春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

飲み過ぎ、丸太から滑った
徳利、背中の与太郎河童
花見の色香に、プハァ~川から顔出し
キョロ、きょろきょろ!

いい国だと思ったけど、置いてけぼりになっちまった。

2018-11-27 23:58:30 | 残念・・・!

 

 

 ☝ 山梨県、黒岳の麓から撮った富士山でしたが、
今日から1週間ばかりの仕事で今年は、
自由に使える時間があるかもしれないと、
喜んではいますが、
投稿する記事が、不足しています。
それに、考えされる法案がすんなり通ってしまった。

「外国人材拡大」は移民。
大雑把にとらえて、
明治初めからアメリカに移民としてシアトルの日本人
12万人が、幾たびも繰り返された排日運動の結果、
1943年、ルーズベルトによって、
強制収容所に収監されてしまった。
安い賃金で働き、収益を上げる日本人に、
アメリカ人の働き口が無くなった、大きな社会現象。

今回成立した法案、詳細はこれからだと、
なんだか、訳も判らず決まってしまった。
東京には、まじめな外国人はいますが、
不法滞在者もまた、たくさんいます。
性風俗、小さなごみ処理場、飲食店、
提出書類を必要としない工事現場、
最初は正式に入国で来た人たちです。
国はどこまで、管理できるだろうか。

それに詳細は決まっていない法案ですので、
何を口にすれば、いいのか?
私、黙らざるをえなく、あえなく孤独。

👇 時間がありましたら、1昨年投稿したブログ、
アメリカテキサスの漁村アラモ湾の出来事を描いた、
フランス映画監督、ルイ・マンの作品を、
取り上げています。

「死刑台のエレベーター」から29年!「アラモベイ」!


コメント

あなた、何歳ですか・・・。

2018-03-04 22:47:28 | 残念・・・!

 

八王子に日傘をさした女性が。
年のころ幾つぐらいだったでしょう・・・。
聞けないものです。
聞いたら、目の周りに青短、赤短、星が20個も飛ぶ、
パンチを喰らおうというもの。
夕方のラジオ、、外国に住む女性に国柄を訪ねる番組。
1998年3年かけ、3度目で山が嫌いだけど、登頂した女性に、
その時あなたは何歳でしたかと。
答えない女性に30歳ごろですか、と、追い打ち。
それより若かったと相槌を打つと、
間があって、なるほど・・・進行役係。
女性は、山が嫌いでも3度目で登頂した理由を喋りたかったのでしょう。
人格を欠いた質問に、ちょいとトーンダウン。


歳を聞いて、判断の材料にするなんぞ、やっちゃぁ行けませんねェ~
人が事を起こすのは、5歳でも20歳でも50歳、70歳でも、気づけば起こすもの。
まして、女性のベールの奥の神秘を、無神経に持ち上げちゃいけません、やね!
天下のラジオ放送局、テレビの視聴料は払っているけど、
春の陽気が蒼ざめてしまった青梅市からの帰り。



☝ 日原、倉沢林道の風景。

コメント

登山口で頓挫、梅で口直し。

2018-02-23 23:00:35 | 残念・・・!

 

冴え帰った今朝、八王子は雪。
そのころテレビの江の島の景色は、
コントラスト見事な晴れ。
昼近く、晴れる気配にむすびを4個。
奥多摩、聖滝に一目散。
が、行けば行くほど、曇って挙句雨。
しかも、目的地までは落石があって、入山禁止のゲート。
本日、登山道口手前で、あえなく頓挫。

青梅の里にも梅が・・・。







 

1時間登れば聖滝があり、百尋の滝はさらに1時間。




昨年8月の落石。2か所。
う~ん!

電話で問い合わせたけど、入山いいとは言わなかった。
3月1日から4月末までの工事だ、と・・・6日後かぁ~。





まぁ いいッか!

コメント

浅はかだった!

2017-02-24 19:58:44 | 残念・・・!

花粉症です。昨日から。
春を呼ぶ「風の舞い」があった、朝から夕方まで
窓を開け放して本を読んでいた。
夕刻からくしゃみ、鼻水、頭痛。

初めての経験でした。症状は今日も止まる処知らず。
ごみとなったテッシュは山になっています。

河北新報。2011年3月27日の新聞。


被災した私たちにとって、「ガレキ」などというものはない、。
それらは破壊され、奪われた大切な家であり、家財であり、
何よりも大切な人生の記憶である。たとえゴミのような姿になっていても、
その価値が失われたわけではない。
気仙沼、リアスアーク美術館の常設展示場にある解説、
学芸員、山内宏泰氏が執筆した文句である。
『ガレキ、という言葉を使わず、「被災物」と表現してほしい』とも述べている。

当時、
被災地の人々も会話では、「このガレキ!」と口走っていても、
ひとりになると、
かじかんだ指を、吐く息で温めながら、
一つ、一つ、と、記憶を取り戻しながら、我が家と家財を、
つたう涙を口で受け、探し続けていたのだ。

被災地から離れた土地で暮らしていた私は、
災害の話題になると、
日頃の言葉「ガレキ」と、簡単に口走っていた。
十把一絡げの「ガレキという言葉」に心を痛める人達がいたのに!

コメント (2)

あぁ~!  羽村取水所

2017-02-13 23:01:05 | 残念・・・!

3~4日前までは、すこぶる元気!
今日は、酒を含んだ気分のように、トーンダウン。

私はこう言った、確認した、
揉み手擦り手、しゃべくり、自画自賛、手の内丸出し、
昔の係長程度の、首長なれば、
なんとなく、頼りがいが無く。

がぁ~大切は、
何かあったら私はこうする、こう言い張る、強さが欲しい!
『追従思考』、と云う言葉のドローンが、何十機も飛び、
トランプの鼻息が、耳元で大きく聞こえ、
寝つきは悪く、いつもの目覚めの爽快感が

てなわけで、明日までは、動いていけないけど、
90分程度の青梅まで・・・
「裸の王様」が、目の前でちらり、チラリ!
多摩川上流、夏、秋は川べりに降りて・・・・

☝☟多摩川、奥多摩湖から流れてくる水流。

奥多摩湖


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コメント

今昔きもの大市・横浜赤煉瓦で林田民子さんを見失う!

2017-01-31 22:00:30 | 残念・・・!

やはり煮ても焼いても、喰えない親分だったトランプ。

1918年終止符を打った、第一次世界大戦の戦士が帰った時に困ったのが、

白人の働き場所でした。
朝から夜まで、日曜日から土曜日まで、勤勉で、低賃金で働く日本人は、
当初、調法がられた人達だったのに、
ついに大正13(1924)年、

アメリカは「絶対的排日移民法」を成立させたあと、
日本人の渡航を出来なくし、
「帰化に不適格なる外国人」と定め、
アメリカの主張する
「日米通商航海条約(1899)」
「門戸開放・機会均等」の趣旨を反故にしてしまった。


それまで日本人はアメリカに憧れていた。
自由な国での、家族を養える高額の賃金を求めて、
膨らむ夢を描いて、あれも、これも嬉々として、荷物をまとめたのに。




しかし夢のアメリカに渡った日本人は、
抗しきれないアメリカの「絶対的排日移民法」法案の根底に、
日本人を嫌う理由の最大の理由に黄色い、顔を嫌う、
アメリカ人の人種差別意識があることを嫌というほど知らされる。

今、トランプさん、そのころと、全く一緒。
悪い歴史を再現している。
1920年頃の書物でしか知らない、アメリカを実演。
そのあたりから、第二次世界大戦の火種かくすぶっていたのに・・・!

「とんでもねぇ~野郎だ!あんたわかるかい?」
「はぁ~?顔見るのも嫌だってのは、判かってんですが・・・」
                  
アベノミクスの自画自賛に酔いしれている、安部さん、
トランプの政策の自画自賛と、どこか似ている。

自画自賛するときは、思考が止まっている時なんだが・・・・!
とぼけている場合じゃありませんョ!
なまくら、なまくらしているあなたの下には、
1億数千万人が、不安の呼吸をしています、のです!


タバコなんぞ吹かして、場合じゃありません!

テキサス、「アラモ・ベイ」の映画がクローズアップする。
白人の恋人に殺された男の風貌、性格、トランプに似ている。

市井では着物でも見てゆっくり、時間を過ごしたいと
思っているのに・・・ねぇ~!

ではまた! 
今昔、着物太市・横浜赤煉瓦で

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【節三・memo】
林田民子さんの記事について、
太田節三の渡米は、1922年十月下旬シアトルへ出発、まで判りましたが、
明確な日付はわかりません。
渡米許可は、1922年(大正11)9月25日
東京府知事から、旅券番号539584の下付を受けています。
「太田節三・身分・戍太郎弟、
本籍地・秋田県鹿角郡小坂町小坂字岩沢平五十三・士族
旅行地名・北米合衆国 旅行目的・学術研究」です。

1919年、12月3日太田節三と林田民子は、「これや丸」に乗って、
シアトルについた。という某、書物の記述は印刷ミス?かと思います。
当時の写真花嫁の最高齢が28歳で25歳は、数人しかいませんでした。

コメント

モグラも困っている!

2017-01-03 20:06:51 | 残念・・・!



午後のひと時でした。
川沿いをゆっくり、
稜線を眺め、川面の木陰を覗いたりです。
八王子市、この場所は、橋を渡れば、武蔵野御陵で、
大正天皇・皇后、昭和天皇・皇后が、います。
春になると、桜が咲き、のどかな情景になります。



市町村、全国24番目の60万人の人口の中核都市。
そのうち、23校の大学に通う学生が11万人が住む盆地。
桑畑だった丘陵は住宅地、工業地となって、どんどん開拓され、
今は、写真で見る昔の面影は、全くありません。
それでも、気づかないところで、空き家が増えたとか。
1970年ごろ、ベットタウンとして開拓された、
多摩ニュータウンなどは、空き部屋も目立ちますね。

八王子市に移った頃は、開発されていない、
穏やかな町と感じたのですが、
最近の益々の開発には、さすが驚いてしまいます。
あちこち、クレーンの姿が目立つのです。

モグラも逃げ場所を探しているでしょう!

20個ばかり、
まさか・・・・・?
メガネはかけていないよ・・ナ


ではまた!

コメント (2)

アーサー・ヒラー!・・・・残念!

2016-08-18 21:05:59 | 残念・・・!

時代背景が映されない「男」と「女」の映画には、興味は無いのですが、
昨日、亡くなったアーサー・ヒラー監督は、
当時のアリカの深層を極める、炯眼があったのかもしれない。

1960年代、250万人以上の兵士を動員して5万8,718人の戦死者をだした、
ベトナム戦争は、普及し始めたテレビが戦争の悲惨さを連日報道していました。
疲弊したアメリカは公民権運動に大学生の「学生運動」が手を結び、壮大な
「反戦運動」の狼煙を上げました。
戦争拒否、のモハメド・アリや、
有名映画俳優、歌手らも、挙って「戦争やめろ」の大シュプレヒコールでした。


そんな中、アーサーミラーは、

「国民の本音は、戦争のない、純愛を求めている・・・・・・!」
そして

裕福で代々ハード大学出身という家柄であるオリバーと、
家柄違いのジェニファーと恋に落ち、
オリバーの父親の反対を押し切り結婚する。
2人が24歳になって、ジェニファーの命が白血病で残り少ないことが判り、
闘病生活に、オリバーは高額の医療費を自分の父親に求めるが、
彼女の病状は好転せず亡くなってしまう。
やがて父と、息子オリバーは、彼女のお墓に・・・・

 "Love means Never having to Say you're sorry."
{愛していれば、後から誤ったりしなくていい!}
{愛とは後悔しないこと}
ジェニファーがオリバーに残した言葉

というような内容の映画を作ります。
これがアメリカ全土で、大反響を呼びます。


戦争に明け暮れる、アメリカ人の深層を極めた、


     
   アーサー・ヒラーの慧眼に・・・・・・。

コメント

トルーマンから・さよならハーパー・リー! Moon River

2016-08-10 20:41:42 | 残念・・・!

先ほど、昨日の夕刊から、アメリカの女流作家、
「アラバマ物語」のハーパー・リーさんが
89歳で今年2月19日に亡くなっているのを知りました。


1930年代、人種雑差別を題材にした「アラバマ物語」の
主人公は弁護士。その子供達の友達を、
ハーパー・リーは幼馴染、後年小説家になった、
トルーマン・カポーティーをモデルにしている。

学校にも行かず、ほぼ独学の小説家・トルーマン・カポーティーの
「ティファニーで朝食を」は、
華麗な淑女、オードリー・ヘプバーンが小粋なパイプを指で遊ぶ、
原作から離れた、洒落た恋愛映画になって、いささか
拍子が抜けてしまうけど、
裏事情を知らずに観る映画としては、「きれい」。


当時アメリカ文学にかぶれていた私の、僅かな記憶の中で、
「ティファニー・・・」の数年後の「冷血」を読んだときは、思わず、息をのんだ。

それがトルーマンカポーティーの作風ではあったけれど・・・・。

幼馴染トルーマンから、リーへというところ・・・・。

 

コメント

新日本紀行!・・・友から近藤富枝さん!

2016-07-26 22:15:28 | 残念・・・!

友が、「新聞見た?」と、別人のような声で尋ねてきた。
「近藤さん載っているわよ!」と、それっきりである。
私はかなりのあわてん坊であるが、慎重な時もある。
今日は、そのどちらでもなく、小雨が降り出した辺りから、
ぼんやりし始めて「どこかでのんびりしたいなと」思っていた。


尋ねた記事を見つけた「近藤富枝」さんの訃報記事だった。

近藤さんの語り。【NHKアーカイブから】
もっとも私はそそっかしいから、南仏蘭西を『なんふつらんせい』と読んだりして、
たくさん失敗もしましたけれど(笑)。  
先輩や同僚と、戦況について話すこともありませんでした。
よけいなことを言ったら、すぐに“引っ張られてしまう”世の中でしたからね。
だんだん戦況が厳しくなって、これはおかしいと感じ始めました。
退却ではなく『転進』と言ってみたり、全滅を『玉砕』という表現に変えたり。
何よりも、(特攻隊戦死者のための)『2階級特進』のニュースをたくさん読むことになって、こんなに若い人が亡くなっていいのだろうか、という思いを持ちました」 


こんどう・とみえ 【NHKアーカイブスから】

1922年8月、東京生まれ
'43年9月、東京女子大学を卒業後、文部省教学局国語課に勤務。
'44年日本放送協会に入局、'45年退局。
'68年に処女作『永井荷風文がたみ#--ほろびし東京の歌』を執筆後、
作家として多くの作品を発表。大正・昭和の文壇史に始まり、
平安・明治・大正の服飾史、王朝継ぎ紙、『源氏物語』関連の著作などがある。
NHKでは、番組ゲストとして〈日曜美術館〉〈美の壺〉などに出演。
武蔵野女子大学(現武蔵野大学)元特任教授、財団法人民族衣裳文化普及協会理事、
王朝継ぎ紙研究会主宰。 

私が知っているのはせいぜい「紫式部の恋」や
節三資料の為に拝見した「本郷菊富士ホテル」
テレビ「佐藤千夜子の・いちばん星」の、関連で
「本日も晴天です」の連続ドラマの内容くらい。


ただ、本人を調べて、「すごい人がいた!」
「気になる作品を数多く書かれた方」
話題にしたことはある。
友は、よく知っているらしい。
近藤さんの生まれた1922年。
関東大震災の前年であって、

20歳のときには、アメリカでは12万人の日系人が強制収容所に送られた年でもある。
多感な青春を戦争に抓まれようとした中で
輝く一輪の花のような方であったでしょう!
「友」の気落ちを思い、近藤富枝さんには、お花・・・・・・・。


     

コメント

町田市、恐竜対策に、緊・急・指・令?・・・・・

2016-07-01 14:03:34 | 残念・・・!




八王子市も夕刻になると、散歩でもしようかと、
蒸し暑つかった昼時を忘れる事が出来ます。
気分転換、町田市に現れる
「恐竜」対策に知恵を絞っているひとときです・・・・!



暗くなったら、姿を替え、再び出没いたします・・・・・!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
【アルビン・トフラーの助言】


{toyo0181}・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

コメント

芥川龍之介・・・生き様おそるべし・・

2016-05-28 21:00:48 | 残念・・・!
なよなよした作家は好きではないが、
芥川龍之介はその中の一人であります。
作品は極上なのに生き様はあまり好きではない。

その芥川龍之介の『死』を扱った新聞に目が行った。
新聞は昭和2年、3年代の文芸界から・・・



昭和改元から間もない昭和二年一月、芥川龍之介は
鵠沼から田端のいえに帰った。龍之介は、前年(大正15年)四月から転地療養をしていた。
鵠沼での龍之介は、あらゆる病気を背負って
やせ細り、死を願い、それを口ばしった。

散歩に出ると「青酸加里を売ってくれませんか」と
町の薬屋を一軒一軒訪ねた。
ある日、五、六十匹の蠅を飲み下したが、猛烈な下痢をしただけで、死にはしなかった。
五月のある日、龍之介は、仕事場にしていた、帝国ホテルの一室で薬を飲んだ。
しかし、妻文子が駆けつけるのが早く、応急手当をして一命は取り留めた。
七月二一日、龍之介は、佐多稲子を呼んだ。
龍之介は稲子に、自殺未遂のときのことばかり、執拗に尋ねた。
七月二十二日の夕方、龍之介は、上野桜木町の宇野浩二のの留守宅を訪ねた。
当時、宇野浩二は強度の神経衰弱のため入院していた。
龍之介は、宇野夫人に、見舞の菓子折りと浴衣地を渡し、宇野から来た手紙を読んで聞かせ、
ひとしきり泣くと、長い髪の毛をさっとかき上げて、「ではお大事に」と言って、去って行った。



七月二十三日の朝九時、龍之介は上機嫌で眼を覚ました。
朝の食事は、いつもより多く、半熟卵四個と牛乳を飲んだ。
夕方二人の客が来た。階下の八畳で夕食を共にし、
日本酒を猪口に二、三杯吞んだ。
珍しく元気で話が弾んだ。客は十時頃帰った。
翌七月二十四日の午前二時頃、龍之介は二階の書斎から降りてきて、
妻文子が、いつものように、
「あなた、お薬は?」というと
「そうか」と答えて蚊帳を出た。普段のように睡眠薬を飲んで、
また蚊帳に入った。
文子はその時、何とはなしに、ハッとした。
<夫は既に二階で、睡眠薬を飲んできたのではないだろうか。
それを、私に、いつものように
「お薬は?」と言われたので、
反射的に、また吞みにいったのではないだろうか>
胸騒ぎがしたが、それをどうしても尋ねることができなかった。
そのまま二人は深い眠りに入った。
龍之介にはそれが永遠の眠りとなった。

写真
芥川比呂志氏を膝の上に座らせた「芥川龍之介」

あの名文はこのような生活環境の中でかき上げたのか!
芥川龍之介の人間は好きではないが、
作品は「凛」としてどれも好きである。


芥川龍之介の遺書は、
妻文子、小穴隆一、菊池寛、竹内得三(義父の弟) あての四通であったが
其の他に、
「ある旧友に送る手記」という、久米正雄宛の手紙と、
「或る阿呆の一生」
の原稿があった。

コメント (2)