春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

松山寺に春が来る。箕郷町。群馬県高崎市。

2023-02-03 22:20:05 | 心に残った北関東の社寺

群馬県、
榛名山麓に水資源に恵まれた町、箕郷。
1512年から始まる、
戦国時代に、上州の西側中心の箕輪城があり、
地元長野氏に、武田氏、織田氏と北条氏、井伊氏に、
戦国の領地争いは、1590年、
前田利家・上杉勝景連合に、
80年の歴史・箕輪城を開城し、
箕郷村から城が無くなった。1598年のこと。
戦続きで、疲弊する領民。
重なる、榛名山からの水害はあっても、
五穀豊穣の地、不幸は慶長2年1597年、
境内800坪に建つ、
然室玄廊大和尚が、釈迦牟尼仏を本尊に、
開基した、松山寺しょうざんじは焼失し、
以降、松山寺の記録は鐘楼だけになった。



👇寺の入り口では、
1748年の六地蔵と如意観音が迎え、




鐘楼の脇には、山村暮鳥の両親と弟の墓が・・、
朽ちる柱を保護する鐘楼のやぐらに、
箕輪の豪家・下田利左衛門が、
1727年、当時九代和尚に寄進したもので、
子持山、双林寺の石梁大和尚が銘を打つも、
18年後1744年、火災で焼け落ちる。
1783年の50年近く、
時報を知らせる鐘の音は無く、
悲しんだ、下田家の孫・下田理太夫政広が、
栃木佐野市の、鋳工・小島安左衛門と
地元、下田市太郎休理と塚越富左衛門に鋳造を依頼したもの。

太平洋戦争、鉄の不足で供出するためのこもかぶり、
拓本されての梵鐘に、
地元の人たちの浄財での梵鐘、供出を免れた梵鐘。

戦禍の憎しみに、計らいは餅の温かさ・・・。













松山寺を建てたのは、檀家さんと領民の浄財、
戦国の争いが身近に、無くなって、
心に、ぽっと灯りが着いたのでしょうか




まもなく春、
桜の花が咲けば、療養の松山寺の東堂夫人の、
元気な声が聞こえてきそうな・・・
2月3日





👇1600年代かと






ここで
小柄な、山椒のような、めりはりを利かせる
素晴らしい女性と知り合った
松山寺
女性が50年前に描いた格子天井
お兄さんが描いた
年代と共に優しさを帯びた絵が
620年の歴史の本堂と共に
時代を超え、語り継がれて
その画を次回に







コメント (4)
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