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聖心の小黙想会-3 2018年8月11日霊的講話【2】 「イエズス様は私たちに真理を教えて下さる」

2018年10月04日 | お説教・霊的講話
2018年8月11日(土)イエズスの聖心小黙想会
小野田神父 霊的講話【2】
「イエズスの聖心は私たちを赦そうとされる」


人類は、天主についてあまりにも無知で、闇の中に沈んでいます。そこでイエズス様はその人類に、「光を与えよう、真理を啓示しよう、天主について教えよう」と思われました。

でもイエズス様がまずなさろうと思ったのは、言葉によるものではなくて、御自分の態度で、行動で、模範を示す事によって教えようされました。

ファチマの天使を見て下さい。まず自分でお祈りをして見せて、子供たちに「このように祈れ」と言いました。ファチマの天使はイエズス様の真似をしていたかのようです。イエズス様はまず最初に御自分でなさって、次に言葉で教えました。よくあるパターンが、お母さんが、「何!まだテレビを見てるの!早く勉強しなさい!」ガミガミガミと言って、そして自分はテレビを見ている。「お母さんはテレビを見ていいの?」

イエズス様はまず、御自分の態度で、行動で、模範を示しましたので、イエズス様を見た人は、「あぁ、聖徳というのは、これほど美しいものか。あぁ、こんなに良いものなのか。あぁ、すごい、こうなりたいな。あぁ、このようにこうすれば良いのか」という事を人々に見せる形にしました。

御自分が教える前に、自分で素晴らしく模範で示して、どうやってやれば良いのか、という事を道を示しました。

ですからイエズス様の御行動を見ると、このイエズス様の態度とお人なりを見ると、私たちがどのように行動すべきか、という事を非常に雄弁に教えています。人類は特に、天主から離れて病気にかかった、癩病にかかった者のように、人間の姿を失ってしまって、天主の似姿からほど遠くなって変形している姿をしていたので、まず天主の似姿とはどのようなものか、という事を模範で見せたかのようです。

イエズス様が赤子となってまぐさ桶に寝かされて、置かれて、すやすやと眠ってお生まれになったその慎み深さと、御謙遜、天主の愛と、聖徳と、慎みと、その良さと、その御親切が、憐れみが、私たちの前に現れましたけれども、イエズス様の十字架のその最後まで、生まれてから最後まで、イエズス様の御生涯が全て、雄弁な教えとなっております。「私に従って歩く者は、闇の中を歩かない」とイエズス様は言いました。

でもイエズス様は、ただ私たちを愛するあまり人となって、世の光となって、道・真理・命として、私たちに生きる道を教えて下さったのみだけではありませんでした。

人類の状態は、無知のみならず、深い罪の影に底に沈んでいたので、これを救い出そうと思いました。

そこで、この御聖体の前で、「私たちに真理を教え、非常に知恵深く、私たちが真理を知る事ができるように助けて下さる聖心のその憐れみ」と同時に、「私たちを赦そうとされる聖心の愛」についても黙想しましょう。

「罪」というのは、天主の正反対にあるものです。なぜかというと、罪というのは、天主に「NO!」と言う事だからです。天主の愛の反対です。天主を憎しむ、天主を裏切る事だからです。天主は全て愛によって私たちを創り、私たちを愛によって取り囲んで、憐れんで下さるにもかかわらず、人類はこの愛を無視して、足蹴にして、その代わりに、愛の反対を、憎しみを、天主に対する反乱を起こしました。

それにもかかわらず、この罪に陥った人類を赦そうと、救おうと、イエズス様は更に私たちに愛を注がれます。天主の御言葉は肉を、肉体を取りましたけれども、私たちの弱さと苦しみの条件を身に取りましたけれども、それは全て私たちを赦す為でした。永遠の愛が、無限の憐れみが、この地上に赦しをもたらす為に人となりました。イエズス様は、イエズス様の聖心は、天主の赦し、そのものです。

「天主は、その御一人子をこの世に送られるほど、世を愛された。」
「天主は、この世に御一人子を送られたが、それは世を裁く為ではなく、この世が彼によって救われる為であった。」

イエズス様は、イエズス様の聖心は、天主の御言葉は、罪人を探す為に、罪人を救う為に、霊魂を求めて、人となりました。罪人を求めて。

しかし人類は、これほど恩知らずであったにもかかわらず、天主から全てを受けたにもかかわらず、その天主の親切、優しさ、愛、御恵み、受けた御恵みを全く軽蔑して、天主の優しさ、天主の寛大さ、天主からの御恵みを忘れ果てて、それを足踏みにして、あたかも御言葉を踏み砕くかのように、忘恩の限りを尽くしました。

その人類の為に、イエズス様は人となって、この人類を探そうとやって来ました。

被造物ですから、全て御恵みを受けた身分ですから、その分際で、一体人類は天主にどのような立場があるでしょうか。人類は、人間は、天主に従順に従う、という義務しかありませんでした。感謝と、讃美と、礼拝、天主を創造主と認めて、自分は被造物という事を認識して、「ありがとう。」「お恵みを感謝します。」「おかげさまです。」

それ、その義務しかなかったはずなのに、それを全く、その甘いその軽い荷を振り退けて、天主の権威を踏みにじって、それほど天主の合法的な当然の権威を無視して、天主の代わりに、「自分こそがこの世の、自分の支配者である。」「私たちは自由だ。」「自分の上には誰も上はいない。この世の王だ。」「自分で自分が決める。」

反逆の徒と成り果てたこの人類を探して、天主は人となられます。

この全宇宙の美しい全て、果てしのない銀河、大宇宙、太陽も、星々も、月も、あるいはこの地上に生ける動物も、鳥も、魚も、獣も、植物も、木々も、森林も、水も、空気も、鉱山も、鉱物も、全て人間の手に委ねられました。「さぁ、これはお前たちが幸せになる為に、本当に幸せになる為に、天国に行く為に使うように」と、「善を行なう為に使うように。」

しかし、この天主から与えられたこの信頼を全く裏切って、天主に逆らう為にこれらの被造物を使い出します、自分の目的を、自分の罪を犯す為に、与えられた才能、時間、能力、そして全ての被造物を。裏切り者です。

しかし、この人類の為に、イエズス様は人となってこの罪人を探しに来ます。イエズス様はこのような、もう道を外れた、非道の、ろくでもない人間を愛して、この罪人と共にいる事を求めて、罪人と会話をしようと、罪人を受け入れて、喜んで受け入れて、親切に尽くす為に人となります。そしてこの地上での生活を送ろうと望みました。

ある時ファリザイ人たちは、非常にそのイエズス様の憐れみ深さに躓きます、「何でお前たちの師は先生は、罪人と一緒に飲み食いしているのか。税吏と一緒に飲み食いしているのか。」あるいはある時には、「もしも彼が預言者だったならば、一体この女がどんなひどい罪人かというのを知っているはずだ。」

人々は、人類の罪の惨めさ、悲惨さ、哀れさの為に、イエズス様はそれに、あまりにも哀れなので、もう近付くのが嫌だと思うに違いない、と思っていました。罪に泣く罪人というのは、イエズス様の憐れみを受けるにふさわしくない、と誤解していました。でもイエズス様の憐れみというものがどれほど深いか、という事を人々は知りませんでした。

イエズス様の聖父から受けた使命というのは、罪人を赦して、彼を救う事でした。イエズス様は言います、「私は、失われたものを探して、救う為に来た。」

多くの霊魂は、罪の為に盲目となってしまって、光を見る事ができなくなって、恥ずかしさの為に、あるいは恥を感じて、天主の元に戻る事ができなくなったり、あるいは勇気がなく、罪の奴隷となったままで、もうそのまま一人ではどうする事もできないでいます。でもイエズス様は、そのような霊魂たちを何とか助けようと、地上にやって来ました。

ですからイエズス様は、霊魂を探して町から町へ、村から村へ、ユダヤのガリレアの小路を小さな道を歩いて回ります。イエズス様はガリレア湖の上に舟を浮かべて、その色々な岸を回って人々に話をします。あるいはイエズス様は砂漠の中に入って、あるいは異教の人たちが住んでいるようなティロやシドンの街々にも行って、人々に話をします。霊魂を探して回ります。ある時には神殿の回廊で律法学士たちと話をしますけれども、ある時には神殿の近くにある池で、病の人がそこで寝ていて、病気が治るのを待っている所に赴きます。イエズス様は霊魂を探して、疲れずに、汗を流します。

あまりにも霊魂を探して、霊魂を救いたいと思ったあまり、遂にイエズス様が辿り着いた場所は、ポンシオ・ピラトの鞭打ちの場所であって、十字架のゴルゴタの丘でした。

イエズス様の燃えるような、聖なる、霊魂を救いたいという望み、霊魂を聖化したいという望みの為に、イエズス様は全てのことをなさいました。御自分の事はすっかり忘れて、自分の休みや、楽しみや、休息や、余暇というものはありませんでした。この地上で快適な生活を送ろうかとか、平和な生活を送ろうかとかいうのは、夢にも思いませんでした。「霊魂の救い」それだけに燃えていました。イエズス様は罪の赦しを人々に与える事、豊かに与える事だけを求めました。

それでは、今から10分間休憩で、16時から御聖体降福式を行ないます。

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