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5.
「ただいまから男子100メートル平泳ぎタイムレース決勝を行います。選手のコース順を申し上げます。第2コース横山君KTPたけふ、第2コース榎本君KTPつるが、第3コース立花君新田SC福井、第4コース山本君大飯アクア、第5コース津田君ベルSS、第6コース林田君新田SC福井、第7コース谷口くん福井SS、第8コース富田君ベルSS以上」
このアナウンスの間、プールサイドからは
「サンコース、サンコース…!」「ロッコース、ロッコース…!」と満、林田が所属するクラブが陣取っているプールサイドから声援が飛んでくる。林田は手を振って答えている、満は口元を緩めてゴーグルのしたから笑みをこぼした。そして二階席の佐藤の奥さんが回すVTRに向かって反応した。
満は一旦コース順の紹介の時に立ったがまた深々と座っている。他の選手は立ったまま、手を振り、太ももを手で叩き、顔をパンパンと叩き気合を入れている。足はブルブルと振動させている。誰しも緊張の一瞬、満はまだ座っている。
審判員のホイッスルが鳴った、満は天井を見てそして二階席に視線を向けそしてコース台の上に立った。ゴーグルを眼に押し付けた。両足の親指をコース台にかけて、腰を折って、緊張の瞬間のを待った!
「よう~~い!………号砲一発金属音」
選手は一斉に飛び込んだ。誰一人浮き上がってこないまず最初に浮き上がったのは4コースの山本、そして6コースの林田、7コースの谷口、3コースの満はまだ浮き上がってこない。そして一番遅く浮き上がった、他の選手がピッチ泳法であるなか、立花は大きなうねりで泳ぐタイプ、初速度を有効に活用して最初25メートルのラップをねらいに行くのは、ピッチ泳法の立花以外の選手達であった。
「水の感触は悪くないな…!大きなフォームでのスタート、まずまずだ、前半、いかに手を抜けるかが僕にとっては勝敗の鍵、彼らに惑わされてはいけない。ラスト25メートルの勝負にかける。今はまだスタート25メートル手前!山本は早いな…、でも射程距離だ。2身長なら挽回できる…!」
山本がターンの態勢に入った。と同時に左手前方視野の中にも二人の泳者の影が確認できるほぼ同じラップで林田、谷口がターンした。満は遅れながらもターンして折り返していった。
25メートルから50メートルにかけてはさほど大きな変化は無い、各人のペースのストロークが刻まれて50メートルのターンに差し掛かった。
……僕のペースはこれでいいのだろうか…?なんとしても山本には負けられない。と言っても彼は記録保持者!僕は未知数だ。どこまでやれるのか、僕自身、興味がある。正直今の状態は前半押さえ気味のペース配分ではあるが、山本に水をあけて先を泳がれると辛いものがある。マイペースとは言いがたい。ともかくついていこう。彼がターンしていく。何か苦しそうだ。水中姿勢に精彩を欠いているのでは…?良し、いくぞ!
満は力強くターンして折り返して。水中での一かき一蹴り…!懸命に筋肉を爆発させながらイルカのような紡錘形の水中姿勢をとる手先は指の先にまで足は足指の爪の先まで神経を集中させて伸びきった。そしてストロークに入る。ここからが勝負だ。満は山本には勿論の事、谷口、林田にも差は広げられていない。どことなく誰しもが減速してくる頃だ。残り15メートルでラスト75メートルのターンである。このターン次第で山本を抜く事ができる。抜くだけではなく抜ききってさらにベストを尽くして記録の挑戦があるのだ。と満は思った。
…ガッツポーズがしたい。表彰台の一番上から2階席で廻るビデオカメラに向かって最高の笑顔、それは僕のために用意されたシーンなのだ。
ここで谷口がスパートして来た。さすが若いな、でもあまり遠くて見えない。かすかに見える敵艦という感じでしか満の視野には確認できない。でも谷口は後半勝負にでた。そしてその反応を待っていたかのように林田もスパートをかけた。まるで谷口林田のストロークは25メートルのスタートダッシュのようである。後、泣いても笑っても20ストロークくらいで勝負は決まる。
満はこの若い二人のスパートをしかと確認した。山本と若い二人の囲まれた満は最後のターンにさしかかった。
……さあ、最後だ、後悔の無いように最後まで泳ぎきろう。
……しかし自由形のようにがんがんピッチを上げてのスピードアップはその身体の動きが失速の原因となる。そしてその失速は更なる姿勢に支障を与え、更なる失速を来たすのだ、この駆け引き、技術が平泳ぎには要求されているのである。
アテネ五輪金メダリストの北島康介の洗練された芸術のような泳ぎ、荒削りな感じのアメリカ、ハンセン!
タッチの差で負けたハンセンは北島康介の最初からの飛び出しによる、精神的プレッシャーのわずかな機微が敗因となった。それだけにメンタルな種目平泳ぎなのである。
林田は満と同じスイミングクラブ所属でお互いライバルである。そしてこの二人が県マスターズ中高年の水泳を引っ張っていると言っても過言ではない。そんな存在なのである。林田の今までの試行錯誤はピッチ泳法に大きなうねりで泳ぐ方法といろんな泳ぎを試して。ピッチ泳法に収斂してきたのである。多少の減速は無視して筋力でぐいぐい引っ張っていくイメージである。彼の二ノ腕上腕の筋肉は素晴らしいものである。この林田がたどり着いた泳ぎで今先頭を谷口と争っているのである。しかし林田も75メートルと折り返すと苦しそうである。彼はなかなか仕事が忙しくクラブのプールで練習する時間を得ることが難しく、自主トレ中心の一人で民間プールで泳いでいるのである。そしてそれよりも独自に筋肉トレーニングに励み腕っ節を強くしてる林田である。
さあ、最後の力を振り絞って懸命に泳いでいる。林田はノーブレ、息をしていないように見える。
さて、50歳台の立花、山本のラストに話を戻そう。
満はこのレースに
満は若き頃の栄光を夢見ている。「優勝」「自己新記録」「大会新記録」という言葉をどれだけ夢見て若い頃泳いでいた事か…!苦しい練習を続けるモチベーションはこの言葉このタイトルを自分の物にするだけのために頑張ってきて、そして挫折、そして故障、はたまたクラブ内の不協和音や、いざこざ…!自分だけの管理ではなく、クラブ全体をまとめ上げなければならない。言ってみればプレイングマネジャーである。若かりし高校生には過酷な期待である。当然のように傷つき、挫折の毎日を過ごし、しなくても良い苦労をして来たのである。
「満!お前進学するのか?どうすん…!」と友達に聞かれた時
「俺は水泳しかないから泳ぐ事しか考えられない!」と満は言っていた。同級生が夏の大会を終えると同時に進学のための準備に入った頃、三年生の満は一人で後輩の練習メニューを検討していた。言ってみれば満の頭の回路は直列回路だったのであろう。
結果は満は推薦入学となり近畿大学に推薦入学を果たした。それも水泳ではなく、農学部なのだ。主将としてチームをまとめてきた満にとって、将来に渡って水泳や体育を職業として教育者や指導者として生きていくことの的確性は無いと判断したのだろう。彼はもともと学力も悪くなく理数系クラスにいることもあり、学校としても極端な上を望まねば入試で苦労する事も無いのある。でもその彼が体育大学を志望しなかった事は大きな波紋を呼び一時クラブで大きな噂、波紋が広がった。満は最後の卒業式まで水泳部の部室で冬季の練習を後輩達と一緒にこなしたのである。それだけに水泳に対するなんともいえないこだわりのような、あきらめのような。もう二度と競泳はしないと言った気持ちをめまぐるしく心の中でうごめいたいた。
そんな記憶が満の脳裏をかすめた。そして満は最後ターン手前で山本に身体一つ以上の差を明けられた。
誰の目にもこの差を短縮するのは厳しいものがあった。
…僕は勝つ、勝たないわけが無い。今まで生まれてきて負けたことなんか無いんだ。でも後25メートルはなんて辛いんだろう。もう楽になりたい…!本当に強い者はこれからが勝負だ。山本に食いついてタッチの差で勝ちを奪ってやるとのそれはそれは強い気持ちが伝わってくる。二階席のビデオカメラがこの僕の今まさに追いつき追い越す瞬間をとらえ様としている。ともかく伸びるんだ。伸びるんだ。とそのイメージで突き進むんだ。
満は壁を力強く蹴りだした。耳の後ろで両方の二の腕を合わせるように、全身の神経を集中させて一切の抵抗がかからないような水中姿勢を維持した。そしてラスト25メートルの追い上げに必要な初速度を得るために水中で満自身が自らの筋肉を爆発させ一かき一蹴りの動作で推進力を得た。そして浮き上がりにこの日最大の推進力を得て山本に食い下がった。この水中でのストロークと絶妙な浮き上がりで山本との差が一気に縮まった。
縮まったというよりも、まるで山本が失速したように見えるのである。そしてその差は少しずつ詰まり、残り十数メートルでの挽回が可能性を帯びてきた、そんな展開となった。
最後まで早いピッチでグングン引っ張っていく山本の疲労は大変なものである。そして満の泳ぎはラストと言っても見てる限りはゆったりとうねりを使った大きなストロークであることから、二人の泳法の違いが如実に現れまさにデッドヒートである。満はラストスパートにピッチを上げるのだが、なかなか上がらない。そして山本はピッチは落ちないものの、思うような推進力が得られないような形勢である。
そんな中、谷口がゴールした。1分25秒台だ。そして今、林田、山本、立花が並んだ。山本はゴール前で失速!林田、立花とタッチの差でゴール、林田1分26秒台、立花1分27秒台、山本1分28秒台でそれぞれがゴールした。
満は食い入るように電光掲示板を見つめている。1分27秒68の大会記録をわずかに更新して1分27秒13の記録である。これは大会記録更新であることを信じて疑わなかった。満は顔面硬直、片手を天高くかざしてそのまま水面を叩きガッツポーズ。
山本が握手を求めてきた。
「君は強かったよ。完敗だ!おめでとう。100メートルの記録を塗り替えられたのは悔しいけれど、俺はまた来年鍛えなおしてやってくるから、また勝負だ…!」
「山本さんありがとうございます。こんな嬉しい事は無いです。山本さんに懸命にあきらめないでついて行きました。最後まであきらめないでよかったです。ありがとうございます。」
と祝福の握手を受けていると場内にアナウンスが流れた。
「大会記録更新のアナウンスを致します。ただいま6コースを泳ぎました。立花君の記録1分27秒13は本大会新記録であります。」
どよめきがプールサイドから起こった。
「ロッコース!ロッコース!」
「おめでとう!おめでとう!」
満はこの喜びをどう表現していいかわからなかった。
プールから上がった満はプールに深々とお辞儀をし、計時員に「ありがとうございました。」とお礼をして、表彰台で待機した。
満はレースを振り返った。なんと言っても勝因はラスト25メートルであきらめなかった事、そして勝つという意識が最後のターンで大きな推進力を得る事が出来たのである。
…こんな感動は、今まで味わった事がない。最高だな…!二階席で廻るVTRを意識して絶対に勝とうとそう思った。僕のモチベーションもある意味不純だな…!自己顕示欲の何物でもないな。とはいえ50歳を過ぎて1分27秒台はすごい。高校生の時1分30秒を切ったら先輩からなかなか、こいつやるじゃないかと注目されて水泳選手としての練習が始まった訳だし。27秒台の記録は自慢できる記録だよな。
同じクラブに林田と言うライバルがいて、いつも練習を陰ながらお互い意識して頑張ってきた。僕は結果が残せて嬉しい。林田の記録更新はならなかった。満が塗り替えたこの100メートル平泳ぎの記録がずっと残ると嬉しいけれど…。来年は満自らがこの記録に挑戦する事になる。楽しみだ。言い気持ちだ…
「立花さん。表彰をします。山本さん2位です。斎藤さん三位です。」
賞状を読み終えた大会会長が満面の笑みで立花を賞賛した。
「おめでとう立花さん。リレー、個人メドレーに続いて、平泳ぎとは恐れ入りました。スーパーマンですね。素晴らしい大会記録です。来年もまた頑張って参加してくださいね。そしてこの大会を引っ張って行ってくださいね。」
「ありがとうございます。来年もまた頑張ります。」
三人で握手をして表彰台を後にした。
満は二階席からのVTRのレンズフォーカスを意識している自分がおかしかった。
「立花さん頑張ったね。」
「本当に彼はよく頑張ったよ。日々の練習で立花が一番真剣に練習していたし、手を抜くことなく精進してらしたよ。立花。クラブのメンバーの半分はレースを目標にしない健康増進が目的で水泳をしている人がほとんどだし、そんな中で頑張った立花の事、俺も大好きでね…!良い人と知り合えてよかったと思うよ。」
佐藤は二階席で奥さんと心からの祝福のエールを贈った。
夢にまで見た大会新記録が満の現実となった今、今日のレースは大成功だった。まだ50メートル平泳ぎと最後の種目100メートルフリーリレーが待っているが満は有頂天の気持ちを抑える事が出来ない。疲れているのだがその疲れもなんとも癒される心地よい疲労感である。競技とは不思議なものだ敗北者の疲労感は並大抵のものではない。
満はプールサイドでクラブメイトの祝福を受け、ジャグジーに消えた。
次のレース50メートル平泳ぎの戦略を立てなければならない。とそう満は思っている。ジャグジーでリラックスしていると、年配の老夫婦が、声をかけてきた。
「あの!お尋ねしますが、あなたは今のレースで大会新記録で優勝されたお方ですよね…」
「はいそうです。今嬉しい気持ちを押さえきれないでいます。」
「私達、レースを見ていて感動しました。二人で午前中に出場した25メートル平泳ぎで最後まで泳いで、ばあさんと一緒に午後のレースを応援しているところなんだけれど、身体がちょっと冷えてきてこのジャグジーに来たところです。あなたに声をかけられるなんて幸せです。」
「いやいやそんな大それた事を言わないで下さい。僕はまだまだ50代前半のかけだしです。お見かけしたところ、まだまだお元気そうには見えますが、70歳台後半ではないかとさえ思えます。間違っていたら失礼なのですが…!本当にお元気そうで何よりです。私もあなた方の年齢になっても同じようにレースに夢中になっていたいとと思うのです。お近づきになれ、親しくお話が出来た事、とても嬉しく思います。頑張って下さいね。」
「ありがとうございます。私達は60になってから水泳をはじめました。週に二回プールに通っているのでが、我々は何もすることの無い年寄り…!水泳でも何でも楽しい事を見つけて続けてさえいれば何とかなります。でもあなたは職場でも管理監督者の年齢。今まさに一番責任の重い時、大変な時と思います。そんなときに選手として活躍され、そしておまけに大会新記録を更新するなんてことは快挙です。値千金、心から祝福します。おめでとうございます。練習大変だったでしょうに…!」
「なんとも嬉しい気持ちでいっぱいです。実はいろいろありました。身体も壊したし、仕事でも失敗も繰り返しました。ただたた、いろいろな事があったけれど、プールの中でその日一日の憂さを晴らして、心と身体を鍛えてここまで頑張ってきました。続けることの意味を思い知りました。本当の値打ちはこれからの継続だと思っています。どうか80になってもずっと生涯泳ぎつづけてくださいね。また来年もお元気な顔を見せてください。」
なんとも嬉しい会話をジャグジーですることが出来た。満は心の芯までリラックス、クールダウンでくつろぐ事が出来た。
ジャグジーで話題にでは満のこれまでの練習、それは確かによく頑張ってきたものである。今までの出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡っている。そんな揺らいだ気持ちで身体を拭いているところに
「満!良かったね。まだ今日のレースは済んでいないんだ。次のレースでも記録ねらいでいくんだぞ!」と佐藤の熱い激が飛んできた。
「えぇっ……!もう僕は十分です。精根尽き果てました。でも50メートルのレースも全力で泳ぎます。残った力を振り絞って頑張ってきます。」
次のレースの召集まであまり時間が無いのだ。リラックスはしているが、ちょっとというかかなりの興奮気味である。
つづく
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「ただいまから男子100メートル平泳ぎタイムレース決勝を行います。選手のコース順を申し上げます。第2コース横山君KTPたけふ、第2コース榎本君KTPつるが、第3コース立花君新田SC福井、第4コース山本君大飯アクア、第5コース津田君ベルSS、第6コース林田君新田SC福井、第7コース谷口くん福井SS、第8コース富田君ベルSS以上」
このアナウンスの間、プールサイドからは
「サンコース、サンコース…!」「ロッコース、ロッコース…!」と満、林田が所属するクラブが陣取っているプールサイドから声援が飛んでくる。林田は手を振って答えている、満は口元を緩めてゴーグルのしたから笑みをこぼした。そして二階席の佐藤の奥さんが回すVTRに向かって反応した。
満は一旦コース順の紹介の時に立ったがまた深々と座っている。他の選手は立ったまま、手を振り、太ももを手で叩き、顔をパンパンと叩き気合を入れている。足はブルブルと振動させている。誰しも緊張の一瞬、満はまだ座っている。
審判員のホイッスルが鳴った、満は天井を見てそして二階席に視線を向けそしてコース台の上に立った。ゴーグルを眼に押し付けた。両足の親指をコース台にかけて、腰を折って、緊張の瞬間のを待った!
「よう~~い!………号砲一発金属音」
選手は一斉に飛び込んだ。誰一人浮き上がってこないまず最初に浮き上がったのは4コースの山本、そして6コースの林田、7コースの谷口、3コースの満はまだ浮き上がってこない。そして一番遅く浮き上がった、他の選手がピッチ泳法であるなか、立花は大きなうねりで泳ぐタイプ、初速度を有効に活用して最初25メートルのラップをねらいに行くのは、ピッチ泳法の立花以外の選手達であった。
「水の感触は悪くないな…!大きなフォームでのスタート、まずまずだ、前半、いかに手を抜けるかが僕にとっては勝敗の鍵、彼らに惑わされてはいけない。ラスト25メートルの勝負にかける。今はまだスタート25メートル手前!山本は早いな…、でも射程距離だ。2身長なら挽回できる…!」
山本がターンの態勢に入った。と同時に左手前方視野の中にも二人の泳者の影が確認できるほぼ同じラップで林田、谷口がターンした。満は遅れながらもターンして折り返していった。
25メートルから50メートルにかけてはさほど大きな変化は無い、各人のペースのストロークが刻まれて50メートルのターンに差し掛かった。
……僕のペースはこれでいいのだろうか…?なんとしても山本には負けられない。と言っても彼は記録保持者!僕は未知数だ。どこまでやれるのか、僕自身、興味がある。正直今の状態は前半押さえ気味のペース配分ではあるが、山本に水をあけて先を泳がれると辛いものがある。マイペースとは言いがたい。ともかくついていこう。彼がターンしていく。何か苦しそうだ。水中姿勢に精彩を欠いているのでは…?良し、いくぞ!
満は力強くターンして折り返して。水中での一かき一蹴り…!懸命に筋肉を爆発させながらイルカのような紡錘形の水中姿勢をとる手先は指の先にまで足は足指の爪の先まで神経を集中させて伸びきった。そしてストロークに入る。ここからが勝負だ。満は山本には勿論の事、谷口、林田にも差は広げられていない。どことなく誰しもが減速してくる頃だ。残り15メートルでラスト75メートルのターンである。このターン次第で山本を抜く事ができる。抜くだけではなく抜ききってさらにベストを尽くして記録の挑戦があるのだ。と満は思った。
…ガッツポーズがしたい。表彰台の一番上から2階席で廻るビデオカメラに向かって最高の笑顔、それは僕のために用意されたシーンなのだ。
ここで谷口がスパートして来た。さすが若いな、でもあまり遠くて見えない。かすかに見える敵艦という感じでしか満の視野には確認できない。でも谷口は後半勝負にでた。そしてその反応を待っていたかのように林田もスパートをかけた。まるで谷口林田のストロークは25メートルのスタートダッシュのようである。後、泣いても笑っても20ストロークくらいで勝負は決まる。
満はこの若い二人のスパートをしかと確認した。山本と若い二人の囲まれた満は最後のターンにさしかかった。
……さあ、最後だ、後悔の無いように最後まで泳ぎきろう。
……しかし自由形のようにがんがんピッチを上げてのスピードアップはその身体の動きが失速の原因となる。そしてその失速は更なる姿勢に支障を与え、更なる失速を来たすのだ、この駆け引き、技術が平泳ぎには要求されているのである。
アテネ五輪金メダリストの北島康介の洗練された芸術のような泳ぎ、荒削りな感じのアメリカ、ハンセン!
タッチの差で負けたハンセンは北島康介の最初からの飛び出しによる、精神的プレッシャーのわずかな機微が敗因となった。それだけにメンタルな種目平泳ぎなのである。
林田は満と同じスイミングクラブ所属でお互いライバルである。そしてこの二人が県マスターズ中高年の水泳を引っ張っていると言っても過言ではない。そんな存在なのである。林田の今までの試行錯誤はピッチ泳法に大きなうねりで泳ぐ方法といろんな泳ぎを試して。ピッチ泳法に収斂してきたのである。多少の減速は無視して筋力でぐいぐい引っ張っていくイメージである。彼の二ノ腕上腕の筋肉は素晴らしいものである。この林田がたどり着いた泳ぎで今先頭を谷口と争っているのである。しかし林田も75メートルと折り返すと苦しそうである。彼はなかなか仕事が忙しくクラブのプールで練習する時間を得ることが難しく、自主トレ中心の一人で民間プールで泳いでいるのである。そしてそれよりも独自に筋肉トレーニングに励み腕っ節を強くしてる林田である。
さあ、最後の力を振り絞って懸命に泳いでいる。林田はノーブレ、息をしていないように見える。
さて、50歳台の立花、山本のラストに話を戻そう。
満はこのレースに
満は若き頃の栄光を夢見ている。「優勝」「自己新記録」「大会新記録」という言葉をどれだけ夢見て若い頃泳いでいた事か…!苦しい練習を続けるモチベーションはこの言葉このタイトルを自分の物にするだけのために頑張ってきて、そして挫折、そして故障、はたまたクラブ内の不協和音や、いざこざ…!自分だけの管理ではなく、クラブ全体をまとめ上げなければならない。言ってみればプレイングマネジャーである。若かりし高校生には過酷な期待である。当然のように傷つき、挫折の毎日を過ごし、しなくても良い苦労をして来たのである。
「満!お前進学するのか?どうすん…!」と友達に聞かれた時
「俺は水泳しかないから泳ぐ事しか考えられない!」と満は言っていた。同級生が夏の大会を終えると同時に進学のための準備に入った頃、三年生の満は一人で後輩の練習メニューを検討していた。言ってみれば満の頭の回路は直列回路だったのであろう。
結果は満は推薦入学となり近畿大学に推薦入学を果たした。それも水泳ではなく、農学部なのだ。主将としてチームをまとめてきた満にとって、将来に渡って水泳や体育を職業として教育者や指導者として生きていくことの的確性は無いと判断したのだろう。彼はもともと学力も悪くなく理数系クラスにいることもあり、学校としても極端な上を望まねば入試で苦労する事も無いのある。でもその彼が体育大学を志望しなかった事は大きな波紋を呼び一時クラブで大きな噂、波紋が広がった。満は最後の卒業式まで水泳部の部室で冬季の練習を後輩達と一緒にこなしたのである。それだけに水泳に対するなんともいえないこだわりのような、あきらめのような。もう二度と競泳はしないと言った気持ちをめまぐるしく心の中でうごめいたいた。
そんな記憶が満の脳裏をかすめた。そして満は最後ターン手前で山本に身体一つ以上の差を明けられた。
誰の目にもこの差を短縮するのは厳しいものがあった。
…僕は勝つ、勝たないわけが無い。今まで生まれてきて負けたことなんか無いんだ。でも後25メートルはなんて辛いんだろう。もう楽になりたい…!本当に強い者はこれからが勝負だ。山本に食いついてタッチの差で勝ちを奪ってやるとのそれはそれは強い気持ちが伝わってくる。二階席のビデオカメラがこの僕の今まさに追いつき追い越す瞬間をとらえ様としている。ともかく伸びるんだ。伸びるんだ。とそのイメージで突き進むんだ。
満は壁を力強く蹴りだした。耳の後ろで両方の二の腕を合わせるように、全身の神経を集中させて一切の抵抗がかからないような水中姿勢を維持した。そしてラスト25メートルの追い上げに必要な初速度を得るために水中で満自身が自らの筋肉を爆発させ一かき一蹴りの動作で推進力を得た。そして浮き上がりにこの日最大の推進力を得て山本に食い下がった。この水中でのストロークと絶妙な浮き上がりで山本との差が一気に縮まった。
縮まったというよりも、まるで山本が失速したように見えるのである。そしてその差は少しずつ詰まり、残り十数メートルでの挽回が可能性を帯びてきた、そんな展開となった。
最後まで早いピッチでグングン引っ張っていく山本の疲労は大変なものである。そして満の泳ぎはラストと言っても見てる限りはゆったりとうねりを使った大きなストロークであることから、二人の泳法の違いが如実に現れまさにデッドヒートである。満はラストスパートにピッチを上げるのだが、なかなか上がらない。そして山本はピッチは落ちないものの、思うような推進力が得られないような形勢である。
そんな中、谷口がゴールした。1分25秒台だ。そして今、林田、山本、立花が並んだ。山本はゴール前で失速!林田、立花とタッチの差でゴール、林田1分26秒台、立花1分27秒台、山本1分28秒台でそれぞれがゴールした。
満は食い入るように電光掲示板を見つめている。1分27秒68の大会記録をわずかに更新して1分27秒13の記録である。これは大会記録更新であることを信じて疑わなかった。満は顔面硬直、片手を天高くかざしてそのまま水面を叩きガッツポーズ。
山本が握手を求めてきた。
「君は強かったよ。完敗だ!おめでとう。100メートルの記録を塗り替えられたのは悔しいけれど、俺はまた来年鍛えなおしてやってくるから、また勝負だ…!」
「山本さんありがとうございます。こんな嬉しい事は無いです。山本さんに懸命にあきらめないでついて行きました。最後まであきらめないでよかったです。ありがとうございます。」
と祝福の握手を受けていると場内にアナウンスが流れた。
「大会記録更新のアナウンスを致します。ただいま6コースを泳ぎました。立花君の記録1分27秒13は本大会新記録であります。」
どよめきがプールサイドから起こった。
「ロッコース!ロッコース!」
「おめでとう!おめでとう!」
満はこの喜びをどう表現していいかわからなかった。
プールから上がった満はプールに深々とお辞儀をし、計時員に「ありがとうございました。」とお礼をして、表彰台で待機した。
満はレースを振り返った。なんと言っても勝因はラスト25メートルであきらめなかった事、そして勝つという意識が最後のターンで大きな推進力を得る事が出来たのである。
…こんな感動は、今まで味わった事がない。最高だな…!二階席で廻るVTRを意識して絶対に勝とうとそう思った。僕のモチベーションもある意味不純だな…!自己顕示欲の何物でもないな。とはいえ50歳を過ぎて1分27秒台はすごい。高校生の時1分30秒を切ったら先輩からなかなか、こいつやるじゃないかと注目されて水泳選手としての練習が始まった訳だし。27秒台の記録は自慢できる記録だよな。
同じクラブに林田と言うライバルがいて、いつも練習を陰ながらお互い意識して頑張ってきた。僕は結果が残せて嬉しい。林田の記録更新はならなかった。満が塗り替えたこの100メートル平泳ぎの記録がずっと残ると嬉しいけれど…。来年は満自らがこの記録に挑戦する事になる。楽しみだ。言い気持ちだ…
「立花さん。表彰をします。山本さん2位です。斎藤さん三位です。」
賞状を読み終えた大会会長が満面の笑みで立花を賞賛した。
「おめでとう立花さん。リレー、個人メドレーに続いて、平泳ぎとは恐れ入りました。スーパーマンですね。素晴らしい大会記録です。来年もまた頑張って参加してくださいね。そしてこの大会を引っ張って行ってくださいね。」
「ありがとうございます。来年もまた頑張ります。」
三人で握手をして表彰台を後にした。
満は二階席からのVTRのレンズフォーカスを意識している自分がおかしかった。
「立花さん頑張ったね。」
「本当に彼はよく頑張ったよ。日々の練習で立花が一番真剣に練習していたし、手を抜くことなく精進してらしたよ。立花。クラブのメンバーの半分はレースを目標にしない健康増進が目的で水泳をしている人がほとんどだし、そんな中で頑張った立花の事、俺も大好きでね…!良い人と知り合えてよかったと思うよ。」
佐藤は二階席で奥さんと心からの祝福のエールを贈った。
夢にまで見た大会新記録が満の現実となった今、今日のレースは大成功だった。まだ50メートル平泳ぎと最後の種目100メートルフリーリレーが待っているが満は有頂天の気持ちを抑える事が出来ない。疲れているのだがその疲れもなんとも癒される心地よい疲労感である。競技とは不思議なものだ敗北者の疲労感は並大抵のものではない。
満はプールサイドでクラブメイトの祝福を受け、ジャグジーに消えた。
次のレース50メートル平泳ぎの戦略を立てなければならない。とそう満は思っている。ジャグジーでリラックスしていると、年配の老夫婦が、声をかけてきた。
「あの!お尋ねしますが、あなたは今のレースで大会新記録で優勝されたお方ですよね…」
「はいそうです。今嬉しい気持ちを押さえきれないでいます。」
「私達、レースを見ていて感動しました。二人で午前中に出場した25メートル平泳ぎで最後まで泳いで、ばあさんと一緒に午後のレースを応援しているところなんだけれど、身体がちょっと冷えてきてこのジャグジーに来たところです。あなたに声をかけられるなんて幸せです。」
「いやいやそんな大それた事を言わないで下さい。僕はまだまだ50代前半のかけだしです。お見かけしたところ、まだまだお元気そうには見えますが、70歳台後半ではないかとさえ思えます。間違っていたら失礼なのですが…!本当にお元気そうで何よりです。私もあなた方の年齢になっても同じようにレースに夢中になっていたいとと思うのです。お近づきになれ、親しくお話が出来た事、とても嬉しく思います。頑張って下さいね。」
「ありがとうございます。私達は60になってから水泳をはじめました。週に二回プールに通っているのでが、我々は何もすることの無い年寄り…!水泳でも何でも楽しい事を見つけて続けてさえいれば何とかなります。でもあなたは職場でも管理監督者の年齢。今まさに一番責任の重い時、大変な時と思います。そんなときに選手として活躍され、そしておまけに大会新記録を更新するなんてことは快挙です。値千金、心から祝福します。おめでとうございます。練習大変だったでしょうに…!」
「なんとも嬉しい気持ちでいっぱいです。実はいろいろありました。身体も壊したし、仕事でも失敗も繰り返しました。ただたた、いろいろな事があったけれど、プールの中でその日一日の憂さを晴らして、心と身体を鍛えてここまで頑張ってきました。続けることの意味を思い知りました。本当の値打ちはこれからの継続だと思っています。どうか80になってもずっと生涯泳ぎつづけてくださいね。また来年もお元気な顔を見せてください。」
なんとも嬉しい会話をジャグジーですることが出来た。満は心の芯までリラックス、クールダウンでくつろぐ事が出来た。
ジャグジーで話題にでは満のこれまでの練習、それは確かによく頑張ってきたものである。今までの出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡っている。そんな揺らいだ気持ちで身体を拭いているところに
「満!良かったね。まだ今日のレースは済んでいないんだ。次のレースでも記録ねらいでいくんだぞ!」と佐藤の熱い激が飛んできた。
「えぇっ……!もう僕は十分です。精根尽き果てました。でも50メートルのレースも全力で泳ぎます。残った力を振り絞って頑張ってきます。」
次のレースの召集まであまり時間が無いのだ。リラックスはしているが、ちょっとというかかなりの興奮気味である。
つづく