春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

8 六郎、白瀬中尉に会う。節三児玉道場に通う

2015-11-29 05:20:55 | 節三・Memo

白瀬矗。幼少は鬼畜に似た奇行で周囲を驚かす。愛犬をかみ殺したり、千石船の船底に
穴を空けようとし失敗し、生死を彷徨い、近所を騒がせている。
12歳。寺小屋の先生、佐々木節斎の「北極」の話を聞いて、北極に憧れる。
5つの探検家としての戒めを書いた紙片には、

酒を飲まない
煙草を吸わない
茶を飲まない
湯を飲まない
寒中でも火にあたらない

好奇心に溢れ、これから成人になる、白瀬中尉にとって体が欲する欲望の芽が摘み取られたようなもの、けれど、白瀬中尉は戒めを実行し始めた。
もともと生家は浄蓮寺。戒律は日々背負っている。
4、5人の上級生から「校庭まで来い」を、「用があるならいまここで云え」と切り替えし、しぶしぶ、行くと、木刀で殴りかかってきた。不意の一撃は、空を切る。何しろ喧嘩なれ白瀬中尉、態を躱した瞬間、つんのめる相手の顔面を血だらけにしてしまう。
教員室から見ていた教頭がバタバタと仲裁に駆け付けたが、怒鳴られたのは喧嘩を売った、上級生たちではなく、血だらけにした、白瀬中尉である。
白瀬中尉は教頭に食って掛かる。「上級生が束なって、下級生を木刀を喧嘩するのは理屈に合わない」「奴らは教頭が来たら一目散に逃げた」「俺は悪くない」教頭は強情な白瀬中尉をもてあまし、校長室に連れて行く。
「下級生が上級生を怪我をさせてはいけない」この一言で学校が嫌いになった。
あくる日、昨日の出来事は何も無かった顔で教室の扉を開けていく。
図太い神経の持ち主である。かなりの意志強健でもある。

学校嫌いになり 浄蓮寺の長男として、寺を継ぐことなど、微塵も考えない白瀬中尉は、平田篤胤の高弟、医師で蘭学者の佐々木先生の教えは、読み書きから、そろばん、四行五経を習い、コロンブスやマゼランの探検など未知の世界を聞き、ますます探検家になる夢が膨らんでいく。

明治43年7月朝日新聞に、白瀬中尉は南極探検の乗組員募集の広告を出す。

前年、北極探検の夢は、ロバート・ピアリーが北極点踏破のニュースが流れたことで驚き、やがて失望する。失意の日々から出した結論、「北極の探検を断念」
煮えかえるような思いの日々から、南極探検に方向転換し、思いを馳せる。その思いは空転してしまう。
追い打ちをかけるように、アーネスト・シャクルトンが南極に到達してしまった。再び失望。がイギリスは翌年も南極へ挑むことを知り、「それでは俺が先陣をきる」と方向転換し、明治43年1月帝国議会に「南極探検に要する経費下付請願」を提出した。
最初は申請書もたらいまわし、「また、馬鹿げたことを」と相手にされず、焦燥の日々を送るが、国民の味方をつけよう、「国家事業として名誉なこと」と新聞社に記事にするよう依頼するが、相手にされない。
最後の手段として賛成者数人と、演説会を計画した。
この演説会が功をなし、国民を味方に付けたのである。やがて申請書は議会で受理され、7月5日大隈重信伯爵が会長になって「南極探検後援会」を設立した。
探検隊発表のこの日、神田錦旗館の周りは数千人が群れをなし、聴衆の中には会場の窓を破って入る者まで現れた。

8月下旬。
六郎は新調した袴に履き替え、鼻緒を挿げ替えた高歯姿で探検隊募集の面接会場に向かった。
大隈重信伯爵は六郎の母校、早稲田実業の創立者である。
一縷の望みを持ち、懐の中の汗で破れないように油紙に包んだ、朝日新聞の募集記事を何度も触りながら「探検家の一員」に採用されるよう祈った。

その頃節三は近々養子となって父となるだろう兄悌三と一緒に花輪村小枝指の児玉道場の玄関で児玉高慶を待っていた。
道場は明治26年児玉猪太郎が設立し、今は講道館で柔道、有信館本館で剣道の修業を積み終えた猛者、高慶が父の後を継いで館主となっている。

華奢だが背の高い、悌三は天井の一点を見ながらカイゼル髭を指で撫で、節三は端正な顔立ちが一層際立つような殺気立つ鋭い眼光で道場の奥の気配を追った。

東北小坂村は旧盆が過ぎると一気に気温が下がる。
秋は目の前、冬の到来はあっという間である。


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7 散歩・・・弘前城が引っ越し準備

2015-11-26 12:16:08 | 節三・Memo
弘前城は29万石。
30センチジャッキアップを待つ天守

東北で唯一の現存天守 弘前城
5月の連休あたりの桜 桜 桜。別世界にいるような気分になりますね。

幕府から築城許可が下りたのが1609年(慶長14)
築城の開始は、1610年(慶長15)
翌年には五層の天守閣を構える平山城「高岡城」が完成。
同時に城下町の建設も進められたとのこと。
築城主は2代藩主・信枚。


この時点では未完成のよう。
完成は約80年後の元禄年間。
元禄7年(1694年)に石垣築造の起工式が催され、
同8年(1695年)に石垣築造工事着手、
同12年(1699年)にようやく完成します。


石垣の右少し膨らんでいる箇所の崩落を防ぐ工事。
曳家後天守がこの場所に戻るのは、2021年(6年後です)


8月16日から始められた天守の引っ越し先です。
約78,91メートルの曳家工事。見たかったですね。
曳家工事は1897年(明治30年)と1915年(大正15年)の2回。
いずれも石垣の崩落予防工事のため。
土台が崩れたら、元も子もないですから・・・ね!!


1627年(寛永4年)、鯱に落雷。
弘前城天守(当時は五層の大天守)の五層目から順に燃え広がり、吊されていた鐘が熱で真っ赤に燃えた。
灼熱の鐘が地下の火薬庫まで焼け落ち、火薬に引火し大爆発。
弘前城の天守は、武器・火薬庫として使用していたため爆発した際の火柱は約20km程離れた碇ヶ関からも見え、飛散物は8kmほど先まで飛んだらしい・・・・。
これを機に城名を「高岡」から「弘前」へと変えました(1628年)






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6 散歩・・・節三の後姿を追いかける

2015-11-15 01:36:24 | 節三・Memo
 
明治43年8月16日
大阪歌舞伎尾上松鶴一座が杮落しをした康楽館です。
無論、当時は写真の手前の歩道、車道のインターロッキングはありませんですよね。
左の6角形の小さいボックスの中には電話が置いてあります。
当時小坂村は鉱山のおかげで村民の生活はかなり開放的で繁華されていたと記録されています。

演題は「寿式三番叟(ことぶきさんばそう)」「仮名手本忠臣蔵」


奈落。八人の従業員が横棒を押して舞台を上げたり、下げたり。



車止めのずっと向こうが康楽館の入り口です。
この日13歳の節三は家族が楽しみにしていた康楽館での歌舞伎見学を断り、十和田湖外輪山を源流とする写真、前方の丸い山の沢から流れ落ちる60メートルの滝を目指して歩き出します。
兄六郎が勧めた柔道家になる決心をするためです。


「日本の名瀑100選」の一条です。大蛇の化身と言われ、
滝の左に孫左衛門神社がありますが、当の孫左衛門その昔、地主で力を誇示するため、物を投げてはいけないと言い伝えられている七滝に薪を数十本投げ落とした。
突然の大地を揺るがす、唸り声と共に、滝つぼから薪が浮いてこない。
その日から、夜な夜な傷だらけの大蛇が、孫左衛門の夢枕に現れ、一言、二言、三言、恨みの罵声で苦しめる。
食も無く、寝ることもできず、餓死寸前の病の床で一心、大蛇への謝罪と己の傲慢さを反省し神社を作った。
と、いう謂れ。その後、元気、元気、皆にありがたく思われるお人になった・・・と!


・・・・・・・・・・・・・・・・・
本日雨。
カフカの恋人・ミレナの手紙。(6回目の読みに入るようです)
ディラスの モディラート・カンタービレの二冊ががベットで横になっています。

私も・・・・。
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5 六郎と節三の決意

2015-11-09 22:49:03 | 節三・Memo


明治43年

8月16日気温は鰻上りに高くなった。
母親から10銭を貰い、節三は一人で七滝へ向かった。
七滝へ行くためには今日�達落しの康楽館の前を通らなければならない。
欅の木に括り付けている幟が小さい見える。
康楽館の入り口の前の原っぱに大きな塊がいくつか見えた。
幟が風に揺れている。塊は黒い作業着姿の三交代で働く空け番となった抗夫達であった。
徳利を抱え、酒盛りのまっただ中である。踊ったり、歌ったり、昨夜の坑内の出来事いきり巻いているが、ろれつが回っていないないようだ。
節三は酔っ払いたちの横をわき目振らず歩いていった。
1本目の角を左に曲がると急勾配な坂道が続くのだが、中腹まで一気に歩き続けた。
鉱山の煙害で伐採され枯木が、道端に山積みになっている。
やがては大館の製材所が住宅用の柱にし、囲い板になってしまう宿命。
夏の暑さが広々とした空に溢れていた。
村と鉱山は伐採地に、ニセアカシアを植林する計画で村の景観の復活と住民の怒りを抑えた。
道中5人の木こりと出会った。その1人に太田家に出入している農夫がいて、節三に声をかけたが節三は聞こえない振りをして通り過ごした。
後ろで頬被りの手ぬぐいで腿をぱしん、ぱしんと叩く音がした。

滝が見え、水しぶきが節三の肌を濡らした。節三は、
七滝の滝壺の前にある七滝神社に目もくれず、いきなり服を脱ぎ、ふんどし一丁の姿になるとほぼ垂直の崖、一段20尺の高さを2段、3段と駆け上り5段目にある小さな壺までよじ登った。

小坂川の上流、身を切る冷たさが節三を奮い立たせると微動だにしなかった。

康楽館の�達落しに行くのを断ってまで七滝に来て、落ちてしまえば大けがで済まない、この日の突拍子もない節三の行動は、あくる日、兄六郎が東京へ行く直前にわかった。
「俺に、柔道を習わせてくれ」父、新助に申し入れた。
荷造りが終わった六郎は節三の顔をじっと見た後、にやりと笑みを浮かべ紅顔を崩した。
父新助は
「しめた・・」と思った。
「そうするか」低い穏やかな口調で賛成をした。
喧嘩ばかりの節三が柔道に夢中になれば騒ぎも収まる。礼儀も少しは身に付くだろう。
「金はいくらでも出すから、柴平の道場へ通ってみるか」と寛大な気分になった。

だが新助の思惑とは違う方向に向かっていく。
「しめた」は早合点であった。
六郎は1か月前に「白瀬矗」が出した新聞記事の南極探検隊員募集の面接のための上京。
節三は「喧嘩に勝つための柔道」
を目指していたのである。
六郎は門の外でぐっと胸を張るとさっと駆け出した。
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4 勉強嫌いで傲慢な節三に優しい兄、六郎

2015-11-02 03:52:15 | 節三・Memo
2015年11月1日(日)
八王子市、元八王子から高尾までの20号線。
銀杏並木少しづつ色が変わり始めました。
あと10日もあれば、別世界になるでしょう。



六郎と節三は一緒の部屋で眠りについた。

節三は六郎とは仲が良かった。
六郎以外の兄たちは年も離れており、いつも頭ごなし説教されるので近づきたくない存在であったが、六郎にはよく懐いた。
六郎はいつでも真剣であった。
「ふん、ふん、」と頷きながら話を聞くが、返す言葉は、迷いがなかった。
それが好きだった。

六郎は一見穏やかな人物に思わせる雰囲気を漂わせているが、たまに切れ味のいい刃がさっと振り下ろされたかのような、息を飲む行動に出ることがある。
秋田中学から早稲田実業へ進み、剣道師範をめざし稽古に夢中になっていた筈たが、去年などは、太田の家に小坂の巡査が来て「東京の質屋で六郎さんが持ってきた質草の刀があまりに名刀だし、朝鮮服を着て「金貸せ」の1点張り、盗品じゃないかって・・・刀の出どこを聞いたら小坂の太田だと言うんで・・、という訳でして、どうなんでしょう、大田さん、蔵をちょっと調べてもらえますかね。そこんとこはっきりしないと・・・」
これにはさすが、父親も戍太郎も驚いた。
二人は蔵に一目散に走った。
蔵の中には先代の宝物や、戍太郎の女房の持ってきた嫁入り道具の置物が隙間なく埋まりっていた。
亡くなった刀を確認するには手間はかかった。、やはり無かった。
父、新助は巡査が「盗品ではないと報告いたします」と言って去るや否や、クニの持ってきた湯呑を茶卓に叩き付た。
茶はこぼれ、湯呑は宙に浮いた。熱い茶が何回も振った手から飛び散った。
六郎への怒りと、自分への怒りが絡まって、新助は戍太郎が今まで聞いたこともないような甲高い声で
「戍太郎、六郎は本当に学校へ行っているのか」
「金、送れ。金送れ、10日もたたない間に、金送れって・・今度は刀まで持ち出して質屋に行くってか・・・よくも探したもんだ。いつ蔵に入った、よく持って行ったんだ、撚りによって一番の刀を、まず、はしっこい奴だ。あの刀が金になるってか、南部家から頂戴したものだ、六郎の餓鬼、太田家の恥だ、南部の刀だ、南部の刀。戍太郎お前も知っていただろう」
クニは新助の正面に茶卓を挟んでちょこんと座り、新助の言い終わるのを待っていた。
戍太郎の妻アヤは障子を背負って、
「いいじゃありませんか、六郎さんも、よそ様から無断で持ち出した訳でもないようですし」
とかばったがアヤこそ南部家から嫁いできた戍太郎の嫁である。内心は不愉快な出来事に違いなかった。
戍太郎は縁側に立ち、太田池の水面に朽ち落ちた紅葉の葉数えながら口をへの字にし「六郎の奴、まったく仕様がないな」と心で呟きながら、新助の怒りを黙って聞いていた。
学校から帰ってきた戍太郎の子、昌男が、門の前で爺さんの怒鳴り声を聞き、ぴたりと足を止め、とっさに隣の家に駆けこんだ。
三女ミツは「兄さんはきっとみんなにおごってやっているのよ。ここに居た時だって、誰構わず、ほい、ほい、あげてじゃない」と、好意的であったが「これじゃいくらお金があったってたまらわいわよ」と顎をしゃくりあげて隣の部屋で呟いた。

そんなことがあっても夏休みに入ると今年もけろりとして六郎は帰っていたのだ。
眠りにつく前六郎はいつになく自分から節三に話しかけた。
「節三、剣道はいいぞ。一瞬でやるか、やられるか、ぎりぎりまで、相手を追い詰めて、隙が出たとき、ぱっと反応するんだ。やめられねぇよ。剣道だけじゃない、この世の中だって、踏ん切りは大事だ。こうと決めたらスパッと前に進む。東京には、いろいろ、外国人があっちこっちいてな、話をしても訳の分からねぇことばかりだ。日本のしらねぇことがよその国にはいっぱいあるってことだな」
日本の知らないこととは、よく言ったものだ。
戦争の勝利を大国日本などと官報は書き立て、天狗になっていたのである。
だが10年前のシアトルでは排実運動の集会があり、カルフォニアでは日系人の漁業を禁じる法案が提出されている。しかも6年前には中国排斥法に加え、日本人と韓国人も排斥するよう動議されている。
六郎は生地小坂村の山間の出来事より、歩いて引き返さなければならない島国より、他国の大地の出来事のほうに興味を持ち始めていた。

「お前には柔道をやれ」
節三は手枕を外して両肘を布団につき
「どうしてだ」と、問い
「お前はがむしゃらだ。何でもかんでも、突進型だ。東京じゃ剣道より柔道のほうが人気がある。新聞には柔道のことを書かれない日はないくらいだ。お前は喧嘩も強い、いい格闘家になるよ。」と答えた。
1909年の昨年講道館の嘉納師範代がクーベルタンの誘いを受けてIOCの委員になっていた。柔道は国技になるべき広がりがとして市民に普及していた。
「あんちゃん、新聞読むことあるのか」
「たまにな」

突進型は六郎も同じであった。六郎は破天荒だが本も読み新聞もよく読んでいた。
2日後、多めの生活費を貰った六郎は東京に付いた日から早稲田実業の卒業を目前にして自主退学し、11月28日南極探検に出発予定の白瀬矗中尉を訪ねて行った。

明治43年8月15日、太田家の広間では酒宴が続き、離れの蚊帳の中で眠る六郎と節三を微風に揺れる電灯がいつまでも照らしていた。



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