1968年から1985年迄、広島カープ、中日ドラゴンズ。日本ハムファイターズ、西武ライオンズで活躍した右投右打の選手です。広島カープ時代は3塁を守る事も多かったですが、外野手レフトとしてのイメージが強い選手です。公称176cm,82kgのがっしりとした体躯からバットをやや投手寄りに傾け、投球を思いっきり引き付けての打法は、非常に迫力があり、本当に闘争心を感じさせる打者でした。しかしバットを傾け、引き付ける打法はやや投手の球威に負ける傾向も強く、シーズン最高でも18本塁打と、一度たりとも20本塁打に達した年はありませんでした。彼が最も活躍した年は1975年でしょう、シーズンの最終打席でヒットが出れば首位打者の場面で、あろうことか阪神タイガースの米田哲也投手から死球を受け、死球を受けた本人が当たっていないという珍しいアピールは未だに鮮明に記憶に残っているものです。生涯唯一の3割であり、当然唯一の首位打者のチャンスを死球により失った彼の悔しさは、その前後の年の数字を見る限り十分に解るものです。
通算成績 1531試合 1058安打 0.259 155本塁打 517打点
通算成績 1531試合 1058安打 0.259 155本塁打 517打点