Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

トリノの聖骸布 イエズスは「来てみよ」とおおせられた。「主よ、私はみ顔を探し求める。み顔をそむけられるな。」

2018年01月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様の聖骸布のお話の続きをもう一度黙想します。イエズスの御受難を聖母マリアの目を通して見る

【信仰の光における聖骸布】

聖骸布の像は、光と関連した特質を備えている。
写真のネガティブの特質、三次元的特質、広島での放射能によって生じた像に似た、繊維の表面酸化など。
まるでこの像が、とても強力で短い光の照射によって、それも暗い墓のなかで、生じたかのようだ!
このことはすぐに復活のことを思い起こさせる。
科学はこの像が復活の時にできたことを指し示す。

洗者聖ヨハネが私たちの主イエズス・キリストを指し示して「天主の子羊を見よ!」と言ったように。
この言葉を聞いて、聖アンドレアと聖ヨハネはイエズスに従った。
イエズスは振りむいて「何をのぞむのか?」と彼らに尋ねた。
彼らは答えて 「ラビ、あなたはどこにとまっておられますか?」と言った。
イエズスは彼らに「来てみよ」とおおせられた。(ヨハネ1章38-39節)

「来てみよ」
私たちも聖骸布の前で同じことを言うことができる。
全ての人が自分で来てみよ!
私たちの主イエズス・キリストは聖骸布を通して沈黙のうちに語っておられる。
主の両目は閉じている。聖骸布では主の口は閉じている。
しかし、来て主を見ようとする霊魂達に、主はなんと雄弁に語りかけられることか!

預言者ザカリアは400年前に宣言していた。
「私は、ダヴィドの家と、イエルザレムに住む人たちの上に、あわれみと祈りの霊をそそぐ。かれらは、自分が刺したものをふりあおいで、ひとり子のためにするような嘆きで、かれのために嘆き、初子のために泣くように、かれのために泣く。」(ザカリア12章10節)

「あなたについて、私の心はこういった。『主のみ顔をさがせ』と。主よ、私はみ顔を探し求める。み顔をそむけられるな。」(詩編26章8-9節)

「主とそのおん力とを探し求め、つねにみ顔をたずねよ。」(詩編104章4節)

「主が、みいだされたいとおぼしめすあいだに、主を、さがし求めよ。」(イザヤ55章6節)

古い時代の多くの偉大な人の中には、その人の生存中に作られた銅像があることがある。しかし、その人の実際の写真はない。

私たちの主イエズスキリストについては、私たちは、ある意味で、彼の写真そのものを持っている!
150年以上前の偉大な人の中で、絶対的に唯一のこと。

「闇から光が輝き出せとおおせられた天主は、キリストの顔にある天主の光栄の知識を照らすために、私たちの心にかがやかれた。」(コリント後書4章6節)

私たちは、聖骸布の中に次の言葉の真実を見る。
「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。私たちは、その栄光を見た。それは、おん独子としておん父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。」(ヨハネ1章14節)

私たちは自らの子を送られる天主の愛を見る。
「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ3章16節)

そして私たちと共に生きるためだけでなく、またとりわけ、私たちの救いのために死ぬため。
「ご自分のみ子を惜しまずに私たちすべてのためにわたされたお方が、かれとともに他のすべてを賜らないはずがあろうか。」(ローマ8章32節)

私たちはこれら全てのことを聖骸布のうちに見る。

「私の手と私の足を見よ、私自身だ。さわって確かめよ。あなたたちが見ている私のこんな肉と骨とは、霊にはない。」(ルカ24章39節)
「こういって、そのおん手とおん脇とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」(ヨハネ20章20節)

「またトマに向かって、『あなたの指をここに出し、私の手を見なさい。あなたの手を出して、私の脇におきなさい。信じない者でなく、信じる者になるように!』」(ヨハネ20章27節)

私たちは聖骸布に同じことをすることができる。

聖イグナチオと一緒に、私たちの主イエズスキリストの御傷のひとつひとつを見ながら、こう言うことができる。
「主が苦しまれたのは、私のためである」と。

聖パウロが言ったように、「私を愛して、私のためにご自身をわたされた天主の子への信仰によって、生きている。」(ガラツィア2章20節)

「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために、香しいかおりのいけにえとして天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちにあゆめ。」(エフェゾ5章1-2節)

主に倣うためには、主を見なくてはならない。

主を見るにあたって、この「人の手に依らぬ」最も聖なる像について黙想する以上に善い方法はない。

「そこで私たちはみなおおいを顔に垂れず、鏡にうつすように、主の光栄をうつし、霊なる主によって、ますます光栄を増すその同じすがたに変わる。」(コリント後書3章18節)

もし私たちが永遠にわたって栄光の主に似たものであろうと望むなら、ここ地上において私たちは苦しみを受けられる主と似た者でなければならない。

「私たちは天主の子である。私たちが子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、天主の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」(ローマ8章16-18節)

私たちはまた、私たちが聖骸布に見る全てのことは、童貞マリア(と聖ヨハネと聖なる婦人達)が十字架の下で、それが起こった時にごらんになったということを覚えておかなくてはならない。

聖母マリアは御体を清められ、主を布の内に置かれたが、それは私たちには決して語り尽くせない悲しみと愛をもってなさった。

イエズスの御受難を聖母マリアの目を通して見る、これが最善の方法。

聖骸布に主の像を見るが、主の御体の実体はそこにはない。

御聖体においては、私たちには主の像は見えないが、主の御体、御血、御霊魂と御神性の実体がそこにあり、完全に、本質的に、生きておられる。

御聖体は聖骸布よりも限りなく勝れている。

ミサ聖祭では、それは主の御受難の単なる像ではなく、主が十字架の上でお捧げになり、祭壇の上で現実に捧げられているキリストのいけにえそのもの。

Acte de consécration à la Sainte Face, par Sainte Thérèse de l’Enfant-Jésus

O Face adorable de Jésus ! Puisque vous avez daigné choisir particulièrement nos âmes pour vous donner à elles, nous venons vous les consacrer. Il nous semble, ô Jésus, vous entendre nous dire : « Ouvrez-moi, mes sœurs, mes épouses bien-aimées, car ma Face est couverte de rosée, et mes cheveux sont humides des gouttes de la nuit ». Nos âmes comprennent votre langage d'amour; nous voulons essuyer votre doux Visage et vous consoler de l'oubli des méchants. A leurs yeux, vous êtes encore « comme caché... ils vous considèrent comme un objet de mépris ! »

O Visage plus beau que les lys et les roses du printemps, vous n'êtes pas caché à nos yeux ! Les larmes qui voilent votre divin regard nous apparaissent comme des diamants précieux que nous voulons recueillir, afin d'acheter, avec leur valeur infinie, les âmes de nos frères. De votre bouche adorée, nous avons entendu la plainte amoureuse. Comprenant que la soif qui vous consume est une soif d'amour, nous voudrions, pour vous désaltérer, posséder un amour infini !

Epoux bien-aimé de nos âmes ! si nous avions l'amour de tous les cœurs, cet amour serait à vous... Eh bien, donnez-nous cet amour, et venez vous désaltérer en vos petites épouses. Des âmes, Seigneur, il nous faut des âmes ! Surtout des âmes d'apôtres et de martyrs; afin que, par elles, nous embrasions de votre amour la multitude des pauvres pécheurs.

O Face adorable, nous saurons obtenir de vous cette grâce ! Oubliant notre exil, sur les bords des fleuves de Babylone, nous chanterons à vos oreilles les plus douces mélodies. Puisque vous êtes la vraie, l'unique patrie de nos âmes, nos cantiques ne seront pas chantés sur une terre étrangère.

O Face chérie de Jésus ! En attendant le jour éternel, où nous contemplerons votre gloire infinie, notre unique désir est de charmer vos yeux divins, en cachant aussi notre visage, afin qu'ici-bas personne ne puisse nous reconnaître... Votre regard voilé, voilà notre ciel, ô Jésus !

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。