明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(843)ベラルーシ・ドイツ・トルコを訪れて(3)・・・奈良測定所講演録から

2014年05月11日 06時30分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140511 06:30)

間が空いてしまいましたが、3月30日に奈良市民放射能測定所の開設1周年記念企画でお話した内容の起こしの10回目です。今回はベラルーシ訪問の続きです。

なお本日は二つの講演会に出席します。午前10時からの「桃山保健協議会講演会」と、午後1時からの「ドイツ国際会議報告講演会」です。
前者では放射能から子どもたちをいかに守るのかをお話します。京都市伏見区・桃山会館(京阪電車丹波橋駅近く)にてです。
後者ではこの連載の内容にも触れます。ベラルーシ・ドイツ訪問を30分、トルコ訪問を30分の割合で話します。ハートピア京都(地下鉄丸太町駅直近)にてです。

さて、今回は初めてのベラルーシ・ミンスクへの訪問に続いて、チェルノブイリ原発直近の町、ゴメリへの訪問について述べますが、この過程で知ったこれらの地域の歴史について触れたいと思います。
中でも大変重要であり、僕自身、強いインパクトを受けたのは、ベラルーシとウクライナがナチスドイツの旧ソ連邦への大規模な侵攻作戦の主戦場であったことです。
ナチスは多くの地域を数年にわたって占領しました。これに対してソ連赤軍は猛烈な反撃を行いました。激しい攻防が行われ、最後にナチスは占領地の大くに火を放って撤退しました。
つい先日、知ったことですが、ベラルーシの現在の首都、ミンスクの攻防戦では、ソ連赤軍の中に編成された「グルド特別連隊」が、大きな貢献を果たしたとされているそうです。
この点は、今回の講演ではまったく触れることができていないのですが、クルド人問題も、この地域における、あるいは現代社会における非常に大きな政治的、人間的課題です。

また今回、僕が理解できた非常に大きなことは、こうした過去のナチスの侵攻に対して、心を痛めてきたドイツの人々の中から、チェルノブイリの被災者への持続的で献身的な援助がなされてきた事実です。
この点を多くの方と共有したいと思います。私たちは歴史の痛み、そしてそれを越えようとしてきた人々の努力を共有することの中から、明日に向けての何かをつかむことができると思うからです。
まだ十分な答えに到達できているとは言えないのですが、国境を越えて人々ともっと積極的に交わり、互の歴史を交換し合い、その痛みにも喜びにも共感しあって思いを重ね合わせる中で、一緒に平和で豊かな世の中、放射線障害を克服できる社会を築けるはずだと僕は確信しています。
そのための一助に僕の拙い旅の経験がなればと思いつつ、以下、続編をお送りします。

なおこの講演録は、奈良市民放射能測定所のブログにも掲載されています。前半後半10回ずつ分割し、読みやすく工夫して一括掲載してくださっています。
作業をしてくださった方の適切で温かいコメント載っています。ぜひこちらもご覧下さい。

守田敏也さん帰国後初講演録(奈良市民放射能測定所ブログより)
http://naracrms.wordpress.com/2014/04/08/%e3%81%8a%e5%be%85%e3%81%9f%e3%81%9b%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%97%e3%81%9f%ef%bc%81%e5%ae%88%e7%94%b0%e6%95%8f%e4%b9%9f%e3%81%95%e3%82%93%e5%b8%b0%e5%9b%bd%e5%be%8c%e5%88%9d%e8%ac%9b%e6%bc%94%e3%81%ae/

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「原発事故から3年  広がる放射能被害と市民測定所の役割  チェルノブイリとフクシマをむすんで」
(奈良市民放射能測定所講演録 2014年3月30日―その10)

Ⅲ ベラルーシ・ドイツ・トルコを訪れて(3)

【苦しみの歴史の中にいるベラルーシ】
ベラルーシの首都、ミンスクの病院などを訪れた翌日に、南のゴメリ市に行くことになりました。ゴメリはチェルノブイリ原発とウクライナとの国境線のすぐ北の街で、原発事故で最も激しく汚染されたところです。ミンスクからバスで4時間の旅でした。
車内でドイツからベラルーシに足しげく通ってきた、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)ドイツ支部の、ドローテ・シーデンドップさんが、ベラルーシの国についての解説をしてくださったのですが、その中にショッキングなお話がありました。
実はベラルーシは、ナチスドイツがソ連に攻め込んでいったときの一番の主戦場になったところなのだそうです。

ナチスドイツは1941年の6月に独ソ不可侵条約を破ってソ連に攻め込みました。「バルバロッサ作戦」というのですけれども、北方軍と中央軍と南方軍とに分かれて進撃したのです。
北方軍はレニングラードを目指し、ポーランドから入って今のバルト三国あたりを通過して当時のレニングラードを目指しました。
一番、勢力が大きかったのは中央軍で、ベラルーシを通過し、東側にある首都のモスクワを攻略しようとした。さらに南方軍が行ったのが当時のソ連の穀倉地帯であったウクライナの占領だったのです。数年にわたる占領が行われました。

それに対して一番激しい抵抗をしたのがキエフの街だったそうです。今のウクライナの首都ですね。キエフの攻防戦やミンスクの攻防戦は激しかった。ヒトラーは途中でキエフを落とすために中央軍の力をキエフに持っていきました。
それで占領が実現したのですが、ここで部隊がキエフに釘付けになっている間に侵攻軍全体が冬将軍にも襲われて、結局はモスクワまで行けなかったのです。
だからモスクワの盾になる形で、ベラルーシとウクライナはナチスにめちゃめちゃにされたのです。僕はその事情を知らずにベラルーシを訪問したので驚きました。知らなかったことを申し訳なく思いました。

この地域ではロシア赤軍の兵士もすごくたくさん死んでいますが、ドイツ軍は占領した地域で徹底して略奪を行ったし、さらに撤退するときには焦土作戦といって、地域一帯を全部燃やしてしまった。ゴメリもほとんど建物が残らなかったそうです。
そのゴメリが後年、チェルノブイリ原発事故で膨大な放射能を浴びたわけですが、事故当時は舗装された道路がなく、巻き上げられる土や埃とともに放射能が移動していったそうです。そこで旧ソ連政府が道路の舗化工事を行った。
この危険な仕事に、リクビダートルだった人々や地域の人々がたくさん動員されたそうですが、工事で道路を掘り返すといくらでもナチスのヘルメットだとか人骨とかが出てきたそうです。そのような痛ましい歴史を持っているのがゴメリでありミンスクなのです。

本当にショックを受けました。それだけひどいナチスの侵略でモスクワの盾になり、ボロボロになってしまった。そこから戦後40年、1986年までやっとのことでもう一度復興して、自然に囲まれた豊かな町々を取り戻したベラルーシとウクライナが、チェルノブイリ原発事故で最も汚染されてしまったのです。
両国の汚染比率は、だいたい7対3くらいで、ベラルーシの方が被害がひどい。しかしウクライナも相当ひどくやられている。
そうやってチェルノブイリ原発事故でめちゃめちゃに傷ついて、その後に社会主義ソ連邦の崩壊で、ものすごい混沌の中に落とされてしまった。今も公共財産のもぎ取り合戦の最中です。もう連続的に、次から次へと、ベラルーシとウクライナは、苦しみ続けてきたのだということが分かりました。

今、ウクライナではロシアを離れて、EUの側につこうとする人々が、腐敗していた前政権を倒し、新しい政権を打ち立てました。それに対してロシアがそれを許さないという形でクリミアを併合しようとしている状態にあります。
もちろん僕はロシア軍の行ったことは絶対に間違いで、クリミアを自由にすべきだとは思いますが、ウクライナの住民の中に、ロシアを支持する人々がいるのも事実です。
またウクライナの現政権を支持する人々の中には、極端な右翼排外主義の人々もいるようです。

それらを考えると悪いのはロシアだけだとは言えません。今、世界の中で起こっていることは、どこの国が悪いとかいうことよりも、一部の大金持ちたちがあらゆる公共財を privatization の名のもとにどんどん私有化して、社会を歪めていることだと思います。それが社会矛盾を強め、人々の対立を作り出してもいる。
ご存知のようにベラルーシとウクライナは、原発事故以降、人口が減っている状態にあります。間違いなく放射能の被害があるのです。しかしそれとだけ向き合っていられない状況に二つの国が置かれているのだということがとてもよく見えました。


【ドイツの人々とウクライナ・ベラルーシを訪ねた意味   ―西ドイツと東ドイツ】
ではなぜそのような状態の国を訪ねたのか。そのことを僕はドイツの方たちといろいろと話しました。ベラルーシにドイツの方たちと一緒にいったことが非常に感慨深かった。特に旧西ドイツ出身の人々はナチズムに対する心の底からの反省の気持ちを持っている。
ドイツと言ってももともとは一つではなかったのです。いや1945年までは一つでしたが、その後、東西に分断されてしまった。1989年に「ベルリンの壁」が崩壊して再統合しているわけです。つまり旧西ドイツの人たちと旧東ドイツの人たちがいるのですよ。
その間には明確に違いがあります。何が違うのかというと、東ドイツの人たちは、例えばドイツ放射線防護協会会長のセバスチャン・プフルークバイルさんが典型なのですけれども、科学者になるためにはロシア語が話せないといけなかったのです。博士論文はロシア語で書いていた。だから旧東ドイツのインテリはロシア語の読み書きができるのです。

旧西ドイツの側はどうかというと、当然にも英語の読み書きができる。だいたい大学まで行っていれば、かなりの英語力があります。
この地域ではナチズムの侵略に対する反省を社会全体で随分と深めてきました。なので、ナチスが占領し、蹂躙した場に行くことに対して、旧西ドイツ出身の医師たちは、すごく痛みを持っていた。何とも言えない表情でその場に臨んでいました。
その中に、アンゲリカ・クラウセンさんという非常に仲良くなった女性がいます。彼女も旧西ドイツの出身なのですが、ゴメリで受け入れた病院側が、ずいぶん豪勢な晩餐会を開いてくれて、このとき多くの方がスピーチしたのですけれど、彼女はこんな風に言いました。

「私はかつてポーランドのアウシュビッツに行ったときに、にわかに英語がしゃべれなくなりました。今回もここに来て、またショックで英語がしゃべれなくなるかと心配でしたけれども、今お話ができてます」・・・。
アンゲリカさんのこのお話からも、ドイツの人々がかつて犯した罪に対して、それをいかに償うのかという観点を本当に真剣に深めてきており、そこからチェルノブイリの被災者への支援が行われてきていることが垣間見えました。
実際、旧西ドイツの頃から、ドイツやオーストリアは、凄くたくさんのお金を出しているのだそうです。ミンスクでの小児白血病に対する病院の豊かなシステムが成立しているのも、そういう海外からの支援がたくさん入っていることによっています。

では旧東ドイツはどうだったのかというと、ナチズムに対しては被害者の人たち、共産主義者などが政府を作ったので、ナチズムに対して旧西ドイツほどの深い反省はなされたなかったようで、この点はむしろ東西統一後に深められてきているようです。
そのためベルリンの旧東ドイツ地区に、大きなホロコースト記念館があるのですが、わりと新しく建設されています。おさらく旧東ドイツは、互いに被害者であったという意識の方が強かったのだと思うのですね。ベラルーシなど、ナチスに蹂躙された人たちに対して、一緒に戦ったという感覚があって、もともと強いシンパシーがあった。
また旧東ドイツのインテリ層が、ロシア語が話せるということがすごく大きな位置を持っています。言葉が通じるから当然、意志の疎通もしやすい。そのため東西統一後のドイツは、旧東ドイツの人々を通じて、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの人々と結びつくことができたのだと思います。言葉が通じることは本当に大きいことです。

ちなみにドイツ人とロシア人の交流では、ドイツ語とロシア語が主になるのですよ。そこに旧西ドイツ系の人々や他の地域の人々が入ってくると、共通語は英語になる。こういうときの英語は通じやすいです。誰もがネイティブではないから。互いにゆっくり話すし、相手が理解しているかどうかを確かめながら話し合う。発音がお国柄によって違ったりするのですが、それでも十分に通じます。
先ほどの晩餐会で使われた言語は英語、ドイツ語、ロシア語、日本語でした。語学が達者な医学者や科学者が多い場で、英語が一番通じやすい。でもドイツ語とロシア語もかなりの人が理解できる様子でした。もちろん一番通じにくいのが日本語です。
ともあれドイツが長く分裂していて東西に分かれていて、それぞれ東側、西側に窓が開けていたこと、そのドイツが一つに融合する中で、大きくチェルノブイリの人々と、ヨーロッパを結びつける流れができたのだと思いました。その意味でも、ドイツはチェルノブイリ被災者支援の大きな拠点なのだと思えます。

続く

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