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八王子の与太郎河童、
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「東京行進曲」・・佐藤千夜子さんは・・・女! 

2016-05-14 20:57:15 | 節三・Memo
{なつめろダイアリー}様、記事より

太田節三氏と佐藤千夜子さんの最初の出会いがロサンゼルスなんですね驚いています。

名曲『影を慕いて(古賀正男=古賀政男作詩作曲編曲)』
『日本橋から(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』を
古賀正男指揮・明治大学マンドリン倶楽部伴奏で佐藤さんが初録音されて一週間後の
1930年10月28日、佐藤さんは海外音楽留学のため日本を離れ。

①結城亮一氏(NHKドラマ・いちばん星の原作者)の原作に描かれた
太田氏と佐藤さんの出会いは全く異なるんですね。
結城亮一氏が伝えられた定説では客船に太田氏もおられ、
佐藤さんの船上独唱会後の御二人の会話も出てくる=船上で出会ったことになっているのです。


もう一説の1932年ロサンゼルスオリンピック出場レスリング選手・八田一朗氏の
述べられたエピソードのほうが、Toyoguchi様の記事の内容に近いですね
②(「佐藤さんのイタリア留学は太田氏の支援で行ったんではないか」と八田一朗氏が述べられた部分は噂話と思われます。
当時の佐藤さんは大ヒット連発で専属での印税が莫大だったと言われているからです)。
佐藤さんの生涯を描いた新説著書を
古賀政男研究家第一人者・菊池清麿氏が最近発表され、
「いちばん星」原作者・結城氏との対立が話題になってました
(結城氏が菊池氏に対する批判のような文章を掲載)。

佐藤さんはビクターの反対を吹き飛ばして古賀政男作品を録音、
無名な一青年作曲作品レコーディングを
中山晋平作品代表歌手の佐藤さんが歌うことは
ビクター側にすれば考えられないことだったのです。
それをきっかけに古賀政男氏はコロムビアから専属の話が出て、
古賀氏御自身「佐藤さんのおかげで作曲家になることができた」と述べています。
佐藤さんは音楽に対する意識の向けかたがものすごかったようです。

結城氏著書の一場面に次のような部分が出てきます、
③「太田節三のロサンゼルスの家はラジオも聴ける最高級の電気蓄音機が最新の音楽を奏でていた。
千夜子は、ミラノに行かなければ、と思った・・・」。

Toyoguchi様、英語文章記事を再掲載致しました。ありがとうございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

{toyo0181}より 
いつもありがとうございます。
大衆音楽史に「慧眼の士」と言わさせていただきます。
のほほんと生きることの憧れに身を置く私の背筋を張らせる、真摯な記事に、
敬意を感じます。

上記、記事にブラウンで色付けしました文に関してですが
① ご理解いただけたようですね。萱島氏の紹介で節三と、佐藤さんは出会っています。

② こ推察の通り八田氏が推測されたものと思われます。噂話でしょう。
  1932年のロサンジェルスのオリンピックには、私の叔父・横田正行(当時法務省剣道師範)が
  行ってまして、節三としばらくの間、節三に世話になっております。
  佐藤さんのイタリア留学は、節三の支援ではありません。
  当時、あなた様が推察していた通り、佐藤さんは8年余りは 
  優に暮らせる資金を持ち合わせていたようです。

③ 佐藤さんのイタリア留学のきっかけは、高級な蓄音機が・・・と!美化されていますが
  オペラの修業の志向だけではなかったと思われます。
  もっと、もっと男と女が繰り広げる感情のもつれが起因します。  
  ここで中山晋平も関係してきます。

  結城氏著書はこの期間の出来事をティフォルメし、記事にされていると思われます! 
  佐藤千夜子さんの、実像をとらえておりません。
  それが、「NHKの一番星」をご覧になった佐藤さん遺族の方の
  不満にもなったのでしょう。

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6 コメント

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日付変って昨日もお疲れ様です (なつめろ)
2016-05-16 00:43:01
toyo様、遠方までの御出掛けお疲れになられたでしょう。私は自転車で動くのも息が粗くなります(^_^;)。一昨昨日・一昨日、2日連続で外でのキーボード練習へ出まして充電式電池が電源切れになるまで練習(それぞれ3時間)。昨日は音楽レクリエーションでした。こちらは昨日からの雨降り天気、テーブル(コタツ)の上で「豆苗」がのびのびと育っています。

最新の記事を拝見しました。佐藤千夜子さんは作詩家の西条八十氏から「歌いかたが、のっぺりしている。恋したことがあるの?」と言われ、「どうせ私は恋をしたことがございませんから、恋をしたことのある方に歌っていただいてください」と言われたエピソードが伝えられています。『愛して頂戴』の録音でのエピソードで、いわゆる「感情移入」の歌いかたを佐藤さんは苦労なさったようです。ミラノ滞在時の佐藤さんを、『無情の夢』が大ヒットの歌手・児玉好雄氏が述べています(結城亮一氏が児玉氏に直接会われてインタビュー)。児玉氏をビクターに推薦されたのも佐藤さんです。
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こんにちは (なつめろ)
2016-05-16 18:23:31
今日も地元は雨降り天気、先日から蜂が階段の上で巣を作りはじめたため屈(かが)んで通らねばならず。一昨年、私は一日で3匹の蜂に刺されたんで蜂は苦手も苦手です。駆除してもらわないと、素人では追っ払うことができませんし。

佐藤千夜子さんと太田節三氏の恋愛は、結城亮一氏が描かれた定説からサバサバした雰囲気ではと思っていました。"toyo"様の更新記事での「男と女」という個所で、御二人のあいだにはいろんなことがあったんだろうなぁと素朴に思います。太田氏はすごくモテておられたでしょうから、佐藤さんは気が気でなかったかもしれませんね。佐藤さんは「歌謡曲の女王」だった方ですが中山晋平氏と野口雨情氏の力は大きく、日本ビクター側は中山晋平氏の機嫌を損ねないような配慮。そのため佐藤さんはイタリア滞在中にクラシック独唱会を開催できなかったとも言えるようです。日本ビクターは、イタリアのグラモホン本社(ミラノ・スカラ座スタジオ)へレコーディングの依頼ができる状態にあり、佐藤さんのクラシックデビューをさせないよう会社側の考えをミラノへ知らせていたのではと思われるのです。また、イタリアの佐藤さんの様子は当時ミラノに家があった藤原義江氏も日本へ伝えていたようです。中山晋平氏は佐藤さんのイタリア滞在中に、鹿児島で新橋喜代三さんと知り合われています。
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ルーシーさんの初来日が (なつめろ)
2016-05-16 18:41:38
1926年(大正15年)、は驚きです。当時ルーシーさんは太田氏との恋愛になったばかりらしく、御亭主との離婚がまだの状態。米国でのブログ記述には「ルーシーさん1926年初来日」が出てこないのです。また、当時米国の多くの州では「外国人との結婚ができない」ことになっていたため日本で御結婚なさったんだなぁと。
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こんばんは (なつめろ)
2016-05-16 23:50:17
今日もお疲れ様です。佐藤千夜子さんは1952年頃に音楽活動を退かれてから、イタリア語と英語を話せることで外国人の家庭のお手伝いをなさっておられたようです。佐藤さんのリリックソプラノの声質は、イタリアでの声楽レッスンでメゾソプラノに。歌謡曲向きではない発声へと変ったため、日本ビクターは1938年に佐藤さんへフリーを伝えています。フリー後の佐藤さんは皇軍慰問活動でイタリア民謡を歌い、音楽面では最も充実されていた時期だったようです。「佐藤千夜子慰問団」一行が南方慰問で漂流し山本五十六氏に救助されたエピソードは有名、レコーディングが何年も無かった佐藤さんは南方から帰国直後ポリドールで御自身作曲作品『野の唄(野口雨情作詩)』を録音。1943年、東京で開催の「山形県人音楽会」で山本五十六氏愛唱の歌を独唱されています。中山晋平氏は「佐藤千夜子さんの和洋折衷な歌声の魅力=山形訛りの日本風な味とクラシック発声の洋風」が御自身の作品によく合うことを発見され、佐藤さんは「歌の女王」に。テレビドラマで「いちばん星」と表現されている意味は、専属制度でのレコード歌謡歌手の最初が佐藤さんだからなのです。日本人で最初のマイクロフォン方式録音歌手は藤原義江氏、1925年(大正14年)10月に米国ビクター本社で『荒城の月』をレコーディングされてます。
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こんにちは (なつめろ)
2016-05-17 14:50:00
佐藤千夜子さん関連記述を検索しますと、いろんな方々の書かれたブログ記事がものすごい数出てきます。1970年代のNHKドラマ「いちばん星」も当時大変な人気でしたし、佐藤千夜子さんの歌声が時代・世代を超えて親しまれていることも伝わるようです。佐藤さんはビクターを離れてからは声楽家としての音楽活動だったことから、慰問時のリクエスト以外では歌謡曲をほとんど歌われてないようです。中山晋平作品で歌謡曲の女王になられた、それが佐藤さんのクラシックへの情熱を掻き立てることにもなりイタリアから帰国後はビクターと音楽的観点が全く異なったようです。一説では佐藤さんと中山晋平氏との間柄も見掛けますが、佐藤さんがビクターから離れることがはっきりした時点で中山氏は歌手の新橋喜代三さんと御結婚。佐藤さんは帰国後のビクターで歌謡曲復帰、昭和最初期のような大ヒットが出ず「ヒットを出してイタリアでクラシックデビューをしなければ」という焦りも感じておられたのではと思われます。戦後佐藤さんは仕事中もイタリア語で歌い、その本格的な歌声に人々の驚き。『別れのブルース』作詩の藤浦氏の知人の方が、「昔は名の通った人と思う。イタリア語で歌ってるんだよ」。藤浦氏は佐藤さんが訪ねてきた時を著書「なつめろの人々」に書かれています。「このシュークリームとても美味しいんでおみやげに持ってきました、と笑顔。彼女がシュークリームを販売している、と他の人々から聞いて知っていた。が、私には、おみやげで持ってきた、と言う。彼女らしいな、と思った」。音楽活動を退かれても、佐藤さんは「プリマ・ドンナ」だったのでしょう。最近発表の書籍のひとつに、或る作家と会った人々が紹介されています。その作家は、朝日ソノラマ社員だった頃に取材で佐藤さんと会っているのです。1967年頃らしく、佐藤さんはミラノでの録音曲を繰り返し再生しながら「『東京行進曲』は私が歌った歌なのよ」。東京12チャンネル「歌謡百年」の第1回放送で、スタッフは佐藤さんに出演を依頼しようと考えていたらしいのです。それがどういうわけか佐藤さんの出演にならず。ビクターはオムニバスアルバム(歌謡曲集)発売に佐藤さんの歌声が欠かせない、ビクターから佐藤さんに謝礼は出てなかったようなのです。佐藤さんがTV出演されることによって、ビクター側は「アルバム収録曲での佐藤さんへの謝礼を考えねばならなくなる」と思った
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Unknown (にいちゃん)
2016-05-26 17:12:36
一昨年の「林田民子エピソードブーム」が7月~8月だったですが、今月「Facebook」を中心に話題らしいのです。記事リンク数が200を超え「なぜだろう?」と素朴に思ってたんですが、米国大統領初の広島県訪問直前で林田民子エピソードがブームになっているようです(エピソードの掲載ページも増えています)。昨日の記事にチラッと書いているのですが、林田民子という御名前は歌手の水前寺清子さんの本名でしかも熊本県出身。「太田節三氏は米国政界と何の関係も無かったのでは」「政界関係者ではない日本人をホワイトハウスへ招くという展開はどう考えてもありえないのでは」etc、素朴な疑問を感じるのです。
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