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日本と柱の聖母:Nuestra Señora del Pilar、ピラールの聖母の約束

2021年03月02日 | お説教・霊的講話
2020年2月7日(主日)六旬節の主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日東京の御聖堂では、日本二十六聖殉教者の荘厳祭を行ないました。なぜかというと、私たちの巡回教会は、日本の聖なる殉教者たちに捧げられているからです。特に日本二十六聖人に捧げられているので、この特別の荘厳祭を行ないました。

そこで今日は、
⑴この日本の宣教のこの最初、一体誰が、一体どこの国が、宣教の保護者の国だったのか?という事について、

⑵そして、それは私たちと今、どのような関係があるのか?という事について、ちょっとお話したいと思っています。

ポイントは2つあります。

⑴まず最初は、まず日本に最初に宣教に来たのは、聖フランシスコ・ザビエルです。1549年8月15日、マリア様の被昇天の日に来ました。実はこれはポルトガル王の、ヨハネ3世の下でやって来ました。

ですから日本は、マカオやあるいはインドのゴアと同じように、ポルトガルのパトロナード、保護の元で、宣教が行なわれたのです。

そして「ポルトガルのパトロナード」というのは特別な特権であって、ローマの教皇様が持っていた、この司教様を任命するとか、あるいはその教会の司教の座とかを作る等という特権を、ポルトガルの王が特別に持っていたのです。その下で、日本の宣教が行なわれました。

ところがフィリピンは、日本のすぐ近くですけれども、これはスペインの宣教の下にありました。なぜかというと、ポルトガルはブラジルを最初に、スペインより前に発見したので、それと交換されたという事です。アメリカではスペイン、そしてアジアでは大体はポルトガルでした。


⑵ところで、第2の点は、このイベリア半島、スペインとポルトガルが一緒にいるこの半島ですけれども、特別なマリア様の約束があったのです。

どのようなものかというと、まだマリア様が御存命の時、この地上にいらっしゃる時に、使徒聖ヨハネの兄弟である聖ヤコボに、こうお願いします、「さぁ、イベリア半島に行って、ここに私の御子の、天主なる聖子のイエズス・キリストの信仰を告げなさい」と。

それに従ってマリア様の言葉に従って、聖ヤコボはイベリア半島に行って、宣教をします。

大聖ヤコボを送ると同時にマリア様は、「もしも必要な時には、私が行って助けてあげましょう」とも約束されました。

聖ヤコボは行って、一生懸命宣教するのですけれども、しかしなかなか難しかったのです。ほとんど実りはありませんでした。信仰というものは非常に大変でした。そこで失望して、がっかりして、エブロ川のほとりで、「もう、このまま家に帰ろう」と思っていた時に、マリア様が柱の上に現れになって、そしてこの御自分の像もお見せになって、この御自分の像が、「このマリア様の御像がこの柱の上にある間は、世の終わりまで、このイベリア半島で信仰を守る。保護する」と約束されました。

実際にマリア様は、その通りにしました。例えばイスラム教が出てきて、イベリア半島がイスラム教に染まってしまった時、そしてこのイスラムがフランスのほぼ半ばまで行ってしまった時に、その時に一人のぺラーヨというスペインの王様が、一人山の中で、「いや、イエズス・キリスト、王たるイエズス・キリストの為に私は戦う!この信仰を守る!」と言って、イスラムに屈せずに、そこから少しずつ、何百年もかかって領土を、イエズス・キリストの信仰の為に拡大してききました。霊魂を救う為に拡大してきました。

最後にそのイベリア半島がカトリックの元に戻ったのが、1492年の事でした。グラナダという町がカトリックの手に戻り、そしてそのレコンキスタと言われるものが完成しました。

そのちょうどその年に、あたかもスペイン人のこの信仰を祝福するかのように、コロンブスがアメリカ大陸を発見して、そしてそのアメリカ大陸にも信仰をもたらす事ができるようになりました。

スペインの王は、「霊魂の救い」の事だけをいつも考えていました。実は植民地とかを作るというのは、非常にお金がかかりました。スペインの王がまず考えたのは、軍隊を送る事でありませんでした。そうではなくて、修道士を送る事、修道院を建てる事でした。なぜかというと、「修道院がなければ、お祈りがなければ、犠牲がなければ、全く無駄だ」と「効果がない」と思っていたからです。

スペイン人が行く所には必ず修道院が建てられて、そしてお祈りをさせて、そしてほぼ武力などは全くありませんでした。そうする事によって、多くの霊魂が信仰を得て、平和に暮らす事ができるようになりました。

スペインの人たちの、特に王の願いは、「霊魂の救霊」でしたので、特にこのマリア様が西暦40年に現れた聖ヤコボへの約束、柱の聖母:Nuestra Señora del Pilar、ピラールの聖母の約束を信じて、それに深い信心を持っていました。

「世の終わりまで、この私の像がこの柱の上にある限り、このイベリア半島では、信仰を私が守らせる」と。

その約束の通りでしたので、この約束が全世界に適用される事ができるように、マリア様にお願いして、「ここは、実はあなたの土地です。新しいセゴビア、新しいスペイン、なので、約束を守って下さい」と言っていました。

この日本はポルトガルの元でしたけれども、実はこのマリア様の約束は、イベリア半島に全てにあったので、マリア様は日本でもそれを守って下さるはずです。「この柱にある限り、守る」と。

ではマリア様に、Nuestra Señora del Pilarに、柱のマリア様にお祈り致しましょう。私たちの信仰が守られますように、そして世の終わりまで守られますように。

なぜかというと、理由はたった一つです。私たちが天国に行く事ができますように、永遠の命を得る事ができますように。

では、マリア様にお祈りして、そして殉教者にお祈りして、私たちの同胞の永遠の命の為に、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





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1 コメント

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秋田と私 (ヨハネ)
2021-03-02 23:35:15
ポルトガルと日本は聖フランシスコ・ザビエルのころから関係があったので、マリア様はポルトガルのファティマと同じメッセージを日本の秋田にも与えてくださったのでしょうか。ベネディクト教皇様(co-pope)が枢機卿だったとき、秋田のメッセージはファティマのメッセージと同じと話されたことを、どこかで読んで記憶があります。

秋田で聖母像の落涙があったことは当時、テレビで話題になったそうですが、落涙のあった1975年1月~1981年9月は何も知りませんでした。テレビも見ないし、仕事で忙しかったので。その後、カトリックになり、秋田のことを知ってからは、関心を持たざるをえなくなりました。

大学を卒業し、ITエンジニアとして電機メーカーに入社したのが1975年4月。思うところあって、会社も職種も変えることにし、編集者として出版社に入社したのが1981年12月7日。ここが気になるのです。落涙は1975年1月~1981年9月。ITエンジニアとして電機メーカーで働いていたのが1975年4月~1981年12月。3ヵ月遅れで落涙の期間と重なるのです。

転職して入社した次の日は12月8日、聖母の無原罪の御宿りの祝日です。受洗したのは1984年4月22日の聖土曜日、その翌日に秋田の伊藤司教様が聖母のご出現を認める書簡を発表されました。私の大きな転機の翌日に聖母様の大きなお祝いがあったことになります。これは、どういう意味があるのかと時々考えますが、分かりません。天国に行くことができたなら、聖母様にお聞きしてみたいと楽しみにしています。
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