明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(841)蘆葦の歌―台湾の日本軍「慰安婦」被害者たちの回復への道のり―東京上映会に向けて(下)

2014年05月07日 06時00分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140507 06:00)

昨日6日に、台湾のおばあさんたちの映画、『蘆葦(あし)の花』上映会のことを書きました。
僕は予定通り、今日はこれから家を出て東京に向かい、夕方にこの上映会に参加しますが、楽しみなのはそこに訪れてくれる陳蓮花(チンレンファ)アマアとお会いすることです。

このアマアに関して、昨日の記事では、彼女が初めて被害事実に関する証言を行ったのが2006年、私たちが京都にお招きした時のことだったことを書きました。
今回は、そのときのことを僕が書き残したおばあさんたちの訪日記の中の一節をご紹介するところから、お話を続けたいと思います。
アマアたちの旅の様子をいろいろと報告したのちに、証言集会について触れたくだりからです。
なお、ここでは陳蓮花(チンレンファ)アマアを、陳樺(チンホア)アマアと紹介しています。これはカムアウト前に使われていた、本名をもじった仮名です)

***

台湾からアマアたちを迎えて 2006年12月より
守田敏也

肝心の証言は、私たちの集会と、仏教大学での講演会の都合2回お話してもらいましたが、どれもが尊厳に溢れていて、強く感動させていただくものでした。
そのすべてをご紹介したいところですが、あえてそのうちの一つを紹介したいのは、陳樺(チンホア)アマアの証言です。なぜならこれは、彼女の初めての証言だったからです。とくに圧巻だったのは、二度目になる仏教大学でのお話でした。
彼女はフィリピンのセブ島に連れて行かれ、性奴隷の生活を強制されました。それだけでなく、フィリピン奪回のために大軍で押し寄せたアメリカ軍と、日本軍の戦闘に巻き込まれ、地獄のような戦場をさまよいます。
私はフィリピンからフリアスさんをお招きする過程で、このセブ島やその対岸のレイテ島などで戦った、旧日本軍兵士のおじいさんからの聞き取りも行っていたため、とくにその背景がよく見えるような気がしました。
 
陳樺アマアは、戦闘の激しさを身振り手振りで表現しました。米軍は海から凄まじい艦砲射撃を加え、さらに徹底した空襲を加えて日本軍を圧倒していくのですが、アマアはそれを「かんぽうしゃげき」と日本語で語り「パラパラパラ」と空襲や米軍の銃撃の様子を伝えました。
装備の手薄な日本軍兵士とて、鉄兜ぐらいはかぶっています。そのなかを粗末な衣服で逃げねばならなかったアマアのみた地獄はどのようなものだったでしょうか。
そればかりか彼女たちは弱ったものから次々と日本軍に殺されていったのです。そして20数名いた彼女たちはとうとう2人になってしまいます。そこで米軍に投降した日本軍とともに米軍キャンプに収容されるのです。
ところがそこまで一緒だった女性が、キャンプの中で日本兵に殺されてしまいます。そのことを語りながら、アマアは号泣しました。過酷な地獄を励まし合って逃げたのでしょう。その友の死を彼女は、泣いて、泣いて、表現しました。
聞いている私も涙が止まりませんでした。20数名のなかの1名の生き残りは、この地域の日本軍兵士の生き残り率と気味が悪いぐらいに符合します。日本軍が遭遇した最も過酷な戦闘の中にアマアはいたのです。

この話を聞いているときに、私は不思議な気持ちに襲われました。
被害女性たちが共通に受けたのは、言うまでもなく男性による性暴力です。その話を聞くとき、男性である私は、いつもどこかで申し訳ないような気持ちを抱かざるを得ませんでした。いや今でもやはりその側面は残ります。私たち男性は、自らの性に潜む暴力性と向き合い続ける必要があるのです。
私たちの証言集会では、このことを実行委メンバーの中嶋周さんが語りました。「男性ないし、自らを男性と思っている諸君。われわれはいつまで暴力的な存在として女性に向かい合い続けるのだろうか」「われわれは、身近な女性の歴史を自らの内に取り込んでいく必要がある。まずは女性の歴史に耳を傾ける必要がある」。
すごい発言だなと思いました。正直なところ進んでいるなと思いました。そうあるべく努力をしてきたつもりでも、どこかでそこまで自信を持っていいきれないものが私の内にはある。

ところが戦場を逃げ惑う陳樺アマアの話を聞いているうちに、私にはそれが自分の身の上に起こっていることのように感じられました。まるで艦砲射撃の音が聞こえ、空からの攻撃が目に映るようでした。そして友の死。その痛みが我がものとなったとたん、それまでのアマアの痛みのすべてが自分の中に入ってきました。
騙されて船に乗せられ、戦場に送られ、レイプを受ける日々の痛みと苦しみ。同時にそこには、これまで耳にしてきた被害女性全ての痛みが流れ込んでくるような気がしました。私は私の内部が傷つけられ、深い悲しみに襲われました。
そのとき私は、男性でも女性でもなく、日本人でも、韓国人でも、フィリピン人でも、台湾人でもなく、同時にそのすべてであるような錯覚の中にいました。陳樺アマアの体内に滞ってきた悲しみのエネルギーの放出が、私に何かの力を与え、越えられなかったハードルがいつの間にか無くなっていくような感じが私を包みました。
残念ながら、その感覚はすでに去り行き、私は今、やはり男性で日本人です。しかしあのとき垣間みたものを追いかけたいとそんな気がします。そこにはここ数年、この問題と向かい合う中での、私の質的変化の可能性がありました。今はただ、それを私に与えてくれたアマアのエネルギーに感謝するばかりです。

全文は以下に収録
明日に向けて(548)台湾のおばあさんのこと・・・福島原発事故は戦争の負の遺産とつながっている(中)
2012年9月23日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/fa4f3e76c32de1f65b67cffe2748f976

***

ここでは僕にとっても彼女の発言の大きな意味を書きましたが、実はここには書けなかったもう一つの忘れがたいことがありました。
アマアが大きな声を出して公衆の面前でさめざめと泣いたとき、アマアたちを支えるべく一緒に来ていた呉慧玲(ウホエリン)さんが「よしやった!泣いた。それでいいのよ。泣くことはとっても大事なの」と、僕の横で手を握りしめながら呟いたことでした。
あの時、アマアの中に封じ込められていた悲しみ、痛み、さらにそれらが混沌となった何かが思い切り外に放出されたのでした。彼女にとって、己を癒し、尊厳を回復していく大きな突破口が開いた。それを知るホエリンは、唇をかみしめるようにして「よしやった!」と小さく叫んだのでした。
実際にそれ以降、陳蓮花(チンレンファ)アマアは、どこでも堂々と発言してくださるようになりました。発言するたびに、力強さが増し、尊厳を輝かせてくれるようになった。その出発点が京都での証言集会なのでした。

婦援会の素晴らしいところは、これまでもさまざまな性暴力に苦しむ女性たちに関わることの中から、その痛みを癒し、尊厳を回復していくプログラムを持っていたことでした。それをアマアたちに適用してくださった。
柴さんが紹介してくれたようにその場がアマアたちのワークショップなのでした。アマアたちはこのプログラムの目的に、ものの見事に応えてくれた。応えてどんどん尊厳を回復していき、明るく、活動的になっていったのです。
プログラムが素晴らしかったことはもちろんですが、僕はやはり、自ら名乗り出ることができたアマアたちの人間的な強さ、豊かさこそが、回復を可能にする大きなエッセンスだったのだと思います。
今回の映画はアマアたちのワークショップの最後の3年間を追いかけたものです。痛みからどんどん回復していく過程を辿ったものです。僕たちもその一部に参加させてもらった日々でした。・・・映画がとても楽しみです。

これまで繰り返し論じてきましたが、旧日本軍が作りだした性奴隷制度は、この軍隊が構造的に持っていた兵士たちに対する内向きの暴力を大きな背景にしていました。
兵士たちは日常的に虐待され続けていた。その上で過酷な戦場に駆り出されました。もちろん戦場とはどこも過酷には違いないでしょうが、日本軍の場合は作戦指揮もめちゃくちゃなものが多く、食料調達がまともにできなかったため戦死者よりも餓死者の方が多いほどで、二重三重の過酷さがありました。
しかし兵たちは構造的な虐待に抗議することができなかった。「上官の命令は天皇陛下の命令だ」と言われ、どんなに理不尽なことを命じられてもただ黙って聞いて、実行するしかなかった。そうしなければ凄惨なリンチにさらされ、殺されてしまうこともあったからです。
そのため当然にも兵士たちの中にはどうともならない鬱憤が溜まり、戦闘になると強烈な暴力性として噴出しました。とくに無抵抗な民間人に対して、絶望的なまでの暴力性が開花し、レイプやむごたらしい殺戮が、あちこちで繰り返されました。中国侵略戦争の過程でのことです。

旧日本軍指導部はこれに頭を悩ませた。兵士が暴虐を働くことで、中国の人々の日本軍への憎しみが募るばかりであることも頭痛の種でしたが、それ以上に軍部が懸念したのは、兵士がレイプをすることでときに性病にかかってしまい、兵力が削がれることでした。
このため日本軍は「性」の管理を考え始めた。兵士たちの絶望的な暴力を「管理」するために、そして「性病を防止」するために「慰安所」を作った。このために慰安所に集められたのは処女の女性たち・・・女の子たちなのでした。
まだ性のことに何の知識もないような女の子たちまでもが集めあれ、レイプされ、軍による兵士の暴力の管理のために踏みにじられていった。それが世界に例をみない旧日本軍性奴隷制度の酷さ、非人間性、野蛮性なのでした。
アマアたちのワークショップは、そんな絶望的な暴力を受けた彼女たちの、心の奥底にまで入り込んだ傷との人間的なたたかいでした。まさに尊厳を取り戻すための挑戦が行われ、実際にアマアたちは傷を回復していったのです。

僕は実はそのことの中ではじめて、旧日本軍兵士たちの尊厳の回復の道を作り出されてきたこと、男性の暴力のからの解放の回路切り拓かれてきたことを強く感じてきました。
まだまだできていないことですが、僕は日本軍兵士たちが受けた構造的暴力ももっと解明し、その痛みへの手当てがなされていかなけばならないと思っています。もちろん構造的暴力の責任者が罰せられなければならないし、社会的反省がなされなければならない。
そうして若くして構造的な暴力の中に叩き込まれ、人間的尊厳をずたずたにされ、自らもまた鬼のようになりながら戦場に散っていった多くの兵士たちにも、私たちの社会からの謝罪と鎮魂の祈りを送らなければならないと思うのです。
「慰安婦」制度の現実を否定しようとしている人々は、このことをまったく考えていない。性奴隷制度とももに、多くの日本軍兵士もまた奴隷のように戦場で扱われていたこと、構造的暴力の犠牲者でもあった事実も消し去り、その尊厳の回復の道を閉ざしているのです。
僕は断言できますが、このような軽々しい人々に比べるならば、絶対に僕の方が日本軍兵士たちの生きざま、死にざまに心を寄せているという確信があります。だからこそ僕は、彼らの罪を背負っていこうと思うのです。

おばあさんたちのたたかいは、その意味で、すべての人々の尊厳を守り、育て、発展させていく道に大きくつながっています。未来への強い希望がそこにはある。どれだけ感謝してもしたりません。
今は解決の方途の見えないものであったとしても、人間が人間である限り、やがて出口を見出すことができ、明るい展望を切り開くことができる。僕はそれをおばあさんたちの生きざまから学んできました。
どうかみなさま。おばあさんたちの生きざまに様々な機会を通じて触れて下さい。何かの機会を捉えて、おばあさんたちが繰り返してきた証言に触れてください。上映会にご参加できる方はぜひいらしてください。
あなたにとって、そして私たち全体にとって必要な何かの力がそこから必ず得られるし、さらに大きなものをみんなで一緒につかんでいきたいと僕は思うのです。

終わり

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 明日に向けて(840)蘆葦の歌―... | トップ | 明日に向けて(842)『るろうに... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

明日に向けて(801)~(900)」カテゴリの最新記事