春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

飲み過ぎ、丸太から滑った
徳利、背中の与太郎河童
花見の色香に、プハァ~川から顔出し
キョロ、きょろきょろ!

佐藤千夜子さん❛天童村から・オペラ歌手を目指して❜ !

2017-08-28 17:28:30 | 節三・Memo

☝生家裏の「舞鶴公園」から天童市を。

1897年(明治30)3月13日「佐藤千代」後の「佐藤千夜子」が生まれ、

14歳で上京するまで住んでいた山形盆地、天童村(市)の生家。

   

 

すぐ隣の土地には、天童教会の墓地があり、
当時は、写真のような立派なものではなく、
ひっそりとした墓地。
佐藤千夜子は生家が5分ばかりの天童教会の日曜学校に通って、
教会伝道師の紹介で、上京、普連士女学校へ入り、
この時期に
オペラを見て、感動しのち東京音楽学校を受験する。


歌を通して、山田耕作に中山晋平を紹介され、
その後は、野口雨情が加わり親交を深めます。

佐藤さんは、当時中山晋平の曲を歌い各地を回り、
1925年ラジオが開設されると中山晋平の「青い芒」で

レコードを吹き込み、名が少しづつ知られるようになり、
1929年は「波浮の港」のレコードが大ヒット。

佐藤千夜子」の出すレコードはどんどん、大衆の間に広まり、
歌謡曲のジャンルを確立してしまいます。
大御所(?)と呼ばれるようになり

明治マンドリンの「古賀正男」を世に導き出すのですが、
一方「中山晋平」との叶わない、苦悩の「仲」に。


絶頂期、歌以外に揶揄する世間に見切りをつけ、
オペラの勉強を理由に、忽然とイタリアへと、

日本を離れていきます。1930年。

が、豪放磊落、切符の良さは、イタリアどころか
アメリカで道草を。
サンフランシスコの金門橋で、独唱会を開き、
ロサンジェルスに移動し、西本願寺ホールで、
日本人会が開いた歓迎の調べの後、
曲者「萱島操」氏から、

アメリカ人の富豪の遺産を引き継いだ太田節三氏を紹介され、
多情な二人は数か月、ロサアンジェルスで過ごすことに。
夜ごと、繁華街に繰り出していた頃、日本では、
佐藤千夜子の消息が分からず、てんてこ舞い。
節三兄の書簡から、読売新聞の報道から、
道草の事実が判り、おや、おや・・・。

自由奔放な佐藤千夜子が痛めた「晋平の傷」が癒え始めたころ、
再び芽生えた「オペラ」の情熱が・・・、
今度は間違いなく、太田に百合の刺繍のハンカチを振り、
勇んでミラノへ出向きます。

8年後の帰国は、日本での佐藤千夜子さんが活躍する場はなく、
子もなく、1968年、12月13日まで、
太田節三も味わった、ひっそりとした人生。
今、生家に残る3万数点の遺品は、
昨年、8月から拝見することができず、
残念!
歌謡界の歴史に、とっても貴重な資料があるこの施設、
再開できないものか、そう願うのですが・・・・。

オペラ歌手、二期会で活躍している冨岡由里弥さんは、
佐藤千夜子さんの大姪、顔がそっくり!
由里弥氏が「母が言っている、事実と違う場面がある」と、
苦言を呈した、
1977年放映された
NHKの連続テレビ小説「いちばん星」は、
佐藤千夜子さんをモデルにしたものでした。

※冨岡由里弥さんgoo ブログでも活躍は拝見できます。

 



 

 

 

 

 

 

 

        

 生家の裏山は今「舞鶴公園」となって、天童市の銘品、
将棋の駒が高台に置かれ、天童桜まつりとして「人間将棋」が
開かれる観光地になっています。

 

 

 

 

 ☟舞鶴公園の一部、手入れの行き届いた公園でした。

 

 

 

 生家の近所から・・・・。
右に曲がると、舞鶴公園に。

※舞鶴公園から、気分を新たにし、
十和田湖、弘前へと向かいます(19日の夕)

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7月31日 高尾山に咲いていた花と 1

2017-08-04 20:41:25 | 節三・Memo

 

 

 

 

    どっこいしょっ~ッと!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  忍法・葉隠れ、天下無敵の術!

   忍法・変わり身の術またの名を空蝉の術!

 

 

 

今日から八王子の祭り、少しは見られるかな?
では!

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いい天気でした! 北米百年桜(Ⅰ)

2017-02-17 21:37:42 | 節三・Memo

3週間待ちの本が入ったので、受け取った後、
陽気がいいので、ドライブしようと・・

出るとき、今までのような、冬の支度だったので、
さすが、汗がにじんで、
それでも、気持ちはよく、
車で1時間ほどの「大国魂神社」と
街の中を散策してきました。

「府中市」3億強奪事件のあった街。
中心部は、ビル、ビル、神社で栄えた街ですが、
これも時代でしょうか!

神社を背にして、メイン通り

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【節三Memo】

1973年(昭和48)2月
日貿出版社から限定150部、17000円て売られた、
復刻版。1984年12月発行。

北米、特にシアトル、タコマ、ロスアンゼルス、サンフランシスコ等、
1900年代前後に移住した日本人の生活、インタビュー、
世相を書き記した、本で、4巻、各450ページ余り、
日本人の移住の資料には欠かせないものと思います。
今日入手したばかりですが、ところどころ見てみますと、
新聞記者上がりだけに、とても読みやすく、疲れません。

伊藤一男氏・北海道旭川生まれ。日本農業新聞、
読売新聞社を得て、北米報知東京、シカゴ新報東京支局長、
(財)海外日系人協会の理事も務め、この本を完成。2001年没
JICA横浜から運営管理を任されている、(財)海外日系人協会が
遺族から所蔵資料の寄贈の照会を得て、
いまは、「横浜海外移住資料館で」、
北米からの膨大な資料、書簡等を見ることができます。
そのもとになった本です。
資料は後日何点か更新したいと思っています。

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兄貴、呆れる!ルーシーと節三!

2017-02-07 19:48:10 | 節三・Memo

 


・・・・・【節三・Memo】・・・・・・・・・

世界一の果報者

米国加州屈指の資産家ロッス婦人と結婚して
世界一の果報者よと羨まれた太田節三氏の
兄さん戍太郎(いぬたろうのルビー・じゅたろう)氏は
小坂の町会議員で素封家でもある。氏を問えば
『あんな者のことをかれこれと書かれては困ります。
金と心中したものですよ。金と心中する様なものですからなァ・・・・
と困ったような顔つきをして八字ひげをひねっていた。
(写真は最近の節三氏とロッス夫人)
※加州=カルフォニア

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1929年2月20日ルーシーが風邪をこじらせ、イタリアで亡くなくなり、
夫婦としての結婚生活は短いものですが、節三渡米から、4年後の1925
年から、
二人は、居をともにし、4年余りの蜜月の期間がありました。
講道館の三船久三師範を代行し指南役を務めているとき、机の上に、
「一人前になるまで帰りませんと、」走り書きを残して、渡米した節三は、
ルーシーが亡くなった後、佐藤千夜子さんとの出会いを最後に、
ゴシップで賑わすことはなく、
たまに新聞記事が、彼の動向を報じているだけであります。
1951年に帰国、毎日新聞の大々的な報道に、政界、経済界が色めきだったものの、
当人の沈黙の中で、1963年の東京・湯島の名門旅館、花水館で、命を絶った時は、
身内だけが知る、孤独な最後でありました。

昨日と今日の3枚の新聞記事で、某、書籍を読んだ皆様には、
明確な違和感に≪そうなのか≫と思って頂ければ幸いです。
それに与えする更新だと思います。

一時、コメント、問い合わせなどがあって、
一旦、この話題には触れない、更新しないと云いましたが、
隠れたエピソードは、たくさんあります。
今は心を広くしました。

更新記事の内容について知らない方には、ブログを借りて、
大変失礼な方法だったと・・・。

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三度の飯より、喧嘩が好き!節三とルーシー!

2017-02-07 13:19:09 | 節三・Memo

今日は、だいぶ冷たい風が吹いていて、
明後日あたりは、雪が降るかも知れない、予報です。
出掛ける予定もあり、気を引き締めているところです。
昨日更新した、節三とルーシーの資料の2枚目です。
少し長いのですが、更新いたします。

もう少し楽しいネタはないものか、考えていますが、
用件だけ、先に済ませてしまいましょう!




・・・・・・【節三・Memo】・・・・・・・・・・・・・・・

 三度の飯より 
  
喧嘩が好き
    
 節三君の大舘時代
  
   いまぢゃ世界的色男

 アメリカの富豪の老嬢へ婿入りした三国一の果報者太田節三君は
大舘中学校代十三回目の卒業生だ。
明治三十年四月四日生まれとあるから本年とって三十二才の男盛り、
小坂町代議員太田戍太郎(1)の令弟で明治四十三年に大舘中学へ入学、
順調に行けば、大正四年に卒業したのだが、
学課の方は成績常に降るわず、
黒星が多くて一回ドロップして大正五年に卒業、明大の商科へ入ったが
満足に卒業したかは知らず。太田君は豪胆で暴れ者で手がつけられず
学校中での持て余しものであったが
柔道は群を抜いて卒業す。當時は二段の免状を持っていた。
   
           ◆
 
當時の柔道部の先生は今の大館町長の泉茂家君で、
泉君は先生だが太田君より一段下の否か初段で常に投げられていたらしい。
その頃は大中柔道部の黄金時代で選手は悉く有段者揃いで、
二段は太田君と二人いた。
従って大正四年には東北六県の武者修行に出かけて中等学校を総なめにして、
その勢いで、盛岡の高等農林をも打ち破って東北の天地をさわがしたものである。

    ◆

 だが、當時の校長名和長政君は、対抗試合を余り喜ばず、
まして東北六県の武者修行と聞いては許す筈がないと思ったは、
先生をしていて、よく知っている、泉茂家君である。
それでなくとも血の気が多くて三度の飯より喧嘩が好きな太田君をそそのかして、
校長室へ暴れこませドアを絞め切って
校長と二人『さァ、命が欲しいか試合に出すか二つに一つの返答だ』校長まっ蒼になって震えているところへドアをノックして入って来たのは
黒幕の張本人になる泉君、『校長先生、私が責任を負いますからやったらどうです』で
名和君二つ返事で承知したということである。

   
    ◆

 その泉君もある時弘道館(2)で太田君にしたたか打ちのめされたことがある。
というのは、太田君は柔道は二段だが、相撲では泉君にかなわず、
いつも負けていた。
たまたま弘道館で二人が相撲を取ることとなったが
太田君一計を案じ先ず柔の手で泉君をおどしつけておいて、
ウッカリ相撲が取れぬようにし戦をはずして泉君を撃退したことがあると云って
今以て泉君は『太田はそんなことではなかなか目先の利く奴だった』と
舌を巻いている。
尤も太田君にしてみれば泉君が、
目先が利かなさ過ぎたのかもしれないが・・・・・
尚その他太田君には幾多の逸話がある。

     
    ◆

 例えば博物学の時間であった。
先生がせっかく揃えた実験用の桜の花片をひとつかみして吹っ飛ばし
『いたずらしたものはまえへ出ろッ、十日間の停学だッ』というのを
何とも思わず『ハイ私です』と云って退場したものだ。
あんまり乱暴者だとて一時本郷という先生へ預けられたこともあるという
上京してからは、三船七段の内弟子となり、
破れ袴に高足駄で、東京の街を近藤勇のように、
肩で風を切って歩いたものだ。
その頃だ、日本刀で闘犬の首ッ玉を斬りおとしたという胸をすくような話は・・・・

 
    ◆

 今度結婚した婦人とはこの前アメリカへ行く途中船の中で親しくなったとか(3)
一昨年その日本人と日本に帰り、
帝国ホテルの大広間を二つぶっ通しで、借りて
四十幾個かのトランクを置いて友人を驚かしたは好いが
金を使い果たして郷里へカネオクレの電報を矢鱈に打ったものだという。
泉君の話によれば、学生時代から金づかいはあらくて、
無くなれば誰にでも『オイ金をかせ』、泉君も大分借らされたさうだが、
人柄はよく稚気愛すべきものがあったと。

     ◆

 この度の老嬢との結婚話をもたらして大中の小松校長を問えば
『目出度くもあり目出度くもなし』保証人でもあった
八十八翁の前小屋寛右衛門君はさすが
厳格な大舘藩の家老職だけただ『実に怪しからんこっち』
(写真は大舘中学時代の太田節三君) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上は新聞記事

本文赤字
 戍太郎、新聞のルビーは、いぬたろうとありますが、じゅたろう」
(2) 弘道館は東京小石川のにある「講道館」ではなく、
  水戸藩斎藤斉昭が創設した弘道館の流れの汲んだ施設。
(3) 
この前アメリカへ行く途中船の中で親しくなったとか
          
   節三の渡米は1922年ですが、10月からの調べでは、ルーシーの
  渡航記録を見つけることができません。
  ※この記録は知りたいポイントなので、根気強く探してみます。

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世界一の果報者!シアトルで夢を捨てた男、節三!

2017-02-06 20:14:20 | 節三・Memo

床屋に行こうと決めてから四日目の夕方を迎えました。
意志薄弱というか・・・
優柔不断と言われて、
しっかりと頷いて、
暖かい八王子でボ~としている貴公子。
酒瓶を横目に、煙草をプカッ!

昨日から今日まで、ブログの動物に寄せる愛情の記事を、
読んでいると、
住む環境を変えてみるか、とか、
今からだと、自分が先に、虹を渡るから、とか、
「友」の仕事を増やしてしまうな、とか
でも、すごい活力が湧くだろうな、とか、
考えているうち、ブログは?、と
駆けずり回って、探したのでありますが、
何処へ置き忘れたか、捨てたか・・・・
進まないのであります・・・・


ひっとらえるなり、

島流しにするなり、


出来ればこれは、これだけは、勘弁下されば、

あとは、どんなお裁き。なん、な~りと・・・・!
どうか、
明日は、何か探してまいりますので・・・・今日はこの辺で、ご勘~べんを!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【節三・Memo】

林田民子さんの記事にアクセスくださる皆様へ
秋田魁新報には、現在この新聞はなく、
秋田県立図書館が窓口となって、取り寄せた、
(株)那波伊四郎商店提供のマイクロフィルムからの複写です。
この日付から、遡って節三の日本でのあしあとを探る、貴重なものでした。
新聞は、翌日、翌々日と「このゴシップ」を扱っていますが、
節三の実像が、浮き彫りになっています。
当時の新聞は、情報収集の手段が今のように、便利ではなく、
事実と異なることも、多々ありますが、
この記事は、シアトルから、東京に入り、東京の小新聞・朝日新聞から、
秋田県の魁新報に電話で、送られた情報。
数年後、この青年の存在が、トルーマンを巻き込んだ林田民子さんの、
小説となり、ブログで拡散されることになるのですが・・・
今でも、ブログにアクセスがあり戸惑いもあります。
出来れば、小説「夢のなかに生きた男たち」を読んで、かつ、
「幻の遺産」を読み、私の【節三Memo】を参考にしていただければ、
ブログで騒がぐほどの事ではなかった、と思っていただければと思います。
虚構は虚構と踏まえて騒ぐなら、これまた、大拍手ですが・・・。

米国人さえへ羨む
 
世界一の果報者
   
小坂生まれの青年柔道家が
     
女長者五人目の花婿

東京電話=幸運は思わぬところから来る
日本の貧しい一青年が
最近アメリカカリフォニア州きっての女長者と結婚して
黄金国アメリカ人さへ「世界一の果報者よ」と羨んだとの話
この果報者は当年

三十一歳の太田節三君という青年
鹿角郡小坂町生れ大正四年大舘中学卒業
上京小石川中富坂十九講道館師範三船久三氏の門下生となり
中央大学法科に学んで大正十一年アメリカに留学したが講道館で
習いおぼねた柔道五段が役にたって
柔道指南で学費を稼ぎながら勉強したという経歴の持ち主。

花嫁はアメリカ長者番付の前頭をつとめカリフォニアにて
並ぶものなしという女富豪のハンニング、ロッス
とって五十、オールドミス嬢の厳父はハンニング将軍といって
鳴らしたものである一人娘の嬢はこれが結婚の初めてではなく
五人目だが二人の恋愛が成立すると、

四人目の夫を相手取り訴訟を提起し
太田君は晴れて妻と呼び夫と呼び合うこととなった。
その間幾多のローマンスのあったことは想像されるが
そのご両人は近く日本へ新婚旅行に出かける計画だと


〇印= 不明文字 
            
大四年 ⇒大正五年。一年落第。
中央大学⇒明治大学不祥事で退学。後、中央大学へ転入。
一人娘 ⇒姉と兄がいます。姉は当時フランスに居住。

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2016-09-21 20:48:08 | 節三・Memo

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最古の劇場「康楽館」、猿之助が「宙」で舞うらしい!

2016-09-18 20:15:21 | 節三・Memo

昨晩は、バーボン片手に、撮りだめのビデオを鑑賞したあとは、
熟睡していました。
目覚めは、スッキリ、酒は「百薬の長」元々嫌いではない!ウン!
秋田県、十和田湖の紅葉の見ごろは、10月20日前後。
市川猿之助さん明治43年に建てられた「康楽館」で、
「宙」を舞うらしい。
国の重要文化財の建物は、日本最古級の劇場。
外部はきれいに施されているが、内部は、当時そのまま。
私の母「トク」や大叔父節三も幼いころは、姉達に、
連れられて、中央の歌舞伎をよく見たといいます。
たまたまブログを見た同級生が、6月の同窓会を欠席した穴埋めに、
「顔(つら)を出せ!」と脅迫さながら、短い電話。
忠告通り「まゆみ」の探索が無理、同様、
十和田湖行きは、来年へ持ち越しになりそう。

○ 公 演 日:平成28年10月22日(土)・23日(日)
○開演時間:◎午前の部 午前11時00分~

◎午後の部 午後 3時30分~
〇公演時間:約3時間
○観劇料金:
◎松席 12,000円  ◎竹席    9,000円 
◎自由席6,000円  ◎特別席18,000円
※当日券は上記に1,000円増し
〇 出 演 者
  市川猿之助 坂東巳之助 市川猿弥 市川春猿

  市川寿猿 市川笑三郎 市川笑也 市川門之助

康楽館 Kourakukan】
〒017-0202

秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字松ノ下2番地
TEL.0186-29-3732 FAX.0186-29-3219
<<観劇券絶賛発売中>>   

窓口にて直接ご購入頂くか、お電話・FAX・メールにてお申し込みください。
ホームページお問い合わせメールもご利用頂けます。お問い合わせなど、お気軽にお電話くださいませ



小坂鉱山事務所を見上げる、元職員の老夫婦の像

康楽館の敷地の中、小坂鉱山事務所。
中には、小坂町、鉱山の資料展示、
当時の洒落たドレスを借りて事務所内どこでも撮影ができ、
食事処もあります。

ロマネスクの雰囲気、そのまま。




ここはお土産屋さん、食事処。


来年はゆっくり散歩しましょう。

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そろばん と節三

2016-09-16 17:28:27 | 節三・Memo

昼夜の生活を昼は仕事、夜は寝るに
替えて、残りの仕事をしているのですが、
今日は、8時からボクシング「山中慎介」の中継があので、
今から、休憩タイムです。
それにしても、骨折。
8月8日の事故だったのに、いまもまだ、ぷっくり。
こんなもんなのでしょうか。
動けない外傷は、初めてなだけに、さっぱり判らない。
40日近くなるのに、アケビ色。
人の体は不思議なもんです、と
明日はどうなるか、楽しみです。



明治30年生まれの太田節三は、2番目の兄半助と21歳の年の差があり、
半助は、小坂町で、小坂鉱山で働く、抗夫を相手に「質屋」を営んでいました。
節三は半助の子供、明治42年に生まれた「トク」(12歳違いの姪)をからかいに、
半助の家へ遊びに行きます。
勿論小遣いをせしめる、ちゃっかり、もありました。
この時代と、半助の質屋では、どんなそろばんを使っていたろうかと、
調べたことがありました。
無論、大した意味合いはありません。
戦後、節三の家は取り壊され、備品の資料はありません。

ただこのような大きいそろばんを置いていたとは、思えません!
このそろばん持ち歩くには大変ですね!
写真は、国道20号、相模湖近くにある、武家屋敷で移したものです。



こんなそろばん、年寄りには、イメージが「ぶっ壊れるぅ~!」

 

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民子!夢のなかに生きた男たち!

2016-08-23 22:43:12 | 節三・Memo

重い!非常に気が重い!



【著書の中の林田民子さん】
数年前、廣済堂出版社から一冊の本が出ました。「夢のなかに生きた男たち」
アメリカでベンチャーキャピタルの資本を受けた、「アメリカンシルバーウッド(株)」の会長が
書いた本で、320ページ。時代は1920年から、戦後までのアメリカ。
ピクチャーブラインドでアメリカに渡る、林田民子さんの物語。
この本のキーパーソンは、講道館で柔道を修業し大学卒業後アメリカに渡った、
武術家、太田節三。

この本が、出たとき、日本では、麻原彰晃の「サリン事件」が起きた時、
ロスアンジェルスのリトル東京の図書館でも読まれました。
出版後、ブログ仲間が著書の数ページに感動して、あっという間に拡散されました。

ブログは、

「夢のなかに生きた男たち」の数ページの会話をコピーした、感動の記事です。
会話は省きますが、要約して、
第二次世界大戦が終わった後、林田民子さんと太田節三が、
当時副大統領トルーマンと会い、林田さんが、原爆を投下したのは、
どうしてかと詰問した直後、トルーマンを投げ飛ばし、

林田さんは側近にピストルで撃たれ鮮血を流した・・・・。

この内容は290頁辺りから盛り上がって最終頁まで描かれています。

読み終えると、キーパーソンは、林田民子さんのような気がします。
大和撫子、林田民子さんの、素晴らしい人間像がありありと浮んできました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ブログでは執拗に林田さんを追いかけていますが、どのブログを見ても、
林田さんの実像を知ることができません。

太田節三の経歴から、林田民子さんを探してみます!
林田民子さん明治37年(1908)熊本県生まれ。
太田節三  明治30年(1897)秋田県生まれ
林田さん、25歳の時、ピクチャーブラインドとしてアメリカに渡る、船の中で知り合う。
太田節三から柔道の手ほどきを受け、師弟関係になったとあます。
太田節三が、三船久蔵に置手紙を書いて、横浜からアメリカに渡ったのは、
1920年。林田さんは船の中で太田節三と知り合ったのは、「船」・・ウン!
林田さん、18才の時になります。
25歳でアメリカに渡ったとなると、船の中では会えないわけです。


林田さん、アメリカで待つ花婿から婚姻を破棄され、林田さんは、下船できなくなります。

そこで、先に下船した太田節三が、日本2つの大学で、アメリカの法律、特に移民法を勉強した成果をフルに発揮します。ウン?

節三は、当初、明治大学に入りますが、カンニングがバレ、日本刀で告白者を脅し、退学、
その後三船久蔵師範の力添えで中央大学に編入し、柔道では、無敵を誇る、柔道部の主将を務めます。
勉強の大嫌いな、強くなりたいための柔道生活を送っていました。

林田さんが下船するまで冒頭から50頁が咲かれています。
移民局での風景は、1930年第1回芥川賞を受賞した、石川達三の「蒼茫」の筋が組み込まれています。

節三は、ルーシー・バニング・ロッスと1925年2月3日とありますが、二人の結婚は、1928年1月19日です。
この時の婚姻届けの証明は以前ブログに掲載しておりますので、今は省きます。
作者が「ノンフィクションとして読んで頂いてもよい」という割には、辻褄の合わない、
考証が多いように思います。

【ブログ記事から】
多く見られたブログの中に、下の写真が「林田民子」さんが渡航前に撮ったアルバムと紹介されていました。

私も、この写真を使い、林田民子さんを知っていたら教えてほしいとお願いをしました。
この写真、林田民子さんではありません。


1880年頃の写真
林田さん渡航したのは1920年。記念写真で撮ったとしても、
この写真は林田さんが生まれる、30年前の写真ですから・・・・撮れるかな


4分前に同じ写真が出ます。
 明治13年(1880)ごろ、写真家の草分け、小川一真さんが若い頃に撮ったものです。 

この頃カメラ技術は、1960年生まれの小川一真さんの努力で、上にある写真の一部より遥に
シャープな画像になっているわけです。

かつ、小川一真さんは1918年写真家から引退をしています。
(小川さんは1929年、神奈川県平塚市で亡くなれています。)

【著者のアメリカンシルバーウッド社】
著者の紹介に、廣済堂出版は1994年アメリカンシルバーウッド社の会長に就任。
阪神、淡路大震災では、建設省の要請で、アメリカの建設業を代表して、
約100名のボランティアと共に神戸の復旧に協力。

とありますが、1993年アメリカンシルバーウッド社((
従業員4名)は倒産し、営業中止しています。
阪神・淡路大震災は1995年。
著者を知るために
作業で知った情報です。どうでもいいことですが・・・・。
著者は1938年長崎県島原市生まれ
   1973年1級建築士の免許を取得し
   1979年(昭和54年)アリカに渡ります。終戦から、30年後です。

【ため息】
著書の中で節三が、話す言葉の内容は、どこの部分をとっても、ありえない。
まるでどこかの秀才が喋っているようでした。
民子さんと、節三が日本国を救うために山本五十六と密談をする。ウン?
私の作った世界平和基金財団が、東久邇宮様をブラジルルートでお運びし、
日本国亡命政府を樹立する・民子さん協力を・・・ウン?
すごい!
あったことのない人間同士をあっちこっち節三に引き合わせている・・・まいったネ!
もう、作中の節三は実像、太田節三ではありせん。信じられません!
どこか、かなり優秀で紳士で、金持ちで,策士で・・・・・
実像に触れている私には、歯が浮いてきます。
太田節三の実態は、書かれたものは真逆です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
林田民子さんのことを書くのは、今回で終わり!
終わりにしなければ又、著書に触れなければなりません。
著書のアナリストではありませんので・・・・・!

ご参考に、節三物語は、佐藤千夜子さん、ルーシー・バニング・ロッスは、
実在の人物ですので・・・・・!
参考文献は、昨日のブログのページに一部ですが載せてあります。
この写真は、アメリカの女流作家、オリバー・ニューポートがアメリカで出版した本です。
この本には、節三の妻、ルーシーの華やかな、生き方を描いたもので
節三は登場しません。

 
やはり、気が重かった!裏付けの論理が甘い! でもいい!
「ノンフィクション」ではなく「物語」として読まれたら、と思います。!

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林田民子さんについて・・

2016-08-23 06:10:43 | 節三・Memo

関東地方から台風が去り、
足の不自由な私の気持ちも幾らか安心という処です。
松葉杖なしで部屋の中くらいは、歩ける状態になりました。
心配くださった皆様には、ギブスもとれ、完治しましたと伝えられる日が、
早く来ればいいなぁ!・・・・と思っています。
めげず、いられるのも、皆様の世界がブログを通して、
私の心で、広がって、いびつな孤独にならずに済んでいる、
それが、また、「有難いな」と痛切に感じています。
これからも、時間の許す限り、ご訪問をさせていただきます。

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【太田節三・林田民子さんを描いた著書に関する私見】
記事を書く前にお願いです。
著書に関する私見は、決して、著書を誹謗し、
読まないでほしいという、願いはありません。
著書・「夢のなかに生きた男たち」は作者は既に亡くなられました。

けれど、遺族の方たちは現在、著者の面影を抱いて、生活をされています。
この事実にを踏まえ、林田さんのことについては、
新事実が出るまでは「触れない」と断言しましたが、
もう一度だけは書きたい、書かなければ、と思いました。

数年前から、著書の中の数ページを取り上げ、溜飲の下がる思いの、
記事をブログに掲載され、拡散しました。
一時、収まりましたが、今年四月ごろから同じような記事で再燃しました。

ブログの拡散記事の内容は、
第二次世界大戦が終わった後、林田民子さんと太田節三が、
当時副大統領トルーマンと会い、林田さんが、原爆を投下したのは、
どうしてかと詰問した直後、トルーマンを投げ飛ばし、
林田さんは側近にピストルで撃たれた。
という部分です。

著書全編は「おおおぉ~」と、一気に読めて爽快な余韻に浸れます。
そして
著者は、ご自身の本を「ノンフィクションとして思ってくださってもいい」
と云い残したまま亡くなられました。
事実であれば、作中の人物を調べてみたいのが、本能です!

長崎の原爆、広島の原爆、投下の真意を暴こうとして、
指示を出したトルーマンを投げ飛ばし、鮮血に染まって倒れた、
林田民子さん・・・どんな人?同席した太田節三どんな人?

二人の資料は・・・・・?

ありません!かろうじて、
太田節三は「講道館・資料室」に、
国会図書館に「羅府新報」

小谷澄之氏の著書「柔道一路」に
秋田魁新報(新聞社)に
中央公論に
資料と言えるか解りませんが、読み物として
丸島隆雄氏の著書「講道館柔道プロレス初対決」
渡部誠一郎氏の著書「海外にはばたいた秋田の先覚」
吉田和正氏の著書「幻の遺産」
がありますが、どの著書、雑誌、新聞にも、
林田民子さんの名前を見つけることはできていません。
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今日はここまでにさせてください!

文章の綴りは苦手としております。ここまで、どれほどの時間を費やしたか・・・・・・。
朝の太陽が、雲の切れ間から覗き強い日差しに変わり始めました。
容赦ください!次回、著書について触れます。
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それまでは
パックリのブログで!パ・・なんとか、これは私「一芸に秀てます」

2016年7月9日~真珠に変わった雨 http://blog.goo.ne.jp/mamanjyun326you/e/ddfcf1c5fde40bd2fe2ada78180ca8b0
パックられた方・・・・・ごめん

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風と共に・・・!

2016-08-21 19:01:48 | 節三・Memo

八王寺の太陽は、高尾山の向こうに沈みかけました・・・。



眺めていると、スカーレットが後ろにいるような気がします・・・!


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【節三・メモ】
{河野○○子様}
昨夜、メッセージを送った後

今朝は4時ごろからブログのバックナンバーがすべて検索されました。
その後から、止まりません。
どこから拡散してしまったのか・・・「元」がわかりません?
苦手なことの1つに文章を綴ること。
とりとめがありません。

理解に苦しまれたことと、お詫びいたします。

今までブログに投稿した、大田節三の記事で、完全に時代考証の間違いは2つあります。
その2つは今日まで訂正しておりません。

訂正箇所の部分と、新たに分かった(驚きでしたが!)
今日は、記事として投稿いたしませんが、明日、明後日までは
著書について、ブログに投稿いたします。

今年の4月ごろから、林田民子さんに関する記事が新たに拡散されていますが、
私見の部分で、少し、変わってきていると、心強く思っています。
惑わす「原因」は是正しなければ、、次の新しい「真理」への道は、
朽ちた橋の上を歩くようなものではないでしょうか?
この世、スキット背筋を伸ばして歩きたいものです!

少しの間、お待ちくださいますようお願いいたします!

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せめて・・・ブログで墓参り!

2016-08-12 19:40:39 | 節三・Memo

暑さ寒さも彼岸まで」と最近まで言っていたけど、
今年の暑さはこれからだと、聞くと
彼岸の「お墓詣り」で、故人も「暑いのでは、まだいかない!」と
駄駄をこねるのではないかと・・・・?!
今年は大事の前の小事で済んだ、不自由な環境なので、
お墓へ通じる菩提寺の参道を見るだけにさせてもらいますネ・・・!




あなた方が生んだ三男坊は
程よく空を見上げられるような歳になりましたが
アホ・バカ・・と言われる位、まだ元気です!

祭でも見てゆっくりしてもらいましょう・・!




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しゃがんで、思いつくのは・・・・!

2016-07-21 22:14:57 | 節三・Memo

八王寺は朝から雨でした。
関東に少しだけの雨。
貯水ダムにも少しだけの恵みがあり、
僅かばかりだけど節水が和らいだという・・。
だが・・・渇水の心配をしているコラムを見ていて、心配になった。

が・・・少しバツも悪かった、2日前。
この記事を読んだ場所は、煙草をくゆらせ目覚めを待つ、トイレの中だった。
読み終えてなんとなく、見透かされたようで、居心地が悪くなっていた。
つい、タンクに眼を奪われたが、
ふっと、このコラムニストは、よくよくトイレ」からの書き出しが好きだなと、
親近感が以前より増していました。
そのコラムが5月、花森安治を引き合いにした記事・・・・


私が今より、ずっと、ズット若かった頃、「暮らしの手帖」を扇のように
ページを親指ではじき、スカート姿の表紙の本を掌でさすり、
「花森安治サンって、好きだなあ・・・」と首を振り子にしていた女性を思いだした。

つい最近、ブログでも花森氏を書いた記事を見た。
朝のテレビドラマのモデルが、「花森安治」だと初めて知った、という内容。
そのブログを、もう一度拝見しようと思い・、ポチ、ポチ、パッチン!
まだその方のブログ記事を捜し切れないでいる。

コラムの書き出し、やはりトイレである。
二つのコラムを読み終えると、
トイレは古いものを切り捨て、新しい創意の突破口をを生み、
活力に変える、素晴らしい聖域のような気がしてくる・・・・ウン!

煙草の吸い殻の本数を気にし、テレビの音を拾っているだけの、
私のトイレの姿を振り返れば・・・やはりそれなりの人生だったか・・・・と!
ウ~ン・・・・!
マッ・・・・いいではありませんか・・・・ 


明日は、姿勢を正して小部屋を覗いてみようか・・とも、・・・・・?



今日はこのあたりで・・・・

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ひまわり!・・・・・・そしてシアトルは!

2016-07-19 23:19:57 | 節三・Memo



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【節三・メモ】 監視者に感謝です!

1920年節三がアメリカの土地、シアトルに足を踏み入れた当時
ワシントン州では、排日土地法が施行されていた。
カナダとの国境のシアトルは、林業と漁業の町、人口は35万人に達し、
タコマと共に、ワシントン州の産業を支えていた。
日本人が初めてシアトルへ渡ったのは、明治初年である。
やがてシアトルでは8000人、タコマには5000人と増え、
規模は小さいが、「日本人町」が出来るようになる。
流れ者、文人墨客の集団もあり、得意な発展を作っている。
シアトルに着いた日本人は、仕事で生活の基盤を作り、言葉に支障が亡くなると
徐々にカルフォニア方面へと、南下していく。

このシアトルに1907年(明治40年)伊藤徳五郎5段がアメリカで最初の
シアトル道場を創設している。

排日土地法は、市民権を与えられていない、日本人一世は、土地を購入したり
土地を借りることを禁じた物で、日本人に協力した白人でさえ、処罰される
厳しい法律で、自動的に市民権を得られる、2世の市民権をも剥奪せよという
と激烈な声さえ湧き上がっていた。

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