富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

㈱スギノマシーン社長 杉野多加良さんにお会いしました。

2017年07月07日 | Weblog

TMA講師として、富山大学工学部のPMEへ寄付講義をお願いし、昨年に続き、今年も講師を派遣して戴くので、御礼を兼ねて表敬訪問した。結論は、別格の方である。

東アジアの経済史、経営史をひとつの専門とする立場からいうと、工作機械のメーカーの創業者には格別の存在感を感じる。二代目、三代目には、それなりの苦労があるが、創業者というのは、歴史の創造を意味する。

工作機械は、機械をつくる機械だからマザーマシーンという。通常は、電動モーターで駆動し、歯車で変速してドリルでカットするのが工作機械である。その分野の機械も生産されているが、唯一、高圧力水による切削機を実用化されたメーカーさんである。近年は、新素材を開発するため、ナノレベルの原子レベルの微粒子を創る装置の開発に成功された。

この装置により、あらゆる分野で適した新素材の開発が可能になった。1世紀、2世紀、3世紀と、魚津の機械メーカーが、世界のモノを素材として細密分解することで、比較的に原子番号の近い原子と原子との物理合成、さらには化学合成へと進展する。この可能性を引き出すのが、スギノマシーンさんである。

エンジニアとして、世界史、人類史を見つめている、その眼光は別格の人である。憧れの人物にお会いして、僕のスギノさん信仰は、当分、醒めることはないだろう。知が歴史の進化を生む典型だからだ。本当に、「タカラ」の勇者である、と思う。


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富山大学五福キャンパスは、富山人の聖地である。(校正済)

2017年07月07日 | Weblog

富山大学は、日本陸軍第35連隊の敷地の跡に設置された。それには、深い意味がある。明治維新後、日本陸軍は、第7師団を金沢においた。そのため、日清戦争、日露戦争には、富山男子は金沢に集められ、七尾港からは大陸にむけ出陣した。やがて、富山には、第7師団に属する第35連隊がおかれた。完全な徴兵制度であるために、富山の男子は全て五福に集められた。「富山県史」を書く際に、僕は第35連隊の中国での軍事展開の記述を任された。というのは、地元の人間が書きたくない人から、逆に、書きたい人まで、連隊の記述をめぐり、左翼と右翼とが正面から衝突していたからである。金沢に近い県西部の方も、徴兵制より五福の連隊に徴兵され、富山人としての歴史始まって以来の18歳人口の共同生活、訓練をうける。第35連隊なくして、現在の「富山人の大祖父」は存在しないだろう。彼らは世代横断的に相互に認知し、戦友としての世代別の経験を共有していた。ここに、富山人という意識が定着した。なぜか、中国史の専門家である僕に、嫌な役目が回ってきた。第35連隊の兵士であったひとたちの在郷軍人会の人々は、第35連隊の歴史を冊子にしており、その記述を富山県史の通史篇に盛り込ませようと、編纂委員として、さらに執筆者としても、手を挙げられていた。しかし、編集長の梅原隆章博士(当時 富山大学教養部長)は、中国近代史の専門家にお任せしたいと、30歳前半の僕に丸投げされた。不思議なことに、富山第35連隊には、幽霊伝説や新兵いじめの悲惨な秘話がなかった。それと、浄土真宗の僧侶も徴兵され、従軍していた。従軍僧侶として、また、兵士として。それで、僕は第35連隊の連隊史のかたの原稿を「活字もポイント」を落として、当事者の証言として掲載した。左翼からの冷ややかな視線を意識して、本文の叙述でチクリと冷静な分析を入れた。僕の処置は、左翼系の『北日本新聞』で厳しく批判された。

この第35連隊は、明治維新より1945年8月までの富山男子の「教育聖地」である。そして、戦後の平和主義の象徴として、県民運動をへて、駅弁大学と酷評されながらも、第35連隊の聖地に、新制の国立富山大学が誕生した。富山大学は、是非、第35連隊跡の記念碑と慰霊碑、前身の富山高校、薬業専門学校、師範学校、高岡高商などの大学史が通覧できる施設を企画するべきである。そして、そのルーツに富山藩の広徳館を置くべきである。右翼史観も左翼史観も、対立を克服して、富山県人史として、新たな聖地として名乗りでるべきである。この一文は、恩師、梅原隆章先生に捧げる。


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都市性と農村性を双方向にもつ「郷都」の聖地

2017年07月07日 | Weblog

TMA講師:都会と農村とを機械的に二分する二項対立の思考で理解するようでは、このような学問の世界では、2世紀以上の遅れが出てくる。

なぜ、富山人がほぼ一人一台の車を所有しているのか?通勤手段であるからだ。ハローワーク富山の求人票では、車通勤可、駐可、車通勤不可、駐不可という項目がある。自家用車で通勤する場合、事業所が駐車場を提供できるか、否かである。一般人にとり、アルバイトでも、求職者はそこに注目する。富山の事業所は、すでに都市び中核にはない。自動車交通の利便に応じ、国道・県道の要衝にある。事業所の郊外化が完了している。

富山の場合、勤労者のうち兼業農家の占める比率は高い。土日は、「郷」の人として農に親しむ。月―金は、製薬企業などファクトリーで働く。関東圏、関西圏ではみられない労働慣行もある。それに応じ、土日は買い出しの時間である。その時、既存の都市中核へ1時間あたり300円とか、500円の駐車料金を必要としないファボーレとか、イオンなどの郊外型の大型のショッピングモールが生活拠点となる。すると、交通弱者が伝統的都市の中核に住むメリットが生まれるが、富山の場合、三世代同居、近親の近住が常態化しており、中心市街地が徒歩を主体とする賑わいを取り戻すことはない。都会と農村とを二分法で理解する頭では、賑わいこれこそが都市だと錯覚する。しかし、都市型の富裕層は、都市中核には住まない。富山の場合、呉羽地区の居住者が多い。

都市に欠かせないのは、聖堂と役所、つまり行政サービスと、地域として卓越性を示す聖堂の存在である。富山に場合、この聖堂である東西の別院の神聖化が衰退した。なにを以て富山の聖地を求めるか、それは富山城址である。高岡の古城公園も聖地である。これは一本化できない。県としては、一本化できない。また、余計な建物がない方がよい。

現代の聖地、それは学問府であり、科学拠点である。富山の場合、県の東西がこぞって聖地として認め、育てなくてはならない聖堂がある。それは、ヘルン文庫を擁する富山大学中央図書館である。そこには、藩校である広徳館の伝統をうけつぐ旧制富山高校の歴史遺産であるヘルン文庫がある。基本は英文図書である。富山藩は、明治2年、藩校に英語学校を設けた。これが、現代の富山人の精神の原点である。偏差値で富山大学を馬鹿にする人がいる。それは、18歳で止まった頭脳である。富山から国際学会にジャンプできる。聖地だからだ。


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