富山マネジメント・アカデミー

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「加越同舟」「呉越同祖」と行こうね。

2017年07月26日 | Weblog

加は、加賀。越は、越中。不勉強なので、越前、越中、越後の間に、加賀が割り込んでのは、近世に加賀が発達したためかと推察に止めておく。古代は、越前と越後の間の越中が、日本海側の中核地域であった。特に伏木港は、重要な港であった。明治期に確立した海図、税関の制度では、伏木は特別な港で、国際航路を支えていた。英語の海図で、FUSHIKIは検索できる。気象も、伏木の天候が検索される。まして、税関は、大阪税関の管轄下にある。伏木税関は、とても伝統のある官署である。明治期に大いに栄えた。

加賀が大きくなったのは、武士というナレッジワーカーが、金沢の城下に集められたからである。加賀の国力は、越中の統治によるものである。大正期から、富山にはコミンテルン史観が流布しはじめる。世界を資産階級と勤労階級に二分し、その二大階級の闘争により、歴史が進化するという歴史哲学である。いまや国家的にこの哲学を信奉しているのは、北朝鮮労働党だけである。中国、東欧、キューバもこれを棄てた。残されているのは、富山湾岸の港町を結ぶ越中社会主義運動である。旧制富山高校は、不幸にして、越中湾岸の港町をつなぐナレッジワーカーの社会福祉の活動と重なり、金沢の第四高等学校との、疑似的な階級闘争にのめり込んでいく。

その結果、「加越」は、別である。万葉集の国である越中、万葉集に出てこない加賀。古代史が持ち出され、本家の争いが生じる。近代、現代、双方の有識者が、歴史と文化の「加越戦争」と行うようになった。これに、「呉東呉西戦争」が加わる。高岡人と魚津人との肌合いの違いは、極めて厳しい。相互に皮膚感覚で、違和感を隠さない。これが、新聞の世界にも波及し、呉東が北日本新聞の縄張り、呉西が読売新聞と富山新聞の縄張りとなる。

2017年の石川県・富山県、「加越異舟」と「呉東呉西戦争」は、硬直的に出来上がった社会構造となった。これを解消するのが、地域創成であるのに、読者・視聴者の意識の固定化、硬直化をメディアが扇動している。「加越同舟」「呉越同祖」と行こうね!特に、改憲運動では、「加越同舟」「呉越同祖」が基本だ。呉東派の北日本新聞は、富山湾岸の港町を結ぶ越中社会主義運動であり、護憲運動の基盤である。この戦争は、憲法問題に集約される。

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