私は75歳。後期高齢者の一員である。聞くところによると、来年度から医療費の自己負担額は上昇する。一般会計から、高齢者の医療費を補てんすると、次世代に残すべき社会的な資本の遺産が目減りする。亡国への道筋を確実に歩んでいる。
それが分かりながら、個人としては、個人負担の増額には、懸念を覚える。それは、人情であろう。ただし、極めて底辺化した高齢者からは、負担をお願いする原資がないので、勢い数的な固まりのある中から下の勤労経験のある勤勉な集団に負担をしわ寄せすることになる。互助の精神があるから、勤勉な生産労働を経験してきた側にさらなる互助を強いる仕組みが企画される。
だから、単純な損得の比較論では、過去の高齢者は、恵まれすぎである。けれども、その分、現在の高齢者が、祖父母・父母への個人負担は軽減されていたといえる。問題は、ある時点までくると、高齢者は消滅する日がくる。その結果、日本の少子化社会モデルが落ち着くところに落ち着く。総人口が8000万人の「21世紀後半の新日本」を、悲観的に見るか、それとも、人類社会から比較的に尊敬を集める中規模国家に夢を持たせるのか。答えは、少子化による競争原理社会から、個人別の到達度を慶祝する互いに励ます互助原理社会への転換とみるかである。
孔子の儒学を漢代や、のちの宋代の注による変形された姿ではなく、東周時代の孔子が直面した課題から素直に原理、原則を組み立て直すことも必要かと考えている。富山藩校の広徳館の祭酒であった杏立つは、四書五経を裸にして、孔子と向き合う準備をした。こうした過去の遺産を今に生かすなら、目先の高齢者が医療費で食いつぶす社会資産の消失を補てんすることができる。