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政治評論のいくつかのパターン

2017年07月25日 | Weblog

経営評論は、基本、成功事例か、大失敗の事例か、この二つしかない。いわゆる他山の石である。しかし、そこには歪みが生じる。経営に関わる多元的な要因にたいし、多元的な複雑要因の一局面に焦点があたりすぎになる。ただ、評論の欠点は、読者である経営人により、他社の事例が一般化できるかどうか、判断者が基本、優れているから救われる。

ところが、政治評論となると、サイエンスとして成立しないことを大前提にしているから、言いたい放題の世界である。政治は、科学ではない。もともと、詭弁でも通用すれば正論となる世界だ。それを科学として、政治をサイエンスとする努力をした人物がいる。それは、中国の古代の管子である。

孔子は、管子から遅れて誕生する。管子は、富国強兵を自然調和させるように無理なく民衆を誘導する。だから、斉の国には、アジア最古の国家学(稷下の学)が生まれる。孔子もそこから多くを学んでいる。中国共産党の強みは、管子という古典的な政治学の鏡をもっているからである。孔子は、弟子たちに志を語らせたあと、詩歌・歌謡の音楽世界を楽しむことを喜びとする哲学を語る。管子が政治から逃れず、民衆が衣食たりて礼節を知るというサイエンスに殉じた。孔子は、管子の生前の業績には、ほとんど1歩も近寄れなかった。孔子は、成功事例の人ではない。だが、孔子は弟子を愛し、弟子に敬愛された。つまり、教育者の鏡だといってよい。だから、学派の祖師として、空前の原理者となれた。

孔子は、倹約質素であれ、利を見て義を思え、郷党として生きよ、この3点を重んじた。政治をサイエンスではなく、政治倫理に置き替え、個々人の行動指針に置き替えた。ここから人物論が、政治評論の基本となる。確かに、これも真理ではある。しかし、他方で、無為無策の楽生を社会に染み渡らせる老荘思想に比べると、管子も、孔子も面倒くさい。日本の場合も、中国の場合も、無為無策の楽生を望めば、日常がそうできる人々が多い。政治は面倒くさい、と感じるのが正常な人間感覚である。僕も、北朝鮮に代表されるコミンテルン史観がなければ、無為無策の楽生に生きたい。安倍首相も、そうであろう。孔子から言わせると、益友には恵まれていない。

 

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