秋草図鐔 宮田信清
秋草図鐔 銘 宮田織江藤原信清(花押)
耳の装飾性を高めた作例をもう一つ紹介する。作者は京都出身の宮田信清(のぶきよ)である。文化十四年に京都に生まれた信清は木下織江と称し、加茂神社の宮田家の養子となるも、武家金工後藤光保に入門、後に後藤宗家十六代光晃に入門し、天保十四年に独立、江戸日本橋に開業、更に後に南部家の抱え工となる。明治十七年六十八歳没。
この鐔は、加賀後藤の作例と同様に耳を利用して優れた構成美を追求した作品であることは誰もが認めるところである。漆黒の赤銅魚子地の美観を活かし、我が国の自然の恵みを素材に、みごとに文様化している。秋草は表裏を越え、自然の中に繁茂しているような構成だが、この構成そのものが美観の要。朝顔や新種の菊を題に採っている点、葉や花弁の量感、朝顔の花弁を構成している曲面、それらの表面に切り施された微細な鏨、殊に萩の小さな花房の風に揺れる様子は、これまで見てきた秋草にはない繊細さに溢れている。撫子の花の構成も見事。後藤流の表現様式を基礎に置いた作品群の中でも、写実が背景にあり、風景の文様化が採り入れられ、鐔という特殊な画面を装い美の極致にまで高めることを目的とされた名品である。
秋草図鐔 銘 宮田織江藤原信清(花押)
耳の装飾性を高めた作例をもう一つ紹介する。作者は京都出身の宮田信清(のぶきよ)である。文化十四年に京都に生まれた信清は木下織江と称し、加茂神社の宮田家の養子となるも、武家金工後藤光保に入門、後に後藤宗家十六代光晃に入門し、天保十四年に独立、江戸日本橋に開業、更に後に南部家の抱え工となる。明治十七年六十八歳没。
この鐔は、加賀後藤の作例と同様に耳を利用して優れた構成美を追求した作品であることは誰もが認めるところである。漆黒の赤銅魚子地の美観を活かし、我が国の自然の恵みを素材に、みごとに文様化している。秋草は表裏を越え、自然の中に繁茂しているような構成だが、この構成そのものが美観の要。朝顔や新種の菊を題に採っている点、葉や花弁の量感、朝顔の花弁を構成している曲面、それらの表面に切り施された微細な鏨、殊に萩の小さな花房の風に揺れる様子は、これまで見てきた秋草にはない繊細さに溢れている。撫子の花の構成も見事。後藤流の表現様式を基礎に置いた作品群の中でも、写実が背景にあり、風景の文様化が採り入れられ、鐔という特殊な画面を装い美の極致にまで高めることを目的とされた名品である。
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