不二越の本間会長の発言に、久しぶりに越中強盗の元気が盛り返してきた。不二越にとり、富山人は知財ではない、というわけだ。その証明は簡単である。県内の大学への、県内高校生の評価を観ればよい。第一、不二越工業高校を観ればよい。
富山人は、年々「縮んでいる」ようだ。たとえば、北陸電力、北陸銀行、ともどもに純益ベースで「縮小」傾向にある。「縮小」のラインに乗り、「拡大」のラインに乗っていない。そもそも原発は、もともと北陸電力に不可欠だったか。廃炉の費用を考慮したら、明らかに陰謀集団と言われても仕方がないのが、原発族である。誤解してもらいたくない。僕は、原発再稼働の賛成派である。廃炉の費用を蓄積するためである。
世界のうちでも、石炭火力の完全燃焼の技術は、日本にしかない。石炭の液化、微細噴流化の技術は、富山にはある。そこへ、酸素を吹き込む溶鉱炉の技術を使えば、石炭火力でも、原発に近い自在の燃焼制御ができる。富山人が自己開発した技術ではない。
富山人といわれて、富山人だと居直るのは良くない。それは「縮む」という心理的な防御姿勢に過ぎない。素晴らしい「富山人」とは、江戸時代からの売薬さんの市場開拓の精神である。進んで異郷に市場を求め、先用後利、あれば邪魔にならないから置かせてください、という配置薬の精神は、まったく不二越になかったのか?それは、ある時期まで存在した。
どこかで、豊かさを得て、「縮む」現象が常態化した。IT技術をこなしきれないことが原因である。富山のインテックは、ITの成果の普及者である。そもそも、加賀は機械としてコンピューターを造れる技術集積がある。
富山の場合、物性物理学から量子力学への飛躍のプロセスにおいて、富山人の脳にある種の「縮み」が生まれたのではないか。わずか25年、特に中沖県政の時代に、なんらかの脳梗塞が生じていたのではないだろうか?