春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

3 小坂村 太田家の相関

2015-10-25 13:18:48 | 節三・Memo


明治43年の夏。
稜線が闇に飲み込まれようとする橙色の空に精錬所の
巨大な4本巨大な煙突からの黒い煙がまっすぐ空に向かって、
もく、もくと、湧いていた。
太田の家は家長の新助とクニ、長兄の戍太郎とアヤ、
二男の半助とクミ、2女のヤエと夫の豊口一蔵,
3男の悌三が2年ぶりに集まった。
4男賢次郎は途中でいなくなり、
5男小五郎は前日から姿を消していた。
長女のウメは、横田家の祭りごとのため、同席できなかった。
あとは花嫁修業中のミツ。六郎、節三は興奮して家中を走り回った。
新助は、南部藩士族の名のもと、
藩の隠し田の管理を先代から引き継ぎ、
その役得で相場でぼろ儲けをし、財を築き、戍太郎は町会議員、
半助は抗夫相手に質屋を営んでいた。
この日は
小坂鉱山が各地から集まった製錬所で働く喧嘩っ早い抗夫たちを
鎮めようと去年から建築中だった康楽館が、
大阪歌舞伎尾上松鶴一座の呼んでの杮落しの前の日で、
明日は皆で見物に行こうと戍太郎の妻アヤが戍太郎に提案をしていた。
戍太郎も町会議員の手前、反対する訳にはいかなかった。
去年は、2男半助が33歳で2人目の子トクを生み、
次女のヤエは嫁いだ先、
隣町の毛馬内村の財閥豊口家で2男、要二を生んでいる。
2人の乳呑児のお披露目に丁度良い、戍太郎は総代として皆誘ったのだ。

洋風のシャンデリアが、
注がれる酒で頬を染める新助の顔はさらに紅葉色になっていく。
わが子の顔を見て安心をし、両腕に抱えた、
よだれかけの上にチョコンと座る2人の孫の顔を頬擦りし、
片時も離そうとはしない。
いずれこの2人が夫婦になろうとは思いもしないで、
ただただ満足であった。。

2女ヤエの嫁いだ豊口家は、3代豊口勘六が私塾を開いていた。
生まれた長女ユンは一人娘のため、四代目を継ぎ、詩作家医師滝圭純の弟、
傅を婿に迎え4男2女を生む。勘六の私塾は大人気だったらしい。
5代目、儀助は戊辰戦の士となり、俳人号北水を、
6代目、順蔵は俳人号如川、
7代目、辨司は書家となり、
8代目、一蔵はヤエが嫁いだ、大地主のもてもての優男である。

5代目儀助の弟 貢(1714年 生)は分家を許され、石川性を名乗り、
1男3女を生む。
1人息子儀平は兄嫁が新渡戸稲造の姉であるソメと結婚する。
儀平とソメは6男2女をもうけたが長男石川伍一は
興亜思想に共鳴し井上海軍少佐のもとで情報収集活動をし3度目の訪中の時、
諜報員が皆帰国してまだ居残り日清戦争中の一人情報を、天津から流していた。
しかし隠れ場所が発見され逮捕、明治27年天津城外で銃殺されている。
(今でもその映像が生々しく放映されており、胸が痛む。)

伍一の弟、裕助は"うん"と結婚をし6男2女を生む。
三男の石川達三昭和5年第一回、「蒼茫」で芥川賞を受賞している。
六郎は朝日新聞の新聞記者で、3度の結婚をし、
2番目の妻に徳富蘆花の姪とも戸籍を成している。

ブログ作者は5代目儀助に遡り世間を騒がした人物の血の筋があることに困惑し、また一人節三が・・・



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2 節三に逢いに行く

2015-10-14 02:41:23 | 節三・Memo

太田節三が眠る仁叟寺の鐘桜堂

仁叟寺の創建は応永2年(1395年)前身は喜勝寺と称し
現在の岩手県沢山に堂宇を建立したのが始まりで、沢山を支
配していた桜庭家が鹿角市毛馬内に配置換えと共に明暦3年
(1657年に)名称も仁叟寺と改名した。
鐘楼は宝永(1704年)に建立毛馬内最古の木造建築物と
されている。
節三の墓は写真手前の通路を左に曲がり、本堂の前を右に見
て墓所の突き当り右へ曲がって進むと左手に横田家の墓石が
見えてくる。
その隣朽ちかけた石碑のない台座がある。
栄華を誇り、やがて徐々に転落へとなっていく節三の人生を
物語る姿なのでありましょう。
その心の襞は誰もが知らず節三だけが孤独の中で・・・・・。



10月13日(火)
利用している図書館は八王子市にある。
頼んでおいた本が他県から届いたとの連絡があり、
急いで行った。道の角を曲がったら館内が暗い・・・休館日。
気落ちしながら繁華街をぶらり、ぶらり・・・と!・・・
テントの屋根が明かりを灯して道の奥までびっしり建っている。
八王子市が呼んだ恒例の古本市でした。
瞼が全開。ここで1冊、隣で1冊、あっちで2冊。
最後の露店で2冊。ズボンを買い忘れて岐路についていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1 小坂村・太田家

2015-10-13 03:55:02 | 節三・Memo


明治37年、建設中の鉱山事務所



喧嘩、喧嘩、喧嘩、喧嘩し続けた男、節三。
1919年(大正7年)中央大学を卒業するまで続く。

節三は太田家9代目新助とクニ夫妻が生んだ10人目の子供で末っ子。
母40歳の時の子供。

大田家は、旧南部藩の氏族で、
「小坂村の大田家」と言えば秋田県県北では知らない人はいなかったという旧家でもあった。

田畑は50ヘクタールほどと地主としては少ないが、
山林・原野は「地区一帯、果てしないほど」といわれる、
千ヘクタールも所有し、屋敷の周りは石垣と杉林で巡らし、
4000㎡の屋敷には147坪柾ぶき屋根の邸宅に100坪の池と
その周りには,松や杉、
モミジの巨木が鬱葱とした森のようだったという

鹿角郡小坂村は1861年一人の農民が鉱山を発見し、
金、銀を採掘した。
後、南部家が1877年政府から借用して、
本格的に採掘の経営を始めた。
鉱山で働く飯場の無届住民は何千人と膨れ上がり(3000人以上)、
節三の生また1897年(明治34年)て
数年後には銀の生産高は日本一になるほどの
県内では秋田市に次ぐ繁栄地ともなった鉱山の村である


長男、戍太郎とは23歳、
すぐ上の兄、六男六郎とは2歳の開きがあり、
節三の幼少期は兄姉からは、
親とは違う思いの「いつまでも子供」という環境の中で育った。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする