春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

大叔父・太田節三の慕情を新装しました・・・。

(11)柔道にのめり込む節三。兄六郎は・・・・

2015-12-20 01:05:09 | 節三・Memo

太田節三


「六郎君は、負けん気と人の隙を見抜く力は人一倍強い子でしたよ。早稲田実業に入ったといっていましたが、わしは君の剣道は筋がいいから続けるようにと、励ましたんですが、どうしていますかね」
悌三は首を傾げてしまった。
「わしは講道館の外に有信館で剣道、居合道、杖道を中山範士に教えを乞うたんですが、近々中山先生と三船先生がお見えになりますが、是非六郎君を中山先生に紹介しようかと、一案していたんです。」
小柄な「なお」は腿の上でこぶしをギュッと握り部屋の隅で児玉の思いを目を細めて聞いていた。
悌三は、「有難い」ことだ。思った。
同郷人とはいえ、中央の名だたる人物との交流の広さのみならず、皇太子にまで「秋田の児玉」と唸らせた、目の前の巨大な塊、8歳年下の児玉高慶の心の広さに感銘すら覚えた。
六郎のことは悌三こそが知りたい事であった。
節三は勉強は嫌い、好きなのは喧嘩。誇れる程勝つ。しかも単純な思考の持ち主。面倒なことには首を突っ込まない。何事にも「どうってことない」であっけらからんとしているが、六郎は学業もでき非常に繊細な神経を持っている。他人の痛みを放っておけない性格。寒さに震えるのを見ると、自分の着ているのを与える、空腹に動けないでいると有り金全てを食堂で使い果たす。そういう話は妹のミツから聞かされていた。
だが、帰省中に蔵の家から「名刀」を盗み質屋に入れる大胆さも持ち合わせいる。
「今度、帰った時児玉師範のお言葉は伝えておきます」
それが精一杯の返事であった。
次の日から節三は、児玉道場で喧嘩の戦いと武術の戦いの二刀流を熟す場を得た。

「安い俸給、すさまじい寒気、何か月続く暗闇、危険絶え間なく、生還おぼつかし、身体強壮にして身長五尺二寸(157.6センチ)以上、年齢25歳以上、40歳未満の者にして、堅忍不抜の精神を有し、かつ多量の飲酒をせず、歯力強健にして梅干しの種を砕きえる者」
秋田魁新報の白瀬矗が出した南極探検隊の隊員募集の記事を何度も見返し、呆然と立ち尽くしていた。
募集は終わったと告げられた。居合わせた、白瀬中尉には「君は16歳と若い、南極からは生きて帰れないかもしれない。過酷は想像を超えた物がある。君を巻き込む事は出来ない」とはっきり断られた。
だが、100メートルも歩かないうちに、白瀬中尉が住んでいる、数寄屋橋の印刷屋へ行ってみようと、決めていた。だが、何度訪問しても、白瀬中尉には会えなかった。

明治43年11月28日、芝浦埋め立てには、三宅雪嶺デザインの「南極旗」を手にした3万とも~5万とも言われる群衆が「開南丸」の壮行会か開かれ、ただちに出帆する予定ではあったが、荷揚げ作業に手間取り29日になった。その群衆の中には、白瀬中尉の夫人「やす」さん、長女の「ふみこ」さん、そして腰までのマントをはおり、学生帽の庇を深々と被った六郎も、少しづつ陸地からなれていく「開南丸」の船尾を群衆が岐路についてもまだじっと腕を組んだまま見送った。

あくる日16歳、六郎は「朝鮮から満州」に行こうと決め、決行。
その後5年間六郎の足跡は消えて仕舞った。

3、4ヶ月の間に児玉師範の眼に、節三の柔道は「研磨された原石が輝いていく宝石のようだ」と映っていた。紅く色を染めた葉は、跡形もなく、間もなく白銀の景色が花輪村小枝指にも、小坂村にも容赦なく襲ってくる。

太田節三 13歳
ルーシー・バニング・ロッシ32歳
佐藤千夜子 13歳  明治44年が間もなく始まる。 
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10 節三、児玉道場へ入門する

2015-12-14 07:30:02 | 節三・Memo



道場の奥から段取りをする児玉師範の門下生の甲高い気合の響きが節三の背中を震わせた。
飄々としたカイゼル髭の兄悌三の前をつかつかと歩を進め道場の中を覗こうとした、その時、節三は一瞬遮られた巨大な黒い塊にギョッとした。見上げると坊主刈りの肉付きのいい男が節三をじっと見下ろしていた。児玉高慶。大正14年昭和天皇が皇太子の時、5段以上が参加資格を持つ御前試合の剣道で強敵を次々と破り、昭和天皇摂政治宮殿下を「秋田の児玉か」と唸らせた人物である。
兄悌三からは児玉の奥さんは、姉の「ヤエ」が隣村毛馬内村の豊口家の分家の「石川伍一」の弟寿次郎さんのお嬢さんでさんで「寿子」さんという名前の人だ。と聞かされていた。
道場へ来るまではいくらか親近感を抱いてはいたが、目の前の黒い山のような塊を見た瞬間、その思いはどこかへ吹き飛んでしまった。
「よくぞ、いらした」
容姿とは似つかわしくない優しい声で、悌三と節三に挨拶をした。
道場の中に案内をされると、段取りを見ている、門弟が壁側に人ほど正座をしていた。誰の眼も、凍てつくような輝きがあった。
上座で児玉は地響きがうねる様な声で、「稽古やめ」と指示し皆を正座させると「今日から入門する小坂村の大田節三君だ」と紹介すると「うぉーす」と声が返ってきた。
児玉は節三に「今日は下座で見学するように」と言い、兄悌三一緒に別室に移った。

児玉師範の夫人寿子は、悌三が来るのを知り道場で待っていた。
「ヤエさんはお元気ですか」ともてなし、「妹も2人を去年もうけました」初対面とはいえ親戚の間柄になる2人は妙に穏やかな空気が流れていた。
「節三さんは、喧嘩が得意だとか?」
「手が付けられないです、な。六郎は、問題は起こすけど、喧嘩はしなかったですがね・・」
児玉が口をはさんだ。
「六郎君は、負けん気と人の隙を見抜く力は人一倍強い子でしたよ。早稲田実業に入ったといっていましたが、わしは君の剣道は筋がいいから続けるようにと、励ましたんですが、どうしていますかね」
悌三も首を傾げてしまった。
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9 散歩・・・信玄の子・松姫。節三が通う児玉道場

2015-12-09 21:46:39 | 節三・Memo

多摩御陵
大正天皇の御陵
大正天皇が皇太子の時小坂鉱山を訪れた。
明治41年9月15日小坂鉱山専用鉄道が開通する1週間前である。




松姫像
武田信玄の4女。
上洛果たせず、信玄、元亀4年(1573年)無念の死を迎える。
武田を継いだのは、松姫の異母兄、勝頼。が、勝頼軍は天正3年(1575年)長篠の戦いで、織田、徳川の連合軍に完敗。武田家は衰退の一途をたどる。極め突きは天正10年(1582年)松姫のかっての婚約者、織田信忠が甲斐に攻めてくる。攻めるも守るも万策尽きた勝頼は松姫に、甲州街道沿い、八王子へ逃れるよう勧め、天目山で自害する。1567年織田家よりぜひ信長嫡男 信忠の正室にと望まれ婚約するも、信玄上洛を阻む家康との「戦い」さらに家康のバックボーン信長とも関係は悪化。7歳にして婚約は破棄され、不運な生立ち、松姫は追われるように甲斐を後にし八王子の心源院に陰棲、そのまま仏門に入り、信松尼となる。21歳。
56歳の死を迎えるまで養蚕、絹の織物を近在の人々に教え、八王子市が絹の織物の街として発展したのは、信松尼の存在があったからでしょう。
松姫のお墓は本堂の裏ある墓地、高台で「にっこりほほ笑んでいる」と思わせるような雰囲気で建立されています。
甲州街道の山、谷、山、谷・・日が昇っても、鬱葱とした道を凛とした姿勢で甲斐から八王子まで歩き続けた松姫は、どんな思いを胸で呟いていたでしょう・・・・痛いですよね。


信松院門



信松院観音堂。
松姫、1590年大久保長安の財力を借り建立。

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児玉道場(児玉猪太郎185年頃創設)秋田県花輪村小枝指
父猪太郎の死後、高慶が道場を継ぐ。その高慶、柔道5段、剣道5段の腕前。
「児玉高慶]の名を有名にしたのは、大正14年5月宮内省剣道特別試合で昭和天皇摂政治宮殿下の御前試合で、陸軍戸山学校の教官、加藤文一、京都武專校長、西久保弘道を破り一躍名を馳せ日本一の武道村」と新聞に報道されたほど。
柔道は嘉納治五郎、剣道は中山博道に師事。夫人「なお」は十和田毛馬内出身、情報活動で、日清戦争前夜、殉難した石川伍一の弟 海軍中佐、日露戦争で戦死した「寿次郎」の一人娘。
芥川賞第1回受賞者の「石川達三」とは「いとこ関係」になる。
「なお」は高慶が41歳で病魔に侵され、この世を去った後、高慶も師事した中山博道師範に神童夢想流杖術の皆伝を受け、花輪、大館の婦人会や女学校で教え、晩年は東京で老後を過ごす。
児玉道場には、ブログ掲載の「太田節三」節三の甥にあたる法務省剣道師範の「横田正行」8段、佐藤貞治7段、佐藤金之助8段、加藤庄一、などそうそうたる剣客が巣立っている。節三に柔道を進めた兄六郎も児玉道場の門下生であった。


高幡不動に咲く木瓜の花。
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