写真:シットウェー空港にて撮影。.......ミャンマーではホントは空港で写真を写しちゃいけないんですけどね.......。
シットウェー市はミャンマー西部ヤカイン州の州都だ。
有名なビーチリゾート「ガバリビーチ」はこの州の中ほどにあり、シットウェー市は西よりのインド洋岸に位置している。
州の西隣はバングラディッシュだ。
「なんか親しそうにしてましたね。知り合いですか?」
と私はガイドのTさんに訊ねた。
ヤンゴンからのヒコーキの中でTさんは隣に座ったちょっと恰幅のよい上品な女性と親しそうに話をしていた。
私はその女性はTさんの知り合いだと思っていたのだ。
「彼女は女医さんなんですよ。」
なんでもTさんの隣に座っていた女性はヤンゴンへ出張で出かけて帰る途中の女医さんなのだった。
彼女はここシットウェーの病院に勤務しているのだという。
誰とでも気さくにすぐ友達になってしまうTさんなので、初対面の女医さんともすぐに親しくなったようだ。
飛行機の乗客は八分の乗りであったが、外国人とおぼしき乗客は私の他に白人が二人ほど。
あとは女医さんのような地元ミャンマーの人々であった。
空港ターミナル、といっても鉄筋コンクリート平屋建ての小さな建物は、到着した乗客でごった返した。
壁を挟んで向こう側には私たちが乗ってきたヒコーキに乗ってヤンゴンへ向かう乗客たちが搭乗の始まるのを待っている。
白人たちと一緒に入域手続きを終えると私とTさんは待っていたタクシーに乗り込んだ。
陽射しが熱い。
あの白人たちはいったいどこへ行くんだろう、と彼らの行く先を眺めているとなんとドアの部分に「UN」と大書きされたトヨタのSUV車が空港玄関に回り込んできた。
そして彼らはそれに乗り込んだのだ。
私と一緒のヒコーキに乗ってきたあの人たちは国連の関係者なのであった。
「国連の職員ぐらいしか来ないところではあるまいな」
一瞬私はこれまでの人生において今まで自分が来たこともないような辺境の地へやってきてるのではないか、という感覚に囚われた。
しかし、これは誤りであった。
このシットウェーという街は今や日本ではまったく有名ではないが、その日本人にとって、とても繋がりのある街であったことを帰国後私は知ったのである。
ミャンマーはここ20年ほどの間に多くの地名が変わっている。
いや、地名どころか国名もビルマからミャンマーに変わっているのだ。
なんでもこの地名の変更には、植民地時代の呼び名からミャンマー人自身が使っていた呼び名へ変更された例と、外国人が使っていた呼び名を自分たちの呼び名へ変更した例があるそうだ。
国名のビルマからミャンマーへの変更は、日本の一部メディアや人権活動家と呼ばれる奇人変人の方々には「自国の民衆を愚弄した軍事政権の勝手な仕業」と言われたりしている。
しかし私自身が耳にしたところによるとビルマとミャンマーの違いは、ジャパンとニッポンの違いのようなものなのだそうだ。
そういえばビルマと漢字と書くと緬甸となりミャンマーと読んだほうが自然のような気もする。
きっとミャンマーの方が本来の呼び名なのだろう。
国の名前が変われば町の名前が変わるのも尤もな話で、2年前まで首都だったヤンゴンはラングーンからヤンゴンになり、映画「ビルマの竪琴」のロケ地で有名なバゴーはペグーからバゴーになった。
で、かなり話が遠回りしたが、ここシットウェーはアキャブという名前からシットウェーになったのであった。
アキャブと聞いて「ああ、そうか」と思い出した人は年配の人か、それともかなりの歴史通であろう。
アキャブは第2次世界大戦中のイギリス軍に備える日本の前哨基地であり、同時に有名な加藤隼戦闘機隊が活躍した場所でもあったのだ。
つまりシットウェーは僻地どころか、日本の近代史に於て忘れてはならない東南アジアの都市名でもあった。
しかも、今さっき私が乗ってきたヒコーキが着陸したのが元日本軍基地のアキャブ飛行場。
空の軍神と呼ばれた加藤隼戦闘機隊の加藤建夫中佐がイギリス軍との空中戦で非業にも戦死されたのがここシットウェー沖のベンガル湾なのであった。
「おぉ、沖縄の海より綺麗や」
なんて呑気に眺めていたエメラルドグリーンに輝く海はかつて日英の戦闘機が空中戦を演じ、加藤隼戦闘機隊の隊長が散華した場所なのであった。
「日本人のお墓に行きたいですか?」
というTさんの問いに、
「ここシットウェーにもあるんですね。日本人のお墓。..........でも面倒だからやめときます」
と答えてしまった無知な私は帰国後大きく後悔し、かつ果てしなく反省をするのだった。
つづく
シットウェー市はミャンマー西部ヤカイン州の州都だ。
有名なビーチリゾート「ガバリビーチ」はこの州の中ほどにあり、シットウェー市は西よりのインド洋岸に位置している。
州の西隣はバングラディッシュだ。
「なんか親しそうにしてましたね。知り合いですか?」
と私はガイドのTさんに訊ねた。
ヤンゴンからのヒコーキの中でTさんは隣に座ったちょっと恰幅のよい上品な女性と親しそうに話をしていた。
私はその女性はTさんの知り合いだと思っていたのだ。
「彼女は女医さんなんですよ。」
なんでもTさんの隣に座っていた女性はヤンゴンへ出張で出かけて帰る途中の女医さんなのだった。
彼女はここシットウェーの病院に勤務しているのだという。
誰とでも気さくにすぐ友達になってしまうTさんなので、初対面の女医さんともすぐに親しくなったようだ。
飛行機の乗客は八分の乗りであったが、外国人とおぼしき乗客は私の他に白人が二人ほど。
あとは女医さんのような地元ミャンマーの人々であった。
空港ターミナル、といっても鉄筋コンクリート平屋建ての小さな建物は、到着した乗客でごった返した。
壁を挟んで向こう側には私たちが乗ってきたヒコーキに乗ってヤンゴンへ向かう乗客たちが搭乗の始まるのを待っている。
白人たちと一緒に入域手続きを終えると私とTさんは待っていたタクシーに乗り込んだ。
陽射しが熱い。
あの白人たちはいったいどこへ行くんだろう、と彼らの行く先を眺めているとなんとドアの部分に「UN」と大書きされたトヨタのSUV車が空港玄関に回り込んできた。
そして彼らはそれに乗り込んだのだ。
私と一緒のヒコーキに乗ってきたあの人たちは国連の関係者なのであった。
「国連の職員ぐらいしか来ないところではあるまいな」
一瞬私はこれまでの人生において今まで自分が来たこともないような辺境の地へやってきてるのではないか、という感覚に囚われた。
しかし、これは誤りであった。
このシットウェーという街は今や日本ではまったく有名ではないが、その日本人にとって、とても繋がりのある街であったことを帰国後私は知ったのである。
ミャンマーはここ20年ほどの間に多くの地名が変わっている。
いや、地名どころか国名もビルマからミャンマーに変わっているのだ。
なんでもこの地名の変更には、植民地時代の呼び名からミャンマー人自身が使っていた呼び名へ変更された例と、外国人が使っていた呼び名を自分たちの呼び名へ変更した例があるそうだ。
国名のビルマからミャンマーへの変更は、日本の一部メディアや人権活動家と呼ばれる奇人変人の方々には「自国の民衆を愚弄した軍事政権の勝手な仕業」と言われたりしている。
しかし私自身が耳にしたところによるとビルマとミャンマーの違いは、ジャパンとニッポンの違いのようなものなのだそうだ。
そういえばビルマと漢字と書くと緬甸となりミャンマーと読んだほうが自然のような気もする。
きっとミャンマーの方が本来の呼び名なのだろう。
国の名前が変われば町の名前が変わるのも尤もな話で、2年前まで首都だったヤンゴンはラングーンからヤンゴンになり、映画「ビルマの竪琴」のロケ地で有名なバゴーはペグーからバゴーになった。
で、かなり話が遠回りしたが、ここシットウェーはアキャブという名前からシットウェーになったのであった。
アキャブと聞いて「ああ、そうか」と思い出した人は年配の人か、それともかなりの歴史通であろう。
アキャブは第2次世界大戦中のイギリス軍に備える日本の前哨基地であり、同時に有名な加藤隼戦闘機隊が活躍した場所でもあったのだ。
つまりシットウェーは僻地どころか、日本の近代史に於て忘れてはならない東南アジアの都市名でもあった。
しかも、今さっき私が乗ってきたヒコーキが着陸したのが元日本軍基地のアキャブ飛行場。
空の軍神と呼ばれた加藤隼戦闘機隊の加藤建夫中佐がイギリス軍との空中戦で非業にも戦死されたのがここシットウェー沖のベンガル湾なのであった。
「おぉ、沖縄の海より綺麗や」
なんて呑気に眺めていたエメラルドグリーンに輝く海はかつて日英の戦闘機が空中戦を演じ、加藤隼戦闘機隊の隊長が散華した場所なのであった。
「日本人のお墓に行きたいですか?」
というTさんの問いに、
「ここシットウェーにもあるんですね。日本人のお墓。..........でも面倒だからやめときます」
と答えてしまった無知な私は帰国後大きく後悔し、かつ果てしなく反省をするのだった。
つづく
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