守田です(20170721 07:30 ドイツ時間)
ドイツのデーベルンからの報告の続きです。
17日にスタートしたキャンプが5日目を迎えました。昨日もたくさんのワークショップが開かれました。
相変わらずというか、どんどん情報が入ってきてアウトプットがとても追いつきませんが、とくに印象深かったことから報告を続けようと思います。
今回、とりあげたいのはアルフレッド・コルブレイン博士のことです。(ちなみにこれまで僕は彼のことを「ケルブレイン」博士と表記してきましたが、日本で幾つか書かれている博士に関する記述が「コルブレイン」博士となっていたので、あらためます。なおご本人に聞いたところ、「イー」と「ウー」の口をしてカ行の音を出すと正しい発音になるのだとか。日本語にはない発音なので表記が出来ないのです)。
博士に初めてお会いしたのは2014年2月末から3月にかけてのドイツとベラルーシへの旅でのことでした。
フランクフルト郊外でドイツ、ベラルーシ、日本の医師たちを中心とした国際医師会議が開かれることになり、参加した時のことです。
ちなみにこのときが僕の原発問題での初めての海外訪問で、この会議のあとに初めてトルコも訪れることができました。
国際医師会議の方は、まずドイツと日本の医師たちを中心にベラルーシに向かい、ミンスクとゴメリを訪問することから始まったのですが、このときにご一緒したドイツ人の一人がコルブレイン博士だったのです。物理学を専攻されている方です。ここから親しみを込めてコルブレインさんと呼ばせていただきます。
さてそのコルブレインさん、とにかくいつもニコニコ笑っている。そして気配りがすごいのです。
移動中の空港などでささっとお菓子を買ってみんなに配ったり、誰かが困っているとすぐに近寄って助けたりされます。ホスピタリティが素晴しい。
この段階ではどういう方か分かっていなかったのですが、驚いたのはミンスクのベルラド研究所にみんなで見学にいったときのことでした。
ベルラド研究所はベラルーシー科学アカデミーの核エネルギー研究所所長だった物理学者のワシリー・ネステレンコ博士が立ち上げ、各国の民間団体の援助を受けながら、ベラルーシの人々を被曝から守るために奮闘してきた機関で、このときも中に入れていただいてレクチャーを受けました。
すると机の上に、この研究所を訪れた日本の方の著書や関連書籍がずらりと並んでいる。
ああ、あの方もあの方も来られたのだなあと思いつつ、書籍を見ていたら、コルブレインさんがその中の一冊を嬉しそうに取り上げるのです。
題名は『チェルノブイリ被害の全貌』。岩波書店から翻訳が出ている本で、ロシアなどの科学者たちが隠された被害の全体像を書き表した画期的な書です。
https://www.iwanami.co.jp/book/b263240.html
日本語で書かれた本をなぜ嬉しそうに見ているのかなと思ったら、たまたま横に座った僕にペラペラとページをめくって見せて、「この図とこの図とこれね、僕が提供したんだよ」というのです。「これもだ、これもだ」とどんどんページをめくる。「ええ、そうなのか」と大変、驚きました。
コルブレインさんは疫学的な手法で研究をされていて、日本の厚生労働省が出している「人口動態」などの全国的な健康調査データを使い、福島原発事故後に東日本で死産や流産が増えていることを導出されていて、この書物の作成にも協力されていたのです。それらを聞いて大変、感動しました。
日本から一緒にいった医師たち(高松さん、入江さん、山本さん)にも「君たち、僕の疫学の方法を使いなよ」とか言っていました。
このとき僕はコルブレインさんの人となりにも研究内容にも強い尊敬と親しみを感じたのですが、その後、彼の研究内容への学びを深めたり、連絡をとったりすることができずに残念に思っていました。理由は僕の力不足という以外ありません。ところが今回、そのコルブレインさんに再会できてとても嬉しかったのです。
それで何かあるとコルブレインさんに近づいて話をするようになったのですが、キャンプ地のあるデーベルンの町の中心部をみんなで見学に言った時に深い話をすることができました。見学と言っても、この町に残されたナチズムの痕跡、殺された方たちのことを捉え返すツアーでそれ自身がとても素晴しかったのですが、その帰り道に一緒に歩きながらコルブレインさんの戦争体験を聞くことが出来たのです。
コルブレインさんの生まれは1942年。戦中です。その頃のドイツはナチスのもとに世界大戦に突入していました。
ソ連と分割したポーランドを拠点にベラルーシやウクライナに攻め込んでいる最中でした。
これに対してソ連赤軍の反撃がなされるとともに、イギリスが北部の都市を、あとから参戦したアメリカが南部の都市を空襲しました。
このアメリカ軍の空襲でなんとコルブレインさんのお父さんが殺されてしまったのです。
当時、コルブレインさんには二人の兄弟がいました。お母さんは3人の男の子を抱えて、空襲が繰り返された戦争末期、そして米軍占領下のドイツの中を苦労して生き延びられたそうです。コルブレインさんもその頃のアメリカ占領軍の姿を覚えているそうです。
その後、コルブレインさんはドイツの総合的な製作会社であるシーメンスに入社し、長く電気部門等で働かれたのだそうです。
はじめてデモに参加したのは1977年、35歳とのとき、反原発のデモでした。
ちなみに僕が初めてデモに参加したのも1977年でした。もっとも僕はまだ17歳の高校生でしたが。そんなことを伝えたらとても嬉しそうに笑ってくれました。
コルブレインさんとはその後のWizmutミュージアムへの訪問の旅でもバスで隣り合わせに座って話を続けました。
バスの中では研究の話に花が咲きました。コルブレインさん、パソコンを取り出して自分の統計的成果を話して下さる。3年前に僕が知ったあの研究をさらに深めているのでした。それで「英語のペーパーはありますか?インターネットから手に入れられますか」と聞いたら、またとても嬉しそうにする。
「もちろんできるけれど5つあるんだ。その5つ目の最新バージョンを読んで欲しいんだ」と言うのです。
何が違うのかというと、データが更新されていることはもちろんなのですが、5つ目は自分一人の署名論文なのだというのです。それまでの4つは他の研究者との共著になっている。その理由を聞いていて初めて僕はコルブレインさんがどこの研究機関にも属さない、フリーランスの研究者として活動を続けて来たことを知りました。
「ドイツではどこかの研究機関に属してないと誰も相手にしてくれない。大学に属してさえいればどんなにひどい論文でも世に出せる。僕の論文は長い間、無視され続けて来たんだよ」「それでこの論文は研究機関にいる仲間の研究者達に共著者になってもらって出して来たのだけれど、「もう十分に波及力を持って来たし、そもそもこれは君が築き上げて来たものなのだから、次は君一人の名前で出しなよ」と言ってもらえたんだ」とのことでした。
「素晴しい。苦労をされて来たのですね。日本も同じです。本当の研究者やジャーナリストは大手の機関にはそんなにはいない。あの人達の多くはただのビジネスパーソンです」と僕がいったら「そうそう」と相づちを打ってくれました。
ちなみに昨日の朝にミーティングがあって前日のWizmutミュージアム訪問の振り返りがなされ、僕はこの日の帰りには言い足せなかった言葉をつけ分けたコメントを出せました。
「僕はいままでよく原爆投下後の広島や長崎のことを思い出してきました。しかし今日は原爆投下前のシーンをたくさんみました。被爆者は原爆投下前から、そして原爆投下なしでもこんなにたくさんいたのですよね。世界中に。これは私たちの人類史の中のとても大きな悲劇です」「僕はぜひこの歴史を変えたいです!」
そうしたらコルブレインさん、「君の英語、素晴しいよ!」と言ってくれました。
なんだか心の中が暖まるような嬉しい言葉でした。
さて今日ももう時間がなくなりました。
また報告を続けます。
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