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キリストの御体と福知山線尼崎脱線事故。緊急事態における日本スピンドルの社員達とJR西日本の「勤務」最優先。

2018年09月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言


アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ブログ「一カトリック信者の日々想い」にある「キリストの御体」という秀逸な記事を読みました。

キリストが足で踏まれている。私たちの救い主が、苦しんでおられる。誰も助けようとしない。見て見ぬふりをしている。

規則だから。上の命令だから。勤務優先。信仰軽視。オレ関係ないから。

それを見て苦しんでいる人々もいます。傷ついた負傷者とは「目の前で 御聖体がないがしろにされているのを見ているうちにカトリック信仰を失いそうな危険に脅かされる傷つく人々、霊的に死にゆく人々」です。

せっかくイエズスさまがくださったカトリック信仰なのに、御聖体への冒涜により 信仰が失われる危険(霊的な負傷と死)にみんながさらされているからです。「典礼の崩壊」(ラッツィンガー枢機卿)に由来する信仰の危機です。

それを見て、見て見ぬふりをすることができない人々もいます。「教会は、軌道を外れつつある。脱線している。なんとか軌道修正が必要だ!」と。彼らは自分のできることをして人命を救おうと、信仰を守ろうとするのです。

しかし、「法律」「規定」「命令」の方を信条としているファリサイ的な人々は、苦しんでいる、傷ついた負傷者たちを避けて通るのです。「規則」だから。

この記事を読み、十年以上前に起こった事故を思い出しました。

十年以上も前に、尼崎近くで電車の脱線事故がありました。

事故発生直後、近隣住民は、すぐに現場へ駆けつけて救助にあたりました。素晴らしい!

死傷者があまりにも多く救急車のみでは搬送が追いつきませんでした。

負傷者たちは、警察のパトカーや近隣住民の自家用車などでも病院に搬送されました。

ところで、普通はトラックの荷台に人を乗せて公道を走ると道路交通法違反です!しかし、一刻を争う緊急事態です!人が死のうとしているのです!早く!何とか助けなければ!

多数の負傷者を一度に搬送するため、道路交通法を「違反」してまでも、大型トラックの荷台に乗せて病院へ搬送する手段が取られました。道路交通法を目的は、人命保護にあります!道路交通法をまもったが為に人が死んだ、では元も子もないからです。そんな時、道路交通法の文言を出して、車を待たせて見殺しにすべきだ、と主張する方が狂っています。

負傷者の半数は近隣の人々がボランティア精神で、自分たちのできる手段で、医療機関に搬送しました。

特に激突したマンションから10mほど道を隔てたところに西門がある日本スピンドル製造株式会社は、異常な衝突音に気づいた社員20名がすぐに現場に急行し、救出作業を開始しました。

知らせを受けて事故現場を見た齊藤十内社長は、工場帰って、直ちに全ての操業停止を命令、全社員(約270名)を食堂に集め、全力を挙げて救助作業に当たるように指示しました。社員達は、工具や道具をもって現場に急行し、助けを求め、うめき声を上げる人たちを励まし励まししながら確実に救出していったのです。

なかなか救急車が到着しなかったところでは、日本スピンドルの社員達は、助け出した負傷者に応急手当をした後、自分たちのマイカーや、工場の大型トラックなど計15台で病院にピストン輸送しました。

負傷者には「がんばれ!」「きっと助かる、大丈夫」などと励まし、声をかけ続け130人以上を救助したのです!すごい!

一方、当該列車にJR西日本の社員2名が乗車していたのですが、この社員らが職場に連絡をしたところ、上司から出勤命令が出たため、この社員は救助活動をせずに出勤していました!

救助より出勤!人命よりも規則!法と規則が何の為にあるのかその目的を理解しないファリサイ的な態度。これはマスコミで大きく報道されました。

ところで、カトリック教会の中でも、キリストの御体がないがしろにされている時、多くの人々がみんなで一緒にないがしろにしている時、少数ですが、霊的に苦しみ信仰の息の根が止まりそうで嘆き悲しむ人々に、緊急事態を鑑みて、「がんばれ!」と言う人々がいます。

少数ですが、彼らは「きっと昔からのカトリックの教えは復活する、聖伝のミサは今でも有効だ、大丈夫、カトリック信仰を保て!」と、公式に聖伝の教えの助けが来るまで、愛徳の精神で、緊急救命作業を行っているのです。

そのような人々に、心ない人々は「法律」「規律」「命令」の字面の方が大事だ!とファリサイ的な非難を投げかけています。しかし、だからと言って、見殺しにして良いのでしょうか?!オレ知らね、と逃げればすむのでしょうか?!無関心。逃避。護身。妥協。そうすれば、カトリック教会が良くなる、信仰が守られる、信仰の生命が保全されるのですか??!?まさか!

教会法の名前によって、ほったらかしはできません!そんなことはできません!!してはなりません!!教会法の存在理由は、霊魂の救いだからです。救霊こそが最高の法だからです。

聖ピオ十世教皇、我らの為に祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

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3 コメント

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ご聖体への信仰 (ルルド)
2018-09-05 23:06:30
アヴェ・マリア!



私も ご紹介の「一カトリック信者の日」のそのブログ記事をもう一度読んでみました。そして、抵抗キリシタンさんが載せてくださったユーチューブも観てみました。



そのとき私の脳裏に 昔あったことが蘇りました。

ある時 聖堂のマリア様の御像の前のお花を生け替えるために花瓶ごとそのまま香部屋に運びました。

そして古いお花を棄てようとしたときに 私は目を疑ったのでした。葉っぱの上かお花の上か とにかく活けられていた花々の奥に隠れて真っ白いご聖体があったのです。

綺麗なままで、まったく何も損なわれていませんでした。あまりに不思議でした。

私は 非常に驚いて息が止まりそうになりわけがわからなくて、手で触ってはいけないと思いながら、どうしてよいかわからなくて、丁寧にそっとテッシュペーパーの上にとりだして 司祭を呼んできてもらいました。その時司祭からは その状況を問われただけでした。 おバカな私は 初め御聖体が突然にご出現されたのかなと思いました。でも、そうではなくて だれかがご聖体をどうしたらよいかわからなくて 聖堂の中の活けられた花のところにそっと置いたのでしょう、と先輩が話してくれました。



あとで 自分の霊的指導司祭にこの時のことを申し上げたら、「そういう時はその場ですぐにご聖体を自分の口で拝領しなさい」という指導を受けました。そして たとえ花瓶の花の中に落とされていなくて床に落とされた御聖体でも 見つけたらすぐに同じようにしてください」と言われました。(あのユーチューブの最後の場面のようにしてくださいという意味だったのでしょう。)そして 頭を抱えて 苦しみの表情をされておられたのでした。



典礼の変遷のことについて何も知らなかった私は ただ「はい」と うなずくことしかできませんでした。私の御聖体への信仰は弱く惨めなものでした。



私が見つけた御聖体をどうしたらよかったのかという香部屋での司祭からの指導はありませんでした。外国生まれの老司祭からの霊的指導を受ける恵みをいただいていなかったら、御聖体への気持ちが違っていたかもしれません。でも老司祭は第二バチカン公会議以前は 今とは異なる典礼だったということを教えてくださったわけではありません。そのようなことについては 固く口を閉ざしたままでした。



もしも第二バチカン公会議で 典礼が変えられることがなかったとしたら、昔からの典礼による聖変化が続けられていて 跪いて舌でのご聖体拝領がなされていたとしたら、私が見たように御聖体を受けたもののどうしたものかと 放置される(!)捨てられる(!)というようなことは 決してなかったに違いありません。



ずっと教会に従順に従っているのが一番よいと思っているうちに、不安でたまらくなる時がやって来るようになりました。霊的指導をしてくださる神父様が帰天された後は その不安が増して苦しみ始めました。



ミサのなかで霊魂の救いのことよりもこの世で苦しむ人の救いや癒し・助けのことばかりのお説教を聴くととても不安になりました。もう この世はイエズス様のところへ行くための巡礼をするところにすぎないと慰め励ましを 受けられなくなりました。



でも私は 幸いにも 救助隊によって脱線した列車から助けだされた者であると あらためて思いました。

私は 幸い たとえまだ公式とはみなされずとも、緊急救命作業を行う本当の司祭に出あうことができましたことを感謝しています。


わたしは きっとカトリック教会で公式に聖伝の教えが教えられる日がくるに違いないと思います。それはきっとマリア様の汚れなき御心の勝利の日です!
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日本で緊急救命をしてくださる司祭 (ルルド)
2018-09-05 23:21:02
アヴェ・マリア!

私は 幸いにも 救助隊によって脱線して事故を起こしている列車から助け出された者なのだ とあらためて思いました。

私は 懸命にそして賢明に 緊急救命作業を行う本当の司祭に出会えましたことを 感謝しています。

ある日 友人からのメールでこのブログのことを教えていただいて、聖ピオ十世会の司祭のお説教に心を奪われました。ここには確かにカトリック信仰の教えがあると感じて、思い切って御ミサに与りました。

そうでなかったら、私は 半分死んだ者 生ぬるい者のまま この世を終わるしかなかったのでは と思います。私は 自分には救いに必要な恩寵がなく どうしたらよいか まったくわからなかったからです。

望徳唱を唱え、願いを込めて緑色の翡翠のロザリオを買い求めて祈っていました。

それは 救助を待つ負傷者の心境だったかもしれません。何が 起こったかわからない、脱線してもうまともに動けない車両に乗り込んでいた私は、ただ自分には助けが必要だという思いだけでした。

聖ピオ十世会の御ミサに初めて与かった後、10日ほど経ってから 私は ルフェーブル大司教の「教会がどうなってしまったのかわからなくなってしまったカトリック信者の皆様へのお手紙」をダウンロードして3〜4日かけて読み終えました。

その時私は、近代主義とは何かというものを初めて知って理解したような気持ちになりました。”フリーメイソンがあり、革命があり、人間は試みを受けた”のだと思いました。その試みが いまだにまだ続いているのだとわかりました。

大切な典礼が変えられてしまっていて、プロテスタントのようなミサの典礼に成り代わってしまっているとは まったく考えが及ばないことでした。ミサには聖寵が少なく、どんどん減ってきている・・・なぜならそのミサを捧げる司祭の意向がどんどん新しいプロテスタントがもつような意向に変えるような司祭を養成する神学校が作られることになったから。神学校も攻撃を受けたのだと知ることができました。

そのようなことに 真っ向から反対し、将来の危険まで察知して、二千年近く続いて来ているトリエント・ミサ 聖伝のミサを守るために、そのまことのミサを捧げることのできる神学校を作り司教を叙階したというのも、まさに緊急事態における救助活動のようなものと感じました。

本当に 今のカトリック教会は 第二バチカン公会議により 脱線して ビルに突っ込んだ乗り物のようなものですね。そして 世の中全体が一気に近代主義におおわれるようになったとき、その危うさに気づけるほどに賢明な高位聖職者は あまりに少なかったということですか?

そういう特別な状況の中で 霊魂の救いのために働かれる司祭が 日本からも召し出しを受けておられたということは、奇跡のようなことと思います。小野田神父様が聖ピオ十世会の司祭になってくださっていましたので、私たちはまたあの聖フランシスコ・ザビエルやプチジャン神父の時代とは違って 母国語で聖伝のカトリック信仰を伝えていただけます。

そして、日本のカトリック信仰のために働いてくださるもっと多くの司祭の召し出しを心から祈ります。
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私もマリア様の汚れなき御心の勝利の日が、いつか来ると思います。 (Fr Thomas Onoda)
2018-09-07 12:33:02
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ルルドさん、
こんにちは!コメントをありがとうございました。

ルルドさんが思い出された昔本当にあったこと、きっと大きなショックだったと思います。

真っ白いご聖体がゴミ箱に捨てられているのを目撃されたのですから!

きっとルルドさんがおっしゃったように、誰か受け取ってしまったご聖体をどうしたらよいかわからなくて捨ててしまったのでしょう!

中には埃だらけの汚いところに捨てられたホスチアもあるかもしれません。きれいな床なら良いけれども、塵と埃とゴミの中に捨てられたご聖体、とても拝領することのできる状態でないご聖体もあることでしょう。たった一つのご聖体が捨てられるだけでも大きな涜聖ですが、日本中で、どれほど多くのご聖体が粗末に扱われていることでしょうか!

霊魂の救いのことよりも、この世で苦しむ人の物質的な救いや癒し・助けのことばかり。イエズス・キリストのご聖体への崇敬と礼拝よりも、人間の自由と尊厳のことばかり。

明らかに軌道が逸れています。多くの人々が信仰の命を失いつつあります。

ベネディクト十六世が言ったように、今のカトリック教会は「沈没しつつある船」のようです。

カトリック教会は、火事のように火を出して燃えています。

しかし「危ない!」「緊急事態だ!」「火事だ!」と救援隊が叫んで、火を消そうとすると、教会を違う方向に進めようとする人々から攻撃されます。

「消防士でもないのに何故火を消そうとするのか?許可もなく火を消すな!非合法だ!」

「日本国内での医師免許もなく、何故緊急状態だからと言って人命を助けようとするのか?緊急時であっても外国人の医者は医療行為をしてはならない!応急手当もしてはならない!非合法だ!」

「今が緊急事態だと言わなければ、火を消す許可を与えよう。今が正常だと認識するなら、医療行為も行わせてあげよう。教会がこれから路線を変えていくのを「正常」だと言うのなら、合法にしてあげよう。云々。」

だからといって、信仰を捨てても教会の脱線に協力して良いのでしょうか?

脱線事故の当該列車に乗車していたJR西日本の社員2名が、職場に連絡をして、上司から出勤命令が出ても、犠牲者を見るに見かねず、出勤せずに救助活動をしていたとしたら、この社員は処罰を受けたでしょうか?いえ!彼らはJR西日本の名誉を救ったと称賛されるでしょう。上司は彼らに感謝することでしょう!

カトリック教会の歴代の教皇様たちや20の公会議が、不可謬権を行使して、綿々と断罪し、排斥し、間違いだと教え続けてきたことは、突然信じなければならないと「公式の教え」になったのだから、俺知らね、で良いのでしょうか?

オレ知らねぇよ、は出来ません。

私もマリア様の汚れなき御心の勝利の日が、いつか来ると思います。

将来、その時、カトリック教会は、教会が2000年間、公式に、常に信じ続けてきたこと、実践し続けてきたこと、教え続けてきたこと、愛し続けてきたことをやりつづけたことを感謝することでしょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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