が3メートルもあり、電柱の頭が地面から30センチくらいのところに出ていた。したがって家の出入りも二階部分から会談をつけて出入りした記憶がある。件の雁木(アーケード)は対面の商店街の道路全体が雪で埋まって、人々はやむなく雪洞(トンネル)を掘って行き来していた。当然この雪で交通機関が麻痺し、陸の孤島と評され、国の緊急発動により千葉県船橋市の空挺団などがやって来て、生活道路を確保する作業に追われた。
 それでもこの雪の重みでつぶれた家の話は、私の記憶にはないから相当丈夫な家屋構造に違いなかった。何しろ瓦の重みだけでも、相当なものだろう。そこに3メートルの雪である。私の幼い頃からの習慣で、持ち山には杉を代々植え育てる。長男は○○家を後継するために存在し、次男坊以降はひたすら労働力として使われた。成長すると分家させられるので、その際に本家の力で資産として杉の材木を使って土地を分け与えられ家も建ててもらうのである。
 
 さて、こういう歴史のある長兄の家に佇み、呆然とするのはその家の衰退である。かつて光り輝いていた御殿のような家も、父の急逝により歯車が狂い始める。長男である兄は家長制に反発して新潟を離れ、私は当然のように婿養子として結果青森に住み、妹も滋賀県に在住している。老齢の母一人になったことに親戚縁者が大騒ぎとなって、長男を家に呼び戻せということになった。結果的には会社のサラリーマン課長を辞め、東京の妻子をそのまま残して単身赴任のように帰郷した。
 それほどに「家」の存続というものが、大事であり掟のようにも感じられる。
 使用人を含めてかつては20人近くが、この家で暮らした。しかし今は、母と兄の二人暮らしである。兄の仕事はあまりうまくゆかずに、現在は自宅から30分ほど離れた会社の夜から朝にかけてのきつい仕事をこなして疲労困憊している状態である。夜の労働をするのだから、夜昼が逆転した生活である。昨年は村の区長という大役が回ってきて、その処理も兄を追い詰めていた。
 その構造的な母の病気の進行と、兄の疲労困憊した生活は既に限界を超えようとしていたのだろう。部屋の数は10室(1,2階計)で、客間や仏間、居間等を含めどの部屋も普段使わないもので埋まっていった。更に追い討ちをかけるように、母の寂しい気持ちゆえか猫が増えたのである。家猫2匹が居たのは知っていたが、迷い猫なども含めて5匹も住みついていたのである。母が元気なときにはそれなりに世話もできたのだろうが、病気で動けなくなるに連れこの猫たちの騒乱が始まったのである。部屋のあちこちに尿でのマーキングをしたり、誰も居ない部屋をわが部屋にしようと、障子を破って侵入した。荒れ放題なのだ。
 頑丈だと思っていた家は、2004年の中越地震でかなり構造的な負荷を負った。部屋の襖や戸の開け閉めができにくくなって、結局締め切られたままの部屋が放置されるのである。
 母が退院して日中を少しでも快適に、衛生面にも配慮できる環境づくりが望まれたのである。私と妹は、この日からひたすら家の中の整理と掃除に明け暮れたのである。
 

帰郷報告 その1 「 いざ新潟へ」

2009-04-28 06:50:00 | Weblog
 新潟県長岡市・人口約28万人。(旧栃尾市・人口2万3千人・2006年1月吸収合併で消滅)
 私が高校卒業まで暮らした栃尾市は今はなく、長岡市になっている。しかし守門岳(1,537m)や粟ヶ岳(1,292m)などの山々に囲まれた盆地。上杉謙信が14,5歳までの幼少期を過ごした場所としても知られている。

 さて、4月18日の午前5時に家内と二人で車での帰郷となった。車中には母が退院後に使う予定の車椅子とポータブルトイレ、手すりなどを積み込んだ。東北自動車道を8時間かかって、実家へたどり着いた。ETCの機械を装着しての初めての試乗ともなった。土曜日、日曜日に限りどこまで行っても1,000円ということになっている。この時期福島県三春町が桜の名所ということで、郡山まではいささか車が多かった。しかし新潟方面は結構快適に車は進んだ。自動車道の難所は福島県の会津・磐梯山付近で、上下線が対面一車線であり、ほとんどがトンネルである。なんとも視覚的に疲れるのだ。新潟に入り阿賀野川沿いを走ると、新潟だなと思う風景はチューリップ畑の原色風景である。水田に赤や黄色の花々が一色ずつの長方形に咲き乱れている。疲れが癒される気がした。ソメイヨシノの桜は散り掛かっていたが、桃の花や八重、枝垂、おおやま桜などはまだまだ美しかった。
 懐かしい実家への道に入ると正面右には守門岳、左には粟が岳が白い雪をたたえて迎えてくれた。
 写真は栃尾市の特徴のひとつの「雁木(がんぎ)」という道路を挟んで、両側に並ぶ昔風のアーケードとでも言うのだろうか。雪深いこの地方にはなくてはならない、ありがたい屋根である。それにしても道路の狭さには驚くくらいだ。
 我が家にたどり着くと、母の弟(叔父)と兄夫婦、そして妹が母を囲んでいた。母は前の日に退院しての実家である。楽匠(らくしょう)という電動型のレンタルベッドに寝ていた。たった一日だけの滞在で、また明日は短期入所のために特別養護老人ホームに、また10日間出かけることになっている。今回は特に家の整理と介護環境を整えるために、我慢してほしいと思っている。
 そうこうしているうちに、包括支援センターのワーカーが訪問した。今後の母の日中を支える「デイサービス事業や、ヘルパー派遣」の内容確認と、契約である。
 週5日間はデイサービスを利用し、1日3回のヘルパーの介護(30分)を受ける。そして10日間の短期入所を繰り返すのである。具体的な生活を考えただけでも、この家には何かが欠けていると感じていた。いや、この国の制度そのものの何かといったほうが良いのだろうか。

 

帰郷は今夜の高速で

2009-04-17 07:13:21 | つれづれなるままに
 新潟の母がきょう退院する。私たち夫婦は娘二人をあうんに託して、今夜車で帰郷することにしました。家内は日曜日にはまた弘前に戻りますが、私はそのまま26日まで滞在して、母の生活環境を整えるつもりです。久しぶりの車での帰郷です。母の再起の介護用品をつけて、出発です。そのため、しばらくこのブログもお休みします。桜がもう満開でしょうか?桜前線を逆走して行くのも、楽しみの一つです。「トンネルを抜けると、そこは雪国だった・・・」という視覚的な変化は、まさに日本列島の長さによるものが大きいと思います。
それでは皆様しばらくの間さようなら!

雪代(しろ)

2009-04-17 06:00:56 | 私と福祉とであいの旅
 いよいよ弘前城の桜が開花に向けて動き出した。外堀の桜の蕾は赤みを増して、その時を待っている。北国に住んで本当に良かったと思う季節。それは春であり、明確な四季の美しさにある。そこには時という循環が、気候を通じて私たち人間に突きつける明確な距離であり、究極の愛でもある。輪廻転生ということばのように、春夏秋冬それぞれが美しくまたそれぞれに険しい。しかしこの四季はつながっていることは確かで、決して死に絶えているわけではない。輝いているようにも見えるが、刻一刻生者必滅へと歩を進めてもいる。それはまるで人間の一生にも似ている。
 桜だけが春の代表ではない。山々に降り積もった雪が今ようやく一滴の雫となり溶け出し、その合流したものが川を形成する。この時期、川という川すべてがゴーゴーと音を立てて、あふれんばかりの水を海に押し出す。そしてまた緩やかな水勢に戻る頃、灼熱の夏が君臨するのだ。そんな時ふと、こんな歌を思い出す。

 野坂昭如の歌
 春は夏に犯されて/夏は秋に殺される/秋は一人で老いぼれて/ああ冬がみんなを埋める/桜の木の下に/桜の木の下に

 2年間の空白を埋めるかのように、昨日心の友が私を訪ねてきた。遠い下北の地に彼は30年ぶりに帰って、再起を発念している。思えば2001年にあうんがスタートして、その年の6月の第一回目のコンサートが彼のコンサートであった。そして7年間僕も彼もこの絆が切れるなどとは夢にも思わなかったはずだった。しかし、人生の神は絶頂期に向かう寸前で、その絆を断ち切ったのだ。
 誰が悪いのでもないのかもしれない。それはすべてのものに責任があり、すべてのものに責任はない。それがそのときに必要だったかどうかもわからない、変更不可能な雪代なのだ。すべてはどの雪の一滴の始まりだったのかなど、意味がない。あるのは厳然たる別離なのだ。
 男が男に惚れるということを、その悲しい別離の中で知ることになった。しかしその別離の涙の一滴こそ、この雪代のように彼を悲しみという力で大海に押し出したのではないだろうか。
 陸封型の山女や岩魚は大きくなれないという。大海に出てまた戻って来る彼らは、2尺(60センチ)以上に成長して生まれた川に回帰するのだ。
 再生するとはまさに孤独であり、冒険であり、苦難であるだろう。でも、これは神の啓示だと思えばよいのではないだろうか。自分という魂をもう一度しっかり持ち直して、その発露の方法を見出すのだ。
 頑張れ(けっぱれ)友よ!君の手には愛するギターと、君の唇には歌があるじゃないか。あうんの子らが、君をあんなに待ち焦がれていたじゃないか。大興奮させることのできた言霊(ことだま)なのだから、その伝えようとするものの側にあるべき魂(SOLE)が大切なんだろうと思う。氾濫すべきパワーがあるからこそ、新たな再生力もまた大きいのだと思う。どうかもう一度一滴から歩みだしてほしいと強く願う。そんなうれしい再会が昨日あった。

ハンサムウーマンにて

2009-04-16 06:52:38 | つれづれなるままに
 「ハンサムウーマン」という女性を中心に開かれた会合が、偶数月の2ヶ月に一度第3水曜日に開催されています。そもそもハンサムウーマンとは私の理解によれば、15年前にわが法人初代理事長I氏が代表となって立ち上げた会です。「男女共同参画」をテーマに、男性中心の社会を女性も平等に活躍できるような社会にしようと始められたと聞きます。したがって当然女性の参加が多いのですが、男性も2割程度の会員となっています。事務局長は私の弘前での生活上大きな縁をいただいて、現在も後援会副会長としてバックアップしていただくT氏(もと公務員で現県ソーシャルワーカー協会長)です。
 昨日は家内の誕生日、そして町会の役員会も重なっていました。最近記憶力の低下のせいか、自分のスケジュール管理もできなくなってきました。困ったものです。
 ハンサムウーマンでのシステムは飲食をしながら、外部講師を招いて活力を得ることです。事務局長から依頼を受けて、講師の依頼を自分がした手前出席をすることにしました。今回のテーブルスピーチは最近川柳の特別優秀賞を受賞された弘前市の寺田北城さんでした。津軽広域連合主催「とっておきの津軽大賞」で最優秀作品は「旅人の胸もじゃわめぐ津軽三味(つがるじゃみ)」
(※「じゃわめぐ」はざわざわするの津軽弁)
 寺田さんと私は精神しょうがい者の福祉劇「この町で暮らしたい」に町会長役として出演をいただいたことでした。そして彼の役者+特技の指笛は舞台の中でも泣かせる場面で活用されています。昨日は皆さんで指笛に合わせながら懐かしい唱歌などを歌い、そして楽しいお話を交えた川柳話も紹介されました。
 会の恒例は参加者の近況報告や、活動の自己紹介です。昨日は20数名が参加し、活発に女性が地域活動をしているという印象を持ちました。ことに最後に、事務局長が今月初旬に訪韓した際のお話で、7月に韓国から児童を招いて交流する「国際こども文化芸術交流」をめぐる内容でした。韓国とのご縁も、まだまだ続きそうです。
 それにしても川柳のユーモア性と、短詩型17文字に込められた生活観が素敵だなと思いました。これから少し挑戦してみたいと思います。