春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

焼け寺に馳せた、男三人、上州の気っぷの良さ!

2019-11-27 23:32:58 | Extra
 
👆群馬県渋川市近くの子持山を望む吾妻川。
1700年代ごろ、

この辺りは、平坦な河原に葦が無数に生えていた。
吾妻川に沿う砂利道を血相を変えて
渡良瀬、花輪から10里、
渋川の宿に泊まり、明け方、
中之条宗本寺に昼飯どきの前には着くと、
息子を急かせた万之助。
1744年1月13日宗本寺の諸堂が焼けた。
1742年、7月27日の午後から降った雨は、
東海から近畿、関東、北陸を襲い、
29日の夕刻には、辺り一面湖の状態になり、
家や田畑は消失して、農民たちは途方に暮れていた。
(寛保の洪水記録)
からっ風に義理人情、計画性はないが、
生真面目で正直者、飽きっぽいが、柔軟な頭脳、
くよくよしない上州人を絵にかいたような万之助。
焼け跡を片付け、洪水の後の生活に困窮しながらも
再建をしようとする、檀家たちを見た、
7月下旬。建立本堂欄間の彫刻を彫ることに決めた。
高瀬万之助、生粋の上州人。
大工棟梁は、箕郷和田山の松本吉右衛門。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
撮影禁止の条件で本堂の欄間を見せて頂いたものの、
本尊の上に龍、両面に飛天の緻密な彫り方に、
度肝を抜かされた。
瞬間、撮影禁止がちらつき、
案内の坊さんが須弥壇の掃除をしながら、
チラリ、チラ、こちらを見ている・・。
外陣の欄間に、子安地藏、赤鬼、牡丹と雉、鳳凰と青獅子、
白獅子に蛇に似た4つ足の架空の蛟、馬・・・
彩色は剥がれいるけど、滑らかな鑿使いが、いい!
1750年完成した彫刻の欄間に墨書があり、
良く読み取れないけど、一枚一枚に施主の名前がある。
彫ったのは高瀬万之助、忠七親子。
親子はこの30年後、近くの応永寺の山門の彫刻を施し、
さらに20年後、忠七は宗本寺の欄間に3面を加えたのが、
私が見た宗本寺の欄間。
投稿者の現地報告をさらに、詰めることを期待するものです。
👇本堂玄関の彫刻は、たぶん万之助の作ではと・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高瀬万之助親子が、吾妻地方に熱を入れたか・・
分らない。
こちらも現地調査の報告を期待したい!
 
 
 
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高瀬忠七・売れっ子独立して月夜野で初仕事。

2019-11-25 22:32:30 | 関口文治郎/神社仏閣
 
・・・・降って寛永十四年丁丑年(1637)
十月沼田領主真田家にて、
再建せしが、幾星霜を経て社殿破損せしを以て、
寛政四壬子年(1792)
氏子信徒等敬神宮の尽力により営繕完成せり・・・
 
群馬県のわたらせ渓谷の淵に、
花輪町があって、1700年代、
日光東照宮の彫刻修繕をしていた、
真田家の家臣で刀傷で武士を捨てた高松又八さんが住んだ。
彼の弟子の、石原吟八郎という、腕のいい彫刻師も、
又八さんと一緒に日光東照宮に出向いていた。
 
又八さんの死後、独立した吟八郎さんが、
53人の彫刻集団を作り、
江戸初期までの飾りけの無い寺社から、
群馬県、埼玉県では人目を引く、
彫刻のある寺社に変身させた。
前原藤次郎、関口文治郎、星野政八、石原常八・・・・
雪の夜、皆12,3、4歳からしもやけにの手に、
焚火の灯りで手練に仏像を彫った彫刻師たち。
20歳ごろには、いっぱしの彫刻師になって、
よその土地で施した彫刻を見て、あちらこちらから声が掛る。
 
高瀬忠七。
親父の高瀬万之助さんも、花輪で生まれ、
石原吟八郎さんの弟子になり、
撮影禁止にするほどの、
群馬県中之条の宗本寺の本堂欄間24面と、本尊上に、
多彩の彫物を施している。
この欄間の3枚が忠七さん。
7~8キロほど離れた吾妻町、応永寺の山門も彫り、
山門棟札の裏面には忠七さんの名がある。
 
1792年、忠七が独立して初めて彫ったのが、
みなかみ町月夜野の大峰神社。
氏子さんたちが、壊れかけた神社を見かねて、
僅かの金子を出し合い、建て替えた神社。
中之条の宗本寺、応永寺山門を手掛けた忠七さんに、
彫り物を依頼したものでしょう。
高瀬一族は、群馬県北部に多くの彫刻を残している。
欄間の高瀬忠七さん。
晩年は、名が出てこない。
そのころ、
星野政八、石原常八の度肝を抜かす、鑿裁きが、
台頭してきた、1820年ごろ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
やんちゃだってのは、分ってるけど、
もう何十年も、親におさえつけられているわけで・・・

 
何も子手毬を見せつけなくても・・・だ!
 
 
 
 

 
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榛名に来れば目に「まゆみ」

2019-11-22 23:45:33 | Extra
 
掃出しの溝に、
短い秋に隠れる場所を失ったか、
小さい虫が2匹。
来年6月までの仕事に、かまってもやれず、
銀杏黄葉も枯れを早める今日の雨。
榛名山を撮った暖かかった15日から日が経ち、
ニット帽が目立ち始めた八王子です。

👇伊香保温泉から榛名湖へ行く、
伊香保森林公園の手前にある、高見展望台から、
三国山、谷川岳、小野子山、子持山、赤城山、
ずら〜っと展望でき、街並みは渋川氏の市街が、
古墳時代の歴史を背負い、余すところなく。
4000個ほどの古墳を持つ群馬にして、
温泉の数も多い県。
浪曲に、芝居に語られる人物もいて、
からっ風、気候にマッチする人物、物語が沢山ある。

 
 
 
妖怪、ダイダラボッチが造った榛名富士と湖。
浅間山、富士山を造ったダイダラボッチたちに、
後れを取ったけど、と民話も豪快。

 
👇群馬と馬は切り離せない歴史。
 
 
👇とうとう今年も登れなかった相馬山。
家族で登った方がいた、レポを見て満足。

 
 
 
👇相馬山、榛名富士を真ん中に、三ツ峰山。

 
湖畔のメロディーが奏でる上毛山パノラマ街道から、
「まゆみ」の木を前景にして榛名山・・。
 
 
👇オンマ谷。
噴火で飛んできた巨大な岩石が、
伊香保から馬でも登れなかった、谷。

 
👇今年の風穴は、雨の所為?
冬の所為?
風の音が聞こえなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
👇この場所に来ると、胸が熱くなる。
紹介してくれた方の仔細な助言に、
「まゆみ」を探し、通い続けた私に、
そして植物音痴の、
「まゆみ」を見て酒を飲むはずの友が、
若くして、来れなかったことに。
 
今日までオンマ谷は遠かった、
まゆみは見られないと思ったけど、来れた。
 
そろそろ帰ろうかと見上げて・・・、
青い空に「まゆみ」「まゆみ」
後ろも、右も、左にも「まゆみ」

 
 
 
 
 
 
 
👇友に見てもらいたかった「まゆみ」(2017年)
 
 
 
 
 
 
 
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「おお、よき月よのかな」と詠めば、月夜野。

2019-11-20 23:08:53 | 関口文治郎/神社仏閣

👆台地の三峰山に昇った月を見て、
歌人、言葉遊びの達人源順・みなもとのしたごう、が、
執掌を持てず、位官に甘んじて、晩年、
能登守の補任される途中に立ち寄ったのだろうか、
平安時代の短い歌。
「おお、よき月よのかな」
月夜野。
有名歌人が詠えば、厳かになり地名にもなる。
暴れ川、利根川の上流に流れる、
赤谷川が流れる、大利根山の麓、
群馬県・みなかみ町月夜野。
昔は朝廷に献上する馬の牧があったところ。
 
 
 
 
 
 
昭和12年当時月夜野町の町民が、
1.5キロ先の寿命院から、神社を人力で曳家した。
明治41年、月夜野神社と改称した都神明宮。
天照大神を祀っていた、神社を、
江戸時代初期、沼田藩主、真田伊賀守信利が再建したもので、
曳家は寿命院の山腹から、かなりの労力だったろうと・・。
利用した道具は、木のソリとコロだったといいます。
月夜野に鎮座した神社を観れば、
曳家をして迄、鎮座したかった思いが判ります。
本殿、1792年、群馬県榛東村の柏木、大河原の二人が、
棟梁になって担当した神社。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
関東で、軒裏の四面迄、彫刻が施されている、のは、
群馬県、中之条町の吾妻大国魂神社しかない。
彩色の剥落は、造営当時の華やかさを、想像して、
時間を忘れさせるのに十分でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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あきる野市草花、猛者武将と豪族のタックル。

2019-11-17 22:15:12 | 関口文治郎/神社仏閣
 
東京の西の8万人が住むあきる野市、
米軍基地、横田基地が、
160万年前の全骨格のクジラの化石が、発見された昭島市が、
僅か20分程度車で走れば、
秋川の峡谷が、
今は、閑静な住宅街になっているけど、
鎌倉時代、一の谷の戦いで名を挙げた、
平山季重、一時は500騎の平軍勢に17騎で戦った猛者が、
社殿を奉納する。1207年。
一宮神社。
 
室町時代には、この地の豪族が、再建し、
小宮大明神と呼ばれ、戦国時代には、
豪族たちの祈願所になって、
市井の生活苦から建てられた神社とは、趣きが、ちと、違う。
再建したのは、地元豪族、小宮上野介憲明。

今は、彼岸中日の獅子舞の催しは、
家内安全、
雨ごいの獅子がいて、稲作文化の舞いもあり、
天然理心流.棒術の流儀を子供たちが披露するのだそうです。

前日五日市の同名の・小宮神社を訪れ、
彫刻が無く、スカ、を、
地中海の食事をして、ギャラリーを見学したリベンジの神社。
小宮神社の所在地、あきる野市草花、
なんと、愛らしい地名であろう。

 
👇一間社流造り。
 
 
 
 
 
 
 
 
👇「石橋」
清い涼山の石橋の滝の縁で、
舞い狂う獅子。
清涼山は中国の秘境にある山、
行く道にかけられた石橋の向こうは、文殊の菩薩の浄土、
なまくらな修業では渡れないとから待てと、現れた獅子。
そこへ現れた別の獅子、
これが、乱舞し、
世は慎重に、決めたら活発に動けと、
悟らせる、彫物。

 
 👇この獅子が文殊菩薩の霊験。

 
👇「二見ヶ浦」
福岡県にも二見ヶ浦の観光地があるけど、

この彫刻は、伊勢の二見ヶ浦の日の出。
本殿背面の羽目板。
 
 
 👇「高砂」
♬ 高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟・・・♪
夫婦愛と長寿の祈願を側面の胴羽目に。

 
 
 
👇向拝の龍。
この龍の構図と彫り方、最近、京都の城崎温泉の温泉神社に、
訪れた群馬県の山の師匠がブログアップした、のに似ている。
彫刻師の名が判らなかった、
いいきっかけを知らせくださいました。
 
 
 
 
 
 
 
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