Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

地獄は実在します。十字架の敵のままでいてはいけません。

2020年11月08日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年11月8日は聖霊降臨後第23主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第23主日の説教」の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【説教全文】

フィリッピ、3ノ17-21, 4ノ1-3

兄弟たちよ、私に倣う者たちであれ。あなたたちの模範である私たちにしたがって生活している人々を見よ。私がしばしばはなし、いままた涙とともに訴えることであるが、多くの人は、キリストの十字架の敵として生活している。かれらの行先は亡びである。かれらの天主は自分の腹であり、自分の恥に誇りをおいている。かれらは、この世のことだけにしか興味をもたない。しかし、私たちの国籍は天にあり、そこからこられる救い主イエズス・キリストを待っている。かれは、万物を支配下に置く力によって、私たちの卑しい体を、光栄の体のかたどりに変えられるであろう。そこで、私の慕い愛する兄弟たちよ、私のよろこびと冠なる者よ、愛するものよ、主において固く立て。私は、エヴォディアに勧め、シンティケに勧める。主において仲よく生きよ。私のまことの仲間であるシジゴスに頼む。かの女たちを助けよ。いのちの書に名をしるされているクレメンス、その他の協力者と同様に、かの女たちも、福音のために私とともに戦った人々だからである。

マテオ、9ノ18-25

その時、こう話しておいでになると、一人の司が近よってひれ伏し、「私の娘が、いま死にました。ですが、あの子のうえに、あなたの手をのべにおいでくだされば、あの子は、生きかえりましょう」といった。イエズスは立ちあがって、弟子たちをつれて司についていかれた。すると、十二年前から出血症をわずらっていた女が、イエズスのうしろから近づいて、そのお服の房にふれた。そのお服にふれただけで、私はなおるにちがいない、と心にいいきかせていたからである。イエズスは、ふりかえって、かの女を見て、「娘よ、信頼せよ。あなたの信仰があなたを救った」とおおせられた。女は、このときいやされた。さて、司の家についたイエズスが、笛吹きと、さわぐ人々とをみて、「みなさがれ。娘は死んではいない、ねむっているのだ」と、おおせられると、人々はあざ笑った。群衆を追い出してから、イエズスがはいって、娘の手をおとりになると、娘は起きあがった。この噂は、その地方一帯にひろまった。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2020年11月8日、聖霊降臨後第二十三主日です。

天主は愛である。私たちの主は、この真理を、今日も癒しと赦しをもって、繰り返し繰り返し証明しようとされます。それは私たちが天主を信じ、主を愛し、永遠の幸せな命を受けるためです。カトリックの聖伝の典礼が今日、私たちに何をするように招いているかを黙想しましょう。

【1:今日の福音の奇跡】

今日の福音には、二つの奇跡の史実が語られています。

(1) 一つは「十二年前から出血症をわずらっていた女」の治癒です。この女性は「イエズスの服にふれただけで、私は治るにちがいない」と確信していました。信仰をもってイエズスのうしろから近づいて、黙って主の服の房にふれると、病が癒されます。私たちの主は彼女にこういわれます。「娘よ、信頼せよ。あなたの信仰があなたを救った。」

(2) もう一つは、会堂司(つかさ)の娘です。イエズスは、弔いに来た笛吹きとさわぐ人々とをみて「みなさがれ」と言われます。主は、あざ笑う群衆を追い出した後に、奇跡を行います。この世の喧騒の中では、天主の御業を行わなかったということです。

聖ボナヴェントゥーラによるとこの奇跡は私たちに当てはまると言います。つまり、この会堂司の娘は、私たちの霊魂を象徴しており、大罪を犯すことによって霊魂は、今、死んでしまった。会堂司のように、すぐにイエズスのところに行って霊魂の生きかえりを願わなければならない、と。

今日の福音から私たちは、二つのことを学びます。愛のこもった信仰でイエズスに近づくこと、そして、この世の喧騒を追い出すことです。つまり、この世への愛を押し出し、天におられる救い主イエズス・キリストに近づくということです。

 

【2:二つの世界・二つの陣営・二つの愛】

聖パウロも今日の書簡で、この世の喧騒を愛さずに、天におられるイエズス・キリストを慕えと、同じことを言っています。

「私がしばしば話し、いままた涙とともに訴えることであるが、多くの人は、キリストの十字架の敵として生活している。かれらの行先は亡びである。かれらの天主は自分の腹であり、自分の恥に誇りをおいている。かれらは、この世のことだけにしか興味をもたない。しかし、私たちの国籍は天にあり、そこからこられる救い主イエズス・キリストを待っている。」

聖アウグスチヌスは二つの愛が二つの国を作ったと言います。一つは自分を愛するあまり天主を軽蔑するまでの地上の愛。この地上的な愛がこの世の国を作る。もう一つは、天主を愛するあまり自分さえも軽視する天上への愛。この天主への愛が天主の国を作る、と。(『天主の国』14巻28章)

一昨日(おととい)は初金曜日でした。イエズスの聖心のミサの「御聖体拝領後の祈り」でも同じように祈ります。

「主イエズスよ、御身の聖なる神秘が、我らに天主の熱情を与えんことを。この熱情により、我らをして、御身のいとも甘美なる聖心の優しさを味わせ、地上のことを軽蔑し天上のことを愛するを学ばせ給え。」

(Prǽbeant nobis, Dómine Iesu, divínum tua sancta fervórem : quo dulcíssimi Cordis tui suavitáte percépta ; discámus terréna despícere, et amáre cæléstia.)

聖パウロはこうも言います。「実に、主イエズス・キリストを知るという優れたことに比べれば、その他のことは何でも丸損だと思う。私はキリストのためにすべてを失う。

だがキリストを得るためにはそのすべてを芥だと思っている。律法から出る私の正義ではなく、キリストへの信仰による正義、天主から出るところの信仰に基づく正義をもって、キリストに在ることを認められ、キリストその復活の力を知り、その苦しみにあずかり、その死をまねる」(フィリッピ3:8〜10)と。

聖パウロは、私たちはこの世を支配している悪魔と戦っている、とはっきり警告しています。「悪魔の企てに刃向かうために、天主の武具をすべてつけよ。私たちが戦うのは血肉ではなく、権勢と能力、この世の闇の支配者、天にある悪霊だからである。だから天主の武具をすべてつけよ。悪の日に抵抗し、すべてをはたしてのち、なお立つためである。」(エフェゾ6:12)

カトリック教会の全ての聖伝の教えが、この点で一致しています。最高の天使であったにせよ、被造物にすぎない天使ルチフェルが思いあがって、天主に逆らったこと、天使たちの一部を率いて天主の最高の統治権、支配権に挑戦して、悪魔になったこと、ルチフェルの天主の支配に逆らう反逆は、人類に対する陰謀として、アダムとエワのいたエデンの園に移行して以来、今まで続いていること、です。

一方に、私たちに永遠の至福を与えたいと望む創造主である愛の天主が、私たちをご自分の愛に招いています。他方で、私たちが永遠の至福を得ることを妬む堕天使、被造物の分際で天主に逆らう憎しみの悪魔が、嘘と脅しと欺瞞で私たちを破滅へと誘惑しています。

 

【3:教会の聖伝に適う勧め:四終の黙想】

私たちは、この戦いに勝つためにどうすればよいでしょうか。カトリック教会は、原罪のために傷つけられた私たちの人間本性の弱さを知っています。目に見えない永遠の無限の最高の善よりも、ともすると目に見える儚い、限りある刹那的な楽しみを選んでしまうという盲目な弱さです。情念に目がくらんで、正しい判断を誤ってしまう危険です。

そこで、教会は、私たちの人生の終わりに起こる四つのこと、日本語で四終(ししゅう)と呼ばれている死・審判・天国・地獄を黙想することを強く勧めていますが、特に11月はそうです。何故なら、11月1日、諸聖人の祝日に、私たちの人生の究極目的(すなわち天国の栄光)を見せつけるのみならず、11月全体を死者の聖なる月として、死者のために祈らせ、同時に私たちに人生の終わりについて思い起こさせています。

【地獄】

先週の主日に、四終の一つである天国について黙想しましたので、今回は地獄についても一瞥しましょう。もしも私たちがキリストの十字架の敵として生活するなら、その行先は亡び、すなわち永遠の滅び、地獄です。

アビラの大聖テレジアは、夢の中にイエズスが現れて、もしもそのまま生ぬるく修道生活を送るなら落ちるであろう地獄に自分が落ちたのを見て、大回心しました。

聖女ファウスティナの「霊魂の中における天主の憐みの日記」(741話)によれば 「今日、私は天使の導きを受け、地獄の淵の中に入った。 地獄はひどい拷問の巣窟だ。非常にものすごく大きくて広い。そこで私は、地獄の苦しみを見た。

地獄の最初の苦しみは、天主を失うこと。第二は、永遠の良心の呵責であり、三番目は、その状態が決して変わらずに永久に持続すること。第四は、火が霊魂を破壊せずに引き続き霊魂を苦しめること。天主の怒りによって点けられた火が、霊魂に恐ろしい苦痛を与えること。第五は真っ暗闇と息が詰まるひどい臭いが持続すること。暗黒であるにもかかわらず、悪魔と呪われた霊魂はがお互いを見ることができ、他の霊魂たちの悪と自分の悪を見ることができる。第六は常にサタンと一緒にいること。 第七は、絶望、天主への憎しみ、卑劣な言葉、呪いと天主への冒とくに囲まれていること。このような苦しみは、呪われたすべての人々が一緒に受ける拷問だ。しかし、これがすべてではない。」

シスター・ファウスティナはこうも書いています。「私が、確かに見たのは、地獄にいるほとんどの霊魂たちは地獄があることを信じていなかった霊魂であるという事実である。」

Today, I was led by an Angel to the chasms of hell. It is a place of great torture; how awesomely large and extensive it is! The kinds of tortures I saw: the first torture that constitutes hell is the loss of God; the second is perpetual remorse of conscience; the third is that one's condition will never change; the fourth is the fire that will penetrate the soul without destroying it - a terrible suffering, since it is a purely spiritual fire, lit by God's anger; the fifth torture is continual darkness and a terrible suffocating smell, and, despite the darkness, the devils and the souls of the damned see each other and all the evil, both of others and their own; the sixth torture is the constant company of Satan; the seventh torture is horrible despair, hatred of God, vile words, curses and blasphemies. These are the tortures suffered by all the damned together, but that is not the end of the sufferings. There are special tortures destined for particular souls. These are the torments of the senses. Each soul undergoes terrible and indescribable sufferings, related to the manner in which it has sinned. There are caverns and pits of torture where one form of agony differs from another. I would have died at the very sight of these tortures if the omnipotence of God had not supported me. Let the sinner know that he will be tortured throughout all eternity, in those senses which he made use of to sin. I am writing this at the command of God, so that no soul may find an excuse by saying there is no hell, or that nobody has ever been there, and so no onecan say what it is like.

I, Sister Faustina, by the order of God, have visited the abysses of hell so that I might tell souls about it and testify to its existence. I cannot speak about it now; but I have received a command from God to leave it in writing. The devils were full of hatred for me, but they had to obey me at the command of God. What I have written is but a pale shadow of the things I saw. But I noticed one thing: that most of the souls there are those who disbelieved that there is a hell. When I came to, I could hardly recover from the fright. How terribly souls suffer there! Consequently, I pray even more fervently for the conversion of sinners. I incessantly plead God's mercy upon them. O my Jesus, I would rather be in agony until the end of the world, amidst the greatest sufferings, than offend You by the least sin.

https://benedictinesofdivinewill.org/uploads/3/4/3/2/34324596/st._faustina_kowalska_-_diary.pdf

私たちは、大罪の状態で死ぬのなら、これらの拷問を永遠に苦しまなければなりません。ポーランド人のシスターは、地獄を見た後、罪びとの回心のために熱心に祈らなければならないこと、天主の憐みを祈らなければならないことを確信しました。もっとも小さな罪を犯して天主を侮辱するよりも、この地上で最も苦しい苦痛の真っただ中にこの世の終わりまで苦悩のうちにとどまったほうがよほどましだ、とも言っています。

ファチマの聖母も、年端のいかない子供たちに、母の愛をもって地獄の様子を見せました。1917年7月13日のことです。聖母は両手を開かれると、両手から光が放たれました。「光線が大地を貫いたように見えました。そして私たちはあたかも火の海の様なものを見ました。この火の中に浸かり込んでいるのは悪魔たちと人間の形をした霊魂たちでした。霊魂たちは透き通った燃える炭火のようで、皆真っ黒か褐色のようでした。彼らは雲のような煙と共に自分自身からわき出る炎によって持ち上げられ、この大火事の中に漂っていました。彼らは、恐ろしくまた恐怖のあまり震えおののかせる苦悩と絶望の叫びとうめきのまっただ中で重さも平衡感覚もなく、大火災の火の粉のようにあちこちに、また下に落ちていました。悪魔は燃えさかる黒い炭のように透き通ってはいましたが、汚らしい見たこともない動物の恐ろしい厭な形をしていたので地獄に落ちた霊魂たちとは区別されました。」

多くの人は地獄を信じていません。地獄のことを誤解しています。永遠の地獄のことを自分には関係のないことだと思っています。ですから結果として、罪を軽く考えています。カトリック信者でないひとが言うようなことを、言っているかもしれません。「今の生活は苦しい、地獄とは今のことだ。」「この世の今の生活が面白おかしくなりさえすれば、それで全ては良いのだ。他人に迷惑がかかることが罪だ。だから罪は、犯してもばれなければ良いのだ。」

しかし、人類が天主から離れれば離れる程、キリストに逆らえば逆らうほど、ますますこの世は地獄のようになっていくことでしょう。今から100年前のロシアのボルシェビキ革命から始まって70年続いた、いわゆる「収容所群島」が、全世界で再現するかもしれません。

ロシアでそうだったように、少数の革命家たちが、人々を口当たりの良い言葉で、快適な生活が待っているよ、ハッピーになりますよ、と扇動するかもしれません。キリストの愛を受け入れない時、悪魔が憎しみで私たちを支配することでしょう。

キリストの愛の統治から逃れようとした人類は、かつてソ連のもとで秘密警察KGBを恐れて生活していたように、コンピューターの管理下のもとにおかれ、携帯で私たちが自宅にいるペットを遠くから見守るように、私たちの全てが監視され、学校での授業も家庭や友人の会話も、全て録画され検閲される日が来るかもしれません。

キリストの教える生命倫理を無視して、天主の座を奪って生命を支配しようとする人類は、かつてソ連で子供を国家の所有としようとしたように、堕胎を人権として認め、胎児の臓器の売買というビジネスを作り上げるかもしれません。

天主が人類に掟を定める権利を否定する人類は、今度は、自分のもっとも基本的な権利、所有権や自由権さえも否定されるかもしれません。例えば、負債を免除されベーシックインカムを受けるかわりに、一切の所有を否定され、全てを国家から借りて使い、等しく奴隷となりはてるかもしれません。

動物が息をすると二酸化炭素が出るからという理由で、エコロジカルな環境保全のために、処罰を受けるようになるかもしれません。

天主の教会を破壊し、聖人の像を破壊する人類は、ついには、自分の家族、祖国、文化、秩序さえも粉々に破壊しつくしてしまうかもしれません。

一言でいうと、ソ連やナチス時代を遥かに超える恐ろしい世界を、作り上げてしまうかもしれません。それはキリストを否定する、反キリストの世界です。

もしも、そのような悪夢のような世界が出来上がってしまうのを許すとしたら、それは、私たちの目を覚まさせるためです。私たちが地獄の火に焼かれないためです。私たちの永遠の救霊のためです。何故なら、この地上のどのような恐ろしい地獄の絵姿も、悪魔とその手先のために供えられた本物の地獄に比べれば、影法師のようだからです。何故なら、あの世の地獄は永遠だからです。

【カトリックの聖伝の教え】

天主の憐みとは、天主が、私たちを罪の状態から助け出すことです。私たちの罪を悔い改めることを助け、痛悔した罪を赦し給うことです。人生を聖なるものに変えるようにたすけてくださることです。私たちの主イエズス・キリストは、憐みの天主です。罪を赦そうと欲する天主です。罪の状態から救い出そうとする愛の天主です。そのためにこそ、私たちは罪を罪として認識する必要があります。

司祭は愛をもって罪を罪として語らなければなりません。罪を罪として憎まねばなりません。罪を善として「ええわええわ」でごまかして容認することは、天主への反逆であり、霊魂を裏切ることです。霊魂を憎むことです。

私たちがカトリックの聖伝の信仰、聖伝のミサを、どんな犠牲を払ってでも守っている理由、それは霊魂の救いのためです。天主の憐み深い愛を伝えるためです。特に、私たちの主の愛と聖寵を、より多くの人々に伝えるためです。なぜなら、救霊のためには、教会が2000年間にわたって諸聖人を生み出してきた聖伝のミサこそが最高の手段であり、これに勝る手段は無いからです。

聖伝のミサとは、礼拝と奉献を通して、二千年前に天主の愛がカルワリオでなさったのと同じ愛、同じ犠牲が再現され、私たちがそれに一つとなって一致することができる最高の手段です。天主の愛を完全に伝えて霊魂を救う、これこそが主の十字架のいけにえです。これこそが聖伝の教えです。

ローマ帝国の大迫害時代の最高潮(303-311年)の時、西暦312年、異教徒であるコンスタンティヌスは、敵の大軍の前に立ち向かうことになりました。敵は、ベテランの軍人マクセンシウスの率いる戦略的に優位に立ち、数の上でもはるかに上回っていました。コンスタンティヌスは、強力で特別な助けと保護を必要としていることを悟ります。しかし彼はローマ神話の神々を疑っていました。そこで真剣に祈りました。自分がまだ知らない真の天主が彼に御自分を示し、彼を助けてくれることを。すると、突然、昼の天に十字架の印が現れたのをコンスタンティヌスは見ました。In hoc signo vinces. 「この十字架の印によっておまえは勝て。」これに従い、彼は十字架を旗につけ、十字架の御旗のもとに戦い勝利をおさめます。十字架の印は、世界史を変えました。キリスト教への迫害は止みました。

21世紀の私たちにも、真の天主イエズス・キリストはこういわれます。In hoc signo vinces. 「この十字架の犠牲の印すなわち聖伝のミサによっておまえは勝て。」

聖伝のミサ聖祭に与り、熱心に秘跡を受け、ご聖体を拝領し、人となられた天主のみことばへの知識と愛が私たちの霊魂のうちで成長するように、犠牲と熱心な祈りを捧げましょう。

ルフェーブル大司教はこう言っています。「カトリック司祭職の深い不変の精神とキリスト者の精神は、十字架の犠牲が永遠に表現している、私たちの主の偉大な祈りと本質的に結びついている」と。

この世の終わりには、天に十字架の印が現れることでしょう。キリストの十字架の敵として生活していた人々は、その時、どれほど恐れなければならないことでしょうか。キリストの十字架の友、聖伝のミサの友は、どれほど慰めに満たされることでしょうか!

【遷善の決心】

最後に聖母に祈りましょう。私たちがいつも十字架の友としてこの世の生を送ることができますように。十字架の犠牲の再現である聖伝のミサを、愛し、これを守り続けることができますように。

まだ時があるうちに、聖母の御取次で、イエズス・キリストに愛をもって近づきましょう。天主の御助けによって、この世と罪に対する無秩序な愛着を私たちの心から追い出すことができますように、聖母に祈りましょう。

「群衆を追い出してから、イエズスがはいって、娘の手をおとりになると、娘は起きあがった。」



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3 コメント

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聖ミカエル (ヨハネ)
2020-11-10 22:52:47
今の日本の教会でおかしなことが起こっていることの一例。都内の某教会、2017年と2018年の復活徹夜祭のミサで諸聖人の連祷の時、「聖ミカエル、われらのために祈り給え」がカットされ、唱えられなかった。2017年、2018年に典礼担当だった神父は主任司祭になり、典礼担当を別の神父が引き継いだ2019年は「聖ミカエル、われらのために祈り給え」が復活した。「聖ミカエル、われらのために祈り給え」を省いて喜ぶのはサタンだけ。考えたくはないけど。考えなくてはいけないのだろうね。
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ミサに来るなウィルス (ヨハネ)
2020-11-09 19:29:48
東京大司教区はコロナから命を守るために主日と守るべき祝日にミサに与る義務を免除している。3月からだから、もう8ヵ月も主日のミサに与らなくてもいいことになっている。これがいつまで続くか分からないが、寒くなってくるとコロナに加えてインフルエンザも流行るので、来年春まで1年ぐらい続くかもしれない。1年も主日にミサに与らなくてもいいとなると、主日と守るべき祝日にミサに与る義務を忘れてしまう人が続出するのではないだろうか。

新聞社系の出版社に勤めていた時、先輩編集者から「新聞社の労組は何故、ストライキをしないか分かるか。ストの結果、新聞が配達されない日が1日、2日、3日と続いていくと、新聞読まなくてもいい、と思う人が購読を中止することを労組も恐れているから」。新聞社の労組でも、このような心配をするのに、大司教様がコロナから命を守ることを理由に主日と守るべき祝日にミサに与る義務を免除する。おかしいと思う。ミサと聖体拝領によって、信者に霊的糧を与えなければいけないのに。

グレート・リセットが具体的にどのようなことになるのかは知らない。でも、今でも相当におかしなことが日本のカトリック教会で起きているのだ。忸怩たる思いを抱いている神父様も多くいらっしゃるのではないかな。
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聖伝のミサは 救いの十字架 (Lourdes)
2020-11-09 09:52:14
アヴェ・マリア・インマクラータ!
素晴らしいお説教をありがとうございます!

神父様が未来の、というよりいまにもそうなるかもしれない社会の様子を描いてくださっているのを聴きながら、先日読んだヴィガノ大司教様のトランプ大統領への手紙に書いていたことを思い浮かべてしまいました。

その手紙の中に「グレート・リセット」という初めて聞く言葉が出てきていたので、時間を見つけて調べてみておりました。

すると、これは本当に今まさに進行中の計画で、誰でも知りたいと思えばその内容を知ることができるほど、恐ろしいことに実際にもう目の前に準備されようとしていることだとわかりました。

2021年の1月には、スイスでダボス会議があり、議題がグレート・リセットなのだそうですから。
調べれば調べるほど怖くなりました。あまりに恐ろしいことなので、すぐには理解したくないと思いました。
でも、人間として生きていきたいと思うなら、ちゃんと理解しなければならないと思いました。

私はこれと同じ恐怖を、あるカトリックの修道会の総長が来日したときの日本向けの言葉をユーチューブで視聴した時、感じました。

第二バチカン公会議を機に少しずつカトリック教会の中身が変質させられていくなかで、教会は霊魂の救いではなく別なところに焦点を置き換えて宣教するうちに、次第にカトリック教会の信徒の大多数がもはや霊魂の救いのことを考えることが難しい状態になり、それを機に、麻薬を打たれて朦朧としている信徒に向かって一気に催眠術をかけるような話をしていると感じました。

そして、それが教会におけるグレート・リセットの新しい道のことだなと、先日のヴィガノ大司教の手紙を読んで結びつきました。
もしかして、世界人口の多くを占めるカトリック教会の信徒を巻き込んで「新しい道」「新しい社会」を作るのが人間を地獄に引きずり込むには手っ取り早く簡単だというので、悪魔はカトリック教会を乗っとろうとこの百年のあいだ、こっそり準備をしてきたのでしょう。解放の神学は 名称と姿を変えて教会を破壊させようとそのもくろみを継続させていたのですね。かつてもどれほど多くの人達が、解放の神学が教会の考えであるかのように誤解して本当の信仰から離れ去ってしまったことでしょうか。

いま世界全体を全体主義的共産主義的社会に変えていこうとする計画が、カトリック教会の変革と重なっていることに気づいて、早く目を覚まして、理解して、その暴挙にみんなで抵抗しなければと思います。まだ知らないでいる方々にもこのことを知ってもらいたいです。

小野田神父様がお説教の中で話されていることはけっして誇張でもなんでもないですね。これは霊的な戦いだから、祈りと犠牲、ロザリオの祈り、そしてなによりも聖伝のミサに与ることにより掲げられたイエズス様の十字架から眼を離さないようにしようと思います。

(悲しいことに、日本の信仰のある司教様方は気づかれていないはずがありませんのに、どなたも沈黙したままでいらっしゃいます。)

唯一の処方である、十字架に架けられたイエズス様を見つめる方法は 聖伝のミサに与ることだと思います。一人でも多くの方がこの聖伝のミサに与ってくださいますようにお祈りいたします。
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