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明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(707)書評『ヒロシマを生きのびて』肥田舜太郎著・・・1

2013年07月11日 17時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20130711 17:00)

福島原発事故で大量の放射能が飛散した関東・東北でさまざまな健康被害が見え出しています。
もっとも顕著なのは、子どもの甲状腺がんが17万人の検診ですでに12人が確定とされ、他に15人が濃厚な可能性とされていることです。あわせて27人も見つかってしまっています。
政府はこれらを事故前のものが見つかったにすぎないと言っていますが、政府は認めれば賠償を行うとともに、傷害行為への責任を取らねはならない立場にあるため、とても客観的に判断する位置になど立っていません。
そもそも子どもの甲状腺がんは100万人に1人の発生と言われてきた病、ほとんど起こらなかった病です。それが17万人中27人近くが見つかっているのに知らんぷりはあまりにおかしい。

一方、これほどには統計化されてはいないものの、心筋梗塞などによる突然死なども非常にたくさん聞こえてきており、がんの発生もずいぶん耳にします。次第に統計にもあらわれてくると思いますが、本当に頻繁に報告が入ります。
昨日は東電福島第一原発元所長の吉田氏の逝去も伝えられました。食道がんとされていますが、かなりの高線量を浴び、内部被曝も激しいかったために発病されたことは、多くの人が疑っている通りだと思います。お気の毒ですが、僕には光の当たらないもっとたくさんの作業員の方たちのことがより気になります。
現場の最高指揮官が発病するのであれば、末端の、より原子炉に近かった方たちはどうなったのでしょう。実はたくさんの方の死が隠されているのではという疑惑が湧きます。今もシビアな状態で苦しんでいる方がたくさんおられるのではないでしょうか。

同時にこのようにさまざまな健康被害が出ているならば、東北・関東の医療機関が大変なことになっていることが強く懸念されます。しかし放射能の影響が隠されていると、この大変さに対する当然の社会的テコ入れが働かなくなり、医療サイドの苦しさはまずばかりです。
事故の深刻さが隠されることによって、現場の惨状に社会的光が当たらない福島第一原発の現場と同じように、免疫力の全般的低下のもとで、分けが分からない形で疾病が増え、治りも遅くなっていくことで、医療機関にボディブローのような打撃が蓄積されつつあるのではないか。
甲状腺がんなどの突出した被害と同時に、とにかく身体の調子が悪くなり、風邪がなかなか治らないとか、持病がどんどん悪化するとか、認知症の進み具体が早くなるとか、放射能のせいとは言い切れないものの、病状が増悪しているケースがたくさん考えられ、さまざまな意味で胸が痛みます。

このような状態で問われているのは、医療サイドの頑張りはすでにして頂点に達していますから、私たち市民の側が医療を守り、支えていくことです。もちろん政府に予算配分を手厚くしていくことを求めていく必要がありますが、今の流れはそれどころかTPPへ向けた医療の自由化(公的医療の削減)であり、ますます悪くなりつつある。
この状態を見すえて、私たちには今、この国の医療がどこからどこへ行こうとしているのかをしっかりと認識し、何を守り発展させるべきなのかをつかんで実践していくことが問われていると思うのです。それ抜きには放射線防護を有効に進めることはできません。被曝だけに特化せず、医療全体に目配りしていくことが大切です。

こうした観点から取材と研究を進めていたときに、手にとって思わず引き込まれ、一気に読んでしまったのが、今回の書評の対象である『ヒロシマを生きのびて』(あけび書房)でした。書かれたのは被爆医師、肥田舜太郎さんですが、タイトルから想像されるものとは少し違って、肥田さんの戦後の医師としての歩みが中心になっています。
その内容が非常に感動的なのです。なぜ感動するのかというと、この国の戦後医療が、どのような状態から立ち上がってきたのかを彷彿させると同時に、僕には肥田さんが、戦後から現代までの医療界に通底している課題に早くから目覚め、独自の医療観を育んでこられたように感じたからです。

どうしても被爆医師である肥田さんには、みなさん、広島での被爆体験や、たくさんのヒバクシャを見てきた経験を語って欲しいと思うでしょうし、実際、そこから紡ぎだされる珠玉のような言葉が多くの人々の励ましであり続けてきたのでした。
しかし僕にはそうした肥田さんの言葉を根底で支えるものをもう一歩深いところでとらえ、多くの人々の間でシェアしていくこと、その中で医療サイドに立たないものにとっての医療を、ただ「受けるもの」、受診するものから、自らが担うものへと捉え直していくことが問われているように思えるのです。

さて、本書の内容に入りたいと思います。この本を肥田さんは「自分史」と名づけておられます。戦後から1980年代までの歩が綴られていますが、その前半は戦後医療の奮闘記とも呼べるものです。肥田さんはあとがきで次のように述べられています。
「私は1945年8月6日、広島で原爆攻撃を受けましたが、たまたま直爆死を免れ、修羅の地獄の真っただ中に8月15日の敗戦を迎えました。
 薬品も資材も人手もないなか、無我夢中で救急医療を続けるうちに、11月某日、厚生省技官に任命され、柳井国立病院勤務、病院船勤務の後、国立医療労働組合専従役員になり、敗戦直後の全公労の闘争に参加、1949年9月、占領軍総司令部のレッドパージで厚生技官をクビ切られ、民主医療所を設立して民医連運動、医療生協運動を進める傍ら、
被爆者として原水爆禁止運動に参加、国内、国外に被爆の実相普及のため、語り部活動、講演活動をおこないながら、厚顔にも革新政党の市議会議員を二期つとめるなど、身の程知らずにあれもこれもと働き続けてきました。
また1979年からは、日本被団協原爆被爆者中央相談所の仕事を引き受け、全国津々浦々を歩いて被爆者相談事業の指導、援助につとめてきました。」(本書p284、285)

被爆医師肥田舜太郎・・・という名前を見て、肥田さんが広島に住み続けていると思われている方もおられるかと思うのですが、実際には肥田さんは、戦後労働運動の激しさの中で、1947年には上京して国立医療労組で活躍されました。さらにレッドパージ後の1950年には東京杉並区で「西荻窪診療所」を設立して初代所長になられました。
1953年からは埼玉県に移られ、埼玉の民主医療連合会の設立に翻弄されました。市会議員となったのも埼玉県行田市であり、以降、肥田さんは埼玉県を軸としながら活動を継続されてきました。

そんな肥田さんの駆け出し医者のエピソード、埼玉に移る前の西荻窪診療所時代の話が、最初の方に出てきます。僕には本書全体に連なる魂が綴られたエピソードのように思えたので、長くなりますが、ここも抜書してご紹介したいと思います。診療所がようやく一周年を迎えた頃のお話です。

「定期的に人工気胸をおこなう結核患者が増えて、午後、往診に出たあとの診察室には長椅子が並べられ、気胸器が準備されて、ポコポコポコポコと空気が送られる特有の柔らかい音が診察所内に響いていた。
 ある時、そんな定期患者の一人が来なくなった。峰尾看護婦が気づいてカルテの住所を訪ねた。小さな洗濯屋で、店で仕事をしていた主人が峰尾を見て、言った。
『娘がちっともよくならないんで、親戚の者に言われて東大に診せたところ、気胸の空気の入れ方が少ない。これじゃ結核の病巣が潰れないと言われた。お前んところのやぶ医者のお陰で、大事な娘、台なしにするところだった。帰ったらやぶ医者にもっと腕を磨けって言っとけ」
 ざっくばらんに隠さずに言う峰尾看護婦の言葉が胸に刺さった。峰尾が「先生、謝りに行ったら」と遠慮がちに言ったが、そう言われただけでかーっとなって、とても行く勇気はなかった。
 学校の基礎的な教育も途中までで軍隊に取られ、臨床検査と細菌検査を少しかじっただけ。あとは兵隊の訓練や穴掘り工事の隊長を勤め、原爆の重症患者と死骸の中を走り回って戦争が終わる。戦後は労働運動と政治活動をしてきた医者もどきが、無理だと分かりながら始めた診療所活動である。
誰のせいにすることもできなかった。もう一度、教室へ戻って、せめて二、三年勉強したいなど、言い出す隙もない今、歯を食いしばって頑張る以外ないんだと自分に鞭を打って、やぶ医者というその言葉を素直に受け止めてはいた。

 ある日、峰尾看護婦とかなりの数の往診を回り、最後の患家を出て、さあ帰ろうと自転車にまたがった時、峰尾がもう一軒、途中で増えた往診があると言う。ついて行くと、小さな洗濯屋の前に立っていた。はっと思ったが後の祭りだった。
『先生、素直に謝りなよ。前からそう思ってたんだ』
 気持ちは分かったが、足が前に出ない。
『この家に入れないようじゃ、先生、一生やぶ医者だよ』
 胸をえぐる言葉だった。ぐずぐずしている腰のあたりを後から押され、ベニヤの戸を押し開けて中へ入ってしまった。すぐ目の前で親父さんが向こう鉢巻でアイロンをかけていた。私を見て顔色が変わる。
『往診は頼んじあ、いないが』
『いや、私の空気の入れ方が足りなくて、娘さんにすまないことをしたのを謝りに来ました』
 やっとの思いでそれだけ言えた。しばらく私の顔を見てた親父さんが、いきなり鉢巻をとると、ぱっと部屋の向こうまで下がってひざまずいた。
『先生、よく言ってくれなすった。先生がそう言ってくれなきゃ、娘、お宅へやれないやね。うちにゃあ東大なんぞに行かせる銭なんかありゃしねえ』
 
 胸がいっぱいになって、顔が熱くなった。患者からこんな言葉が聞けるなんて私はなんという幸せものなんだろうと、目の前が急に明るく開けたような気がした。
 と同時に、それとは全く別に、医学知識と技術の足りなさを自覚しながら、それに対して打つ手を持たない己に対する激しい自己嫌悪が、頭の中に真っ黒に広がっていった。」(同書p61~63)

・・・続く

 

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明日に向けて(706)原発新基準はどこがおかしいのか・・・2

2013年07月10日 13時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20130710 13:00) (0717訂正・追記)

昨日は原発新基準が安全性を担保できない格納容器の問題を放置していることを指摘しましたが、その続きを書きたいと思います。

この安全性を担保できない「最後の砦」、格納容器における新基準のあやまりは、もうひとつあるということです。加圧水型の格納容疑は沸騰水型より安全だとして、非常時用のベントの設置を5年先まで猶予していることです。
ここには二つの誤りがあります。一つは安全性の考え方に確率をしのばせる発想が色濃く出ていることです。ベントはなぜつけるのか。ある確率で、格納容器が壊れうるということが認識されたからです。しかし確率が低いから5年は猶予するとなっている。
しかし福島原発事故で破綻したのは、こうした確率論的な考え方です。どんなに小さいものでも、事故の確率があるものは、いつかは必ず事故に見舞われるのです。だからベントをつけるわけですが、その際、明日事故になる確率だって厳然として存在しているのです。
にもかかわらず、確率が非常に小さいからないことと同じだという考え方に原子力政策は支配されてきました。しかしその小さい確率のものが、すでに、スリーマイル島、チェルノブイリ、福島と続けて起こったのです。

そのためどれほど小さく計算された確率であろうと、起こりうる事態、最悪の事態を想定し、そのリスクを負ってまで発電を行う必要があるかどうかを社会的に論議すべきなのです。あらゆる技術で「絶対安全」という領域はありえず、だからこそ起こりうる事態は許容しうるものかどうかを社会的に決しなければいけない。
それから考えれば、再び三度、「過酷事故」がどこかで起こる可能性は十分にあります。にもかかわらず5年もの猶予を与えるのは、再び事故の確率が小さいことを事故がおきないことと同等にみなすのと同じことです。この発想そのものが福島事故で破産したことを踏まえていない。

さらに加圧水型の方が安全なのかといえば、そんなことはないことを見落としていることです。何が無視されているのでしょうか。一つは加圧水型は沸騰水型に比べて、水素爆発の可能性が高い点です。
沸騰水型は、燃料が加熱して燃料ペレットを覆っているジルコニウムが溶けると水素が発生し、水素爆発の危険性が生じるため、内部を窒素で満たしてます。このことで水素と酸素がいい塩梅の比率になって大爆発してしまうことを避けているのです。
ところが加圧水型はこの窒素封入がされていない。このため同じように起こりうる水素の発生に脆弱なのです。もちろん水素の除去装置があるのですが、水素を燃やしてしまう設計で、それ自身が危ない。この装置が故障して、水素がたまり、いい塩梅になったときに回復したら、自爆装置になってしまうからです。

さらに加圧水型は、その名のごとく内部を加圧しています。炉内をまわる冷却水の沸点を上げ、水蒸気にならずに循環させているためですが、この圧力に耐えるために、格納容器の鉄材が沸騰水型より厚く作られています。
その方が圧力には強いですが、一方で脆弱破壊には弱い構造を持っています。脆弱破壊とは、疲労した金属が、急激に冷やされることなどにより、ガラスが砕けるように崩壊してしまうことです。この脆弱破壊が、炉心の溶融のもとでの緊急冷却装置の発動により、一気に引き金に起こってしまう可能性が沸騰水型より高い。
水素爆発の可能性を見ても脆弱破壊の可能性を見ても、加圧水型には沸騰水型にはない危険性があるのです。にもかかわらず5年の猶予を見ようとしている。

まとめましょう。
新基準のあやまったところは、第一に過酷事故を前提としていることです。過酷事故など起こすことのない原発を求めるべきで、それができないのであれば、原発からの撤退こそ、当然にも帰結せねばならないことを無視していることです。
第二に、安全思想を大きく逸脱していることです。安全装置が故障のときに必然的にプラントの停止を招くように設計されておらず、何らかの装置が稼動しないと危機を脱しえない構造になっている。安全性を担保する事故対策になっていないということです。
第三に、格納容器を放射能を位置づける最後の砦とし、機密性を守るものとしながら、内部が加熱すると外部から水を導入せざるをえず、もともと機密性が確保できない構造になっている点です。
第四に、内部の圧力が上がった場合に、放射能を閉じ込めるための容器を守るために、放射能を放出するベントというまったく矛盾した「安全装置」をかかえていることです。
第五に、そのベントも自然に作動するのではなく、バルブの開閉を行わなければならず、この装置が故障して働かない可能性を持っていることです。
第六に、放射能を外に出すために、フィルタをつけるとしていますが、出力が高ければフィルターは抜けてしまう可能性があり、放射能放出の低減も保障されないことです。
第七に、事故を確率論的に考え、それが非常に小さければ事故は起こりえないと考えて良いとしてきた発想を継承していることです。こうした考えの顕著な現れとして、加圧水型格納容器のベント設置に5年も猶予を与えてしまっています。
第八に、その加圧水型格納容器が、窒素封入がしてある沸騰水型格納容器よりも、水素対策に危険性が高いことを無視していることです。
第九に、しかも加圧水型圧力容器(格納容器ではない)は、より高い圧力に耐えるために鉄鋼板を厚くしてあり、炉心からの距離も近く中性子により脆くなるため、沸騰水型より脆性破壊(鋼板が低温で割れてしまう非常に危険な破壊。古いプラントで配管破断などの事故が起きて、緊急炉心冷却系(ECCSという)が働き冷たい水が原子炉内に大量に入ると起こる)の危険性が高いことです。
また、原子炉圧力容器の上蓋に制御棒を入れる穴が全面にあり、欠陥が残り安い。最近、ヨーロッパ(ベルギー)で加圧水型圧力容器の上蓋に大量の亀裂が発見されました。
第十に、加圧水型には、蒸気発生器という圧力容器より大きな大型の容器の中に、数千本の細い配管があり、よく詰まってしまいます。つまっても少しなら構わないということで、止栓をしていますが、プラントが古くなると多くの配管が機能しなくなっているのです。このように加圧水型特有の危険性が無視されています。

これらから新基準のもとでの運転は、たとえそこに書かれた条件をすべて満たしたとしてもあまりに危険なものです。しかも過酷事故になった場合に、対処するとしている装置がそのとおりに動作する保障は何もありません。
そもそも想定を超えた事故ですから、あらかじめ設置した機器が抑止になるような形で事故が発展する可能性も薄く、何ら対処法のない事態が発生する可能性も十分にあるのです。だからこそ再稼動は非常に危険なのです。

さらにもう一つ。重要な点があります。こうした再稼動の動きは、福島原発事故の責任追及があいまいなままに行われようとしています。それは東電と政府への責任追求を後景化させるとともに、福島原発事故の被害そのものを小さく評価することにもつながります。
今も進行中の被曝がより過小評価され、健康被害の拡大に歯止めがかからなくなるとともに、福島原発の現状の危険性も過小評価され、危機管理が甘くなり、事故の破滅的な深刻化の可能性を作り出してしまいます。この点からも新基準のもとでの再稼動は認められるものではありません。

新基準のどこがおかしいのかをしっかりと見据え、この点を広げて、再稼動反対の声を大きくしていきましょう!

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明日に向けて(705)原発新基準はどこがおかしいのか・・・1

2013年07月09日 23時30分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20130709 23:30)
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    昨日8日に原発の新しい規制基準が施行されました。これにあわせて電力4会社が5原発10基の再稼働を申請しました。北海道電力の泊1~3、関西電力の大飯3、4高浜3、4、四国電力の伊方3、九州電力の川内1、2です。
九州電力はさらに12日に玄海3、4の申請を行うとしています。また東電も、柏崎6、7を申請しようとしています。

これらの電力会社の申請は原子力規制委員会の足元をみたようなものになっています。というのはこれらの原発、どれもが新基準を完全には満たしていません。にもかかわらず申請が相次いでいるのは、規制委員会が現状で条件を満たしていない大飯原発の運転継続を猶予期間を設けて認めたからです。
初めから新基準のもとでの規制の弱さが見えてしまった感じですが、懸念すべきことは、マスコミなどの論調が「新基準をしっかり守れ」という方向などに流れて、新基準の限界の批判的捉え返しが後景化してしまうことです。

規制委員会は、電力会社とは利害を異ならせており、古い原発の稼動を認めなかったり、「活断層」を「厳しく」評価するなど、電力会社の利害とぶつかっている面もあります。しかし寄って立っているのは「危険な原発をとめ、安全な原発を動かす」という立場です。
新基準が安全と危険を分けるものとされているわけですが、では新基準は安全性を本当に担保できているのでしょうか。全く否です。新基準のもとでの運転には大きな危険性が孕んでいます。にもかかわらずこのままでは新基準をパスすれば、原発が安全であるかのような幻想が生まれてしまいます。
これを捉え返すために必要なのは新基準の技術論的検証です。すでにこのことを、僕は元東芝の格納容器設計者、後藤政志さんの講演のノートテークを通じて提示してきましたが、昨日の再稼動申請を踏まえて、再度、まとめ的に論じていきたいと思います。なお長いので2回に分けます。


今回の新基準の最も大きな特徴は「過酷事故対策」を盛り込んだことです。規制委員会はこの重要な点を、過酷事故を重大事故と言い換えることで、あいまいにしだしている面がありますが、過酷事故とは何かというと設計上の想定を超えた事故のこと。設計段階での考察を突破された状態です。
何よりも問題なのは、それでも対策を施せば安全性が確保できるという幻想が振りまかれていることです。そんなことは技術論的にいって断じてありえない。というかすべての安全装置が突破された想定できない状態こそが過酷事故なのです。この意味は非常に大きい。

もう少し具体的に見ていきましょう。設計上において原発の安全性をもっともよく担保しているものは格納容器だそうです。この容器は普段は大した意味をなしていない。炉心が損傷する深刻な事故が起きたときに、放射能を閉じ込めるための装置として初めて積極的に働くのです。
安全思想の上から重要なのは、事故が起こるとすべてのバルブが閉まり、密閉されるように設計されていることです。このことで万が一の事態があっても、放射能を閉じ込められるということが原発の安全性を担保するとされてきたのです。
ところが福島原発事故ではこれが突破されてしまった。水素が漏れて爆発が起こったり、格納容器の圧力が高まり、ベントなどをしたものの、数箇所で穴があいてしまいました。
となれば、本来、格納容器を作り直すことが必要なのです。壊れてはならないものが壊れたのだから設計思想が崩壊したのであって、もう一度、一から作り直さなくてはいけない。にもかかわらずこの重大な本質問題を避けて、弥縫策で原発の再稼動を容認しようとしているのが新基準です。

では新基準が無視しているものとは何なのでしょうか。まずは格納容器の抱えている構造的欠陥です。先にも述べたごとく格納容器は炉心の重大事故時に、自らを密閉して放射能を閉じ込めることを最大の任務としています。
ところが炉心の加熱への対処のためには、水をどんどん投入しなければなりません。全てのバルブを閉めて密閉性を確保しながら、それとは反対にバルブを開けてどんどん外から水を入れなくてはならない。ここにもともと格納容器が、密閉性を実現できない構造的欠陥があります。

さらに問題なのは中で温度があがり、ガスが発生して圧力が上がると容器が崩壊の危機に立つことが設計後にわかったため、後づけで「ベント」という装置が取り付けられてきたことです。放射能を閉じ込めるための容器が、自らを守るために放射能を抜く装置を持っている。致命的な欠陥です。
しかもベントは非常用のバルブを開けることで初めて成立する。しかしこのように非常時に何かの作動させてはじめて危機が回避されるというのも、安全思想上、多きな問題があるものです。その機器が壊れて動かなければ安全性が破綻してしまうことになるからです。実際、ベントのバルブはうまく開きませんでした。
もう一点、ベントで放出される放射能を漉しとるためにフィルターをつけるとされていますが、たくさんのものが出てくれば、フィルターは抜けてしまう可能性があります。これまた確実に放射能を漉しとることなど保障されない装置でしかないのです。

安全性の確保は、機会が壊れたときにどうなるようになっているかにかかっています。壊れたときに安全装置を起動させるようにしていると、その安全装置の故障というリスクをかかえることになる。ベントのバルブが開かなかったことなど、最たる例です。
これの反対にはどのようなものがあるか。例えば鉄道の貨物列車などでは長い車両のブレーキをエアでつないでいるそうです。そしてブレーキペダルを踏むと、エアがかかってブレーキが効く・・・のではなく、反対にエアがかかっている状態ではブレーキが解除されているようになっているのです。
そうすると何らかの故障にみまわれてエアが止まってしまうと、自然にブレーキがかかることになる。安全装置が故障すると、列車が止まるように出来ているのです。原発にはこうした仕組みがない。安全設計になっていないのです。

続く

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明日に向けて(704)尾道市、三次市でお話します。祝島にも行ってきます!

2013年07月08日 22時30分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20130708 22:30)

再び広島県内でお話する機会を持つことができることになりました。

1つは7月12日尾道市でのお話会です。何度も呼んでいただいてとてもありがたいです。
もう何度も放射線防護のお話を聞いてくださっていますが、今回は原発災害対策についてもお話させていただきます。

もう1つは三次市でのお話です。初めての三次への訪問です。
今回はとくに食べ物のお話をとのことで、この間、考察してきたことをまとめてお話します。
それぞれ詳しい案内を貼り付けておきます。
僕のFBページの写真欄に、チラシを載せていますので、それもご覧下さい。
http://www.facebook.com/photo.php?fbid=10200766675347555&set=a.3300903639751.2140616.1182740570&type=1&theater

さて今回はさらに足を伸ばして、14日、15日と山口県祝島に訪問してきます!
交流会などもしてくださるそうです。とてもありがたい。
実は初めての訪問になります。・・・お恥ずかしい。たくさんのことを取材して、学んで、力にしてきます!
レポートをお楽しみに!!

*****

7月12日尾道市

東日本大震災から3年目 福島を忘れない!

放射能から身を守りたい!

原発事故が起きたらあなたはどうする?
福島4号機、伊方原発などでの事故を想定し、避難方法を考える

健康被害の現状と対応について食べ物のお話もしたいですね・・・

とき 2013年7月12日(金)
   18:30~20:30(開場18時)
ところ 尾道市人権文化センター和室(尾道市防地町26-24)
テーマ 福島原発災害の影響、現在、そして未来
資料代 500円

主催 フクシマから考える一歩の会
共催 原発のーでもえーじゃないBINGO、命と未来を考える会・三原
連絡 池本(090-3355-4187)

*****

7月13日三次市

「身体は、自分が食べたものでできている。」
そんなアタリマエを
忙しい毎日の中で忘れてしまいがち。
添加物や必要以上の農薬が使われ、安全性が分からない食材を
いったいどれぐらい口にしているのか・・・
それでも何とか機能している素晴らしい体を
私たちは持っています。
でも、この先もこのまま機能してくれる?
自分も、子どもも、家族の体も。。。

だから少し立ち止まって、
本当に身体が必要としている食べ物のことを
考えてみませんか?
食べられる体がある限り、まだ大丈夫!
守田先生に、今の食品の現状と対策を聞いてみましょう。
おすすめメニューの試食もできちゃう講演会です。

POINT 免疫料がUPするレシピ&試食つき

ホントはどうなの 子どもたちや私たちの食べるもの
守田敏也さんに聴こう!三次っ子の元気が出る食べ物

日時 7月13日(土)
   13:00~16:00(12:30開場)
場所 十日市コミュニティセンター2F研修室
   (三次市十日市南1-2-18 TEL 0824-62-3662)
参加費 1000円
託児 1人につき500円(未就学児のみ)
   7月10日までに申し込んで下さい。TEL&FAX0824-66-1896(木のおもちゃHANA)
主催 まめごはんの会(花木)090-1683-0968
   mamegohannokai@jmail.com
後援 三次市・三次市教育委員会
 


 

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明日に向けて(703)原発事故に備えて避難の準備を進めよう!

2013年07月06日 11時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20130706 11:00)

原発再稼働に向けて電力会社が動きを加速しつつあります。これに対して新潟県知事が真っ向から反対を唱えています。知事は原子力規制委員会の新基準にも反対を鮮明にしています。素晴らしい。県民と周辺の方たちの命を守ろうとする知事を応援しましょう。
同時に再稼働の動きに対抗する意味も込めて、みなさん、ぜひそれぞれの地域で、原発災害対策を進めて欲しいと思います。自治体で取り組むのがベストですが、それが不可能なら自治会レベル、市民運動レベル、職場レベル、学校レベル、友人レベルなど、それぞれの単位で対応を検討してください。

災害対策を進めるのは、再稼働を認めることではありません。原発災害は福島原発4号機が示しているように、事故は稼働してなくても起こりえます。そのため放射線防護を本気になって推し進めるためには災害対策への真剣な取り組みが必要です。
またこの取り組みを進める中で、必然的に多くの方と原発とは何か、どのようなものなのかという点をリアルに認識していくことができます。そのためにぜひ取り組んでいただきたいのです。

原発災害に対する備えとしてどのようなことが必要なのか。あるところで講演した内容を、知人がネットにアップしてくれていました。最近になって知りました。
分かりやすいようにテロップも入れてくださっています。ちょっと恥ずかしくもあるのですが、ともあれ必要なことをきれいに切り取ってくださっていますので、見ていただけたらと思います。

原発災害に備えよう
守田敏也
http://www.youtube.com/watch?v=2RxGAXsgWlQ

以下、こうした講演の時に配っているレジュメを貼り付けておきます。これまでも何回か掲載したものの更新版です。
ビデオとあわせてご活用ください。

*****

原発災害に対する心得(20130706更新)

知っておきたい心の防災袋(防災心理学の知恵)
1、災害時に避難を遅らせるもの
○正常性バイアス⇒避難すべき事実を認めず、事態は正常と考える。
○同調性バイアス⇒とっさのときに周りの行動に自分を合わせる。
○パニック過大評価バイアス⇒パニックを恐れて危険を伝えない。
○これらのバイアスの解除に最も効果的なのは避難訓練

2、知っておくべき人間の本能
○人は都合の悪い情報をカットしてしまう。
○人は「自分だけは地震(災害)で死なない」と思う。
○実は人は逃げない。
○パニックは簡単には起こらない。
○都市生活は危機本能を低下させる。
○携帯電話なしの現代人は弱い。
○日本人は自分を守る意識が低い。

3、災害時!とるべき行動
○周りが逃げなくても、逃げる!
○専門家が大丈夫と言っても、危機を感じたら逃げる。
○悪いことはまず知らせる!
○地震は予知できると過信しない。
○「以前はこうだった」ととらわれない。
○「もしかして」「念のため」を大事にする。
○災害時には空気を読まない。
○正しい情報・知識を手に入れる。


原発災害にどう対処するか
1、原発災害への備え
○災害対策で一番大切なのは避難訓練。原発災害に対しても避難訓練が有効。
何をするのかというと、災害がおこったときをシミュレーションしておく。
○家族・恋人などと落ち合う場所、逃げる場所を決めておく。
○持ち出すものを決めておき、すぐに持ち出せる用意をしておく。

2、情報の見方
○出てくる情報は、事故を過小評価したもの。過去の例から必ずそうなる。
○原発は最初に計器やメーターが壊れ、事態が把握できなくなりやすい。運転員も正常性バイアスにかかりやすく、事故の認知が遅れる。
○「直ちに健康に害はない」=「直ちにでなければ健康に害がある」と捉える。
○周囲数キロに避難勧告がでたときは、100キロでも危険と判断。

3、避難の準備から実行へ
○災害を起した原発と自分の位置関係を把握。基本的には西に逃げる。
○マスク、傘、雨合羽必携。幾つか代えを持つ。とくにマスクは頻繁に変える。高いものでも惜しまずに捨てる!
○お金で買えない一番大事なものを持ち出す。その場に戻ってこられないと想定することが大事。どうでもいいものは持っていかない。
○可能な限り、遠くに逃げる。逃げた先の行政を頼る。
○雨にあたることを極力避ける。降り始めの雨が一番危ない。
○二次災害を避けるべく、落ち着いて行動する。
○避難ができない場合は屋内に立て篭る。水・食料を備蓄しておく。(最低一週間分)
○立て篭る場合は換気扇やエアコンは使わない。すきま風が入る場合は目張りする。
○避難のときも立て篭るときも、外気に触れたときは、うがい手洗いを徹底する。
(放射性物質への対応には、インフルエンザ対策、花粉症対策が大変有効!)


放射線被曝についての心得
1、福島原発事故での放射能の流れと情報隠し
○福島原発事故では風の道=人の道に沿って放射能が流れた。
○被曝範囲は東北・関東の広範囲の地域。京都にも微量ながら降っている。
○SPEEDIの情報隠しなど、東電と政府の事故隠しが被曝を拡大した。

2、知っておくべき放射線の知恵
○放射能から出てくるのはα線、β線、γ線。体への危険度もこの順番。
○空気中でα線は45ミリ、β線は1mしかとばず、γ線は遠くまで飛ぶ。
○このため外部被曝はγ線のみ。内部被曝ですべてのものを浴びる。
○より怖いのは内部被曝。外部被曝の数百倍の危険性がある。(ECRR)
○外部被曝を避けるには必要なのは、放射線を遮蔽すること、線源から離れること、線量の少ないところにいくこと。
○内部被曝を避けるために必要なのは、汚染されたチリの吸い込みを避けること、汚染されたものを飲食しないこと。
○放射能には半減期(放射線を出す力が半分になる期間)があり、事故直後は半減期の短いものもたくさん出る。
○そのため事故直後が一番放射線値が高い。とにかくとっと逃げるが勝ち!
○まずは逃げて原発の状態や事故の推移はあとから確認する。安全が確認できてから戻ればよい。

3、放射能との共存時代をいかに生きるのか
○元を断つ。
○被曝の影響と向き合う。被曝した人を労わる。あらゆるヒバクシャ差別とたたかう。
○放射能以外のものも含めてあらゆる危険物質を避け、免疫力を高める。
○汚染水を避け、味噌と玄米を食べ、白砂糖を避けるのが手っ取り早い対処。(長崎原爆時の秋月医師の指示)
○前向きに生きる。楽しく生きる。意義深く生きる。そのことで免疫力がアップする。


 

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明日に向けて(701)安全性を無視した原発新基準を後藤政志さんの考察から批判する・・・4

2013年07月04日 22時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20130704 22:00)

今回の号で「明日に向けて」は連載700回を越えました。多くのみなさんに支えられてここまで来ました。深い感謝を申し上げます!
700回を越えたコメントをと思うのですが、後藤政志さんの講演録が途中ですので、今日はこれを優先し、次号にコメントを掲載させていただきます。

さて前回までの3回で、後藤さんの講演はいったん終了するのですが、休憩を挟んでその後に補足説明が行われました。
ここで後藤さんは、「安全とは何か」ということを技術論的に話されています。

福島第一原発の現場でトラブルが起こったとき、あるいは原子力関連施設で問題が起きたとき、マスコミは多くの場合、対応の不十分性を指摘します。それは機器が十分に作動しなかったりということであったりします。
しかしそうした指摘は、「正しく運転されていれば事故は防げたはずだ。機器をちゃんと点検していれば良かったのだ」という主張につながり、システムそのものの不備に分析がおよびません。ベントに関する論調などはその最たるものです。

後藤さんが繰り返し指摘しているのは、機器の故障はありうることであり、それでも安全が確保されるようにシステムを構築しておかねばならないということです。原子力はそれができておらず、だから設計の段階で十分な安全性が担保されてないのです。
例として挙げられているのが、貨物列車のブレーキです。これはエアで動かしているそうですが、ブレーキペダルを踏むとエアが流れてブレーキがかかる・・・のではない。反対にエアが流れているときはブレーキが外れていて、ペダルを踏むとエアが切れてブレーキがかかるのだそうです。
そうすると何かの不具合で長く連なっているホースが切れると、エアが遮断されてブレーキがかかる。故障するとブレーキが作動するような体系になっているということです。
原子力規制委員会の新基準は、こうした安全思想に立っていないことに一番の問題があります。この点をしっかりとつかみとりましょう。

以下、お読みください。

*****

原子力発電所の真実を語る・・・4
後藤政志 2013年3月30日 
福井から原発を止める裁判の会主催講演会より
http://www.youtube.com/watch?v=7DgSaLgd1rc

一番、申し上げたいことの一つは安全とは何かということです。溶融デブリの状態すら把握できていない。冷却できているのかもよくわからない。こんな状態になってしまっているわけです。
これは対応が悪いという側面もよく指摘されますし、実際、けしからんことも多いですが、ただ私はそれは瑣末な問題だと思います。
東電であろうとなんであろうと、原発自身の持っている特性なのですよ。東電ではなければ良いのかというとそうではない。どこでも大して変わらない。
もっと「安全とは何か」という哲学がなければダメなのです。それで哲学があればできるのかというと、それもまた別次元です。

私が一番強調するのは、確実でないことは安全とは言えないということです。たぶん大丈夫とか、危険の兆候がないというのでは安全が証明されていないのです。
論理的に起こりうることは、いつか確実に起きると考えるべきなのです。実はこのセリフは畑村洋太郎さんも同じことを言っています。
安全装置をつけると何が違うのかというと、その分、事故の確率が減るのです。ですけどゼロにはならない。その安全装置が故障などで働かないことがあるからです。
ですから安全装置を二つつける。そうするとより安全になりますよね。それで確実かと言うとそうは言えない。事故の確率は残るのです。
そうすると起こりうる事故はいつか必ず起きる。シビアアクシデントや炉心溶融事故というのはそういう性格のものなのです。
私はこのように確実にできるというものでないので、どうしても原子力技術というのは砂上の楼閣にあるものとしか見えない。そう見えてしまします。

グレーゾーン問題というものがあります。安全か、危険かと考えたときに、グレーゾーン、判断がつかない状態がある。今の原発問題はどの分野もこれに入ります。
例えば被曝の問題がしかり。どれだけ被曝したら危ないのかというのはグレーゾーンです。活断層もそうです。つまりはっきりしない状態でどうするかが問われているのです。これが安全問題の本質です。

六本木のビルの回転ドアの問題をいつも例に出すのですが、回転ドアで子どもが挟まれて死にました。そのときに設計した側はなんと言ったのか。
「回転ドアは子どもが飛び込んできても大丈夫なように赤外線センサーをつけていて、働いて止まるようになっています」というのが説明でした。だから安全ですという話しでした。
しかし調べていったらセンサーの性能が不十分だった。もっとひどいのはセンサーが壊れている。そうしたら全然働かない。
あるいはセンサーが働いた時も、慣性力で25センチドアが動いた。十分に挟まれます。しかも重さは2.7トンもあった。小型トラックです。それが動いて子どもが挟まれた。大人でも持ちません。
そんなものを、センサーが働いているから安全ですということが事故を生んでいるのです。技術者としてどう考えるかというと、センサーをつけてもいいですけれども、もしこれを安全装置というのであれば、作動しないときのことを考えなくてはいけない。
センサーで検出できるかということも大事だし、センサーが壊れたら自動的にドアが止まるように設計するのです。安全装置であるセンサーが壊れているときには、ドアが動かないように設計するのですよ。それなら分かる。

鉄道でたくさんの車両があります。たくさんブレーキがついていますが、エアホースでつないでいます。ブレーキはそれを踏んだら貨物列車など長い車両の全てが停るようにしておきたい。
そういうときはエアを流しておいてエアが流れている状態ではブレーキがかからないようにしておくのです。
ブレーキを踏むとエアが遮断されてブレーキがかかる。つまりエアが抜けるとブレーキがかかるようにシステムを作っておくのです。そうすると、万一どこかが故障してエアが漏れた時にブレーキがかかるのです。壊れたら停るのです。停る安全なのです。
これが安全設計の根本です。フェールセーフというもので、安全設計の基本です。これができていない。

原子力では格納容器があるから安全と言っています。しかし圧力があがってしまった。だからガス抜きをする。なんじゃこれは。安全とはまったく対極にあるのです。
だから私は格納容器の安全性を完全にするものを作らなけばならないと言っているのです。「そんなものは簡単に作れませんよ」ということが分かった上で申し上げています。

事故は先程も述べたように、ヒューマンファクター(人為的ミス)と、機械の故障(内部事象)と、自然状態など(外部事象)から起こります。地震とか災害は制御がすごく難しいですが、実は機械の制御もとても難しいのです。
なぜかというと、非常用の装置はそれが壊れているかどうかは動かして初めて分かるのです。非常用のディーゼル機関は、ほんちゃんのときに本当に動くかどうかわからないのですよ。事故のときに稼働してみて、初めて壊れているのが分かるというものなのです。
だから故障というものは、大部分の事故ではわからないのです。動かしてみて初めて故障していることがわかる。この故障があらかじめわかれば、安全性は飛躍的に向上しますが、しかしそのようなシステムにはなっていません。

福島第一の所長が言ったことばです。「3月11日から一週間で死ぬだろうと思ったことは数度あった。・・・最悪、格納容器が爆発して・・・コントロール不能になってくれば、これで終わりだという感じがした」というものですが、全くよく分かります。
菅直人さんと、今年になって初めてお酒を飲んで話してよく分かったのですが、こういう感覚を持っている政治家がどれだけいるか聞きました。非常に少ないのです。政治家の方で分かっている方が。
あのときに菅さんが持っていた裏情報は、最悪のときには数千万人が避難しなければならないというものでした。そのシナリオが十分にありえた。4号機のプールがボンとなってしまうことで。

私の感覚ではどれかの原子炉が爆発して、めちゃくちゃな放射能が出て、周囲に人がいけない状態になったとします。そうしたら1号機から4号機まで全部冷却できません。
そうするとあれだけの放射性物質が全部出てくるのです。チェルノブイリのような甘い事態ではありません。あれはたったの1基です。
4基分だけではない。出力は高いし、使用済み燃料棒はたくさんあるし、ものすごいですよ。だからそのときに海外からは日本は壊滅するのではないかという危機的な予想があったのです。
ところが日本の中では5月までメルトダウンを認めませんでした。びっくりしましたね。あれはほとんどジョークに近いのですけれども。3月11日から1日たった時点で、これはやばいということは原子力をやっていた人間は分かっていました。
その先、最悪になるときには、数千万人の避難ということが、ありえなくない話として出てくるのが原子力の怖さですね。

ブラウンズフェリーというプラントで火災が発生しました。燃えるケーブルを使っていた。それで日本の原発でもケーブルを不燃性のものに変えなければいけないものがある。しかしケーブルをすべて変えるのは現実的には不可能です。
ケーブルは燃えにくもので作らなければならないのですが、昔のプラントではそうではなかった。それでどうしたのかというと、ルールを作って同等であればいいとした。同等とは何かと言うと上に燃えにくい塗料を塗れば同等と判断したのです。
さすがに今の規制委員会はそれを認めませんでした。なぜかというと上から塗っていたら、それが剥がれて、そこから中に火が入ってしまうことがあります。燃えやすいから広がってしまいます。そういうことを規制委員会でもやっています。

規制の話ですが、これまでも事故が起こったときに、機器が故障して動かなくなったときのことを想定しなさいとなっていました。しかし単数の機器でした。今度の問題は、電源がなくてさらに壊れるとか、複数が壊れるとかそういうことだった。
それでこのことを評価しなさいとなっているのですが、それでも突破されて過酷事故、シビアアクシデントになったときはこうしなさいと「新たな対策」が設けられています。
例えば火災で言えば、消火設備が機能しないかもしれない。「危ないじゃないか」と言ったら、「いや、ちゃんと対策します」と言う。「どうするのですか」と聞くと、「外に消防車をいっぱい用意します」と言う。
でも消防車が来られないかもしれない。「それならみんなでバケツリレーで消化します」・・・これがシビアアクシデント対策というのです。比喩的に言っていますが、これに近いのです。

なぜならこうなる前に事故が防げるのであれば、はじめからプラントをそう設計すればいいのです。できないから、プラントの中で処理できないから、外から消防車を呼ぶとか、人が人海でやるとかいう話なのです。
火災が起こったときに、どんなに耐火性のもので作っていても、いざというときのために消防車を用意しますと言われて、みなさん、安全だと思いますか。消防車の用意は被害を軽減するためであって、大規模な火災のときは火まかせじゃないですか。
原発はそうなのです。原発が燃えさかっていたらどうしようもないのです。運がよければ少しは軽減できるだけです。原発の危機的特性はあまりに大きすぎるからこれではダメです。

溶融物を冷やすと言っているけれども、蒸気爆発はどうだとか、さまざまな対策がすべて時間内にできるかどうかあまりに疑問です。電源車についても昔から用意すると言っていたのです。今回も何十台も要請しました。しかし渋滞でこれず、ついてもつなげなかった。
今回は訓練するというのですが、そのときに大雪だったらどうするのか。あるいは台風が来ていたらどうするのか。そういう条件を無視した形で、確実に機能しないものを重ねて安全を確保したというのは間違っているというのが私の意見です。
もちろんあったほうが良いのですが、それがあるから安全とは言えないのです。

さらにもっと酷いことは、念のための対策、信頼のための対策は、すぐにやらなくてよろしいという議論をしています。これはめちゃくちゃです。
飛行機で言えば、エンジントラブルがあって落ちそうになった。対策をしなくてはいけないのだけれど、間に合わないので、パラシュートを載せたとか、エンジンを補助するものをつけたとかそういうレベルの話をしているのです。それで稼働としようとしています。
これは詭弁です。福島を経験したわれわれはそんなことをしてはいけない。

傑作なのは第二制御室です。テロ対策だと言います。ないよりあったほうがいいけれど、本体がやられたときに100メートル離れたところから冷却を行えるというのです。
しかし飛行機が突っ込むことを考えると、加圧水型では格納容器本体がやられてしまう可能性が極めて高いのです。そうすると第二制御室など関係ないです。
しかもテロは人為的に狙うわけです。本体で冷却できなくなったら、次には当然第二制御室を襲います。そうするとこれを作ることの意味がなんなのか。非常に難しいし弱点だらけです。
私の東芝の先輩が、紙芝居でやっているのですが、日本は原発を並べているので戦争はできないと言うのです。万一戦争になったら核ミサイルなんか関係ない。原発をいっぱつボンとやればいいのです。

一応、ここまでにしますが、私はけして未来は暗いとは思っていません。エネルギーは化石燃料に頼っていてもいつかはなくなります。核物質は事故がなくても大量に処理できない汚染物がでますからありえない。
そうすると頼るのは自然界にあるエネルギーをいかに取り込んで持続可能に使うかです。これは自明な論理的帰結です。ただし今までのように湯水のように使えないから生活を変える必要があります。しかし技術開発によって長期的に可能だと思います。
しかも今、若者が仕事がないと言われています。これはとてもナンセンスなことです。エネルギーが問題なら、原発ではなくて、ここに人を投入すればいいのです。

私は工学部などで講義をしていますが、若い人たちはきちんとそういう問題が提示されれば、勉強してトライします。しかも技術者というのは問題が難しいほどトライします。簡単なものはダメなのです。
再生可能性エネルギーは難しい。その難しさが技術者を育てるのです。だからそういう方向で若者は頑張ってくれという旗が見えればみんな努力します。
しかし今はその旗が見えない。原発をやるのかやらないのかという議論になっています。それがいけないのです。

******

講演録はこれで終わりです。動画では質疑応答も映っていますが割愛します。
後藤さんの提言についてのまとめとコメントは、号をあらためて掲載します!

 

 

 

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