春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

大叔父・太田節三の慕情を新装しました・・・。

林田さん・ルーシー・節三・記事への・・・おねがい!

2016-05-31 14:48:55 | 節三・Memo


{日光東照宮}{太田家所蔵}

節三・ルーシー夫妻、林田民子さんの記事にアクセスいまだやみません。
掲載当初の記事にまで及んでいることから、「お願い」です。

林田民子さんが原爆投下の指示を下したトルーマン大統領を投げ飛ばした下りの
ページはたくさん見ますが、
「書物」を読んでから投稿したという記事は少なかったです。
ブログを投稿した方は林田民子さん(?)も節三もルーシーも実在の人物だと、
その書物で初めて知ったようで、
当然登場人物の予備知識のない方は、
書物の人物像を実在の人間そのものと思ったようです。
節三を身近に思う私からは、あの書物は3度まで読むパワーはありません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

多くのブログ記事・・・「林田民子」さん明治37年25歳で渡米とありますが

①節三の渡米は1919年。
 節三と船の中で知り合ったとしますと、明治37年生まれが正しければ
 林田さん16歳の時の出来事です。

②明治37年25歳となると渡米は、1929年となります。
 この年は、ルーシーが亡くなって節三混乱期の年です。

③書物も、船の中で取り合ったと書いてありますので、16歳と書かなければなりません。
 が・・書物では25歳と書いています。
 そうすれば林田さんの生まれは明治21年生まれとなります。
 ただ、書物からは林田さん明治37年生まれの記述は見当たませんでした。

 ※ブログ投稿された方の、明治37年生まれという記述の根拠は、
 著者が来日した時の雑談からの間接情報かと思われます。
 ※林田民子さんの存在は、著者自身も曖昧な返事をしていますが・・・。
 
④書物では林田さんと、ルーシーはかなり親しい間柄と書いています。
 1929年ルーシーは節三のプロポーズを受け、
 林田さんはルーシーと節三達の新婚旅行に「日本行き」を勧め、
 いろいろ助言をしています・・・・・
 ※・・1929年はルーシーが節三との新婚旅行先イタリアのフィレンツェで
 亡くなった年です。(死亡届はイタリアで済ませ・小坂町に届けられてます)
 お墓にいる人物にプロポーズし婚姻届を済ませ新婚旅行・・可能でしょうか?

 ※ルーシーと節三は1926年婚前旅行で帝国ホテルのワンフロワーを貸切り
 日本の各地を観光し、鎌倉では海浜ホテルに投宿し、
 三船久蔵氏らと寺社仏閣めぐりの観光を楽しんでいるのですが・・・。
 ※ブログに掲載しました栃木・日光東照宮、
 鎌倉料亭での三船久蔵氏・芸子さんとの記念写真が時系列を証明します。
 
⑤著書・・の実在の人物の相関関係、人物像の描写のディフォルメの
 うまさは実在の人物の描写でなければピカ一だと思うばかりです。
 
 ※実在の人物を登場させた割りには、辻褄の合わない年表作成です。
 ※書物は出だしからの躓きです。
 ※書籍にするのであれば!!
 肝心なところだけでも、もう少し時間を割いて調べてもらいたかった!!
 その思いが消えません!!
 
ブロガーさんの夢を壊すような解析になりました。
けれどこれはほんの一部です。 
沢山のブロガー様からの反感を買うかもしれません・・ね!

というわけで林田民子さん節三・ルーシーの記事関係の解析は、
ここまでとさせて下さい。
書物やブログ記事を解析し続けることは本意ではありません。
今後、私のブログで林田民子さんの名前を見つけることは出来ないかと存じます。

節三関係の記事は投稿しますが、新説と言えるパワーではありませんので、
期待に添える事は出来ないかと思います。
ご理解くだされば、幸いです。


{太田家所蔵}
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鎌倉散歩・・八幡宮

2016-05-30 16:47:14 | 散歩
この日25日はとても暑い日でした。
訪問したお宅での会話を、かみしめながらの、
鶴岡八幡宮でしたが、修学旅行生や観光客で一杯で
願い事を聞き届ける神様も大変だろうな!
と思いながらの散策でした。

今日、昨日投稿した記事を見た方から電話で
少し「ウン、とかスン」とか何かを書けばよかったのにと・・・・・!
それじゃ「ウンとかスン」だけ書きますと云ったら、
「阿呆」と云って、ストローをすする音が聞こえた。

今日は政子安産祈願のために作られた由比ヶ浜から正面から、
鶴岡八幡宮の入口と弁財天宮の周りの池の風景を見ていただきます。

鶴岡八幡宮入口入れば撮影禁止になります




この参道の両サイドは一方通行の車道ですが、車を止めるなら
この画面の右側ビルの辺りの駐車場が安く、平日 終日1500円です。
ちなみに私はこの日、別の駐車場で4500円を収めました。
駐車させたばかり、移そうかと、脳裏をかすめたのですが、
思いがけず、見学に時間がかかり・・・・・。





とにかく長い参道。画像真ん中の小さい点が八幡宮てす
途中飽きて、左サイドに降りて土産店を覗いたりです。





手前に信号があり、八幡宮に行く人で押し合いです。










右に行きますと、弁財天のお宮があり、辺りはハスの葉が繁る池です。






亀の口めがけて餌を放る女性が二人。
「餌が亡くなるまで粘りますよ!」
と笑いながら、亀を呼んでいました。



名刺を渡してこの「笑顔」
私も満足でした。



ひとしきり休憩しながらの弁財天の池でしたが
参道に戻りました。



これから「舞殿」・・・静御前が義経を慕って舞を舞った鶴岡若宮の回廊跡地に建っています。
出店をのぞきながらゆっくりと歩きます。



画面手前の建物が「夢殿」です


 
M・Aさん、
これから出かけます
{戻り次第昨日のページにウン・とか・スンを入れますので、待っててください!!}

 

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鎌倉・・鶴岡八幡宮・・・・お礼に・・・!

2016-05-29 19:38:43 | 散歩
※加筆した記事です。
一度手放した記事に加筆する作業はなかなか難しいですね。
昨日の気持ちが途切れているだけに、昨日の気持ちになって書く。
ウ~ㇺ!
八幡宮は今年に入って度々訪れていたものの、25日の八幡宮は、
見物するという意識が薄れて、ふらりと立ち寄った感じでした。
もう二度と会わないかもしれない、方との「後味のいい別れ」をしたばかりでした。
質問に答えるご高齢で療養中の方の、記憶をたどり、
とぎれとぎれの言葉のはしはしの優しさに、ふと、自分の記憶を形で残したい思いが、
あったのではなかろうか?
錯綜する私が鎌倉の地に長時間いさせる、都合の八幡宮でした。



一気に八幡宮のページですが、階段を昇る前には
入口の太鼓橋を観、弁財天の蓮池でだいぶ時間を費やしていました。



「舞宮」を通り越しての八幡宮です。


写真を撮っている場所の背後に「仕事守」の看板を掲げた、
おみくじ場があり、
散策の方の足を止めてしまい迷惑をかけてしまいました。




観光地、外人の方がたくさん、
左を見ても、右を向いても必ず目の中にいます。


人気のない方から、巫女さんを追って、パ・・チリ!




おみくじこれからの人生の糧にします。
真剣なまなざしが、いいね!!
けど、人のことも気になる。人情ですよね・・・。
ブログ掲載の名刺を渡し、許可された一枚だけの写真。
削除したくなかった写真
内心、ほっとした。
いいものは、誰が見てもいいんだね!!



学生さんは顔なしで登場・・



外人さん日本語知ってるかなと・・・
なんと流暢な日本語。文法は私より「立派」
家に帰ってから、英語のおみくじもあったのかな?
確認すればよかったなと、
「詰めの悪さ!!」



見つめられて、何、書けば?
要件澄まして
また今度!!








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芥川龍之介・・・生き様おそるべし・・

2016-05-28 21:00:48 | 残念・・・!
なよなよした作家は好きではないが、
芥川龍之介はその中の一人であります。
作品は極上なのに生き様はあまり好きではない。

その芥川龍之介の『死』を扱った新聞に目が行った。
新聞は昭和2年、3年代の文芸界から・・・



昭和改元から間もない昭和二年一月、芥川龍之介は
鵠沼から田端のいえに帰った。龍之介は、前年(大正15年)四月から転地療養をしていた。
鵠沼での龍之介は、あらゆる病気を背負って
やせ細り、死を願い、それを口ばしった。

散歩に出ると「青酸加里を売ってくれませんか」と
町の薬屋を一軒一軒訪ねた。
ある日、五、六十匹の蠅を飲み下したが、猛烈な下痢をしただけで、死にはしなかった。
五月のある日、龍之介は、仕事場にしていた、帝国ホテルの一室で薬を飲んだ。
しかし、妻文子が駆けつけるのが早く、応急手当をして一命は取り留めた。
七月二一日、龍之介は、佐多稲子を呼んだ。
龍之介は稲子に、自殺未遂のときのことばかり、執拗に尋ねた。
七月二十二日の夕方、龍之介は、上野桜木町の宇野浩二のの留守宅を訪ねた。
当時、宇野浩二は強度の神経衰弱のため入院していた。
龍之介は、宇野夫人に、見舞の菓子折りと浴衣地を渡し、宇野から来た手紙を読んで聞かせ、
ひとしきり泣くと、長い髪の毛をさっとかき上げて、「ではお大事に」と言って、去って行った。



七月二十三日の朝九時、龍之介は上機嫌で眼を覚ました。
朝の食事は、いつもより多く、半熟卵四個と牛乳を飲んだ。
夕方二人の客が来た。階下の八畳で夕食を共にし、
日本酒を猪口に二、三杯吞んだ。
珍しく元気で話が弾んだ。客は十時頃帰った。
翌七月二十四日の午前二時頃、龍之介は二階の書斎から降りてきて、
妻文子が、いつものように、
「あなた、お薬は?」というと
「そうか」と答えて蚊帳を出た。普段のように睡眠薬を飲んで、
また蚊帳に入った。
文子はその時、何とはなしに、ハッとした。
<夫は既に二階で、睡眠薬を飲んできたのではないだろうか。
それを、私に、いつものように
「お薬は?」と言われたので、
反射的に、また吞みにいったのではないだろうか>
胸騒ぎがしたが、それをどうしても尋ねることができなかった。
そのまま二人は深い眠りに入った。
龍之介にはそれが永遠の眠りとなった。

写真
芥川比呂志氏を膝の上に座らせた「芥川龍之介」

あの名文はこのような生活環境の中でかき上げたのか!
芥川龍之介の人間は好きではないが、
作品は「凛」としてどれも好きである。


芥川龍之介の遺書は、
妻文子、小穴隆一、菊池寛、竹内得三(義父の弟) あての四通であったが
其の他に、
「ある旧友に送る手記」という、久米正雄宛の手紙と、
「或る阿呆の一生」
の原稿があった。

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夏潮に、嬉しさこみ上げ・・・・・!

2016-05-27 18:25:09 | Extra
散髪しさっぱりして、いい男になって帰ってきました。

帰りの途中
知りあいにばったり、からかっていると、
いきなり、時事論争になった。
『自分に甘い』のと『セコさじゃ』
俺は、奴にはゼッテイに負けネェ・・・
勝負だ!と胸を張って言いやがる。
まずい!逃げよう・・・!
途中で振り向くと胸を張った、子豚が鉢巻をして、
塀に何度も体当たりしていました。

昨日は暗くなるまで、
サラ・ボーンの曲を聴きながら、鎌倉の海岸で戯れておりました。
数十年の付き合い、夜の海岸でも似合う声だとは思いませんでした。


























顔写真は、名刺{ブログに掲載させてください}で
快く承諾いただいて掲載してます。


ま~ったくぅ・・ぅ!

{許可・・スル}



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後味のいい別れは・・・・・! 

2016-05-26 23:43:01 | Extra
後味のいい別れは、人の心を優しくするのだろうか!
私ごとき人間にも、ひとつ、ひとつ記憶をたどって、語りかけてくださる残像は、
浜辺の潮風に吹かれて、かなたを見ていると、
人のつながりの不思議さになおさら鮮明に浮かび、心が奪われてしまう。
そして、
何げない風景が幼いころへの郷愁なのだろうか、つい目が奪われてしまう。

鎌倉、江の島海岸の風景です。






















私の巾着袋の中にある名刺入れには、
表題『ブログに掲載させてください』と
印刷してある名刺が入っており、渡しながら
カメラを見せ、撮った写真を全部お見せしてから、
削除してほしい写真の時は、当人の前で削除します。
顔写真は必ずお断りを入れてからの掲載ですので
遠慮なく投稿しています。
これはいい、こっちはダメという会話も、又、心安らぐ一瞬でしょうか。
高速飛ばして、今の時刻になりました。
今日はこのあたりで・・・・・。


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関東大震災の年の・・・駅弁!

2016-05-25 21:57:01 | Extra
今日は何もしないで、ゆっくり休養日に当ててみたら、
気が抜けたような、
何もしない日でした!
自分でも随分器用な性格だなと再認識したところです。

かねてより、頼みごとをしていた鎌倉市のお宅から連絡があり、
出かける準備をしている最中です!

横浜驛
崎陽軒
昭和30年(1955)
80円


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

沼津駅
桃中軒
大正12年(1923)



※御鯛飯のコピーは時代でしょうか?
大正12年12月11日、製調の押印ですが

危険
車窓からも
顔や手を
出さぬ様に
して下さい
(東京鉄道局)

この年関東大震災が9月1日にあったばかりの年でした。
別荘地、鎌倉も火事と津波の被害で多くの方が亡くなれた年でした。
コメント (3)

アクセスが下げ止まりません・・・・・!

2016-05-24 21:47:22 | 節三・Memo
メモを入れる巾着がな~い!
カメラ、よし。
茶色のボールペン、よし。
タブレット、よし。
名刺、よし。
薬、よし。
小銭、よし。

巾着が所定位置にな~い!

ブログコメントに返事を書いたら、
『疲れているようですね』と似たコメントが、ひらひらと羽を広げて舞い戻ってきた。

疲れてた!!
仕事部屋が檻に見え始めていた。

冷静な判断をくださった、意見には従うが最良策!!
ウン・・・・!
この辺で、『迎賓館』のような部屋に立て直す必要がある・・・・ウン

しかし・・・・巾着袋がな~い!!

 

ルーシー・節三・林田さんの記事にアクセスが下げ止まらない!

一冊の著書から「スカッと」した読後の余韻が、醒め、沈黙に変わった日から、
ブログ開設の必要が目の前にちらついていました。
著書の中の林田民子さん、架空の人物でも実在の人物でも、私にはどちらでもよかった。
むしろ、実在の人物として、登場していたらこれほどに被爆者を代表して喝采を受けるに
与えする物語はない、と著書を小脇に抱えて、そっとほくそ笑んだであろう。

ブログが拡散しました。
著書に集う会も発足し、著者も招待されています。
かなりの拡散効果と思いました。

後日、私の心を凍てつかせたのは、
実在の人物として登場した「林田民子」さん
実在の人物「太田節三」をも登場させ、林田民子さんを秘書に
設定し、かつトルーマン大統領を投げ飛ばした「林田民子」は後年、慈善事業に力を注ぎ
林田民子さんが「しばらく節三さんをお借りします」と、
花を添えたルーシーのお墓に語りかける情景でした。

林田民子さんと太田節三の接点?
著書には渡米中の船の中とありますが、
節三の兄六郎の後述からはうかがえません!

著書、お墓参り時間の流れは
日本女性の奥ゆかしさをを表現させた、鳥肌も立つくらいのとても美しい情景でした。

節三はアルゼンチンで兄六郎が身を投じて生涯を終えた道徳的な慈善事業とは、ほど遠く
慈善事業には全く興味はありませんでした。

「林田民子」の存在は著者からも聞けません。

林田民子さんの甲冑の写真は、手が加えられているという情報を受け、
著書を読まれ、胸のすく思いに浸った皆様の気鋭をそぐことが無いようにと願いながらも、
林田さんを探さなければなりません!!

実在の人物「太田節三」を登場させなければよかったのに!
つくづく思います!
しかも一番センセーショナルな部分にです!

巾着袋、ブログ書いてる間に、歩いてくる訳ないですよね。

巾着が無~い! 
明日は何もしません。
出かけます!

コメント

ルーシーはスキャンダルと闘う素敵な女性です・・!

2016-05-22 22:53:24 | 節三・Memo


大叔母ルーシー・バニング・太田

livedoorブログ、2016年5月21日で紹介され
コメントをいただいた記事を・・・。

Mr.Toyoguchiのgooブログ「太田節三の慕情」最新記事を抜粋で御紹介致します。

Mr.Toyoguchi「Lucy Banning ルーシー・バンニング(バニング)は
1926年当時来日した時は、まだ夫とは婚姻関係にありました。
来日の撮影写真は同年5月ですが、間もなく梅雨の終わり、
ルーシーと節三はアメリカへ帰国します。
ルーシーと3番目の主人との婚姻が離婚の手続きで終止符を打つのは
1927年、1月12日です。
この日まで二人は静かに暮らし、1年後1928年1月に入籍します。
二人の婚姻は、アメリカで正式に執り行われています。
1926年の滞在エピソードは沢山ありますね。
ルーシーは節三がまだ若いころ、ルーシーの母の影響で、一人訪日しているようです」。

「1929年 25歳でアメリカへ渡った林田民子さん。
とてもきれいな方ですが、
花嫁写真・・・アメリカの男性が日本から花嫁さんを捜すため、
自分の写真を日本に送り、応募した女性が当時たくさんいました。
林田民子さんはその中の一人で生まれは、
熊本県。
生涯アメリカで暮らしたといわれております。
どなたかご存知でしょうか?
夢の中に生きた男たち著者 前田秀峯さん
著書の中では林田民子の名前で登場し、
1945年 アメリカが日本に原爆の投下を決断したトルーマン大統領を、
投げ飛ばしたと書かれております。
その女性に触れてみたくなりました」。

Mr.Toyoguchiは、太田節三氏甥子さん。なので、
ルーシー・バンニング(バニング)さんはMr.Toyoguchiの「義理の叔母」。
ルーシーさんに関する米国記事は数年前に彼女がモデルとなったノベルズが
発売でかなり増えている。
それでもそれらの記事は2004年の
某ページ(日本人の原文がもとになっている、と書かれている)
からの記述がほとんど。
日本人格闘家の先駆者・太田節三氏はルーシーさんの
「一目惚れ」以降、米国マスコミの嵐に吹かれていた。
米国ページで太田節三氏関連の記事がほとんど出てこないのは、
「米国人と外国人の恋愛を良く思わない傾向」が米国に現在もあるからだろう。
Ad Santel アド・サンテル氏との対戦記事も出てこないのだ

一昨年の夏、「林田民子エピソード」が日本中のTwitterで大ブーム。
そのエピソードでは、太田節三氏と林田民子女史がホワイトハウスへ
招かれたことになっている。
太田節三氏が著名な方であっても、政界関係者ではない日本人を
ホワイトハウスに招くだろうか。
その林田民子女史に柔道を教えたのが太田節三氏で、
林田女史は太田氏の秘書だったという。
「夢の中に生きた男たち」、夢が感じられる著書名だけども。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

{toyo0181}
上記ブラウンカラーは私が書いた記事の抜粋を読者が自分のブログに、
英語と日本語で転記したもので間違い無く、
英語版も読まさせていただきました。
又、記事の一部への返信は幾度か書かせていただきました。

林田民子さんの記事は2日前に書きました。
林田さんのことは私は否定するために、知りたくなったのでは無く、
ただ「夢の中に生きた男たち」の中では林田さんと節三が、
ありえない想定で描かれ、読者を喜ばせ、ブログでは相当話題になった、
著者が知る林田さんはどんな方か、他意なく知っておきたい願いだけだったのです。

残念ながら、太田と林田さんの接点がないのです。
節三は秘書を傍らにする仕事ではなかったと・・・。

私が今缶詰状態になっている、1930年前後アメリカと日本の時代背景、
それは、食べ物・交通手段・着物・建造物・貧民街と、富裕層の生活・人物像・・・等
能力以上の資料の収集とまとめに鉢巻をしているわけですが・・・
これこそ、帰国後の節三の足跡を知る手掛かりと思っております。
この調べで「夢の中に生きた男たち」の著書を云々するつもりは
毛頭なく、帰国後節三を取り巻く、政界等その苦悩に身を焦がした心情を
つい・・・。

アメリカでサンテル戦も、節三も話題にならないのも、アメリカを否定し、
日本を優位に描いた某作家の記事が影響されていませんか?
自分の国を否定されたら、誰でも面白くないでしょう!

私と同じサイトのブログに記事を寄せる、アメリカに住む
某作者も警鐘しています。
オバマが広島で、sorry と発しても、「原爆投下は間違っていた」と
政治的にとらえてはいけないと。
アメリカ人は、自尊心の強い人間の集まり、自分のしたことを間違いと
認めないのだと。

・・・・・・・・・・・・・・

大伯母ルーシーはアメリカ人で、スキャンダラスな女性。
日本、日本人の登場など、必要のないほど話題が尽きません。
アメリカのブログは、アメリカで楽しめる内容でいいのでは?
日本人に知らせるための学術書を書いているわけではないでしょう!
無理にアメリカの著書、ブログに、サンテルや武術、節三を登場させなくても!
それでいいのでは?

いつも真摯で、貴重な記事ありがとうございます。
練習で声を壊しませんよう、たまには休憩ください!
 
※少し疲れて拙い文です {Toyoguchi}

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吉川英治の馬力と…さやえんどう!

2016-05-21 22:38:12 | Extra
末娘、香屋子が小学校1年になった時、7年かけた「新・平家物語」が完結した。
原稿の量は、400字詰めで1万2000枚。
積み上げた原稿用紙の横に香屋子が立つと、
原稿用紙の方が50センチほど高かったという。


吉川英治の書斎

へぇ~ すげぇ~


こんないい天気なのに、自分の部屋が檻に見えてきた!
何度か脱出を試みたが、結局、すごすごと舞い戻ってくる・・・・・!
一日中、思い切り外でぶらぶらしてみたい・・・・と
思ったとき
「さやえんどう」と「母」が瞬間クローズアップした。

4月の初め、武田信玄の娘、松姫のお寺に行った帰り、
近所の畑にさやえんどうの花が咲いて、「きれいだなぁ」と見惚れた時があった。

思い出の少ない「母」が
さやえんどうの味噌汁を吸う私を見ている。
具は山ほど入っていた。

ヘタと筋を取り除くのが面倒で御椀一杯吸うのに
別の具の何倍も食卓の前に座っていた。
さやえんどうの時だけは、母も正面に座っていた記憶がありありと浮かび、
一瞬、首を・・・クィ・・と持ち上げてしまった。

私は性来、落着きのない子であったかもしれない!
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ずらか・・・ろうか・・・! 林田民子さん!

2016-05-20 20:50:24 | 節三・Memo

缶詰状態から早く抜けだし、
ゆっくりと散策してみたくなり始めました。

いっそ!出かけようかな!・・・と思っては
その都度、首をカクン・・・・・です!




1920年 25歳でアメリカへ渡った「林田民子」さん。
とてもきれいな方ですが、
「花嫁写真」・・・アメリカの男性が日本から花嫁さんを捜すため、
自分の写真を日本に送り、応募した女性がたくさんいました。
「林田民子」さんはその中の一人で生まれは、
熊本県。
生涯アメリカで暮らしたといわれております。
どなたかご存知でしょうか?

「夢の中に生きた男たち」著者 前田秀峯さん

著書の中では「林田民子」の名前で登場し、
1945年 アメリカが日本に原爆の投下を決断した
トルーマン大統領を、投げ飛ばしたと書かれております。

その女性に触れてみたくなりました。


パソコンの空容量が亡くなりますと、
いつも、最新のバックアップのファイルだけを残し、
あとは、ぜ~んぶ、削除です。
私ごとき、素人はここまでが・・限界で・・・す!

コメント (1)

ルーシー・節三・・・静かに待つ

2016-05-19 23:28:06 | 節三・Memo

 

パソコンの容量が大幅に空けることができ、ほっとしているところです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

{なつめろダイアリー} さま記事より

1926年(大正15年)、は驚きです。当時ルーシーさんは太田氏との恋愛になったばかりらしく、御亭主との離婚がまだの状態。米国でのブログ記述には「ルーシーさん1926年初来日」が出てこないのです。また、当時米国の多くの州では「外国人との結婚ができない」ことになっていたため日本で御結婚なさったんだなぁと。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

{toyo0181}
料亭の写真が1926年(大正15年)を指摘されているのかと存じますが、

・・・・・・ルーシーは当時来日した時は、まだ夫とは婚姻関係にありました。

写真は5月ですが、間もなく梅雨の終わり、ルーシーと節三はアメリカへ帰国します。
ルーシーと3番目の主人との婚姻が離婚の手続きで終止符を打つのは
1927年、1月12日です。
この日まで、二人は静かに暮らし、法律に従い1年後1928年1月に入籍します。


排日法実施後、厳しい環境ではあったでしょうが、
2人の婚姻は、アメリカで正式に執り行われています。

この1926年(大正15年)の滞在のエピソードは沢山ありますね。

アメリカでのブログはよく知りませんが、ルーシーは節三がまだ若いころ、
ルーシーの母の影響で、一人訪日しているようです。

参考になりましょうか?
コメント (6)

パソコンのメンテナンス・ついでに頭も!ごめん!

2016-05-19 20:03:22 | Extra
今晩は!

外出から戻りましたら、

ディスクの容量が無くなりますというので
これからパソコンのメンテナンスです。
ついでに、私の頭もです。


鎌倉 由比ヶ浜、風景


青梅のお祭り


明日、お目にかかれるといいのですが!
期待して始めます。
コメント (2)

悪代官もびっくり!こんな奉行もいるのか!

2016-05-18 20:44:27 | Extra
資料作りが進まない理由がある。
集中力を元へ戻すのに30分はかかるのだと脳科学者は云うが、
実感として、納得してしまう。

引越しの荷造りで懐かしいものに出会うと、つい手が止まる。

資料作りに別の資料が出てくると、
これはあっちへ!これはそっちへ!これは・・・・屑籠か? 
日が暮れて、さっぱり進んでいない事に慌て、
気分転換と買い出しに出ても、
妙に頭の上に手が届く巨大な狂い雲が渦巻いているようで、
気が晴れない!

そんなこんなでボニーとクライドが出てきた。
若い頃、引き込まれた映画の一つ。
「俺たちには明日がない」を
作らせた、ボニーとクライド。




ボニーは頭のいい子で、きれい。
ただ、感情に起伏のある子で、かっとなる子でもあり、
クライドは悪がきを一手に引き受けている。

映画のことは専門家にお願いし、

このファイルが、手元にあったのは、クライドと太田節三の悪がきさ加減、
ボニーとルーシーの人を恐れぬ、大胆さは、
大恐慌の最中、禁酒法、中国人に代わる、日本人への排日運動の進む中、
1930年代のアメリカ、病んだアメリカの暗い時代が引き起こした事件。
ボニーもクライドも、妻を失って孤独になった節三も、希望を失ったていた、
其々の人生が私の頭の中で錯綜し、つい、ポイと捨て切れなかったのだろう!

この繰り返し、資料の整理が進まない理由がはっきりして、
気分がよくなった・・・・のだが!
つい見た、ニュースが悪い!



そんなこんな、日本の知識人の一人のやることは、セコすぎる!

蜜蜂より
「甘い汁は私の専売のはず!」
東京都奉行 殿


コメント

飼い主が亡くなり、猫、猫、猫たち・・・どうする!

2016-05-17 20:46:15 | Extra

「鞍馬天狗」

書いた大佛次郎は白いスーツも似合い、中国服も似合い、
ヨット、ゴルフ、テニスを楽しみ、横浜のホテルで、仕事が一段落すると、
一階のバーで、コニャックを飲む。
民衆座の「青い鳥」でチルチルとミチルで水の精を演じた、女優、吾妻と結婚した。
華のある生き様である。
地唄舞の「竹原はん」とは、晩年の関係。
がんセンターに入院した大佛を、古希に近い女性が門前仲町の深川不動で
冬の寒い中お百度を踏む。
ひとりの女性にこれほど愛されるとは・・・。

戦争中、大佛は疎開をしなかった。
出来なかった。
無類の猫好き、十二匹を飼っていて、彼らを連れての疎開は無理だったから。
生涯に勝った猫は、五百匹を越え、その種類の内訳は、
シャム猫に限らず、皮膚病の猫、目の見えない猫まで・・・・・。
捨て猫を見ると、ひょいと、拾ってきた。

子供のいない大佛が亡くなり、、夫人もなくなった。

家政婦は見ていた!!

大佛家で十数年働いていた女性が、猫を愛しつづけた大佛の無念を引き継ぎ、
猫たちすべてを連れて、信州の小さな村に移り住んだという。

「この子たちが、生きている間は、私も死ねないわ。最後の一匹を私が抱いて、
一緒に死ねたら、理想よね・・・・・・!」

鎌倉長谷の大仏様の裏手に居を構え、ペンネームを大仏様から拝借し、
里見淳、久米正雄ら鎌倉文士と老童チームの名で野球をした、
大佛の幸せは、自分で作ったものなんだろうな・・・・と

「俺には・・・・な!」と
つぶやき、天を仰いだ!

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