守田です(20200612 23:30)
● 兄が逝きました・・・。
私事になりますが、6月2日に、がんで闘病していた兄、守田和也が逝きました。7日の誕生日を目前に67歳と11か月で生を終えました。お悔みやご香典をいただいたみなさま、どうもありがとうございました。
また5月28日に予定していた藤原辰史さんをお招きした「ウチら困ってんねん@京都」の企画は、容態の悪くなった兄のところに急きょ向かうため、直前で延期させていただきました。どうもすみませんでした。
兄の最期について、ご報告させてください。
兄は僕が駆けつけてから6日目に逝ったわけですが、最後まで生き抜こうとしていました。生き抜いて家族のもとに、会社のもとに戻り、まだまだみんなの役に立ちたいと思っていたのでした。
病室は6人部屋で、コロナ禍で基本的には「面会お断り」の状態でしたが、「医師の許可を得たものに限る」という条件で、家族は自由に入れてもらえました。
兄の容態がより悪化したのに伴い、31日には、事実上一人で独占できる2人部屋に入れていただき、周りにイスをおいて長く付き添えるようにもしていただけました。それで兄が逝く前日1日、ベッドサイドに6時間いて、こんな会話をしました。
兄、和也と共に。京都伏見稲荷にて。闘病中の兄は少し顔面神経痛が出ている。2018年5月
● 最後まで生き抜こうとした兄
一緒に看病していた義姉が一時期、家に戻った時のことです。
(幸いにも病院は兄の家から歩いて行けるところにあったので、家族は頻繁に行き来していました。兄は義姉のことを「お母さん」と呼んでいました)
お母さん帰ったの?
―帰ったよ。
迷惑ばかりかけて。
―そんなことないよ。
わがままばっかりで。
―でも頑張ってるじゃん?
~強く首を横に振って否定する兄~
ヤバイと思うよ、これ。
―なかなか良くならないもんね。
うん。ああ、どうしたら良いんだろう。
―そうだねえ。本当にねえ。
でも迷惑なんかじゃないよ。
慰めはいらないよ。
―慰めじゃないよ。迷惑なんかじゃないよ。本当によく頑張ってるよ。
わかった。
~兄は眉間にシワを寄せて、悲しそうに話します~
またしばらくして
お母さん、帰ったの?
という。
―ご飯ができたらまた来るって
わざわざ来なくて良いのに。
―お兄ちゃんに会いたいから来るんだよ。そんな風に思わなくて良いんだよ。
ここで僕は勇気を奮ってこう言いました。
―お兄ちゃん、僕も大好きだからね。
すると兄はそっけなく
あっそ
と答えました。
兄は良くならないことでみんなに迷惑をかけていると思っていました。
そんな風に思わなくていいのに。自分を責める必要なんかなんにもないのに。
時折、
クソ、困った
と呟く
腹水でパンパンになった腹を「痛い」と叩く
―痛いよねえ
というと
そんなこと言われても困るよな。
という。
兄らしいセリフでした。
急に激しくお腹を掻き出したので、保湿クリームを塗ってあげたら
ブワッと!
と注文
塗っている時もまた
困った‥と。
―そうだね。困ったね
と返しました。
しばらくしたら
息が苦しい。入ってこない。
という。
医師からは肺の水が抜けず、「おぼれているような状態」と告げられていました。
―看護師さんに言おうか?
と言ったら
言っても意味がないからいい。悔しいけど。
と言う。
~なかなか良くならない。
困ったと思ってる。
どうしたら良いんだろうと言う。
みんなに迷惑をかけてると思っている。
とてもいじらしかったです。
京都迎賓館をともに訪問。2018年5月
● 兄の最期
2日朝4時に、そんな兄の血圧が下がり出したとの一報を受け、義姉、家に駆けつけていた甥っ子たち3人と僕で病院に行きました。
病室に入ると看護師さんがタンをとってくれていた。
―どう?
と尋ねると
わけがわからない
目が回る。
と。
~その後、血圧は上がって下がって下がって。
大きな声に、うんとしか反応できなくなりました。
一時、血圧が上がったときに、甥っ子たちはテレワークのために一度家に戻りましたが、10時半に血圧50代になり、再度、呼び戻してベッドサイドに。
その時も兄は
困った。
と呟きました。
その後、ナースから「心臓の動きがとても弱くなっている」と告げられました。
しばらくして、とうとう呼吸が止まりました。
みんなで身体をさすりながら、「お兄ちゃん」「お父さん」「オヤジ」と呼びかけると、グワッと息をする。
ナースから「心臓が止まりました」と聞きましたが、その後も何度かそうやってグワッと息をしました。
そうこうするうちに、息子たちに「オヤジ!」と呼ばれて、グワッともう一度、息をしたのを最後に、とうとう動かなくなりました。
医師が入ってきて、丁寧に診てくれて、死亡が告げられました。
事前にガンが骨にも転移していて、全身がもろいので、心臓マッサージや延命措置は取らないと医師たちと決めていたので、そのままの見送りとなりました。
最後の最後まで、なんとか生きようとした兄の最期でした。
とても哀しかったです。
「困った、クソ、どうしたらいいんだ」と呟く兄を、なんとか生き延びさせてあげたかった。
そのためにこの何年間か、僕からもできるだけのことをしました。やるだけのことはやったと思います。
それでも兄はわずか67歳11か月で去って逝きました。誕生日の5日前でした。初孫の出産予定日14日の12日前でした。
喪失感が大きいです。
こんな、身がもがれるような思いをするとは思わなかった。
こんなにも兄を愛していたとは、うかつにも気がつきませんでした。
兄は、最後まで本当によく頑張りました。
諦めることはなかった。困り果ててはいたけれど。「くそ」「悔しい」と言ってたけれど。最後までなんとかしなくちゃと思っていた。
立派だったと思います。弟として誇りに思います。
父の郷里の萩市の神社を訪れて。2008年、兄、56歳の時。敏也撮影。この時は兄と並んだ写真は撮りませんでした・・・。
● 兄を見送って
4日に通夜を行い、5日に告別式と火葬を行いました。
その前の兄が逝った翌日3日の朝、僕はどんな思いで目覚めを迎えるのか、不安に思っていました。
兄が逝くまでの毎日、朝起きるとザラザラとした思いに襲われていたからです。
東京に行った翌日の29日、主治医と話しました。もともとは兄を「急性期病棟からホスピスなどに移したい」という話がしたかったそうなのですが、より悪化した兄を前に、医師は「もう打つ手がない」「今宵、逝かれてもおかしくない」と言われました。
「抗がん剤も効かないのでもう使わない。代わりに麻薬などで苦しみ和らげる」とも。
医師には兄への関わりに心からの感謝を告げました。死に立ち会う大変な仕事を担われていることへのリスペクトも語り「最後までよろしくお願いします」と、深く頭を下げました。
ベッドサイドに戻ると、兄は必死に生き延びようとしていました。そんな兄の思いをかなえてあげたい気持ちと、「半ばおぼれているような状態」の兄を楽にしてあげたい思いが複雑に交錯しました。
このため朝起きると「ああ、これが夢だったら良かったのに」という思いが襲ってきました。逃げ出したくなるような思いすらしました。
「とにかく兄の最期を見届けよう。それだけができることだ」と考えて、病院に足を運んでいました。
それで2日に兄を見送り、3日の朝、締め付けるような淋しさには襲われたものの、「お兄ちゃん。頑張ったね。もう苦しまなくていいんだよ」というつぶやきが込み上げてきました。
そう。兄は最後まで生き延びようとして、頑張り抜いたのです。それだけ家族を愛し、仕事を愛し、世の中を愛していたのです。だから去りがたかった。でもそうやって兄は最期まで兄らしく生き抜いたのです。
「それでいいんだ。よくやったよ。うんこれでいいんだ」とそう思いました。
兄を家族葬で送りました。「ウチこま」の仲間たちなどが花輪を出してくれました・・・。
● 家族の最後の一人となって
僕の父は僕が20歳のときに60歳手前で脳溢血で逝きました。母は僕が30歳のときに腫瘍が繰り返し再発する珍しい病で逝きました。以来、兄とは2人だけの兄弟として生きてきました。
兄は優れた電気工事士として会社に属し、懸命に働きながら、3人の息子を育てあげました。それぞれ37歳、34歳、30歳となり正社員として自立しています。次男は結婚していて、この6月14日に初孫が生まれようとしています。三男も婚約中です。
だからしっかりと命は次の世代へとつながっているのですが、しかし自分が子どもの頃に、食卓を囲んだ小さな我が家の中で、僕一人が生き残りました。
兄の骨壺を家に連れ帰り、仏壇の前に急ごしらえの祭壇を作ってまつりました。その仏壇の上には父と母の写真がおいてある。
「オヤジ、オフクロ、兄貴がそっちにいったよ。よろしくね」と語りかけました。
同時に3人に心の底からの感謝を伝えました。僕はいい家族に恵まれました。たくさん愛してくれた父であり、母であり、兄でした。
3人共に、若い時から政治活動に飛び込み、警察にデモなどで5回にわたって不当逮捕され、家宅捜索なども何度も受けてきた僕を、誇りにしてくれていた。
兄はあるところで、やはり活動をしている仲間の親御さんから「お兄さん、こういう家族を持つと大変ですよね」と言われて、「違いますよ。世の中にはこういう弟みたいな人間が必要なんですよ」と語ってくれたこともありました。
通夜に駆けつけてくれた兄の会社の同僚からも、兄が僕を誇りにし、自慢げに語ってくれていたことを聞かせてもらえました。僕のブログを見せたりしていたそうです。・・・そんなこと、僕には一度も言わなかったのに。
いまはただ兄の、そして父と母の深い愛に感謝しつつ、これまで60年間でため込んできたすべてを、世のため、人のために使い果たそうとの思いを強めています。
そのために「明日に向けて」を必ずバージョンアップさせます。
兄のように、最後まで、人を愛し、世の中を愛し、「そこに居続けたい」と思いながら、僕も駆け抜けるつもりです。
お兄ちゃん。どうか安らかに眠ってください。
最期に素晴らしい生き様を見せてくれてありがとう。
あなたの弟として恥じぬように生き抜きます!
いつかそっちでまた会おうね!
法名 釋和証(しゃくかしょう)となった兄
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