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民子!夢のなかに生きた男たち!

2016-08-23 22:43:12 | 節三・Memo

重い!非常に気が重い!



【著書の中の林田民子さん】
数年前、廣済堂出版社から一冊の本が出ました。「夢のなかに生きた男たち」
アメリカでベンチャーキャピタルの資本を受けた、「アメリカンシルバーウッド(株)」の会長が
書いた本で、320ページ。時代は1920年から、戦後までのアメリカ。
ピクチャーブラインドでアメリカに渡る、林田民子さんの物語。
この本のキーパーソンは、講道館で柔道を修業し大学卒業後アメリカに渡った、
武術家、太田節三。

この本が、出たとき、日本では、麻原彰晃の「サリン事件」が起きた時、
ロスアンジェルスのリトル東京の図書館でも読まれました。
出版後、ブログ仲間が著書の数ページに感動して、あっという間に拡散されました。

ブログは、

「夢のなかに生きた男たち」の数ページの会話をコピーした、感動の記事です。
会話は省きますが、要約して、
第二次世界大戦が終わった後、林田民子さんと太田節三が、
当時副大統領トルーマンと会い、林田さんが、原爆を投下したのは、
どうしてかと詰問した直後、トルーマンを投げ飛ばし、

林田さんは側近にピストルで撃たれ鮮血を流した・・・・。

この内容は290頁辺りから盛り上がって最終頁まで描かれています。

読み終えると、キーパーソンは、林田民子さんのような気がします。
大和撫子、林田民子さんの、素晴らしい人間像がありありと浮んできました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ブログでは執拗に林田さんを追いかけていますが、どのブログを見ても、
林田さんの実像を知ることができません。

太田節三の経歴から、林田民子さんを探してみます!
林田民子さん明治37年(1908)熊本県生まれ。
太田節三  明治30年(1897)秋田県生まれ
林田さん、25歳の時、ピクチャーブラインドとしてアメリカに渡る、船の中で知り合う。
太田節三から柔道の手ほどきを受け、師弟関係になったとあます。
太田節三が、三船久蔵に置手紙を書いて、横浜からアメリカに渡ったのは、
1920年。林田さんは船の中で太田節三と知り合ったのは、「船」・・ウン!
林田さん、18才の時になります。
25歳でアメリカに渡ったとなると、船の中では会えないわけです。


林田さん、アメリカで待つ花婿から婚姻を破棄され、林田さんは、下船できなくなります。

そこで、先に下船した太田節三が、日本2つの大学で、アメリカの法律、特に移民法を勉強した成果をフルに発揮します。ウン?

節三は、当初、明治大学に入りますが、カンニングがバレ、日本刀で告白者を脅し、退学、
その後三船久蔵師範の力添えで中央大学に編入し、柔道では、無敵を誇る、柔道部の主将を務めます。
勉強の大嫌いな、強くなりたいための柔道生活を送っていました。

林田さんが下船するまで冒頭から50頁が咲かれています。
移民局での風景は、1930年第1回芥川賞を受賞した、石川達三の「蒼茫」の筋が組み込まれています。

節三は、ルーシー・バニング・ロッスと1925年2月3日とありますが、二人の結婚は、1928年1月19日です。
この時の婚姻届けの証明は以前ブログに掲載しておりますので、今は省きます。
作者が「ノンフィクションとして読んで頂いてもよい」という割には、辻褄の合わない、
考証が多いように思います。

【ブログ記事から】
多く見られたブログの中に、下の写真が「林田民子」さんが渡航前に撮ったアルバムと紹介されていました。

私も、この写真を使い、林田民子さんを知っていたら教えてほしいとお願いをしました。
この写真、林田民子さんではありません。


1880年頃の写真
林田さん渡航したのは1920年。記念写真で撮ったとしても、
この写真は林田さんが生まれる、30年前の写真ですから・・・・撮れるかな


4分前に同じ写真が出ます。
 明治13年(1880)ごろ、写真家の草分け、小川一真さんが若い頃に撮ったものです。 

この頃カメラ技術は、1960年生まれの小川一真さんの努力で、上にある写真の一部より遥に
シャープな画像になっているわけです。

かつ、小川一真さんは1918年写真家から引退をしています。
(小川さんは1929年、神奈川県平塚市で亡くなれています。)

【著者のアメリカンシルバーウッド社】
著者の紹介に、廣済堂出版は1994年アメリカンシルバーウッド社の会長に就任。
阪神、淡路大震災では、建設省の要請で、アメリカの建設業を代表して、
約100名のボランティアと共に神戸の復旧に協力。

とありますが、1993年アメリカンシルバーウッド社((
従業員4名)は倒産し、営業中止しています。
阪神・淡路大震災は1995年。
著者を知るために
作業で知った情報です。どうでもいいことですが・・・・。
著者は1938年長崎県島原市生まれ
   1973年1級建築士の免許を取得し
   1979年(昭和54年)アリカに渡ります。終戦から、30年後です。

【ため息】
著書の中で節三が、話す言葉の内容は、どこの部分をとっても、ありえない。
まるでどこかの秀才が喋っているようでした。
民子さんと、節三が日本国を救うために山本五十六と密談をする。ウン?
私の作った世界平和基金財団が、東久邇宮様をブラジルルートでお運びし、
日本国亡命政府を樹立する・民子さん協力を・・・ウン?
すごい!
あったことのない人間同士をあっちこっち節三に引き合わせている・・・まいったネ!
もう、作中の節三は実像、太田節三ではありせん。信じられません!
どこか、かなり優秀で紳士で、金持ちで,策士で・・・・・
実像に触れている私には、歯が浮いてきます。
太田節三の実態は、書かれたものは真逆です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
林田民子さんのことを書くのは、今回で終わり!
終わりにしなければ又、著書に触れなければなりません。
著書のアナリストではありませんので・・・・・!

ご参考に、節三物語は、佐藤千夜子さん、ルーシー・バニング・ロッスは、
実在の人物ですので・・・・・!
参考文献は、昨日のブログのページに一部ですが載せてあります。
この写真は、アメリカの女流作家、オリバー・ニューポートがアメリカで出版した本です。
この本には、節三の妻、ルーシーの華やかな、生き方を描いたもので
節三は登場しません。

 
やはり、気が重かった!裏付けの論理が甘い! でもいい!
「ノンフィクション」ではなく「物語」として読まれたら、と思います。!


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