春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

林田さん・ルーシー・節三・記事への・・・おねがい!

2016-05-31 14:48:55 | 節三・Memo


{日光東照宮}{太田家所蔵}

節三・ルーシー夫妻、林田民子さんの記事にアクセスいまだやみません。
掲載当初の記事にまで及んでいることから、「お願い」です。

林田民子さんが原爆投下の指示を下したトルーマン大統領を投げ飛ばした下りの
ページはたくさん見ますが、
「書物」を読んでから投稿したという記事は少なかったです。
ブログを投稿した方は林田民子さん(?)も節三もルーシーも実在の人物だと、
その書物で初めて知ったようで、
当然登場人物の予備知識のない方は、
書物の人物像を実在の人間そのものと思ったようです。
節三を身近に思う私からは、あの書物は3度まで読むパワーはありません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

多くのブログ記事・・・「林田民子」さん明治37年25歳で渡米とありますが

①節三の渡米は1919年。
 節三と船の中で知り合ったとしますと、明治37年生まれが正しければ
 林田さん16歳の時の出来事です。

②明治37年25歳となると渡米は、1929年となります。
 この年は、ルーシーが亡くなって節三混乱期の年です。

③書物も、船の中で取り合ったと書いてありますので、16歳と書かなければなりません。
 が・・書物では25歳と書いています。
 そうすれば林田さんの生まれは明治21年生まれとなります。
 ただ、書物からは林田さん明治37年生まれの記述は見当たませんでした。

 ※ブログ投稿された方の、明治37年生まれという記述の根拠は、
 著者が来日した時の雑談からの間接情報かと思われます。
 ※林田民子さんの存在は、著者自身も曖昧な返事をしていますが・・・。
 
④書物では林田さんと、ルーシーはかなり親しい間柄と書いています。
 1929年ルーシーは節三のプロポーズを受け、
 林田さんはルーシーと節三達の新婚旅行に「日本行き」を勧め、
 いろいろ助言をしています・・・・・
 ※・・1929年はルーシーが節三との新婚旅行先イタリアのフィレンツェで
 亡くなった年です。(死亡届はイタリアで済ませ・小坂町に届けられてます)
 お墓にいる人物にプロポーズし婚姻届を済ませ新婚旅行・・可能でしょうか?

 ※ルーシーと節三は1926年婚前旅行で帝国ホテルのワンフロワーを貸切り
 日本の各地を観光し、鎌倉では海浜ホテルに投宿し、
 三船久蔵氏らと寺社仏閣めぐりの観光を楽しんでいるのですが・・・。
 ※ブログに掲載しました栃木・日光東照宮、
 鎌倉料亭での三船久蔵氏・芸子さんとの記念写真が時系列を証明します。
 
⑤著書・・の実在の人物の相関関係、人物像の描写のディフォルメの
 うまさは実在の人物の描写でなければピカ一だと思うばかりです。
 
 ※実在の人物を登場させた割りには、辻褄の合わない年表作成です。
 ※書物は出だしからの躓きです。
 ※書籍にするのであれば!!
 肝心なところだけでも、もう少し時間を割いて調べてもらいたかった!!
 その思いが消えません!!
 
ブロガーさんの夢を壊すような解析になりました。
けれどこれはほんの一部です。 
沢山のブロガー様からの反感を買うかもしれません・・ね!

というわけで林田民子さん節三・ルーシーの記事関係の解析は、
ここまでとさせて下さい。
書物やブログ記事を解析し続けることは本意ではありません。
今後、私のブログで林田民子さんの名前を見つけることは出来ないかと存じます。

節三関係の記事は投稿しますが、新説と言えるパワーではありませんので、
期待に添える事は出来ないかと思います。
ご理解くだされば、幸いです。


{太田家所蔵}
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鎌倉散歩・・八幡宮

2016-05-30 16:47:14 | 散歩
この日25日はとても暑い日でした。
訪問したお宅での会話を、かみしめながらの、
鶴岡八幡宮でしたが、修学旅行生や観光客で一杯で
願い事を聞き届ける神様も大変だろうな!
と思いながらの散策でした。

今日、昨日投稿した記事を見た方から電話で
少し「ウン、とかスン」とか何かを書けばよかったのにと・・・・・!
それじゃ「ウンとかスン」だけ書きますと云ったら、
「阿呆」と云って、ストローをすする音が聞こえた。

今日は政子安産祈願のために作られた由比ヶ浜から正面から、
鶴岡八幡宮の入口と弁財天宮の周りの池の風景を見ていただきます。

鶴岡八幡宮入口入れば撮影禁止になります




この参道の両サイドは一方通行の車道ですが、車を止めるなら
この画面の右側ビルの辺りの駐車場が安く、平日 終日1500円です。
ちなみに私はこの日、別の駐車場で4500円を収めました。
駐車させたばかり、移そうかと、脳裏をかすめたのですが、
思いがけず、見学に時間がかかり・・・・・。





とにかく長い参道。画像真ん中の小さい点が八幡宮てす
途中飽きて、左サイドに降りて土産店を覗いたりです。





手前に信号があり、八幡宮に行く人で押し合いです。










右に行きますと、弁財天のお宮があり、辺りはハスの葉が繁る池です。






亀の口めがけて餌を放る女性が二人。
「餌が亡くなるまで粘りますよ!」
と笑いながら、亀を呼んでいました。



名刺を渡してこの「笑顔」
私も満足でした。



ひとしきり休憩しながらの弁財天の池でしたが
参道に戻りました。



これから「舞殿」・・・静御前が義経を慕って舞を舞った鶴岡若宮の回廊跡地に建っています。
出店をのぞきながらゆっくりと歩きます。



画面手前の建物が「夢殿」です


 
M・Aさん、
これから出かけます
{戻り次第昨日のページにウン・とか・スンを入れますので、待っててください!!}

 

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鎌倉・・鶴岡八幡宮・・・・お礼に・・・!

2016-05-29 19:38:43 | 散歩
※加筆した記事です。
一度手放した記事に加筆する作業はなかなか難しいですね。
昨日の気持ちが途切れているだけに、昨日の気持ちになって書く。
ウ~ㇺ!
八幡宮は今年に入って度々訪れていたものの、25日の八幡宮は、
見物するという意識が薄れて、ふらりと立ち寄った感じでした。
もう二度と会わないかもしれない、方との「後味のいい別れ」をしたばかりでした。
質問に答えるご高齢で療養中の方の、記憶をたどり、
とぎれとぎれの言葉のはしはしの優しさに、ふと、自分の記憶を形で残したい思いが、
あったのではなかろうか?
錯綜する私が鎌倉の地に長時間いさせる、都合の八幡宮でした。



一気に八幡宮のページですが、階段を昇る前には
入口の太鼓橋を観、弁財天の蓮池でだいぶ時間を費やしていました。



「舞宮」を通り越しての八幡宮です。


写真を撮っている場所の背後に「仕事守」の看板を掲げた、
おみくじ場があり、
散策の方の足を止めてしまい迷惑をかけてしまいました。




観光地、外人の方がたくさん、
左を見ても、右を向いても必ず目の中にいます。


人気のない方から、巫女さんを追って、パ・・チリ!




おみくじこれからの人生の糧にします。
真剣なまなざしが、いいね!!
けど、人のことも気になる。人情ですよね・・・。
ブログ掲載の名刺を渡し、許可された一枚だけの写真。
削除したくなかった写真
内心、ほっとした。
いいものは、誰が見てもいいんだね!!



学生さんは顔なしで登場・・



外人さん日本語知ってるかなと・・・
なんと流暢な日本語。文法は私より「立派」
家に帰ってから、英語のおみくじもあったのかな?
確認すればよかったなと、
「詰めの悪さ!!」



見つめられて、何、書けば?
要件澄まして
また今度!!








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芥川龍之介・・・生き様おそるべし・・

2016-05-28 21:00:48 | 残念・・・!
なよなよした作家は好きではないが、
芥川龍之介はその中の一人であります。
作品は極上なのに生き様はあまり好きではない。

その芥川龍之介の『死』を扱った新聞に目が行った。
新聞は昭和2年、3年代の文芸界から・・・



昭和改元から間もない昭和二年一月、芥川龍之介は
鵠沼から田端のいえに帰った。龍之介は、前年(大正15年)四月から転地療養をしていた。
鵠沼での龍之介は、あらゆる病気を背負って
やせ細り、死を願い、それを口ばしった。

散歩に出ると「青酸加里を売ってくれませんか」と
町の薬屋を一軒一軒訪ねた。
ある日、五、六十匹の蠅を飲み下したが、猛烈な下痢をしただけで、死にはしなかった。
五月のある日、龍之介は、仕事場にしていた、帝国ホテルの一室で薬を飲んだ。
しかし、妻文子が駆けつけるのが早く、応急手当をして一命は取り留めた。
七月二一日、龍之介は、佐多稲子を呼んだ。
龍之介は稲子に、自殺未遂のときのことばかり、執拗に尋ねた。
七月二十二日の夕方、龍之介は、上野桜木町の宇野浩二のの留守宅を訪ねた。
当時、宇野浩二は強度の神経衰弱のため入院していた。
龍之介は、宇野夫人に、見舞の菓子折りと浴衣地を渡し、宇野から来た手紙を読んで聞かせ、
ひとしきり泣くと、長い髪の毛をさっとかき上げて、「ではお大事に」と言って、去って行った。



七月二十三日の朝九時、龍之介は上機嫌で眼を覚ました。
朝の食事は、いつもより多く、半熟卵四個と牛乳を飲んだ。
夕方二人の客が来た。階下の八畳で夕食を共にし、
日本酒を猪口に二、三杯吞んだ。
珍しく元気で話が弾んだ。客は十時頃帰った。
翌七月二十四日の午前二時頃、龍之介は二階の書斎から降りてきて、
妻文子が、いつものように、
「あなた、お薬は?」というと
「そうか」と答えて蚊帳を出た。普段のように睡眠薬を飲んで、
また蚊帳に入った。
文子はその時、何とはなしに、ハッとした。
<夫は既に二階で、睡眠薬を飲んできたのではないだろうか。
それを、私に、いつものように
「お薬は?」と言われたので、
反射的に、また吞みにいったのではないだろうか>
胸騒ぎがしたが、それをどうしても尋ねることができなかった。
そのまま二人は深い眠りに入った。
龍之介にはそれが永遠の眠りとなった。

写真
芥川比呂志氏を膝の上に座らせた「芥川龍之介」

あの名文はこのような生活環境の中でかき上げたのか!
芥川龍之介の人間は好きではないが、
作品は「凛」としてどれも好きである。


芥川龍之介の遺書は、
妻文子、小穴隆一、菊池寛、竹内得三(義父の弟) あての四通であったが
其の他に、
「ある旧友に送る手記」という、久米正雄宛の手紙と、
「或る阿呆の一生」
の原稿があった。

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夏潮に、嬉しさこみ上げ・・・・・!

2016-05-27 18:25:09 | Extra
散髪しさっぱりして、いい男になって帰ってきました。

帰りの途中
知りあいにばったり、からかっていると、
いきなり、時事論争になった。
『自分に甘い』のと『セコさじゃ』
俺は、奴にはゼッテイに負けネェ・・・
勝負だ!と胸を張って言いやがる。
まずい!逃げよう・・・!
途中で振り向くと胸を張った、子豚が鉢巻をして、
塀に何度も体当たりしていました。

昨日は暗くなるまで、
サラ・ボーンの曲を聴きながら、鎌倉の海岸で戯れておりました。
数十年の付き合い、夜の海岸でも似合う声だとは思いませんでした。


























顔写真は、名刺{ブログに掲載させてください}で
快く承諾いただいて掲載してます。


ま~ったくぅ・・ぅ!

{許可・・スル}



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