20日(土)。昨夕、元の職場の同僚S氏、E氏、現役社員のT君と4人で内幸町のNPCビル地下の焼き鳥0で呑みました 本当は西新橋の行きつけの店K亭で呑む予定でしたが、どうやら店が潰れたようでシャッターが降りたままになっていたので、急遽変更したのです K亭は料理がとても美味しい店だったのでとても残念です 一方0の方は7時から団体予約が入っているというので1時半限定で呑みました その後、地下で繋がっている飯野ビルのベトナム料理店「イエローバンブー」に行き、ベトナム焼酎ネプモイを飲みながら名物「生春巻き」などを食べて歓談しました 店長のMさんはベトナム難民(ボートピープル)で、36年前 漂流中に日本の実習船に救われ、日本語の勉強をしてベトナム料理店を開いた苦労人です 今月14日の沖縄タイムス紙に、当時の実習船の船長と再会したというニュースが写真入りで掲載されています 実は、数年前にこの店で子どもたちと食事をした際、娘がベトナムに旅行したことがあるという話をしたら、明日から働いてくれないか と頼まれて、無職だった娘は これ幸いに 約2年ほど働いていたのです Mさんによるとベトナムからの留学生アルバイトを束ねて店を仕切っていたようです 店では現役のT君の話をOB3人が聞くという感じになりましたが、限られた人員の中で仕事のやりくりをしなければならない状況は変わっておらず、一番社歴の浅い若者に仕事が集中しがちになっているようです 上に立つものは部下のモチベーションを高めるように、悩みがあればそれに耳を傾けて一緒に解決策を考えるなり、たまには呑みながらざっくばらんに話をするなり、普段から風通しの良い職場環境づくりを心掛けてほしいと思いました
ということで、わが家に来てから今日で1751日目を迎え、トランプ米大統領は18日、中東のホルムズ海峡で米強襲揚陸艦「ボクサー」が、イランの小型無人機が米側の警告を無視したため撃墜したことを明らかにした というニュースを見て感想を述べるモコタロです
フェイクニュースを平然と連発するトランプの言うことはどこまで信じられるか
昨日、夕食に「鶏のトマト煮」と「生野菜サラダ」を作りました 「鶏のトマト煮」は娘のリクエストです。材料はカット・トマト缶、塩、ブラックペッパーです
7月16日(火)の日経夕刊第1面のコラム「あすへの話題」に芸術文明史家の鶴岡真弓さんが「『トゥーランドット』と東洋」というタイトルでエッセイを寄せています 超訳すると、
「トゥーランドットという印象深い姫の名の由来はなにか その語源に物語全体は象徴されている。紀元前のペルシャ以来、『中央アジア』の騎馬遊牧民を指した『トゥーラン』に由来する 近代史では思想的術語で西洋に強烈な専制的東洋のイメージも与えた 『首を賭けた謎解き』の筋書きには、西洋から見た畏怖と好奇が重ね合わされていた」
なるほど、それで第1幕でペルシャの王子が出てくるのか、と納得しました。首を切られてしまいますが 気の強い姫の名前の由来は騎馬遊牧民だったのですね 新聞を読んでいると、いろいろと勉強になります
さて、一昨日 18日(木)夜、新国立劇場「オペラハウス」で、新国立オペラ、プッチーニ「トゥーランドット」を観ました この公演は新国立劇場と東京文化会館の「オペラ夏の祭典2019-2020」合同プロジェクトのため、オペラパレスではこの日がプルミエ(初日)公演ですが、東京文化会館ではすでに上演されています ダブル・キャストで、初日公演はトゥーランドット=イレ-ネ・テオリン、カラフ=テオドール・イリンカイ、リュー=中村恵理、ティムール=リッカルド・ザネッラ―ト、アルトゥム皇帝=持木弘、ピン=桝貴志、パン=与儀巧、ポン=村上敏明、官吏=豊嶋佑壹。管弦楽=バルセロナ交響楽団、合唱=新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブル、児童合唱=TOKYO FM少年合唱団、指揮=大野和士、演出=アレックス・オリエです
舞台は伝説の時代の中国・北京。絶世の美女ではあるが氷のように冷酷な心を持つトゥーランドット姫は、夫となる男の条件として3つの謎を解くことを課す 解けなければ斬首の刑に処せられる すでに多くの外国の王子が謎解きに挑戦し全問正解できず首をはねられてきた 姫に一目ぼれしたタタール王子カラフは謎解きに挑戦し、すべての謎を見事に解き明かす 動揺する姫にカラフは「翌朝までに私の名前を当てれば、命を捧げよう」と約束する。カラフの名を知る女奴隷リューは拷問を受けるが、口を閉ざしたまま姫の前で自害する 真実の愛に目覚めたトゥーランドットはカラフの名前を「愛」と叫ぶ
前述の通り、本公演はオペラパレスでの初日公演とはいえ、すでに同じ演出により東京文化会館で上演されていることから、フィナーレ部分を除いてネタバレになっています。その点ご承知の上お読みください
第1幕に入る直前、3人の登場人物による無言劇が演じられます 演出のアレックス・オリエによる「プロダクション・ノート」には次のように書かれています
「トゥーランドットは祖先が異国の男性に激しく乱暴されたことが原因で、男性を愛することができなくなり、満たされない復讐の欲望を抱き続けているが、このトラウマこそがゾッとするほどの彼女の残忍さの源となっている」
無言劇は この考え方に基づいて、トゥーランドットのトラウマの原因を形として表した演出と言えます 台本にない”劇前劇”については賛否両論があるでしょう
そして管弦楽による力強い演奏により冒頭動機が鳴り響き、物語に入ります 舞台は周囲の壁がまるでエッシャーの無限階段のようになっていて、祭司や民(群衆)らはそこを登ったり降りたりします。そしてトゥーランドットの登場は、舞台中央の上空から、まるで「未知との遭遇」に出てくる「空飛ぶ円盤」のごとく 四角い物体が光とともに降りてきます
第1幕の舞台を見てまず感じたのは、階段の上の方に登場する人物(トゥーランドット姫、アルトゥム皇帝、官吏、祭司など)は白い清潔な衣装を身に着けているのに対し、階段の下に登場する人物(カラフ、リュー、ティムール、ピン、パン、ポン、群衆など)は地味で目立たない衣装を着けていることです これは、演出者オリエの「物語に存在する冷酷な社会階層の世界」を目に見える形で反映させたものです
演出を見ていて、「おやっ」と思ったのは第3幕でリューが自害する場面です。台本では、「リューが兵士の短剣を奪って自分の胸を刺して死ぬ」となっていますが、今回の演出では「リューが衣服の中(脚)に隠し持っていた短剣を取り出して、自分の首を切って死ぬ」となっていました 私はこれを見て、「何か意図があるはずだ」と直感しました それに続くシーンもこれまで見てきた演出とは違っていて、「おやっ」と思いました。通常の演出ではリューの死体をいつまでも舞台上に残しておくことはせず、何人かの兵士たちが舞台から運び去るのですが、この演出では、ラストまで舞台の中央に残し、その上、トゥーランドットが死んだリューの顔を撫でたり、添い寝のような仕草を見せたりします ここでも「何か意図があるはずだ」と直感しました そして最後にトゥーランドットが「彼の名は・・・愛」と叫んで、「誰も寝てはならぬ」の旋律を用いた歓喜の合唱で幕を下ろすのですが、その直前、トゥーランドットがあり得ない行動に出て、どんでん返しが起こります リューの自決のやり方、そしてトゥーランドットのリューの死体に対する親密な態度は、この結末の前触れだったのか と気付くことになります
この演出に至った経緯について、アレックス・オリエは「プロダクション・ノート」に次のように書いています
「プッチーニが遺したこの未完のオペラの結末は、不思議なことに最終的にトゥーランドットとカラフは結ばれ、リューの死は二人の愛に何の影響も及ぼしません しかし、二人の愛の本質を考えなければならない、そして、この二人の愛は決して人間味のある愛ではない、と私は考えます 二人の愛は無慈悲な残忍さ、そして弱者への軽蔑に満ちた壮大な権力の賛美であり、幸せな結末はなく、見せかけの権力への賞賛しかないと思うのです (中略)トゥーランドットのトラウマの糸をたどっていくと、プッチーニが満足したであろう別の結末に辿り着きました。プッチーニはほかの全てのオペラにおいて、それぞれのヒロインの物語を論理的に書き上げていますので、私たちはその論理性を今回再現してみたいと思います」
その「再現」が、トゥーランドットのあり得ない行動として表れていたのです オリエが「プッチーニはほかの全てのオペラにおいて、それぞれのヒロインの物語を論理的に書き上げています」と語っている意味は、「トスカ」にしても、「蝶々夫人」にしても、「マノン・レスコー」にしても、「ラ・ボエーム」にしても、ヒロインは最後にどうなったかを想い起こせば理解できます オリエは「プッチーニが満足したであろう別の結末」をその点に着目して今回の演出の必然性を見い出したと言えます
私もこのオペラを観るたびに「王子と姫という上流階級の二人だけが幸せになるなんて、死んだリューが浮かばれない プッチーニは本当にこれで良いと思っていたのだろうか」と疑問に思っていました。その点では、今回の演出に共感を覚えるところがあります。しかし、今回の斬新な演出でも死んだリューは救われません いずれにしても、アレックス・オリエは今回の演出によって、従来のオーソドックスな「トゥーランドット」の演出に挑戦状を叩きつけたと言えるでしょう
話は変わりますが、ピン、パン、ポンという3人の役人が狂言回し的な役割で登場します ピンは大尚書官、パンは大宮内官、ポンは大膳部官ですが、プログラム上のキャスト一覧の表記はピン、パン、ポンの順になっています 第2幕はこの3人の登場によって幕が開きます。まず最初にピンが「どちらにしても用意しておこう。もし、あの異国の人が勝利を得れば婚礼のために、もしも彼に運がなければ葬式のために」と呼びかけ、ポンが「私は婚礼の用意をする」と言い、続いてパンが「そして私は葬式の用意を!」と言います この発言内容(呼びかけー結婚式ー葬式)からいえば、ピン、ポン、パンの順番の方が良いように思えます ちなみに、私が予習したマリア・カラスがトゥーランドットを歌ったCD(トリオ・セラフィン指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団:1957年7月録音)の解説書では、ピン、ポン、パンの順に書かれています それでは なぜピン、ポン、パンの順にしないのかと言えば、多くの日本人は「ピンポンパン体操」を想像してしまうからだと思います 「トラのプロレスラーは シマシマパンツ はいてもはいても すぐとれる がんばらなくちゃー」という あの歌と踊りです この歌に合わせて踊る保育園児は「誰も寝てはならぬ」状態でした
歌手陣は充実していました トゥーランドット姫を歌ったイレ―ネ・テオリンは2008年の新国立オペラ「トゥーランドット」でタイトルロールを歌っていますが、恵まれた体躯を活かした強靭なソプラノ・ドラマティコです カラフを歌ったテオドール・イリンカイはルーマニア生まれのテノールですが、高音に伸びがあり歌唱に無理がありません 第3幕第1場における「誰も寝てはならぬ」は感動的でした 日本人で一番良かったのはリューを歌った中村恵理です 旧王ティムールに献身的に仕え、カラフのために命を犠牲にする女奴隷リューの心情を芯のある美しい声で歌い上げました
最後に特筆すべきは、大野和士指揮 バルセロナ交響楽団による迫力に満ちた演奏です METライブビューイングで観た「トゥーランドット」のスケールの大きな演奏を思い出しました そして、新国立歌劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブル、TOKYO FM少年合唱団の合唱が「これぞ、トゥーランドット」という迫真に満ちた合唱を聴かせてくれました
かくして、新国立劇場における「トゥーランドット」の初日公演は成功裏に終了しましたが、アレックス・オリエによる結末における斬新な演出は、今後物議をかもすに違いありません
こんにちは!
7月7日に受けた試験の続きを、今日受験しに博多へ行ったので、コメント遅くなって、ごめんなさい。
ベトナム料理好きなので、情報ありがとうございます。
上京時に行ってみます。
私もトゥーランドのリュウは歌いますけど、トゥーランドの名前のことは知りませんでした。勉強になりました。
マリアカラスのトゥーランドは私も持っていますが、素晴らしいですよね?残忍な中にも寂しさが感じられます。
去年ブルガリアのトゥーランドを東京文化で観ました。
リュウが死んだと泣きながら歌うお父さん(カラフ王子の父親)がとても上手で、一緒に泣いてしまいました。
演出が違うとかなり違いますね。
私はリュウは、アリアの初めに意を決して身分の高いトゥーランド姫に向かって歌い始めて、アリアの途中で死を本当に決意して、人から短剣を奪って死んでしまうと考えて歌っていました。ある意味、正気ではない状態と考えて。
短剣を隠し持っているなら、死ぬ決意までして、トゥーランドに向かって歌い始めることになりますよね?
音楽は奥が深いから、興味深いですね。
リューの自決について、歌う立場からのmotokoさんの考え方が示されていて 深い感銘を受けました。
私のような素人は、ただアリアを聴いて"良かった良かった”と楽しんでいるだけですが、実際にその役に成りきって歌う立場になると、役割としての自分が置かれた状況やそのアリアの意味をよく吟味した上で表現していることが良く分かりました。
今回のオリエによる演出は、motokoさんのご指摘のとおり、リューが最初から死ぬ覚悟でトゥーランドット姫に向かって歌い始めるという形を取っていました。ある意味、強いリューを前面に出した演出だったと思います。
私はクラシック音楽はジャンルを問わず何でも聴きますが、一番好きなのは、演出一つで内容がガラッと変わる、総合芸術としてのオペラです。
motokoさんのおっしゃる通り、音楽は奥が深いから興味深いと思います