明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(2361)【再掲】科学者たちは沈黙し隠ぺいに加担。このため多くの人々が被害を認められず、苦しみ続けてきたーNHKスペシャル「原爆初動調査 隠された真実」よりー4

2023年08月08日 16時00分00秒 | 明日に向けて(2201~2400)
守田です(20230808 16:00)

NHKBS1スペシャルの文字起こしの4回目をお届けします。なお小見出しは守田がつけました。

NHKBS1スペシャル「原爆初動調査 隠された真実」-4回目
2023年8月6日再放送

● 長崎間の瀬地区も被爆させられ見捨てられ続けている 

残留放射線の研究が進まなかったことで、被爆者として認められないという人たちがいます。西山より遠い、爆心地から7.5キロに位置する間の瀬地区です。

鶴武(つるたけし)さん(84)。原爆の影響によって家族がガンに苦しめられてきたと訴えてきました。

原爆が投下されたとき、8歳だった鶴さん。
「ここが私たちが住んでたとこです。」

その日降った雨に当たり、脱毛の症状が出たといいます。

鶴さん
「私は髪の毛が薄なって、くしにかかってから、くしを外さもできんよと、そげんつらい目に遭ったということは事実や。」
「ここが池になっとったです。」

当時、間の瀬地区では、池や沢の水が暮らしに欠かせないものでした。

「飲んだら危険ちゅうことは誰もわからんけんで、それを飲んだり、料理も、何をすっとも一緒。」

家族に異変が生じたのは、原爆投下から15年ほど経ったころ。

「腹の腫れたり、首の腫れたりしとったけんね。それば思い出して。」

間の瀬地区で育った4つ上の姉、愛子さんが亡くなったのです。

「胃がんにもなっとったけえ。腹がこう、大きくなっとった。人間もあげんなってしもうとやろかって思うごた、辛い目におうとっとじゃもん。」

間の瀬地区でも原因不明の病で亡くなる住民が相次ぎました。しかし国から被爆者として認められていません。
住民たちが綴った国への請願書です。

請願書
「ドシャブリの雨に濡れて」「幼子が原因も解らない病気で日増しに悪くなり、食べ物も食べずに死んでいきました。」
「厚生省のお役人様。私たちは今だに何の命の保障もありません。」



● 世界は残留放射線を無視したまま核災害を繰り返してきた

その後も、核兵器の開発を押し進めた世界は、残留放射線の存在から目を背け続けました。



1954年、アメリカはビキニ環礁で核実験を実施。

爆発の際に出た放射性物質が広範囲に降り注ぎ、日本の第五福竜丸が被爆しました。

さらに、核の平和利用を掲げた原発で事故が発生。(スリーマイル島原発事故1979年)放射性物質が放出され、その影響が議論されます。



そして1986年、チェルノブイリ原発事故で、史上最悪の放射能汚染事故が起きます。



原子炉から出た大量の放射性物質が、外部に拡散。WHOでは「被爆による死者は9000人に上る可能性がある」と推定しています。


● ソビエトも被爆実態をつかみながら恣意的に情報を操作していた

ナレーション
広島・長崎以来、最悪の放射能汚染問題に直面したソビエト。

ロシア国立社会政治史文書館
実は、ソビエトも76年前に、原爆初動調査を行っていました。

ロシア国立社会政治史文書館職員
「これは共産党中央委員会の対外政策関係の資料です。」

ソビエトが被爆地(広島と長崎)に調査員を派遣し纏めた報告書です。
「ソビエト原爆調査報告書 1945年9月~46年9月」



「被爆地は報道されていたほど、恐ろしい状況ではないようだ。放射線で多くの人が亡くなったのは、医療支援を行わなかったためである。」

原爆の被害はほとんど無い・・と報告していたのです。

私たちはウクライナで、当時報告書を纏めた人物の遺族(ラリーサ・トロヒーメンコさん)に会うことができました。

クズマ・デレビヤンコ(対日理事会ソビエト代表)。
当時の指導者スターリンに高い外交手腕を買われ、日本に派遣された人物です。デレビヤンコは手帳を残していました。

手帳
「ヒロシマでの原爆の被害がすさまじい。」

手帳には、報告書とは異なる原爆の被害の凄まじさを物語る内容が記されていました。

ソビエトの調査団が撮影した被爆地の映像です。(1945年9月)調査員は地元の人から残留放射線の被害と見られる実態を耳にしていました。

「被爆地で目にしたのはひどい被害だった。警察官から『街中では恐ろしい疫病が蔓延しているから行かないほうがいい』と言われた。」

デレビヤンコは帰国から4年後、膵臓ガンで死亡しました。

遺族ラリーサ・トロヒーメンコさん
「脱毛が始まって、他にも不調があるようでした。原爆投下から間もない時期に、被爆地で調査したことが原因だろうと思っています。こんなことになるなんて。」


● スターリンのアメリカへの対抗意識から原爆の威力を否定。チェルノブイリ事故でも情報操作が行われた

何故、ソビエトの原爆調査員は、実態とは異なる報告をしたのか?スターリンの政策を研究する歴史学者のニキータ・ペドロフさんです。
当時、スターリンはアメリカへの対抗意識から、原爆のあらゆる威力を否定していたと指摘します。

ニキータ・ペドロフ
「報告書は、ソビエトが原爆を恐れていないことを示しています。これはスターリンが当時、個人的な会合で『原爆は報道されている程恐ろしくない』と語った政治方針に沿ったものでした。
調査員には、報告書を読む側の政治的な要求を満たすことが求められたのです。」

ロシアの核政策に長年携わり、チェルノブイリ事故の医療対策責任者を務めたレオニード・イリイン博士です。
イリイン博士は、科学が政治に左右される状況は、今も変わっていないと言います。

レオニード・イリイン博士
「私たちがチェルノブイリの大惨事を調査した時もそうでしたが、放射線の値を引き上げたり引き下げたりする問題は、かなり恣意的なものでした。例えば、ストロンチウムの汚染度など、全て恣意的に決定していたと非難されたものです。」

残留放射線については、データが高く見積もられていても、低く改ざんされていても、私は気にしません。」

そして2011年。東京電力福島第一原子力発電所で水素爆発が発生。今も、世界は放射線を巡る難題に直面し続けています。




● 残留放射線の影響を日本も無視し続けてきた

アメリカとソビエトが否定する残留放射線の影響に、日本はどう向き合ってきたのか?
原爆投下直後に降った放射性物質を含む「黒い雨」。「健康被害を受けた」と訴える住民は、自分たちを被爆者と認めるよう、長年、国と争ってきました。



国は「住民が主張する黒い雨による健康被害の科学的根拠は無い」とし、一定の条件が認められた人以外は、援護してきませんでした。

7月(2021年)、広島高等裁判所は住民の主張を認め、国が指定する区域以外にも健康被害が及んでいると判断。国も上告を断念しました。

そして国は、被害を訴える人を認定する新たな基準を作るため、広島県や市と協議を始めています。

一方、今も被爆者として認められていない、長崎県間の瀬地区の住民たち。長崎県と市は、被害を訴える人を被爆者として認定するよう国に訴えていますが、見通しは立っていません。

鶴武さん
「政府の人にも認めてもらえないちゅうことで 誰に頼ればよかでしょうかっちて。
我々は議員でもないし何でもない。でも苦しむだけ苦しんでいる。言いたいことが全然通じないっちゅうことで、情けなかですたい」


● アメリカも被害を受けた元兵士の訴えを無視

アメリカでも残留放射線による被害を訴える人がいます。ジェームス・スネレンさん。94歳です。
原爆投下から五週間後、長崎に駐留していた時に被爆。帰国後に皮膚ガンを発症したと主張しています。

ジェームス・スネレンさん
「異なる2人の医師から、私の皮膚ガンは放射線による被ばくの可能性が50%以上であると診断されました。同じ部隊の上官は白血病で亡くなり、砲術将校も胃がんで亡くなりました。仲間の多くが放射能で亡くなっているんです。」

アメリカ政府もまた、スネレンさんの訴えを却下しています。
今も、核兵器の開発を続けるアメリカ。

トランプ政権で、国防次官補代理を務めていたエルブリッジ・コルビーさんです。
アメリカの核戦略と残留放射線の認識について聞きました。

エルブリッジ・コルビー氏
「アメリカは中国と覇権争いをしており、戦争を抑止する”準備”が必要でした。その為の選択肢として小型の核兵器の配備が議論されようとしています。」

NHKスタッフ
「それは残留放射線を出さないのですか?」

コルビー氏
「地中で爆発させたら多くの残留放射線が発生しますが、空中だと最小限で済みます。爆発させる高度が非常に重要です。」

「高い地点で爆発させれば、残留放射線の影響はほとんどない。」 その論理は76年前と変わっていませんでした。


● 真実を語らなかった科学者の苦悩

76年前のあの日、原爆初動調査に携わった人たちは、残留放射線の実態を把握しながら、国家の大義を優先し沈黙しました。被爆地を調査した医師や科学者たちはその後、どんな人生を送ったのか・・?

ジェームズ・ノーラン医師の孫のノーラン教授
「これが私の祖父です」

ジェームズ・ノーラン医師。マンハッタン計画に参加し、その後、広島で調査を行った放射線の専門医でした。

ノーラン教授
「祖父に『日本はどうだった』と聞くと『想像を絶する惨状以外の何ものでもなかった』と答え、それ以上、何も話しませんでした。祖父は生涯、深い苦悩にさいなまれていました。」

残りの人生を、患者の命を救うことに捧げたというノーラン医師。真実を言えなかったという負い目があったと、遺族は考えています。

ノーラン教授
「グローブスは『医師たちがこう言っています』などと言うことで、医師の専門性を利用していました。ある意味では、祖父たち科学者も共犯者になっていたのです。
祖父は戦後、核実験が行われたという記事を読むたび、こう嘆いていました。『あいつらは核の恐ろしさをわかっていない』。」

原爆初動調査を統括したグローブス少将。その後、中将に昇進し、核開発計画を指揮し続けました。73歳で亡くなるまで「残留放射線は皆無である」という見解を変えることはありませんでした。

アメリカが長年にわたって残留放射線の調査を続けていた長崎西山地区。現在、「放射線量は減衰し、自然界と同じレベルだ」とされています。

西山地区で生まれ育ち、白血病の為に命を落とした松尾幸子さん。亡くなってから54年が経ちました。

松尾トミ子さん
「訳が分からずに、ただ白血病ということだけで亡くなってですよ、無念だったんじゃないかな。」

幸子さんが亡くなる前、家族に手紙を書いていました。

松尾幸子さんの家族宛の手紙
「私の病気は、今の医学ではどうすることも出来ないものです。どんなに立派な薬を飲もうが、名医であろうが同じことです。くれぐれも体に気をつけて下さいね。ごめんなさいね。さようなら。」

原爆初動調査。
そこで分かった事実が明らかにされていれば、救えた命があったはずでした。何故、調査は隠蔽されたのか?そして何故、痛みは放置され続けるのか?
被爆地からの訴えです。

~資料提供~
広島平和記念資料館
長崎原爆資料館
広島市公文書館
理化学研究所
東京大学総合研究博物館
資料映像バンク 主婦の友社
共同通信社
朝日新聞社
毎日新聞社
中国新聞社
中国放送
長崎放送
岸田貢宜
岸田哲平
尾糠政美
松田弘道
ロシア連邦国立公文書館
ロシア国立社会政治史文書館
Getty Images atom central
Buyout Footage NC State University
US Army Heritage Education Center
Yale University Medical Historical Library
National Museum of Nuclear Science and History
National Archives and Records Administration
UCLA Library Special Collections
McGovern Historical Center
Texas Medical Center Library
Atomic Heritage Foundation

取材協力
高橋博子
港区立郷土資料館
Dr.Janet Brodie
Paul Liebow 
David Holloway

声の出演
小林勝也
菅生隆之
今井朋彦
久保田民絵
田村勝彦
山像かおり
大場泰正
佐古真弓
清水明彦
田中明生
斉藤志郎
外石 咲

語り:広瀬修子 濱中博久
取材:喜多祐介
撮影:三好学
照明:富田弘之
音声:落原徹 若生正和
CG作成:倉田裕史
映像技術:押鐘慎司

コーディネーター:エテリ・サコンチコワ イーゴリ・ヘラスコ
リサーチャー:渡辺秀治 ナタリヤ・ゴリャーチェヴァ
編集:河野達則 樋口俊明
音響:日下英介 田中繁良
ディレクター:佐野剛士 水嶋大悟 大小田紗和子 
制作統括:佐藤稔彦 小口拓朗

制作・著作 NHK広島 福岡

文字起こし終わり

素晴らしい番組を提供してくださったNHKのスタッフのみなさん、番組協力者のみなさんに深い感謝を捧げます。

#原爆初動調査 #隠された真実 #NHKBS1スペシャル #残留放射線 #ソビエト原爆調査 #スターリン #黒い雨 #長崎間の瀬地区 #沈黙した科学者たち #被爆地からの訴え

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明日に向けて(2360)【再掲】米軍は長崎西山地区の人々を被爆されるままに任せつつ観察し続けたーNHKBS1スペシャル「原爆初動調査 隠された真実」よりー3

2023年08月08日 11時00分00秒 | 明日に向けて(2201~2400)
守田です(20230808 11:00)

NHKBS1スペシャルの文字起こしの3回目をお届けします。小見出しは守田がつけました。なおここから後編となりますが、冒頭の3分半ぐらいは前半のダイジェストなので割愛しました。

● アメリカは西山地区で被爆による健康被害を克明に調べていた

NHKBS1スペシャル「原爆初動調査 隠された真実」-3回目
後編 見過ごされた被害 そして世界は核を求めた
2023年8月6日再放送 

ナレーション
爆心地から3キロにある長崎市西山地区です。
山を隔てているため、原爆の熱戦や爆風は届かず、直接の被害はほとんどなかったとされています。ところが戦後になって、住民の体調不良や、突然亡くなるケースが相次ぎました。

原爆投下から30年余り、それまで元気だった働き盛りの男性が、突然白血病で命を落としました。

岩﨑恒子さん(85)です。
西山地区で生まれ育った夫の岩﨑精一郎さんを44歳で亡くしました。



「これがミカン狩りをした時の写真。」

精一郎さんは、他の農家に先駆けて観光農園を開くなど、地域の期待を背負った存在でした。

「元気だったですもんねえ。『長崎県一になる、みかんば植える』一生懸命、意気込みしてたんですけどね。」



4人の子どもにも恵まれた精一郎さん。それは突然の宣告でした。

「白血球がものすごく多くて、人の何倍もあるって言われて。あとね、三月ぐらいですよって。私には絶対、俺は死ぬってことは、言わなかったですもんね。でも最後にはね。(子どもを)学校だけは出しなさいって。」

「私、(医師に)聞いたんですよ。これ原爆の関係ですか、身から持ち出しですがって聞いたら『わからない』っておっしゃいました。」

夫の死後、農業の仕事を引き継ぎ、四人の子どもを育て上げた恒子さん。なぜ夫は白血病で命を落とさなければならなかったのか。今も考え続けています。

「(婚姻時の写真を指して)これね、私が亡くなったら、ひつぎに入れてくれって言ってるんです。
お年寄りが手をつないで歩いていく姿を見てね。私も年をとったら、あんなんして手をつないで歩きたかったなと。



原爆にあったからこんな病気になったとはっきりしたらねえ、いいんですけど。それも分からないまま。」

こうした住民たちの疑念をよそに、アメリカは西山地区で、長期にわたって調査を続けていたことが分かりました。

原爆投下から5年後の1950に纏められた残留放射線の報告書です。詳しい聞き取りと共に、住民の写真も添付されていました。

報告書
「農家の中尾夫人は、原爆が投下された時にかぶっていた綿のほおかぶりを倉庫から持ってきてくれた。彼女は原爆の後にやってきた泥の雨が、このてぬぐいの上に降ったと語った。」

中尾恒久さん。86歳です。
「ははあ。これはここですねぇ。これはたぶんうちの母親でしょうね。」

写真の女性は母親のたかさんでした。原爆が投下された時、10歳だった中尾さん。アメリカの調査団が家を訪れ、雨について調べていたことを覚えていました。

中尾さん
「原爆の落ちたときは暑かったとですもんね。雨降ってきたちゅうて外に出おったとですよ。雨っていうてもドロドロした、ちょっと油っこかった雨だったですよ。」

報告書では、残留放射線と雨との関係について分析していました。
「住民によると西山地区に降った雨は赤みがかった黒色で、異物が混じった大粒の雨だったと言われている。
配水管が詰まるほど濃い雨で、貯水池の水には苦みがあり、1週間ほど飲めなかったと語った。」

中尾さんの母親が8月9日に使っていた手拭いについても調べられていました。

「中尾夫人のほおかぶりをX線フィルムでサンドイッチ状態にした。そして横田基地のラボでそのフィルムを現像すると、おなじみの放射性物質の斑点が見られた。」

アメリカはどれだけ放射線が残留しているか、中尾さんの畑や家の屋根などあらゆるサンプルを集めていたのです。

先祖代々、農業を営んできた中尾さん。調査団はこの畑についても入念に調べましたが、その理由については明かしませんでした。



「ちょうどあそこら辺の、ハナモモが植わっている辺やったですよ。(調査員が)傘をさしてですね、泥をとって。当時は目的とか何とか、そういうことは言わんですね。」

● 西山地区は核爆発による放射性物質拡散のモデル地区にされていた

なぜ、アメリカは西山地区を調査し続けていたのか?私たちは、報告書を作成した人物の遺族を訪ねました。

マーグレット・レベンソールさんです。

今年父親の遺品を整理した時に、膨大な原爆の資料を発見しました。
「原爆に関する研究は重要性が高いと思ったので全部残しておきました。」

父親の名前は、リオン・レベンソール。



放射線を分析する装置を開発する会社、トレーサーラボ(Traser lab)に務めていました。レベンソール残した手記には、西山地区を訪ねた理由が書かれていました。

「Traser labは空軍と契約していて AFOAT-1(Air Force Office Atomic Energy1)と呼ばれる秘密組織が存在した.。
その目的はソビエトの核実験の爆発の際に出る放射性物質の検知であった。」

当時、ソビエトは初めての核実験を成功(1949年)。米ソの核開発競争が激しさを増していました。



レベンソールは大量の放射性物質が降り注いだ西山地区をモデルに、核爆発で放射性物質がどのように広まるのかをつかもうとしていたのです。

レベンソールの部下の、ロドニー・メルガードさんです。西山地区には大量の放射性物質が残されており、格好の研究場所だったと言います。

NHK取材班スタッフ
「広島・長崎の原爆で、残留放射線は存在していましたか?」

ロドニー・メルガード
「はい、もちろん。原爆を開発した科学者たちは正確に把握していました。爆発直後、放射性物質の90%は空気中にあり、小さな粒子が風に乗って浮遊していたはずです。
風下であれば数㎞離れた場所でも、命を脅かすような放射線の影響が出ていたでしょう。」

西山地区の土をアメリカに持ち帰ったレベンソールは、人体への影響の手がかりも見つけていました。放射性物質の核種です。
核種とは原子核の種類のことで、陽子と中性子の数によって放射性物質の種類を特定できます。

リオン・レベンソール
「我々はバークレーに戻って土を分析したところ、放射性ルテニウム(Ru-106)とセリウム(Ce-144)が見つかった。これらは最初のプルトニウム原爆(長崎原爆)から出たものであることが確認された。」

私たちはレベンソールの資料を、残留放射線を長年研究する物理学者の星正治教授と、放射線影響科学専門の大瀧慈教授に見てもらいました。

広島大学星正治名誉教授
「こういう測定ができるというのは、ものすごい量の放射能があります。僕の感覚から言うと。このルテニウムとセリウム。これはよく核実験の後で見つかる「核種」やから。
体にもし入ったとしたら、放射能によって体のどこにいくか、「プルトニウム」や「ストロンチウム」は骨にいくとか、「セシウム」は筋肉とか違うから、だから核種の同定は必要ですよ。
広島・長崎の「核種」を同定(確定)した話はないと思うな。」

もし、核種の情報が日本に伝えられていたら、原因不明の死や、体調不良を訴える住民の為の研究が進んでいた可能性があります。

広島大学大瀧慈名誉教授
「なぜいままで隠されてきたか?公やけな、公的なね、報告がなされてきてなかったか?そちらこそ問題があると思うんです。」



「この結果、このデータに関連するようなですね、調査とか研究が行われていないとは、むしろ考えにくいんですよ。」



1950年にレベンソールが(米)国の原子力委員会で行った報告です。

レベンソール
「長崎と広島で低レベルの放射性物質が、広範囲にわたって点在し続けている証拠に多くの関心が寄せられた。
被爆地域の肥料に現地住民のし尿が用いられるため、除去された放射性物質はその地域に戻されるだけでなく、汚染されていない地域にも散布されることが考えられる。



残留放射線の影響は、アメリカが行っている被爆者の遺伝子研究にも重要な意味を持つ可能性がある。」

アメリカは日本が独立した後も、残留放射線の影響を継続しました。しかしその成果は、西山地区の住民達に伝えられることはありませんでした。

アメリカの調査対象になっていた西山地区の住民、中尾恒久さん(86)です。

訪問した診療所の医師
「きょうは甲状腺の超音波の検査をしますからね。」

長年、病に苦しみ続けてきた中尾さん。二十歳の頃、甲状腺機能低下症を発症。その後、ガンにも見舞われました。西山地区では甲状腺の病に苦しむ人が少なくありません。

医師
「ここにあるのが甲状腺ですよ。ちいとこれが小さい。萎縮しているんですね。」



しかし残留放射線との関係は今もほとんど明らかになっていません。

NHK記者
「(調査結果について)ちゃんと説明を受けたことはありますか?」

中尾さん
「いや、そりゃなか。放射能がそんなに残っとっていうとに知らせずに調査して。ほんとうに。何十年もあれして、住んどっと所に住まれんっていうことは、聞きとうもなかったですけど、しかし聞きとうなかっても、事実ば教えてくれないとですねえ。」



● 被爆するがままに任され観察され続けた西山地区の人々

西山地区に住んでいた義理の妹を亡くした松尾トミ子さんです。松尾さんは幸子さんの死に対して、今も割り切れない思いを抱いています。
今回、幸子さんの死因について1980年に長崎大学がまとめた報告書を入手しました。

長崎医学会報誌 43巻9号  809-813頁
所謂、「西山地区」より発生した慢性脊髄性白血病の一例(急性転化例)長崎大学原研内科教室
富安孝則(とみやすたかのり)・岡部信和(おかべのぶかず)・松本吉弘(まつもとよしひろ)

飲み水を通して、体内に放射性物質が取り入れたれた可能性が指摘されていました。
「しかしこの一例のみでは、残留放射線との因果関係は断言できない」と結ばれていました。

NHKスタッフが松尾トミ子さんと面談し「長崎医学会報誌」を見せて説明
「こういう所にすごく高い残留放射線が測定されていた。だけど公表されていなかったということなんですよね。」

松尾トミ子さん
「ええ、ええ。」

私たちはアメリカが原爆投下の5年後には確証を特定し、人体への影響について研究を続けていたことを伝えました。

松尾トミ子さん
「いやあ、はっきり言って腹が立ちますよね。うん。これは人として見ていないみたいな感じが私はするんですよ。実験みたいにしてるなって。そういうふうにしか取れないですね。」

実は西山地区では、長年放射線の影響が噂されていました。しかし農業で生計を立てる住民が多く、誰もそれを自分から語ろうとしなかったといいます。

松尾トミ子さん
「父もお野菜作っていたんですよ。市場に持っていってたんですよ。それをして生計を立てているから、売らないといけない。だけどそれを言ったら、自分たちの生活が成り立たない。」



「何か言ったら、みんなから変な目で見られる。村八分になる。そういう気持ちがあったんじゃないかなと思いますけどね。」

西山地区の白血病と残留放射線との因果関係は今も証明されていません。

長年、西山地区の白血病について研究を行ってきた、長崎大学の朝長万左男(ともながまさお)名誉教授です。原爆との関係を証明するのは容易ではないとしています。

朝長教授
「普通の人からも10万人に1人か2人は慢性骨髄性白血病は出るんですよ。
「それと混同していませんか」と、言われると「いやいや、これははっきり原爆の放射線で起こっているんですよ」と言うにはどうですか。相当な根拠がないといかんですよ。そこですね。
(残留放射線は)累積していくわけだから、本当はそれが計算できないといけないけど、生活パターンが非情に、その時に福島でも同じような問題が起こっているのですけどね。外にどのくらい出ていて、家の中でどのくらい生活していたのか。
そうしたことを毎日記録している人なんていないでしょう。そういうところに壁があってね、福島でも正確な被爆線量を出すことは非常に難しいんですよね。」

アメリカが残留放射線を否定したことは、何をもたらしたのか?

朝長教授
「残留放射能の研究が進んでないでしょ。例えばプルトニウムが人体に入っててね、これも残留放射能でしょ、ある意味でね。それが、今頃分かってんのよ。
一生懸命にその当時にやっていれば、もっといろんなデータが出たはずでしょ。そういう事ですよね。そこに科学者でもない陸軍のトップがね、「無い」と判断するのは、もう、政治以外の何ものでもないですよね。」

続く

#原爆初動調査 #隠された真実 #NHKBS1スペシャル #残留放射線 #長崎西山地区 #黒い雨 #ルテニウム #セリウム #星正治 #大瀧慈

以下の動画もご覧下さい。



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