Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

祭壇はイエズス・キリストの人性を象徴し、祭壇には五つの十字が刻まれており、主の御体に刻まれた五つの御傷を象徴している

2023年11月28日 | お説教・霊的講話

祭壇の典礼上の意味についての説教

ドモルネ神父 2023年11月19日

はじめに

私たちの主イエズス・キリストが私たちを贖われ、私たちが永遠の命を得られるようにしてくださったのは、十字架の聖なるいけにえによってでした。十字架のいけにえは、ミサで更新されます。ですから、聖なるミサは、私たちのカトリック信仰と霊的生活の中心にあります。私たちの信仰と霊的生活を養うためには、ミサの典礼の意味、すなわち、聖なるミサが捧げられる際の祈りや儀式の意味を理解することが非常に有益です。このことを念頭に置きながら、今日は、祭壇とその意味についてお話したいと思います。

1)祭壇一般について

祭壇は、司祭が天主にミサのいけにえを捧げる場所です。祭壇は、元々は木で作られていましたが、これは、私たちの主が最初のミサを捧げられた木のテーブルと、主が十字架につけられた木の十字架を記念するものでした。6世紀以降、教会は、祭壇を石で作るように定めました。その理由は後ほど説明します。実際的な理由から、祭壇全体を石で作ることができない場合には、祭壇のうちで、ミサの際に司祭がカリスとホスチアを置く場所には、少なくとも、小さくて平らな石を挿入しなければなりません。この石は「祭壇石」と呼ばれます。

教会は通常、祭壇を墓の形に作ります。これには二つの理由があります。第一は、聖墳墓と私たちの主イエズス・キリストのご復活を思い起こすためです。第二は、最初の数世紀の迫害の間、カトリック信者がローマの墓であるカタコンベに隠れなければならなかったことと、殉教者たちの墓の上でミサを捧げていたことを思い起こすためです。

祭壇の内には、殉教者たちの聖遺物が挿入されています。これも、カタコンベでのミサの日々を思い起こさせるものです。しかし、それ以上に、この聖遺物は、私たちの主イエズス・キリストと信者たちとの間の完全な愛の一致を象徴しています。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。私たちの主イエズスは、十字架上で私たちのために命を捧げられたのであり、このいけにえがミサで更新されます。殉教者たちはイエズスへの愛のために命を捧げたのであり、彼らがイエズスのために死ぬ力を見いだしたのは、ミサを通してイエズスと一致することによってでした。ですから、殉教者たちの聖遺物を祭壇内に置くことは、ふさわしいことであり、意味のあることなのです。

ご聖櫃は、ご聖体が保管される場所です。ご聖櫃の形は、何世紀にもわたって進化してきました。今日では、塔の形をしたものが最も一般的で、よく適したものです。実際、塔は強さの象徴であり、ご聖櫃の中には強き者のパン、すなわち、ご聖体が保管されています。

ご聖櫃の上には十字架が配置されています。これはもちろん、聖なるミサが十字架のいけにえを更新するものであることを思い起こさせるためです。イエズスは、十字架上でご自身を捧げられたように、祭壇の上でご自身を捧げられます。ただ、主がなさる方法が異なるだけです。十字架上では、いけにえはカルワリオにいた人々には目に見える形であり、血が流されるものでしたが、ミサでは、いけにえは秘跡の形態のうちに隠されており、血が流されるものではありません。

2)祭壇は私たちの主イエズス・キリストを象徴する

祭壇は、司祭がミサのいけにえを捧げる場所であるだけでなく、私たちの主イエズスご自身を象徴するものでもあります。そして、このことが、ミサの典礼のいくつかを説明しています。

しかし、まず、「なぜ教会は、祭壇を、私たちの主イエズス・キリストの象徴とするのか」という質問に答えましょう。祭壇は、司祭がいけにえを捧げる場所です。しかし、イエズスの御体と御霊魂は、子なる天主が御父にご自身を捧げられる場所のようなものです。実際、子なる天主が父なる天主にご自身を捧げることがおできになるのは、天主としてではなく、人間としてです。このように、祭壇は、イエズス・キリストの人性を象徴しています。このため、祭壇には五つの十字が刻まれており、これらの十字は、私たちの主の御体に刻まれた五つの御傷を象徴しているのです。

教会が祭壇をイエズス・キリストの象徴としたのには、第二の理由があります。祭壇は、司祭が人類に代わって天主にいけにえを捧げる場所ですから、祭壇は、天主と人類の接点のようなものです。しかし、イエズス・キリストは天主であると同時に人間ですから、天主と人間の間の接点、唯一の普遍的な仲介者なのです。このように、祭壇は、仲介者としてのイエズス・キリストを象徴しています。

最後に、祭壇が私たちの主イエズス・キリストを象徴するのには、第三の理由があります。私たちの犠牲も、祈りも、イエズス・キリストを通して、イエズス・キリストと共に、イエズス・キリストのうちに捧げられなければ、天主をお喜ばせすることはできません。このため、教会はすべての祈りを、「Per Dominum nostrum Jesum Christum」という言葉で締めくくっています。ですから、私たちの主イエズスは、私たちが礼拝、感謝、罪の償い、祈願を捧げる祭壇のようなものなのです。

教会は祭壇を石で作るように定めている、とさきほど申し上げました。それはなぜでしょうか。祭壇は、イエズス・キリストを象徴しているからであり、イエズス・キリストは教会が建てられている礎石であるからです。聖パウロは、エフェゾ人に対してこう言っています(2章19-22節)。「あなたたちは、聖徒たちの同市民、天主の家族である。あなたたちは、使徒と預言者の土台の上に建てられた者であり、キリスト・イエズス自身がその隅の親石である。主において建物全体が建てられ、主において聖所に発展する。主においてあなたたちも、天主の住まいとなるために、聖霊によって建てられる」。

祭壇は、3枚の布で覆われています。これには、実際的な理由があります。すなわち、司祭が誤って尊き御血をこぼしてしまっても、これらの布に吸収され、地面に流れないようにするためです。しかし、布は、祭壇の両側の地面に届くほど長くする必要はありません。これらの布には象徴的な意味があります。祭壇は、キリストを象徴しています。祭壇は、聖墳墓を思い起こさせる墓の形をしています。布は、聖骸布とキリストのご遺体が包まれた葬儀用の亜麻布を象徴しています。

祭壇を飾るすべての装飾品は、私たちの主の美しさと栄光を思い起こさせるものです。そのため、降誕祭や復活祭、聖霊降臨祭など、私たちの主の最も栄光ある称号をお祝いする一級祝日には、私たちは祭壇をさらに多くの装飾品で飾ります。その反対に、聖金曜日には、キリストがご受難の間、いかにご自身からすべての栄光を取り去られたかを示すために、祭壇からすべてのものが取り去られるのです。

3)司祭の祭壇への身振り

祭壇が私たちの主イエズスを象徴していることを理解すれば、聖なるミサのときの司祭の身振りのいくつかを理解することができるでしょう。

司祭は、ご復活後のイエズスの御足に聖なる婦人たちが接吻したように、敬意をもって祭壇に接吻します。

司祭は、信者の方を向く前に、祭壇に接吻して私たちの主イエズスと一致します。そのあと、司祭は、「Dominus Vobiscum」と唱えたり、最後の祝福を与えたりして、主を信者に与えます。

香を祝別するとき、司祭は左手を祭壇に置き、右手で祝別します。これは、司祭が与える祝別が、私たちの主イエズスから来ることを表しています。

マグダラの聖マリアが、イエズスの葬りを告知するためにイエズスに香油を塗った(ヨハネ12章7節)ように、司祭は、聖変化の前に香の煙を祭壇に撒きます。

司祭は祭壇に香を捧げ、香の香りを、祭壇から天に向かって立ち上らせます。これは、イエズス・キリストの父なる天主への祈り、特に主の十字架上の祈りを象徴しています。

結論

親愛なる信者の皆さん、カトリックの典礼は信仰と霊的生活の学校です。典礼をさらによく理解するように努めましょう。そうすれば、聖なるミサをさらに深く祈ることができるでしょう。



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