ぼちぼち日記

大切な日々のこと

『いないいないばあ』

2007-06-10 15:09:42 | つぶやき
『いない いない ばあ』 松谷 みよ子(著), 瀬川 康男(著)

昨日は、真ん中の娘の命日。そして、息子の運動会。
いつもなら、仕事も約束も何も入れないで、一日、ぼんやり静かに過ごすと、決めているのですが、そういう訳にもいかず・・・・・・。
朝の5時に起きて、お弁当を作って、息子の出番に合わせて学校に行って応援。途中から雨が降ってきたので、娘を抱えて傘さして・・・最後には、図々しく、テントの下の来賓席で応援でした。
おまけに、真ん中のテントで目立ちすぎたのか、入れ替わり立ち代り、お母さん方が、お祝いの言葉をかけにきてくれ、嬉しく楽しいながらも目が回るような一日。
そんな一日の終わりに、京都に引越していった友人から、真ん中の娘に、大きなアレンジメントの花が届けられ、ようやく、「ああ、今日は、娘の命日だったなあ。」と、しみじみと想うことが、出来ました。

こんな風に忘れていくことが、嬉しいことなのか、悲しいことなのか、私には、わかりません。
先日、奥様とお子さんを殺された遺族の方が、裁判にあたりコメントを出しておられました。
時間がたち、どんな声だっただろう?とか、どんな笑顔だっただろう?とか、はっきり思い出せなくなってしまっている自分がいると。そういうとき、あの犯行現場になったアパートに、思い出しにいくのですと。
正確な言葉は忘れてしまいましたが、そんな意味の言葉でした。

彼の気持ちが痛いほど伝わってきて、新聞を読みながら、オイオイと泣きました。
こうやって、忘れていくことが当たり前だし、そうでなくてはいけないのだけれど、亡くなった人が愛おしければ愛おしいだけ、そういう自分が憎くて仕方がなくなる。
立場は、全く違うけれど、きっと、あの残された旦那さまも、そういう現実を突きつけられているんだろうなあ。
娘の笑顔や、抱っこしたときの柔らかさ。重さ。そんなものが、1つずつ、1つずつ、私の中から消えていってしまう、いや、もう殆ど消えてしまった恐ろしさ、悲しさを感じながら過ごした、彼女の命日の夜。
みなが寝静まってから、真ん中の娘を思い出すための、入り口のような一冊の本を、一人、読みました。

真ん中ちゃんが、1歳になったばかりの頃(1歳の誕生日は、病院で祝ったのです)、「おこりんぼう」とあだ名される位の泣き虫、怒り虫だった娘は、しょっちゅう、看護士さんにおんぶされたり、ベビーカーで病棟を連れて歩かれていました。
その日も、私が病院につくと、ベッドはカラッポ。ナースステーションに迎えに行ったのです。
そこで見たのは、見慣れた一冊の本を抱えたまま寝ている、ベビーカーの中の娘。その、娘が抱えていた本が、『いない いない ばあ』でした。きっと、看護士さんが、仕事の合間に読んでくれたに違いありません。・・・・・それは、衝撃でした。

『いない いない ばあ』。まだ、寝返りも出来ない息子に、何度も読んであげた本。
ああ、どうして私は、娘に、絵本を読んであげなかったんだろう?
毎日のように繰り返される注射や点滴。痛みを代わってあげられないかわりに、いつも傍にいて、抱っこして「よしよし」してあげたい・・・・・。
悲しみや辛さを共有してあげることで精一杯だった私は、一緒にいる時間を楽しむことまで、気持ちが及ばなかったのです。
次の日。息子に読んであげた絵本の山を、病院へ担いで行きました。

『いない いない ばあ』が教えてくれたのは、どんな辛いときでも、子どもと一緒に楽しむ時間を忘れては、いけないということ。

真ん中ちゃんの遺影を見ていて思い出すのは、いつだって、亡くなったときのことで、どうして、私は、もっと早く気づいてあげられなかったのだろうか?とか、先生に食ってかかってでも、検査を受けさせるべきだったのではないか?とか、そんなことばかり思ってしまう。
けれど、この本を見ると思い出す。亡くなった娘との生活は、辛いこともあったけど、たしかに、楽しいことが一杯あったなあって。
絵本を介して、私たちが寄り添った宝物のような時間たち。

たった2歳の人生が、彼女にとって幸せだったのか、考えても仕方がないことを延々と考えてしまうとき、この絵本が、いつも慰めてくれるのです。好きな本を心に持って、天国へ行けたことは、どれだけ幸せだっただろうって。
だって、娘は、それから絵本が大好きになり、亡くなる前の日も、パパにせがんで、10冊以上の本を読んでもらっていたのですもの。

『いない いない ばあ』。シンプルな展開と、温かく優しい挿絵。
長く読み継がれてきた、赤ちゃんのための、一冊の本。
きっと、これからも、色々なおうちで、『いない いない ばあ』が起こす奇跡が、あるのだろうなって思う。


最新の画像もっと見る

20 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こももさん (ruca)
2007-06-10 19:05:11
こんばんは。

私が外で草取りしていた時間に、こももさんはいろんなこと考えて、自分の心の中を深いところまで下りていってたんですね。

「こんな風に忘れていくことが、嬉しいことなのか、悲しいことなのか、私には、わかりません。」

どんなことでも、まったくそのとおりに、憶えていることは難しいことなのでしょうね。忘れたくない思い出は、とにかく、ひたすら繰り返し、思い出すしかないそうです。

つらいことも、悲しいことも、蓋をしないで、心の中の井戸の底に降りていって、そこでじっとしていられるこももさん、えらいなあって心底思ってます。
真ん中ちゃん (kotatsumikan)
2007-06-10 23:30:06
さすがこももさんの娘さん。しっかり絵本好きだったのですね。この絵本にも、息子さんと真ん中ちゃんと、そして、すえっ子の赤ちゃん3人分の思い出が詰まっていきますね。
記事の中にある事件の遺族の方のお話、私も聞きました。他の人が忘れても自分だけは、っていう思いなんだろうなぁ。
いないいないばぁ (jasumin)
2007-06-10 23:38:08
うちにも、よれよれになった「いないいないばぁ」があります。

私の母は存命ですが、10年ほど前から障害をもち
声も出せなければ、自分の意思で体のどこも動かすことができません。
なので「どんな声だったかなぁ?」って思うこともあります。
でも、思わない日もあってしまいます。
思い出さない日すらあります。
そんなことを思うとき、罪悪感のようなもの、あります。
ただ、私の中には、元気だった頃の母と現在の母、二人の母がいるんです。
だから、それは決して気持ちが薄れたということではないと思おうとしています。
わかりませんけど。

こももさんは、いいお母さんですね。
こうやって、ずっと一緒に時間を感じてくれるお母さん。
いつかばったりと、どこぞの本屋さんでお会いしてみたいです。
おぼえておくこと (shorin)
2007-06-10 23:54:22
なみだは神様の贈り物ではないか、と
思うほど、どうにもできないくらい
でてくる。
私がともしび程の命を失った時に
そう思いました。

松谷みよ子さんが、当時はなかった
母と子が「ともに遊ぶ絵本」
を作りたかったのだ、と
最近新聞の書評欄で書かれていました。

時間の重みは、長さばかりではない。
それでももっと多く、長く、と思うのも
親ならばもっともなことだと思うのです。
きっと・・・ (フラニー)
2007-06-11 01:06:27
真ん中のお子さんは、病気でつらかったかもしれないけど、家族に見守られて、今も、いつまでも、
こうして思われていることをうれしく見てくれていることでしょう。
こももさんの胸のうち、とても響いてきて、わたしまで泣けてしまいます。
生まれて、生きてくれた証は、いろんなものに残っていて、見るたび思い出してあげられますね。
うちでもよく読んだ「いないいないばあ」
こももさんちの長女ちゃんのこと、わたしもこれから思いながら読みますよ。
Unknown (るる)
2007-06-11 02:44:48
こももさんはほんとに優しいお母さんですね。
その気持ちは、お子さん達みんなに、絶対伝わっているはず。何かきっとテレパシーみたいなものが…ぴぴって、上空まで届いていると信じます。
人間は忘れるから生きていけるって、聞くことがありますね。そのとおりだと思います。でも、時には忘れたくないことも薄れていってしまう…
だから“思い出す”ということも、人はできるのですね。
日々を大切に暮らして、薄れてもまた思い出して…そうやって、進んでいきましょうネ。
絵本の力 (みずほ)
2007-06-11 08:01:04
日記を読みながら、最後は涙で曇って
しまいました(T_T)
いろんな複雑なこももさんの気持ちが
伝わってきて、命について改めて
考えさせられます。
「いないいないばぁ」は保育園で
子どもたちによく読んでいました。
あるページが破れてなくなってしまうほど、
子どもたちに人気でした。私も子どもが
生まれたらぜひ読みたいと思っている
絵本です。
絵本の力って本当にすごいですね。
ずっとずっと心に残る宝物。私も
いっぱいいっぱい読んであげたいなと
思いました。
rucaさんへ (こもも)
2007-06-12 12:51:26
草刈りの方が、正しい午後の過ごし方のような気がします。
でも、井戸に下りていくのは、嫌いじゃないです。
辛いこともあるけれど。
ああ、rucaさんのコメントを読んでいたら、ねじまき鳥を再読したくなりました。
kotatsumikanさんへ (こもも)
2007-06-12 12:59:17
あの記事を読んでから、テレビで彼を見るたびに辛くなってしまって、いけません。
彼が裁判にかける情熱も、何だか判る気がしてしまって。
もちろん、あの犯人は許せないし、次の人のために、ちゃんとした判例を残さないといけないと思います。
ただ、私も、娘を亡くした後、市役所に提案書を提出したりと色々と動いたことを思い出したり。もちろん、彼とは、次元が全く違うんだけれど、心の中の原動力は、同じような気がして辛くなります。
jasuminさんへ (こもも)
2007-06-12 13:02:31
罪悪感って、なんなんでしょうね。
しみじみ考えるときがあるんですよ。

いつかきっと、会えると思っているんですよ~。私。
でも、ちっとも良いお母さんじゃないので、がっかりされると思いますけど。
昨日も、息子に「馬鹿」って言っちゃったし。。。
いやになっちゃう。

コメントを投稿