鐔鑑賞記 by Zenzai

鍔や小柄など刀装小道具の作風・デザインを鑑賞記録

継信最期図小柄 Kozuka

2011-04-11 | 小柄
継信最期図小柄


継信最期図小柄 無銘

 この小柄は、負傷した継信が戸板で運ばれてゆく場面。半身を起こし、なおも戦おうとする気力のある姿を描いている。
 平家追討を目指した義経に付き添っていたものの、大きな目的を果たした義経の姿を見ることなくこの世を去った継信の憐れが題材。それ以上に興味深いのは、主の身代わりとなって死ぬことを誇りとする意識。この頃から生じたものであろうか。
 継信の墓はこの地にあり、供養した僧侶に、義経は名馬太夫黒を与えている。

継信最期図目貫 Menuki

2011-04-10 | 目貫
継信最期図目貫


継信最期図目貫 無銘

 義経に従い、宇治川、一ノ谷と転戦した継信(つぎのぶ)は、そもそもは奥州を支配していた藤原秀衡の武将であった。ここに身を寄せていた義経が頼朝の許へ向かうことを決意した際、秀衡は義経の護衛を継信らに命じたのである。
 水際を境界に対峙していた源平両軍は比較的穏やかな様相を示していたが、軍舟上の平教経の弓が常に義経に向いていることに継信は気付いていた。教経は平一門中屈指射の弓の名手。継信は常に義経の前に自らの馬を歩ませていた。その間隙を突いて矢が射られた。これを察知した継信は、危険を告げるより先に自らの身体を楯にして義経を護ったのである。
 この目貫は、舟上の教経と、射られた継信が馬上から崩れ落ちる継信を描いたもの。

牟礼高松図小柄 如水軒光乗 Kojo Kozuka

2011-04-09 | 小柄
牟礼高松図小柄 如水軒光乗


牟礼高松図小柄 銘 葛飾如水軒光乗

 縦図になる牟礼高松の馬上に義経図である。真鍮地を高彫とし、色絵象嵌を駆使した作。足下を見下ろす牟礼高松図小柄 銘 葛飾如水軒光乗ような構成であり、義経が高台にいることを意味している。
 如水軒光乗は後藤家の四代光乗とは異なる。詳らかではないが江戸時代後期の、奈良派の影響を受けた金工と推測される。

牟礼高松図小柄 後藤光理 Mitsumasa-Goto Kozuka

2011-04-08 | 小柄
牟礼高松図小柄 後藤光理


牟礼高松図小柄 無銘 後藤光理

 屋島を見下ろす牟礼高松に到着した義経は、村の各所に火を放ち、源氏の大軍勢が押し寄せたことを装った。このとき義経には五十ほどの手勢しかなかった。少数先鋭の軍団ではあるが、一たび手の内が露呈すると逆襲は必至で敗戦に繋がる。
 大軍襲来と判断した平家軍は、我先に軍舟に移って海上に逃れる。舟のない義経は景時の率いる軍舟の到来を待たねばならず、水際を挟んでの対峙は明らかに義経に不利な状況へと突き進む。
 このときもまた、鮮やかなまでに個性を光らせる武将がいたことを、『平家物語』は伝えている。
 写真の牟礼高松図小柄は無銘ながら後藤宗家十二代光理の作。赤銅魚子地高彫金銀色絵。

牟礼高松図小柄 後藤 Goto Kozuka

2011-04-07 | 小柄
牟礼高松図小柄 後藤


牟礼高松図小柄 無銘後藤

 屋島に逃れた平家は、屋島をより堅固なものとした。力の衰えぬ水軍を頼りに瀬戸内を支配し、京奪還を狙っており、度々の小競り合いは平家に分があった。一ノ谷から一年、頼朝は平家を追い詰める最後の時がきたことを確信し、義経と梶原景時に屋島攻撃を命じた。
 義経は速やかなる攻撃を主張し、嵐を突いて阿波へと渡り、夜を通して馬を走らせると、屋島の裏手に当たる牟礼高松に陣を敷いた。松の下に佇む馬上の義経がその場面を意味している。
写真の小柄は横長の画面を活かした後藤の作。赤銅魚子地高彫金銀色絵。裏板を金削継に華やかに装っている。
 実はここに至るまでに、義経と景時に対立があった。直線的に攻撃することを良しとする義経に対し、作戦を練って戦うことを主張する景時の、まさに両雄の思考の喰い違いである。いずれにも理がある。伝説として有名なのが、逆櫓。景時は、海戦に弱い源氏勢は、舟の前と後ろに櫓を付けて動きを自在にすることを主張する。対して義経は、最初から逃げることを考えていては勝てない、我武者羅に突き進むことを主張。これを意味しているのが、写真の鐔であろう。
 受け入れられないと判断した義経は、わずかの五十ほどの騎馬勢のみで急襲作戦を実行したのである。


逆櫓図鐔 無銘

逆落とし図鐔 Tsuba

2011-04-06 | 
逆落とし図鐔


逆落とし図鐔 無銘

 義経勢による、平家の背後、六甲の山並みを越えての攻撃を逆落としと呼んでいる。真さかさまの、まさに落下に等しい降り坂を通じての攻撃は、平家の誰もが想定していなかった。岩場を降る鹿の様子を見た義経は、鹿に出来て我々に出来ぬことはないと判断したという。
奇襲戦法は義経が天狗から伝授された一つである。天狗が山岳修行を専らとする修験者と考えれば、岩場を伝っての攻撃という発想は、さほど不思議ではない。

鵯越図鐔 Tsuba

2011-04-05 | 
鵯越図鐔


鵯越図鐔 無銘

一ノ谷攻めにおける義経の役割は、東から攻撃する範頼軍を補佐する形で西からの攻撃を目的としていた。だが義経は、もう一つの攻撃手段があると考えた。背後にそびえる壁のような六甲の山並みを越え、急斜面を降って攻め入ることである。逆落としと呼ばれた奇襲戦法であるが、その前日、義経は平家の背後に通じている獣道に詳しい猟師を探し出した。この鐔はその場面。

箙の梅図鐔 Tsuba

2011-04-04 | 
箙の梅図鐔


箙の梅図鐔 無銘

 小柄では箙に挿された梅の様子は判り難いのだが、鐔の大きさであれば雰囲気も伝わりくる。兜を捨て去った景季の背後には梅の花が咲き乱れている。
 作者不明だが、綺麗な赤銅魚子地に高彫色絵表現。


箙の梅図小柄 後藤程乗 Teijo-Goto Kozuka

2011-04-02 | 小柄
箙の梅図小柄 後藤程乗


箙の梅図小柄 無銘 後藤程乗

 梅花図の装剣小道具の紹介の最後、源平合戦図に連続するところで紹介した作(後藤光壽)と同図の小柄。光壽の小柄は金の魚子地を背景に高彫表現しているが、この小柄は赤銅魚子地に高彫色絵。
 敵軍中に取り残された梶原景季は、これが最期と、雅を装って梅の枝を箙に挿して戦ったという。ここに、父の梶原景時が助けに馬を走らせてくる。
 一ノ谷ではこの場面も有名であり、描かれることが多い。

一ノ谷嫩軍記図小柄 Kozuka

2011-04-01 | 小柄
一ノ谷嫩軍記図小柄


一ノ谷嫩軍記図小柄 無銘

 熊谷直実と平敦盛の一騎打ちの伝説は、江戸時代の歌舞伎では大きく創作の手が加わり、『一ノ谷嫩軍記』と題されて人気を博した。
 一ノ谷合戦は、熊谷直実とその子直家、そして平山季重の三者の早駆けによって始まった。転戦している中で敦盛を見つけた直実が、その命を助けようとするのだが、季重に見咎められる。まさに背信行為だが、直実は義経から敦盛を助け出すよう命じられていた。
 平経盛の子とされていた敦盛だが、実は法皇の寵愛を受けた藤の局が宿した子であり、法皇の血をひく敦盛を死なせることはできなかったのである。禁じられている早駆けをしたのも敦盛をいち早く助け出すため。実は、既に敦盛に接触し、わが子直家とすり替え、負傷したとして陣に戻らせていた。後は敦盛になり代わっている我が子を助け出すのみ。ところが、ここを季重にみつかってしまったのである。そしてついに我が子に手を掛けることになるのである。
 この場面は、義経から敦盛を救出するよう命を受けた直実が金札を授かっている場面。歌舞伎から取材したもので、江戸時代も下った作。