明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1318)下鴨神社の糺の森を金儲けのためのマンション建設から守りたい!

2016年11月14日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です。(20161114 23:30)

この場ではあまり報告できてこなかったことですが、僕はここ1年間ほど、京都市内の下鴨神社の糺の森を守る活動に参加しています。
下鴨神は世界遺産にも登録されている古来からの祈りの場であり、全体が「糺の森」に覆われているのですが、この一部が業者に「貸与」され、あろうことが樹々を伐採してのマンション建設が始められてしまっているのです。
理由は「式年遷宮」という行事の資金が足りないことだとされていますが、この地は京都の一等地。お金儲けのための森の切り売りであることは誰の目にも明らかです。

この大切な「社会的共通資本としての森」を守るべき立場にある京都市・門川市長は、マンション建設に認可を与えるなど、むしろ森の破壊に積極的に関与してきました。
京都では同じく文化遺産である二条城脇に大型バスターミナルを作るために周辺の森を伐採するなどの行為が狙われているのですが、門川市長のもと、京都市はいずれにも積極的に関与しています。
お金儲けのために、自然遺産、文化遺産を切り売りし、破壊することが京都市長のお墨付きのもとで各地で進んでいるのです。

糺の森は地域の人々によって思い思いに使われてきた場で、人々の憩いの場でもあります。
この大切な場が壊されようとしていることに対して、周辺の住民の方たちが「糺の森未来の会」などの団体を発足させ、裁判を行うなど、さまざまな形で森を守る活動を展開してきました。
最近ではユネスコ世界遺産委員会あてに森の破壊を止めることを要請する国際署名も起ち上げ、すでに1万筆以上を集めています。僕も呼びかけ人として参加させていただきました。

一昨日、その未来の会がこの森を守るための「もみじ大茶会」を開いてくださり、僕も参加して発言しました。
好天にも恵まれた素晴らしいお茶会でした。京都の自然遺産、文化遺産を守る他の活動なども次々と紹介され、みんなが、お金儲けのための大切な場の破壊に立ち向かっていることが分かりました。
もちろん穏やかな秋の日差しの醸し出す木陰で、美味しいお抹茶もいただき、阿部ひろえさんのギターの弾き語りや、親指ピアノ=カリンバの集団演奏も楽しむことができました。

大切な森をお金儲けのためのマンション建設から守りたい。
「もみじ大茶会」の場は参加したみなさんのそんな気持ちで溢れていました。
ぜひ以下の発言をお読み下さい!

*****

糺の森を守るために
2016年11月12日

こんにちは。守田敏也です。
僕は「ウチら困ってんねん@京都」の一員として糺の森を守る活動に参加させていただいています。
同時に国際署名の呼びかけ人の一人にも参加させていただいています。

僕はこれまでさまざまな森林の保護活動をけっこうやってきていて、森が好きなのですね。
ここでもパラパラと周りをみわたすといろいろな樹があります。樹をよく知っている方には常識的な話をしてごめんなさいなのですけれども、今、ここから空を見上げると黄緑色した薄い葉っぱがたくさん見えます。
例えばそこにはモミジがありますが、これらはみな落葉樹ですよね。
そこに例えばエノキがありますが、その横を見ると濃い緑の葉を持った樹、キンモクセイがあります。これは常緑樹ですね。
私たち日本人や日本に住む人にとって、こうやって落葉樹と広葉樹が一緒にあることは普通のことなのですけれども、実は世界ではずいぶん珍しいのです。

この国はだいたい温帯の中にありますよね。その温帯も暖温帯と冷温帯に分かれるのです。暖温帯に主力の樹は常緑広葉樹です。冷温帯に主力の樹は落葉広葉樹です。
京都などここいら一帯はちょうど二つが混ざり合わさる地域にあって、このように両者の樹が生えている森のことを「混交林」といいます。
それが独特のハーモニーを発していてとても美しいのです。

この公園のそこの端に桜の樹がありますね。たぶん日当たりの良い樹なのでもうすっかり落葉してしまっていますが、さっき高野川をわたってここまで来るときに、桜並木がすごくきれいに紅葉しているのを眼にしました。
これからの季節、山々が彩を変えて変えて、私たちを楽しませてくれるのですよね。
俳句の季語でも春は「山笑ふ」、夏は「山滴る」、秋は「山粧う」、そして冬は「山眠る」とうたわれてきました。
でも眠るのですけれども、常緑樹がある場合は冬でも緑の葉が輝いてくれています。

その自然の姿があまりにも美しいと言うことで、京都には世界中から観光客が訪れますけれども、日本の各地の山々にも世界から登山家が集まってくるのです。
日本でしか見れない風景が多いのです。ヨーロッパなどは日本よりも氷河期が長くて、回復の途上にあるので、わりと単一の樹しか生えていないところが多いのです。
日本だと一つの山を登るだけでも高低差だけでも樹々が代わってくるのです。
その自然の彩が、私たちの生活に潤いを与えてくれて、私たちの心にいろいろな季節、季節ごとの変化をもたらしてくれて、私たちはそれをまるで空気のように楽しんできているのですね。

私たちはそんなあり方に感謝をして、私たちの情感を含めた存在のあり方そのものが森に支えられていることにありがたみを感じながら生きてきた。それがこの国に住んできた人々の思いだったと思うのです。
だから樹にしめ縄をはって感謝の念を捧げたきたわけですよね。
本来神社は、まあ、本来と言って良いのかどうかは分からないですけれども、少なくとも江戸時代ぐらいまでは、人々の自然への畏敬の念を大事にして守る一つの居場所のようなものだったと思うのです。多くの人たちがそこで祈りを捧げてきました。

ところがその神社がいま、こうして、私たちとって心のよりどころのような神社の森を、あろうことかお金のために切り売りしていくという本当にひどい事態に立ち至っています。
だったら「神社をやめてくれ」「宮司さんをやめてくれ」と本当に思います。
僕はとくに特定の信仰をもっていないのですけれども、自然を思う気持ち、畏敬の念を感じる気持ちは、私たちに共通の大事なもので、私たちが守ろうとしているのはそのことだと思います。
だから今こうして集まっている私たちの方にこそ、森を愛してきたこの国の多くの人の思いが流れてきているし、私たちは森を大事にしてきた人々の思いこうやって代弁して、この場でこうして頑張っているのだと思います。
そんな気持ちを込めて僕は知り合いのジャーナリストや映画監督などに、国際署名に協力して欲しい、呼びかけ人になって欲しいと訴えました。

まだまだ私たちの力は小さいものでしかないかもしれません。
しかし私たちの心は、この国の歴史の中で脈々と語り継がれてきたもの、感じ取られてきたものの上にきちんと乗っかっているということに自信を持ってこれからも一緒に頑張っていきましょう。
ありがとうございました。

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明日に向けて(1317)未来世代への倫理に逆行する原発(沖縄大会での発言より―2)

2016年11月12日 20時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です。(20161112 20:00)

昨日に続いて、今回も日本環境会議沖縄大会第五分科会での僕の発言の起こしをお届けします。今回は世代間倫理の問題、地球全体主義について論じています。
今回の連載はこの2回で完結です!

*****

日本環境会議沖縄大会 第五分科会
2016年10月23日
「原発と地球人、地球環境の生存権」-2

つぎに「未来世代の生存可能性に対する責任」とはどういうことかをみていきたいと思います。これは「世代間倫理」の問題とも言われますが、これまでの話とストレートにつながっています。
実はここでは民主主義の限界も語られているのです。民主主義とは「共時的システム」と言って、今いる人の合意のシステムで当然にも未来世代はそこに入れません。
例えば結婚について憲法には「両性の完全な自由な合意に基づいて行われるべきである」と書かれています。僕もそれが正しいと思っています。
でもかつてなら「家」を存続させるとか、未来世代をいかに存続させるのかということにつながっている倫理もあったのです。そこでは祖先からの繋がりも考えられていました。

だからといってそこに戻れと言うのではないのですが、しかし私たちは民主主義に欠落しているものがあることも考えなくてはいけない。
例えば良く出てくる話で、加藤尚武さんの1991年に書かれてい本の中にも出てくるのは「化石燃料をわずか100年、200年の間に使い切ってしまって良いのか?」という問いです。
ちなみに加藤さんは「人類はこれまで5万年ぐらい続いてきたのだろう。そしてこれからも5万年ぐらいは続くのだろう。その10万年の中で今の世代だけが地球に蓄えられてきた化石燃料を使い切って良いのか。良くないはずだ」と述べています。
今もこの問いは大切ですが、しかし僕は今ではそれよりももっと問わなければならないことがあると思います。

何かと言えば使用済み核燃料のことです。核燃料によって電気がもたらせるのはわずか40年、仮に延長したとして60年です。たかだかそれぐらいの間の電気のために、高レベル放射性廃棄物を10万年から100万年も管理しなければならない。
そんなものを現代社会は使っているわけですが、こんなこと、倫理的に許されていいのでしょうか?良いわけがないです!
ところが最近、政府が使用済み核燃料の処分の方向性を「決めた」という報道がなされました。どう言っているのかというと、電力会社に400年管理させて、その後、政府が10万年管理すると言うのです。10万年間ですよ!
朝日新聞にはこう書かれています。「地震や火山の影響を受けにくい場所で70メートルより深い地中に埋め、電力会社に300~400年間管理させる。その後は国が引きつぎ、10万年間、掘削を制限する。これで~放射性廃棄物の処分方針が出そろった。」

こんなの完全に与太話だと思いませんか?10万年間管理する。さらに記事を細かく読むと、「企業に1万年間管理させるのは現実的ではない。だから企業は400年にしてそれ以降は国が10万年管理することにした」とか書かれています。
では国が10万年管理するというのは現実的なのでしょうか。誰が考えたってそんなの現実的ではありません。
加藤さんの本を読むと1991年にはそう言われていたのかなあと思うのですが、加藤さんはここで「人類はあと5万年続くだろう」と書いておられます。
ところが日本政府はあと10万年、政府が続くと言っているのですよね。これは完全に暴言ですよ。
例えば2万年前をみてみると氷河期でもっと地表がたくさんありました。日本列島は今の形をしていません。わずか2万年前でもかなり激しく違うのです。

それではそもそも使用済み核燃料の処分について、政府はこれまでどんなことを考えてきたのか。
以下に「高レベル放射性廃棄物の放射能の減衰」という図を示しますのでご覧ください。もともと「核燃料サイクル開発機構」が作ったもので、ATOMICAからの転載です。
http://www.rist.or.jp/atomica/data/pict/05/05010101/07.gif

この図によると、使用前の核燃料の中にあった放射能量(1トンあたり1000ギガベクレル)は使用済み後には1000万倍(100億ギガベクレル)になってしまうと書かれています。
発電が終わるとどうするのかというとすぐに燃料プールに入れるのですね。それで何年か経つと「再処理・ガラス固化」をすると書いてあります。六ケ所村の再処理工場などに持ち込んでプルトニウムを分離して取り出すとされています。その技術すらまだ未確立で実現の可能性は乏しいのすけどね。
仮にその先があるとしてどうするのかというと実はまだ水の中で冷やさなくてはならない。どのぐらい必要なのかというと図からは80年ぐらいだと読み取れます。その先はどうするのか。「埋めちゃおう」となっています。ところがどこに埋めるのかまったく決まっていないのです。
では放射能量が発電する前のレベルにまで落ちるのにどのぐらいかかるのかというと1万年でもまだ戻らないのです。グラフから読み取ると10万年ぐらいでしょうか。その後はさらに減衰がゆっくりになって100万年たっても数百ギガベクレルあります。
安全になるまで1万年どころか10万年から100万年も管理しなければならないのですよ。私たちの世代はそれを未来世代に送り出してしまったのです。

ではそれをどんな風に管理しようとしているのかと言うと、以下の図のように地中深くに穴を掘って、管理地を作ってそこに埋設しようとしています。
http://www.rist.or.jp/atomica/data/pict/05/05010101/09.gif
しかしこれは完全に「絵に描いた餅」です。どこに埋めるのか、どのように埋めるのか、まだ何も決まっていないのです。
原発をめぐる社会的カラクリの中でも非常に悪質なのは、これ、決まってないからタダなのだということです。決めようがなくて、この部分に値のつけようがないから計上されていないのです。
だから「原発は発電コストが安い」というのもまったくの与太話です。まったくの大ウソです。この天文学的な数字が隠されているのです。
しかもそれはもはや私たちが払うお金ではなくて、未来世代は電力などまったく使っていないのに、延々、管理のために何万年も資源を投入しなければならない。しかもその間ずっと、被曝のリスクを抱えるわけです。

ではそもそも埋めるにあたって、現代科学は地震の構造をきちんと把握できているのかというとできていないのですよね。
次に見ていただきたい図は地震調査研究推進本部が出している全国地震動予測地図2014年版に、東洋経済という出版社が実際に起こった地震を書き込んだものです。以下のページに掲載されています。
http://toyokeizai.net/articles/-/115836?page=3
これをみると中越沖地震にしても熊本地震にしても、最近起こった大きな地震は、起こる確率が低いとされているところでばかり起こっていることが分かります。
要するに地震がいつどこで発生するのか、まだよく分かっていないのです。

しかもちょうど一昨日、鳥取県で大きな地震が起こりましたが、これは断層ではなくて、太平洋プレートが日本列島の乗っているプレートの下に潜り込む時にできる「力のひずみ」が日本海側の地域に帯状に発生していてそこが動いたようだとされています。
このように断層帯ではなく地震が起こりうる地帯を「ひずみ集中帯」と言うのですが、こうしたものがあると考えられだしたのはなんと1990年代なのです。
ということは日本の原発は、一つもこの新しい知見を反映してないのです。そんなことを知る前に建ててしまったからです。
しかも今後の管理は最低でも10万年ですよ。その間にどんな地震が起こるかも噴火が起こるかもまったく分かりません。そんな状態で地層処分をするなどということが許されてよいはずがありません。

しかもさきほど、矢ヶ崎さんや高松さんからも報告されたように、福島原発事故による放射線被曝によって、今、激烈に健康被害が出てきています。
さらに懸念されるのは遺伝的影響ですね。これについてはICRPの2007年勧告に、「遺伝的影響については人類に関しては確認されていないが、動物実験では確定されている」とはっきり書いてあります。
それを考えると「原発は未来世代へのテロである」と言わざるを得ないと思います。だからこそ決して許してはならない体系なのです。

最後に「地球全体主義」についてですが、これが問うているのは「地球環境は開放系ではない!閉ざされたつながった空間だ!」ということにつきます。
私たちは「宇宙船地球号」に一緒に乗っているのです。ここで地球の写真をお見せしますが、注目していただきたいのはブルーについてです。
あるとき、海を守ることに関わっている方からこう言われました。「あなたたち環境派はなんでグリーンとばかり言うんだ。地球を良く見て欲しい。ブルーじゃないか。そのブルーのことにもっと注目しなければダメだ」と。
確かに地球の写真を見てみると圧倒的にブルーです。海なのです。そしてその海水の成分が、私たちが生まれ出てくる前にお母さんのお腹の中でつかっていた羊水の成分とほとんど同じであることが証明されています。私たちはとても深いところで地球とつながっているのですが、その命の源の海が汚染され続けています。

そこで考えなければならないのは、「自然は私たちの非有機的身体である」ということです。
同時に私たち一人一人にとっては、他者もまた己の非有機的身体です。私たちはつながって存在しているのです。仏教で言う縁起の思想ですね。
だからこそ誰かが汚染されることは自分が汚染されることであり誰かが被曝することは己が被曝することです。もちろんその誰かには他の生き物たちや自然の総体が含まれています。
その私たちの非有機的身体がいま、激烈に侵害されて、汚染されて、痛めつけられているのだと言うことを私たちは考えなければいけないと思います。

結論です。
未来のものを含むすべての命を守るため、原発を廃炉にし、放射能公害と立ち向かっていきましょう!
どうもありがとうございました。

連載終わり

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明日に向けて(1316)環境倫理学から原発を捉え返す(沖縄大会での発言より―1)

2016年11月11日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です。(20161111 23:00)

10月21日~25日の沖縄訪問に続き、27日京都府京田辺市、28日兵庫県姫路市と講演して29日に東京で「福島原発行動隊」のシンポジウムに参加してきました。
さらにその翌週は11月3日に京都市内で第3回放射性廃棄物問題学習研究会を行い、4日に京都府綾部市で、5日に福井県小浜市と若狭町で講演してきました。
いつも事前に案内をこの場に載せるようにしているのですが、今回、3日から5日の行動について事前にお知らせできませんでした。申し訳ありません。

6日に京都市に戻り、マクロビアンの橋本宙八さんの学習会にも出てから帰宅しましたが、その後、風邪になってしまいました。疲れの重なりを感じて今週はゆるゆると過ごしました。
そのためまた長い間、ブログ更新を怠ってしまいました。申し訳ないです。
この間にアメリカ大統領選でのトランプ候補のまさかの勝利があるなど、世界が激動しており、論じねばならないこと、論じたいことがたくさん生じていますが、焦ることなくコツコツと配信を続けていきたいと思います。よろしくお願いします。

今回は沖縄大会の報告の続きを行います。
「原発と地球人、地球環境の生存権」というタイトルで第5分科会で行った発言を文字起こしします。普段はあまり触れてない内容です。ぜひお読み下さい。

*****

日本環境会議沖縄大会 第五分科会
2016年10月23日

「原発と地球人、地球環境の生存権」

みなさん。こんにちは。守田です。
今回は「原発と地球人、地球環境の生存権」というタイトルをいただきましたので、これに沿ってお話します。
まずこのタイトルからすぐに連想されるのが「環境倫理学」ではないかと思いますので、1990年代にこの学問を精力的に日本に紹介された加藤尚武さんの著書からその定義をお借りしたいと思います。

Ⅰ 自然の生存権の問題
人間だけでなく、生物の種、生態系、景観などにも生存の権利があるので、勝手にそれを否定してはならない。
Ⅱ 世代間倫理の問題
現代世代は、未来世代の生存可能性に対して責任がある。
Ⅲ 地球全体主義
地球の生態系は開いた宇宙ではなくて閉じた世界である。
(『環境倫理学のすすめ』加藤尚武1991 pⅵ)

三番目はだから地球のどこを汚染したとしても、地球全体にダメージが広がってしまうことが問題になるわけですが、原発はこの3つの定義にもっとも抵触する許しがたいテクノロジーですよね。
今日はこのことをお話したいと思います。

まずは最初の「自然の生存権」についてですが、「生物の種、生態系、景観などにも生存権を認める」とはどういうことなのでしょうか。
このことを知るためには私たちはそもそも「権利」に対する考え方が歴史の中で繰り返し更新されてきていることを知る必要があります。
加藤さんの本の中にアメリカの環境倫理学者、R・Fナッシュの『自然の権利』“The right of nature”という本からひっぱってきた「権利拡張の年表」という図がのっています。
一番下に「自然権」と書かれてあり、その上に権利が拡大されてきた順番に沿って並べられています。
「英国貴族 マグナカルタ(1215)」「アメリカ入植者 独立宣言(1776)」「奴隷 解放宣言(1863)」「婦人 憲法改正13条(1920)」「アメリカ原住民 インディアン市民権法(1924)」「労働者 公正労働基準法(1938)」「黒人 公民権法(1957)」
これはアメリカでのことですが、このように権利が拡大されてきて、その図の一番上に「自然 絶滅危険種保護法(1973)」が載せられています。

どういう法律なのかというと、絶滅のおそれのある種およびその依存する生態系の保全を目的としたものとされているのですが、これがアメリカ国内だけでなく世界に対しても説得力を持ってきました。実は私たちも結構使っています。
こうした権利の拡大のもとでの自然の権利の確立に向けた流れを促進している方がおられます。ピーター・シンガーというオーストラリア人で、アメリカのプリンストン大学の教授をされています。主著に『動物の解放』があります。
どんな方なのかというと、1980年に壱岐の無人島で、漁民たちがイルカを「魚を食いあらす海のギャング」と考えて大量に捕獲し、「駆除」したことに対して、グリーンピースの活動家が待ったをかけたことがありました。
漁民の立場も踏まえた上でイルカを殺さずにすむ方法をいろいろと考えたそうですが、着地点が見出せないままに殺処分が始まってしまい、思いつめて小舟で海に出て網を破ってイルカを逃がし、逮捕されてしまいました。
ピータ―・シンガーはこのとき、オーストラリアからはるばる日本まで駆けつけて被告を弁護するための裁判の証人となりました。

このピーター・シンガーが原則にしているのが「喜び・苦痛原則」です。功利主義ですね。
日本ではこれは「快楽・苦痛原則」と訳されているのですけれども、日本語の「快楽」にはもともと否定的なイメージがあるので僕はこれでは思想性をきちんと伝えていないと考えて「喜び・苦痛原則」と言うことにしています。

実は「動物の解放」を近世のヨーロッパで最初に言ったのは、功利主義思想の祖であるジェレミー・ベンサムなのですね。
どういう理由なのかと言うと「人が喜ぶことを増やして、痛いこと、苦痛を減らすのが社会的正義である」というのが功利主義の原則です。
「では動物を見てみろ。明らかに感情を持っていて、喜んだり悲しんだりしているではないか。だから動物は虐待してはならないのだ」というのがもともとベンサムが唱えた内容です。
この考え方に割と忠実に論陣を張っているのがピータ―・シンガーです。

この考え方がさまざまな動物愛護団体にシェアされていて動物実験反対の訴えなどに使われています。
今回は「JAVA NPO法人動物実験の廃止を求める会」のHPから実験にかけられているウサギたちの悲惨な写真をお借りしてきました。
化粧品の刺激性の検査のために、ウサギがあたまだけ出る容器に拘束されていて、目に試験薬がたらされるのです。目がただれている写真がありますが、「こんな残酷なことが倫理的に許されてはいけない」と主張されています。僕もまったくそう思います。
「こんなことをされないために動物の権利を認めるべきだ」と動物実験に反対する方々は述べています。

さてこうした自然の権利を法文化した「絶滅危険種保護法」ですが、これを先ほど、私たちも使っているといいました。
その一つがジュゴンを守るキャンペーンです。この法律は米軍が基地を作る際にも適用されるのです。だから私たちにはジュゴンを守るべきだと言う主張を法的に行える根拠があるわけです。
さてここまでは動物の中でも哺乳類の権利になるのですが、私たちの社会の中で、こうした権利、あるいは権利を認めるべきだという考えがどんどん拡大しています。
この点で、昨日の全体会で実に感動的な報告がなされました。アキノ隊員(日本鱗翅学会会員 宮城秋乃さん)の報告です。
チョウをはじめさまざまな貴重種が高江に生息していることを教えていただきました。同時にノグチゲラが営巣している木の上をオスプレイが飛び交っているシーンを彼女は見せてくれました。
轟音を立てて森の上を飛ぶビデオを何本も見せながらノグチゲラが「ここにいます」「ここにいます」と何度も示して下さったことがとても印象的でした。
僕も見ていて胸が痛みましたが、これは実はどんどん自然権が私たちの常識の中で拡大していることを意味してもいるのです。

その場合、チョウは感情があるかどうか分かりません。実は僕はチョウにも感情があるのではないかと思っていて、最近、その兆候を示す研究が出てきたので興味深く見ているのですが、しかしそれはまだ完全に論証されたわけではありません。
それでも貴重種をもっと大事にしていこう、人間だけではなくて自然そのものの尊厳を人間が守っていかなければならないんだという考え方が広がっているわけです。
結局それは、自然を霊魂と切り離してきてしまった近代思想の捉え返しにあたると思います。
例えば日本では古来から大樹に畏敬の念をもっていて、しめ縄をはったりしてきました。これは近代では「「アミニズム」と分類されるものです。
そういう太古の思想に戻ろうというのではないのですが、しかし私たちの周りを取り巻く自然に、それがあることによって私たちが存在できることへの感謝というか、そんな思いを取り戻していこうというムーブメントがこの中にあります。

近代社会はあまりに単純に人間だけに霊魂を認め、人間以外のすべてのものを霊魂の宿らない、自由に加工できる対象と捉えすぎてしまいました。
そのために残酷な動物事件が行われたり、かつては信仰の対象でもあった森林の無残な伐採などもなされてきました。
その考え方を捉え返して、自然の生態系を人間の責任として守っていこうという発想が、私たちが大きな歴史の流れの中で到達してきているものだと思います。

ところがこうした発想にまったく逆行するのが原発です。
いまでも福島第一原発では、高濃度の放射能を含む汚染水が1日に何100トンも海に注がれ続けているわけですよね。
とんでもないことです。どれだけの海の中の生物が被曝しているか分からない状態です。
東電が発表してきたことによると、もともとこの地域には山側から1日1000トンの地下水が流れているそうなのです。それが原子炉の下部に侵入してまざってしまい、300トンだか400トンだか海に出て行ってしまう状態が長いこと続いてきた。
ちなみにこんな数、嘘ですよ!きちんと測ったら例えば992.5トンとか、もっとリアルな数字になるはずです。1000トンというのは「だいたいこれぐらい」というざっくりとした数です。
ようするに正確には分かってないのですよ。何が起こっているか。

ただ明らかなことは、今も高濃度の汚染水が次々と海に注ぎ込まれているという事実です。
本当に、生物にとって、人類にとって恐ろしいことが続いています。これはもう「放射能テロ」だと思います。
僕は「テロ」という言葉は好きではないので、普段はあまり使いません。しかしこんなときには使うのはふさわしいようにも思います。
とにかく生命に対する恐ろしい迫害がずっと続いているのです。これをいかに止めるのかということが私たち全体にとっての課題です。

続く

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明日に向けて(1315)原発と地球人・地球環境の生存権(日本環境会議沖縄大会報告から)

2016年11月02日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です。(20161102 23:30)

沖縄訪問報告の続編です。今回は日本環境会議沖縄大会2日目に行われた第五分科会、「放射能公害と生存権」の中での自分の報告をご紹介したいと思います。
この分科会は、この大会にぜひとも放射能公害の問題、被曝防護の徹底化の必要性をしっかりと入れ込みたいと考えた矢ヶ崎克馬さんによって立ち上げられました。主旨に賛同したたくさんの方が集まり、盛会を実現することができました。

沖縄は高江と辺野古の基地問題で揺れ続けています。とくに7月参院選では県民の「基地はいらない」という意志が再びはっきりと示されました。
ところがこれに対して安倍政権は、本土からの機動隊を大量投入し、運動のリーダーの一人の山城さんを逮捕するなど、弾圧に継ぐ弾圧をかけてきています。これとの対決が沖縄にとって、沖縄を支援する私たちにとって喫緊の課題です。

しかし一方で、沖縄にはたくさんの方が本土から放射能被曝を避けて避難移住しています。福島原発事故によってもたらされた未曽有の放射能公害と立ち向かうことは沖縄を含むすべての私たちに問われていることです。
この点を踏まえて、矢ヶ崎さんはぜひすべての人々の生存権を脅かしている放射能公害の問題を環境会議の重要課題に上げようと考えられました。

このもとで成り立った第五分科会は、8つの報告と3つのコメントで構成されましたが、司会の上岡みやえさん、報告5番目、6番目の伊藤路子さん、久保田美奈穂さん、そしてコメントのはじめの山口泉さんは、みな福島や関東からの避難者です。
いや「避難者」という言い方は正確ではないかもしれない。政府によって無視され棄てられた「難民」という言い方が正確でしょう。
しかし難民となってただ黙っているのではありません。多くの人々に放射能公害からの脱出を促す「率先避難者」であり、政府の悪政を正そうとしている改革者として活動してこられています。

以下、第五分科会の内容を記しておきます。

コーディネーター:新城知子、矢ヶ崎克馬、吉井美知子(50音順)
司会:上岡みやえ、新城知子
(1)歴史上最悪の放射能公害と健康被害
報告1:「福島事故による放射能公害/原発・被曝に関する国際的枠組」矢ヶ崎克馬(琉球大学名誉教授)(20分)
報告2:「原発事故がもたらす健康被害)」高松勇(小児科医・医療問題研究会)(20分)
報告3:「原発と地球人・地球環境の生存権」守田敏也(フリーライター)(20分)

(2)放射能公害下の避難者・市民
報告4:「避難者の実状と生存権」黒潮武敬(20分)
報告5:「避難者体験談:福島県内から」伊藤路子(13分)
報告6:「避難者体験談:福島県以外:茨城県から」久保田美奈穂(13分)

(3)海外への原発輸出と先住民族の人権
報告7:「ベトナムの原発計画と先住民族チャム人」吉井美知子(沖縄大学教授)(20分)
報告8:「台湾離島の核廃棄物貯蔵場とタオ族の民族運動」中生勝美(桜美林大学教授)(20分)

コメント1:「放射能公害と人権意識」山口泉(作家(小説、評論))
コメント2:除本理史(日本環境会議事務局次長・大阪市立大学教授)
コメント3:吉村良一(日本環境会議代表理事:立命館大学教授)


さて、僕は矢ケ崎さんと高松医師による放射能公害によってもたらされている深刻な健康被害の報告を受ける形で「原発と地球人・地球環境の生存権」というタイトルでお話しました。
このタイトルは矢ケ崎さんから頂いたものですが、ちょうど、今、起こっている様々な問題を整理して解き明かすのにうってつけでありがたいものでした。
今日は、大会に向けてあらかじめ提出して、当日配られた冊子の中にも掲載していただいた報告要旨を掲載しておきます。
実際の当日の報告については、次回以降に文字起こしして掲載します。

*****

原発と地球人・地球環境の生存権
日本環境会議沖縄大会 第五分科会報告主旨
守田敏也(フリーライター・京都在住)

1、環境倫理学の3つの課題

 「原発と地球人・地球環境の生存権」というタイトルから、誰もが思い起こすのが環境倫理学でしょう。とくに原発問題はこの領域から捉え返した時に、その本質が最もよく見えてくるとも言えます。
そこでまず冒頭で、よく言われる「環境倫理学の3つの課題」について触れておきたいと思います。加藤尚武著『環境倫理学のすすめ』(丸善ライブラリー)を参考にしてみましょう。(同書pⅵ)

 「Ⅰ 自然の生存権の問題-人間だけでなく、生物の種、生態系、景観などにも生存の権利があるので、勝手にそれを否定してはならない。
 Ⅱ 世代間倫理の問題-現代世代は、未来世代の生存可能性に対して責任がある。
 Ⅲ 地球全体主義-地球の生態系は開いた宇宙ではなくて閉じた世界である。」

 これに原発問題をかぶせてみるとどうでしょうか。原発事故は私たち人間に深刻な放射線障害をもたらすだけでなく、あまたの動植物に壊滅的な打撃を与えます。生態系も激しくかく乱されてしまいます。
 また放射能汚染は、直接には遺伝という形で未来世代に深刻な影響をもたらす可能性があるとともに、環境悪化においても、未来世代の生存可能性を著しく阻害してしまいます。

 さらに私たちを取り巻く生態系は閉じた系であるがゆえに、どこかの原発事故で放出された放射能は、崩壊を繰り返して無視できるまでに環境中から消えていくまで、常に生態系の中を循環し続けます。
主な汚染原因であるセシウム137の場合で、約1000分の1になるまで300年かかってしまうし、猛毒と言われるプルトニウム239では、半分になるまでだけで2万4千年もかかってしまいます。
このように環境倫理学から考えたときに、原発はもっとも許容できないテクノロジーであることが鮮明に見えてきます。

2、地球人は近代自由主義を越える必要がある

 同時に私たちは克服すべき多くの思想的課題を持っていることにも突き当たります。
 問題なのは第一に近代人間中心主義です。人間をのぞく世界のすべてを精霊の宿らない単なる物質としてとらえ、加工対象としてきたことです。結果的に動物たちなどあらゆる生き物を生かすも殺すも自由と捉える残酷な思想が成り立ってしまいました。

 第二に今ある世代の合意のみによって成り立っている民主主義が見直される必要があります。エネルギー分野では顕著です。
自然資源を現代世代の同意だけで使い切ってしまっていいのか。あるいは放射能のゴミに顕著なように、未来世代にエネルギー使用の負の側面だけを送ってしまって良いのかということが問われなくてはなりません。

 第三に、世界を開放系と考えるがゆえに、無限の生産力の発展を夢見るとともに、工場廃液を川や海に流し続けてきたあり方が戒められる必要があります。
とくに近代経済学が無限の成長を求めて、海や大気など、誰の所有物でもないものを「自由財」として扱い、どう使うのも自由、汚すのも自由としてきてしまったことを捉え返さなくてはなりません。
 もはやこのような近代のあり方を克服する方向性を採らなければ地球の未来がないことに覚醒し、人間中心主義、民主主義、自由生産主義の限界を越えていくべきときなのです。

3、原発・放射能との向かい合いこそが人類の新たな可能性を拓く

 このような思想的・実践的課題が原発問題の中で突きつけられたのは先述のように原発と放射能の被害が3つの課題にまたがるからです。
スリーマイル島、チェルノブイリ、福島と続いてきた事故は、地球上のすべての人に、はるか遠く離れた原発の事故が、自分と子どもたちの命に関わってくることがあることを知らしめました。
民族や国の垣根を越えて、宇宙船地球号のメンバーとして同じ課題を背負っていることが突きつけられたのです。
 
もちろんこれは環境問題のすべてに共通していることですが、原発がこの問題の中心に座っているのは生産主義の権化だからです。
ビッグパワーを持てば、今はできないこともやがて可能になる。生産力はどこまでも発展する。だから今、解決できない問題は未来へと先送りすればいいと考えられてしまう。
さらに今、起こっている矛盾は、未来には消えていくので、少々のことは我慢すべきだという発想が加わってきました。「最大多数の最大幸福」の名のもとに、少数者の犠牲を認めてきてしまった近代功利主義思想の限界です。

 このように「核の世紀を越えること」の中には、近代社会が私たちに突きつけた大きな課題に挑戦し、人類史の新しい展開に向かう可能性も秘められています。
生産力の発展合戦のもとで、しばしば血みどろの暴力にまみれてきた人類の野蛮な前史を閉じ、優しさと友愛と共感に満ちた後史を切りひらく気概をもって、ともこの課題に挑みましょう。

以上

なお沖縄報告はまだまだ続きます。

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明日に向けて(1314)沖縄から環境権の確立を!(日本環境会議沖縄大会基調講演より)‐2

2016年11月01日 11時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です。(20161101 11:00)

前回に続いて日本環境会議沖縄大会における宮本憲一名誉理事長の講演のノートテーク後半をお届けします。
今回はとくに環境政策に焦点を絞ったお話がされています。
四大公害裁判以降、発達してきた人格権を広げ、沖縄から環境権を確立していこうという素晴らしい提起です。
こちらもぜひお読み下さい。

*****

「安全保障と地方自治」-2
宮本憲一(日本環境会議名誉理事長)

環境政策の復権について語っていきたいと思いますが、判決は環境政策の軽視と無知を表しています。
これまでの基地公害は人格権を無視したもので、高江のヘリパットや辺野古基地の判決は最高の法理としての人格権が沖縄で無視されていることを示しています。
さらに判決は環境権を無視しています。環境事前評価制度の意義を軽視していまして、埋立による環境破壊は不可逆的、絶対的損失であり、いったん破壊してしまったらもとに戻らないわけですから、環境経済学の中では最も重大な損害です。

ここで言いたいのは公有水面埋立法は、初めの法の制定の時とは社会的前提がまったく異なってきたと言うことなのです。
戦前は領土拡張のために埋立が認められました。その場合は漁業権とか権利の侵害だけを考えればいいとなっていたわけです。
ところが戦後に臨界工業地帯を作ったり港湾を作ったりして、日本の海岸は海洋国家であるにもかかわらずガタガタにされてしまったのですね。自然海岸は40パーセントも喪失してしまいました。
東京湾にいたっては自然海岸は10%です。大阪湾は5%しかないのです。もう海岸ではないわけです。
これは環境破壊と災害の増大を招いたので、1973年の改正で、法の規制の中心は埋立の奨励ではなく、規制に転換したのです。
いまの法律をみてもそうです。瀬戸内環境保全特別措置法をみても原則、埋立は禁止とうたわれています。そのぐらいこの時点において、埋立についての政策が変わったわけでして、私は沖縄でだけ埋立が続いているのは、本当に困ったことだと思っているのですね。

改正の要点は、漁業権など権利者擁護の視点に加えて、それ以外の自然環境の保全、公害の防止、埋め立て地の権利移転または利用の適正化などの見地からの規制の強化となっているのです。
それが4条1項1、2を含めて、埋立を許可する場合の最も重要な条件が変わって、いかに環境を重視するかということかということがこの埋立法の主旨になっているわけです。
私は翁長知事の作られた第三者委員会は、この点について十分に検討されたと思います。それで前知事が埋立を承認したことには瑕疵があると明確に示したわけです。
当然、判決ではこれを議論すべきだったと思うのですが、高裁では第三者委員会の陳述はまったくなかったですね。初めから聞く耳を持たないという姿勢でした。

第三者委員会は次の点を指摘しました。
 1、埋立の必要性が立証されていない。埋立の不利益も立証されていない。
 2、生物多様性に富む自然環境の喪失、造成後の基地の公害、県、名護市の地域計画の阻害、多重な米軍基地負担の固定化の問題などを認めないで承認した。
 3、生態系の評価ができていない。
 4、「埋立地の用途が土地利用又は環境保全に関する国または地方公共団体の法律に基づく計画に違背せざること」について十分な検討がないというものです。
私は大浦湾を調べてみれば当たり前のように、あんな良い環境を埋め立ててはいけないとなると思うのですね。それほど重要な環境であるということの認識がないことが恐るべきことだと思います。こうした第三者委員会の指摘はまったく妥当です。

これに対して判決の異常な点は、翁長知事の第三者委員会による埋立に伴う環境破壊についての報告など全く検討せず、前知事の埋立承認の正当性を追認したことです。
しかも明らかに前知事は防衛庁の環境アセスメントの不備を認めていたわけです。ところが政府の圧力と3000億円の振興費の5年保証に目がくらんでしまいました。
判決はこの前知事の承認を適正として、事後的な修正や監視をすればよいとしていますが、不法な判決です。

少しこれまでの環境に関する裁判の状況を補足したいと思いますが、私は四大公害事件の裁判について関与しましたが、この裁判は画期的なものでした。
それまでの裁判は財産権が侵害されたものをどう補償するかというものであったのですが、戦後の水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく、新潟水俣病の裁判はそうではない。
健康が侵害される、日常の生活環境が破壊される、そういうものをどうやって責任を認めさせ、補償させるのかというもので、大変、難しいものでした。
病理学的に個別的因果関係を証明しようとしたら不可能に近いからで、それまでと同じように個別の因果関係に基づく財産権で争っていたら、全部、負けていた可能性があります。
しかし新しい法理の中で勝訴したわけで、その結果として人格権というものが認められたわけです。

さらに2014年5月には福井地裁が大飯原発3,4号機の運転再開を人格権で差し止めたわけです。
これは非常に大きな意味をもっていまして、この判決では公法私法を問わず、すべての法分野において人格権は最高の価値を持つとし、危険な原発の再開を止めたわけです。厚木基地の使用差し止めもこの人格権と同じような法理によって動き始めています。
にもかかわらず人格権を侵害する基地建設がこの沖縄でなぜ差し止めることができないのかということが非常に大きな問題です。

埋立のような環境破壊は不可逆的・絶対的損失を招くので、予防が最高の環境政策なのです。アセスメントによって不可逆的損失が予測されれば、予防の原則によって工事の差し止めが認められなければならないのです。
1992年の国連環境開発会議で認められた予防の原則というのがあるのですが、これが温暖化防止の原則ともなっています。この原則から工事の差し止めが認められなければならないのです。この法理が環境権です。
この環境権をどうするのかということが問題で公明党が憲法に加えると言っていますが、私は公明党の考えには反対でして、今の日本国憲法の方が平和主義に基づく立派な憲法ですからそのもとで環境権を認めていけば良いと思っています。
これを実行力をある形で制定すべきではないかというのが一つの提案です。これを沖縄こそさきがけて提唱し、その第一歩として埋立を禁止するという動きがあって良いと思います。

以下、「沖縄の自治権差別の歴史」という話をしたかったのですが、時間が来てしまいました。
みなさん、ご存知ないかと思うのですが、実は1920年まで沖縄には地方自治が適用されていなかったのです。
アジアで唯一、近代的な地方自治制を日本が敷いたわけですが、それが明治21年から23年なのですけれども、その段階で沖縄はこの法制を適用しないとされ、その後の改革でも沖縄は議会を持たされなかったのです。
そういうことを続けてきて、30年間、沖縄の地方自治は遅れてしまったのです。
さらに教育においても沖縄には高等教育機関を作らず、さらに戦争があり、米軍配下に置かれたわけです。

その意味で私は今、直面しているこの問題こそが、長きにわたる沖縄への差別を打ち破る事態であり、そしてまた今の安倍政権をみていると、この問題の解決こそが日本の平和、自治、環境の展望を指し示すことになると思うのです。
けしてこれを沖縄の人たちに任せておけばいい、沖縄の人たちに日本の民主主義がおんぶしていればいいとは私にはとても思えません。
ぜひこの会議を通じて、辺野古の問題についての具体的な支援を皆様方がしてくださいますことをお願いしまして発言を終わります。
(大きな拍手)

連載終わり

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