春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

佐藤千夜子さん❛天童村から・オペラ歌手を目指して❜ !

2017-08-28 17:28:30 | 節三・Memo

☝生家裏の「舞鶴公園」から天童市を。

1897年(明治30)3月13日「佐藤千代」後の「佐藤千夜子」が生まれ、

14歳で上京するまで住んでいた山形盆地、天童村(市)の生家。

   

 

すぐ隣の土地には、天童教会の墓地があり、
当時は、写真のような立派なものではなく、
ひっそりとした墓地。
佐藤千夜子は生家が5分ばかりの天童教会の日曜学校に通って、
教会伝道師の紹介で、上京、普連士女学校へ入り、
この時期に
オペラを見て、感動しのち東京音楽学校を受験する。


歌を通して、山田耕作に中山晋平を紹介され、
その後は、野口雨情が加わり親交を深めます。

佐藤さんは、当時中山晋平の曲を歌い各地を回り、
1925年ラジオが開設されると中山晋平の「青い芒」で

レコードを吹き込み、名が少しづつ知られるようになり、
1929年は「波浮の港」のレコードが大ヒット。

佐藤千夜子」の出すレコードはどんどん、大衆の間に広まり、
歌謡曲のジャンルを確立してしまいます。
大御所(?)と呼ばれるようになり

明治マンドリンの「古賀正男」を世に導き出すのですが、
一方「中山晋平」との叶わない、苦悩の「仲」に。


絶頂期、歌以外に揶揄する世間に見切りをつけ、
オペラの勉強を理由に、忽然とイタリアへと、

日本を離れていきます。1930年。

が、豪放磊落、切符の良さは、イタリアどころか
アメリカで道草を。
サンフランシスコの金門橋で、独唱会を開き、
ロサンジェルスに移動し、西本願寺ホールで、
日本人会が開いた歓迎の調べの後、
曲者「萱島操」氏から、

アメリカ人の富豪の遺産を引き継いだ太田節三氏を紹介され、
多情な二人は数か月、ロサアンジェルスで過ごすことに。
夜ごと、繁華街に繰り出していた頃、日本では、
佐藤千夜子の消息が分からず、てんてこ舞い。
節三兄の書簡から、読売新聞の報道から、
道草の事実が判り、おや、おや・・・。

自由奔放な佐藤千夜子が痛めた「晋平の傷」が癒え始めたころ、
再び芽生えた「オペラ」の情熱が・・・、
今度は間違いなく、太田に百合の刺繍のハンカチを振り、
勇んでミラノへ出向きます。

8年後の帰国は、日本での佐藤千夜子さんが活躍する場はなく、
子もなく、1968年、12月13日まで、
太田節三も味わった、ひっそりとした人生。
今、生家に残る3万数点の遺品は、
昨年、8月から拝見することができず、
残念!
歌謡界の歴史に、とっても貴重な資料があるこの施設、
再開できないものか、そう願うのですが・・・・。

オペラ歌手、二期会で活躍している冨岡由里弥さんは、
佐藤千夜子さんの大姪、顔がそっくり!
由里弥氏が「母が言っている、事実と違う場面がある」と、
苦言を呈した、
1977年放映された
NHKの連続テレビ小説「いちばん星」は、
佐藤千夜子さんをモデルにしたものでした。

※冨岡由里弥さんgoo ブログでも活躍は拝見できます。

 



 

 

 

 

 

 

 

        

 生家の裏山は今「舞鶴公園」となって、天童市の銘品、
将棋の駒が高台に置かれ、天童桜まつりとして「人間将棋」が
開かれる観光地になっています。

 

 

 

 

 ☟舞鶴公園の一部、手入れの行き届いた公園でした。

 

 

 

 生家の近所から・・・・。
右に曲がると、舞鶴公園に。

※舞鶴公園から、気分を新たにし、
十和田湖、弘前へと向かいます(19日の夕)

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7月31日 高尾山に咲いていた花と 1

2017-08-04 20:41:25 | 節三・Memo

 

 

 

 

    どっこいしょっ~ッと!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  忍法・葉隠れ、天下無敵の術!

   忍法・変わり身の術またの名を空蝉の術!

 

 

 

今日から八王子の祭り、少しは見られるかな?
では!

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いい天気でした! 北米百年桜(Ⅰ)

2017-02-17 21:37:42 | 節三・Memo

3週間待ちの本が入ったので、受け取った後、
陽気がいいので、ドライブしようと・・

出るとき、今までのような、冬の支度だったので、
さすが、汗がにじんで、
それでも、気持ちはよく、
車で1時間ほどの「大国魂神社」と
街の中を散策してきました。

「府中市」3億強奪事件のあった街。
中心部は、ビル、ビル、神社で栄えた街ですが、
これも時代でしょうか!

神社を背にして、メイン通り

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【節三Memo】

1973年(昭和48)2月
日貿出版社から限定150部、17000円て売られた、
復刻版。1984年12月発行。

北米、特にシアトル、タコマ、ロスアンゼルス、サンフランシスコ等、
1900年代前後に移住した日本人の生活、インタビュー、
世相を書き記した、本で、4巻、各450ページ余り、
日本人の移住の資料には欠かせないものと思います。
今日入手したばかりですが、ところどころ見てみますと、
新聞記者上がりだけに、とても読みやすく、疲れません。

伊藤一男氏・北海道旭川生まれ。日本農業新聞、
読売新聞社を得て、北米報知東京、シカゴ新報東京支局長、
(財)海外日系人協会の理事も務め、この本を完成。2001年没
JICA横浜から運営管理を任されている、(財)海外日系人協会が
遺族から所蔵資料の寄贈の照会を得て、
いまは、「横浜海外移住資料館で」、
北米からの膨大な資料、書簡等を見ることができます。
そのもとになった本です。
資料は後日何点か更新したいと思っています。

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兄貴、呆れる!ルーシーと節三!

2017-02-07 19:48:10 | 節三・Memo

 


・・・・・【節三・Memo】・・・・・・・・・

世界一の果報者

米国加州屈指の資産家ロッス婦人と結婚して
世界一の果報者よと羨まれた太田節三氏の
兄さん戍太郎(いぬたろうのルビー・じゅたろう)氏は
小坂の町会議員で素封家でもある。氏を問えば
『あんな者のことをかれこれと書かれては困ります。
金と心中したものですよ。金と心中する様なものですからなァ・・・・
と困ったような顔つきをして八字ひげをひねっていた。
(写真は最近の節三氏とロッス夫人)
※加州=カルフォニア

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1929年2月20日ルーシーが風邪をこじらせ、イタリアで亡くなくなり、
夫婦としての結婚生活は短いものですが、節三渡米から、4年後の1925
年から、
二人は、居をともにし、4年余りの蜜月の期間がありました。
講道館の三船久三師範を代行し指南役を務めているとき、机の上に、
「一人前になるまで帰りませんと、」走り書きを残して、渡米した節三は、
ルーシーが亡くなった後、佐藤千夜子さんとの出会いを最後に、
ゴシップで賑わすことはなく、
たまに新聞記事が、彼の動向を報じているだけであります。
1951年に帰国、毎日新聞の大々的な報道に、政界、経済界が色めきだったものの、
当人の沈黙の中で、1963年の東京・湯島の名門旅館、花水館で、命を絶った時は、
身内だけが知る、孤独な最後でありました。

昨日と今日の3枚の新聞記事で、某、書籍を読んだ皆様には、
明確な違和感に≪そうなのか≫と思って頂ければ幸いです。
それに与えする更新だと思います。

一時、コメント、問い合わせなどがあって、
一旦、この話題には触れない、更新しないと云いましたが、
隠れたエピソードは、たくさんあります。
今は心を広くしました。

更新記事の内容について知らない方には、ブログを借りて、
大変失礼な方法だったと・・・。

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三度の飯より、喧嘩が好き!節三とルーシー!

2017-02-07 13:19:09 | 節三・Memo

今日は、だいぶ冷たい風が吹いていて、
明後日あたりは、雪が降るかも知れない、予報です。
出掛ける予定もあり、気を引き締めているところです。
昨日更新した、節三とルーシーの資料の2枚目です。
少し長いのですが、更新いたします。

もう少し楽しいネタはないものか、考えていますが、
用件だけ、先に済ませてしまいましょう!




・・・・・・【節三・Memo】・・・・・・・・・・・・・・・

 三度の飯より 
  
喧嘩が好き
    
 節三君の大舘時代
  
   いまぢゃ世界的色男

 アメリカの富豪の老嬢へ婿入りした三国一の果報者太田節三君は
大舘中学校代十三回目の卒業生だ。
明治三十年四月四日生まれとあるから本年とって三十二才の男盛り、
小坂町代議員太田戍太郎(1)の令弟で明治四十三年に大舘中学へ入学、
順調に行けば、大正四年に卒業したのだが、
学課の方は成績常に降るわず、
黒星が多くて一回ドロップして大正五年に卒業、明大の商科へ入ったが
満足に卒業したかは知らず。太田君は豪胆で暴れ者で手がつけられず
学校中での持て余しものであったが
柔道は群を抜いて卒業す。當時は二段の免状を持っていた。
   
           ◆
 
當時の柔道部の先生は今の大館町長の泉茂家君で、
泉君は先生だが太田君より一段下の否か初段で常に投げられていたらしい。
その頃は大中柔道部の黄金時代で選手は悉く有段者揃いで、
二段は太田君と二人いた。
従って大正四年には東北六県の武者修行に出かけて中等学校を総なめにして、
その勢いで、盛岡の高等農林をも打ち破って東北の天地をさわがしたものである。

    ◆

 だが、當時の校長名和長政君は、対抗試合を余り喜ばず、
まして東北六県の武者修行と聞いては許す筈がないと思ったは、
先生をしていて、よく知っている、泉茂家君である。
それでなくとも血の気が多くて三度の飯より喧嘩が好きな太田君をそそのかして、
校長室へ暴れこませドアを絞め切って
校長と二人『さァ、命が欲しいか試合に出すか二つに一つの返答だ』校長まっ蒼になって震えているところへドアをノックして入って来たのは
黒幕の張本人になる泉君、『校長先生、私が責任を負いますからやったらどうです』で
名和君二つ返事で承知したということである。

   
    ◆

 その泉君もある時弘道館(2)で太田君にしたたか打ちのめされたことがある。
というのは、太田君は柔道は二段だが、相撲では泉君にかなわず、
いつも負けていた。
たまたま弘道館で二人が相撲を取ることとなったが
太田君一計を案じ先ず柔の手で泉君をおどしつけておいて、
ウッカリ相撲が取れぬようにし戦をはずして泉君を撃退したことがあると云って
今以て泉君は『太田はそんなことではなかなか目先の利く奴だった』と
舌を巻いている。
尤も太田君にしてみれば泉君が、
目先が利かなさ過ぎたのかもしれないが・・・・・
尚その他太田君には幾多の逸話がある。

     
    ◆

 例えば博物学の時間であった。
先生がせっかく揃えた実験用の桜の花片をひとつかみして吹っ飛ばし
『いたずらしたものはまえへ出ろッ、十日間の停学だッ』というのを
何とも思わず『ハイ私です』と云って退場したものだ。
あんまり乱暴者だとて一時本郷という先生へ預けられたこともあるという
上京してからは、三船七段の内弟子となり、
破れ袴に高足駄で、東京の街を近藤勇のように、
肩で風を切って歩いたものだ。
その頃だ、日本刀で闘犬の首ッ玉を斬りおとしたという胸をすくような話は・・・・

 
    ◆

 今度結婚した婦人とはこの前アメリカへ行く途中船の中で親しくなったとか(3)
一昨年その日本人と日本に帰り、
帝国ホテルの大広間を二つぶっ通しで、借りて
四十幾個かのトランクを置いて友人を驚かしたは好いが
金を使い果たして郷里へカネオクレの電報を矢鱈に打ったものだという。
泉君の話によれば、学生時代から金づかいはあらくて、
無くなれば誰にでも『オイ金をかせ』、泉君も大分借らされたさうだが、
人柄はよく稚気愛すべきものがあったと。

     ◆

 この度の老嬢との結婚話をもたらして大中の小松校長を問えば
『目出度くもあり目出度くもなし』保証人でもあった
八十八翁の前小屋寛右衛門君はさすが
厳格な大舘藩の家老職だけただ『実に怪しからんこっち』
(写真は大舘中学時代の太田節三君) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上は新聞記事

本文赤字
 戍太郎、新聞のルビーは、いぬたろうとありますが、じゅたろう」
(2) 弘道館は東京小石川のにある「講道館」ではなく、
  水戸藩斎藤斉昭が創設した弘道館の流れの汲んだ施設。
(3) 
この前アメリカへ行く途中船の中で親しくなったとか
          
   節三の渡米は1922年ですが、10月からの調べでは、ルーシーの
  渡航記録を見つけることができません。
  ※この記録は知りたいポイントなので、根気強く探してみます。

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