Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

主の御変容:イエズス様の御受難を実り豊かによく黙想するためには、イエズス・キリストが全知全能の天主であることをよく知らなければならない。天主がなぜ苦しまれたのかを知る必要がある。

2024年03月01日 | お説教・霊的講話

2024年2月25日名古屋ミサ 説教

トマス小野田圭志神父 

【上の動画は大阪でのものです】

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2024年2月25日、四旬節第二主日のミサをしています。

ひとつだけお知らせがあります。次のここでのミサは復活祭の主日です。ここです。復活祭のミサには、多くのお友達の方を誘ってミサに与るようになさってください。ぜひ聖伝のミサのお恵みを皆さんに伝えるようになさってください。

それからもしもできたら、三月、復活祭の前にも、もう一度主日にここでミサができるように、いま計画しています。詳しいことが決まりましたらお知らせします。

わたしたちは、満21歳から満59歳までの健康な成人の男女は、大小斎の義務があります。今過ぎた灰の水曜日と今度の来たる聖金曜日の二日は、カトリック教会は大小斎を守るべき掟の日ですので、寛大に大小斎を守ることにいたしましょう。聖ピオ十世会の司祭たちは、これに付け加えて、すべての金曜日も大小斎を守っています。もしも皆さんもできるならば一緒に加わってください。

さて、四旬節は、わたしたちは教会から特別に、イエズス様の御受難を黙想するようにと招かれています。イエズス様の御受難を黙想するというのは、特に十字架の道行きをしたり、特にイエズス様の十字架の御像の前でイエズス様がどれほどお苦しみになられたのかということを考えて、イエズス様に感謝したり、あるいはお慰めを申し上げたりするときです。ところで教会はこの黙想がよくできるため、四旬節の中にふかく入るために、いったいこの苦しみを受けられたのはどんな方だったのか、その本当の姿はどうなのか、いったいどなたが苦しまれたのか、イエズス・キリストとはいったい誰なのかということを、わたしたちがはっきりと知ることを望んでいます。

今日、四旬節第二主日においては、イエズス様が本当の天主、この世の造り主、全能の永遠の、全知全能の天主であるということを、その姿を、わたしたちの前に知らせようとします。この天主が苦しまれたからこそ、わたしたちの四旬節の黙想もますます利益を受けて、ますます実のあるものとなるからです。なぜかというと、苦しまれたのは、栄光の天主であること、罪のない聖なるお方が苦しまれた、またわたしたちの罪のために苦しまれた、わたしたちを愛するために苦しまれたということを、深く理解できるためです。ですから今日は教会で一緒に、イエズス様の御変容の神秘を垣間見てみましょう。

まず、御変容でイエズス様が輝きだした、これはいったいどんなことだったのか。
それからイエズス様が誰かということを証言する声が――天主御父がそれをした――そしてイエズス様がこれから苦しみの中に入るけれども、いったい何のためだったのか。
これを黙想して、それから四旬節のよい決心を立てましょう。

イエズス様は、まことの天主、まことの人です。特に十二人の人たちの中から三人を選んで、ペトロ・ヤコブ・その兄弟ヨハネ、この三人を連れて高い山に登りました。聖書学者はこれをタボル山だと言っています。その山の山頂で主は突然、身体を、姿を変えました。その御顔は太陽のように燦然と輝きました。なぜ太陽のようにと言ったかというと、もうこの地上で太陽以上に輝くものはないからです。そのように輝いたというのは、人間の言葉を超えるものすごい輝きがイエズス・キリストのお顔から出た、ということです。想像してください。これはイエズス様が天主しか持っていない栄光の御稜威の輝きです。イエズス様は、もちろん、天主の生ける御言葉で、人間となられた方ですから、人間となられたその瞬間から、霊魂のなかには天主の栄光が満ち満ち溢れていました。しかし、御摂理によって、主のご計画によって、イエズス様が苦しみを受けることができるように、死を受けることができるように、私たちのために贖いの業を果たすことができるように、あえてこの栄光が霊魂から出ないようにされていました。恒常的にずーとそれが出ずに、苦しむことができるように、死を迎えることができるような状態として、生活されました。しかしもちろん、天主ですから、自分の全能の力を使って、この本当なら出ないはずの栄光が身体からにじみ出るようにすることも、できました。そして御変容の時には、これをそのまま出して、本当のお姿、天主としての姿を見せたのです。

聖パウロはこう言っています。コロサイ人の手紙のところです。「キリストにおいては、神性のみちみちたものが、すべて、体の形をとってやどっている。In ipso inhabitat omnis plenitudo divinitatis corporaliter.」(コロサイ2:9)と。

また言葉を続けて聖パウロはこうも書いています。コロサイ人の手紙です。「子(キリスト)は、目に見えない天主の姿であって Qui est imago Dei invisibilis」(コロサイ1:15)「すべての被造物の長子である。万物はかれによって創られた。天にあるもの、地にあるもの、目に見えるもの、目に見えないもの、玉座も、主権も、権勢も、能力も、みなかれによって、かれのために創られた。子は万物の先に存在し、万物はかれによって存在する。」(コロサイ1:16-17)

つまり、この光輝くお顔を見せているイエズス・キリストが、すべて全宇宙を支配しておられて、このすべてを創造されて、イエズス・キリストのために万物は創られたということです。そればかりか、わたしたち一人一人皆さん一人一人の運命を、この手に握っておられる方です。すべてをご存じです。私たちが、いったいいつどうやって生まれるのか、またわたしたちがいつどうやってどのようにこの地上から姿を消していくのか、わたしたちの人生の日数をすべてご存じです。どんなに権力あるものも、どんなに貧しいものも、すべてはイエズス様の御手の中にあるからです。

聖ヨハネは、福音書のその最初に、こう書いています。「私たちは、その栄光を見た。それは、御ひとり子として御父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。」(ヨハネ1:14)

この輝きについて一言付け加えると、要はイエズスさまが復活されると復活体として輝くのと、御変容の輝きとは、どのように違うのかということを、一つだけ申し上げます。

御変容の輝きというのは、天主の本性から来る輝きで、復活されたのちの復活体の輝きとは、少し違いがあります。本質としては同じです。天主の栄光から由来するからです。でも、ありかたは、全く同じではありません。なぜかというと、イエズス様の御体は、復活の前は、苦しむことができ死ぬことができるのであって、恒常的な、恒(つね)なる栄光をうけてはまだおられなかったからです。ちょうど聖トマス・アクィナスは、空と似ていると言います。天空と似ていると言います。太陽が昇ると、太陽の光に輝かされて、大気も明るくなります。天地を照らすことができます。しかし太陽が沈んでしまうと、真っ暗になってしまって、星や月が見えます。それと同じように、御変容も、主が自分の天主の本性をいま出そうと思われたので、一時的に変えられたものですが、しかし、それを出そうと思わなければ、そのまま消えてしまうものです。ちょうど天主の力を使って、イエズス様が水の上を歩いたと同じような、天主の力を直接介入させた一時的なものでした。

これに反して、復活したのちの復活体の輝きというのは、恒常的です。つまり、恒にあって普通のことなんです。ちょうど大気が光っているのは普通のことではありませんけれども、太陽があるからこそ光る、一時的なものですけれども、しかし、炎が光を出し輝くというのは、これは普通のことです。恒常的です。ちょうど復活したイエズス様、あるいは、この世で復活した義人たちの復活体が輝きでるのも、栄光に満ちた霊魂からそのまま恒常的に普通に輝きでる炎のようなもので、天主の栄光を霊魂が受けて、それが自然に肉体に滲み出て、それが輝きでる、のと同じです。

では話を元に戻します。この最高の主権者、全能の御言葉、永遠の智慧が、その本当の姿を弟子たちの前に見せた――するとそれのみならず、旧約の律法を代表するモーゼ、それから旧約の預言を代表するエリヤも、姿を現します。

御変容の時にモーゼは、古聖所から現れました。エリヤは、天に生きたまま火の馬車に乗って天に挙げられたエリヤが、天からまた戻って、イエズス・キリストこそがわたしたちが預言したものだ、と指し示します。モーゼも イエズス・キリストこそが律法の完成であり、律法の究極の目的だ、と示すために現れます。全聖書は、イエズス・キリストを指し示しているのです。イエズス・キリストとは、なんという権威のある方でしょうか。

そればかりではありません。いきなり光り輝く雲が、しかもイエズス・キリストとモーゼそしてエリヤそして三人の人たちを取り囲み、その雲の中から厳かな声が‥‥‥よく聴いてください‥‥‥「これは私の愛する子、私の心にかなったものである。これに聞け!」‥‥‥これは、天主御父からの、荘厳な命令でした。

イエズス・キリストがなぜこれほど燦然に輝き全旧約聖書が指し示すメシアであるかといえば、その尊厳高貴さその尊さの根源は何かというと、天主の御ひとり子である、そこにかかっています。天主御父が愛する御ひとり子、本性による天主の御子、であるからです。天主の愛というのはわたしたちの愛とは違っています。どのように違うかというと、わたしたちが愛するというのは何かが良いから愛するのであって、わたしたちが愛するからこれが良くなるのではありません。その反対です。なにか良いから愛する、これがいいなぁと思うから好きになる。ところが、天主の愛というのは、良さの原因なのです。天主が愛すると、これが全部、良いものとなる。良さを、天主の愛が伝えるのです。天主御父は、御子を限りない愛で愛されました。そして、ご自分の持てる無限の善を、御子にすべて与え尽くしました。被造物がもしも天主の良さの一部に与るとしたら、参与するとしたら、そのちょっとだけをもらうものだけだとしたら、天主御子はそのすべてを完璧にその充満を受け満ち満ちていました。善さに満ち満ちていました。善に溢れていました。 

聖ヨハネは福音書の中でこう書いています。「御父は御子を愛し、その手に全てをゆだねられた。」(ヨハネ3:35)御子は、御父と全く同じ本性による、天主です。そしてこの御父から受けたすべての善を、すべてよく使うので、天主御父はこれを非常にこころよく思いました。もしもわたしたちが、誰かからよいものをプレゼントされたとすると、それをよく使ってくれてこそ、贈り主は、使ってくれた!と喜びます。もしもそれが台無しになってしまえば、せっかくあげたのに無駄になってしまった‥‥。御子は、御父からうけたすべての善を、最高にそれを善として使うので、御子は御父の心に適ったものとなります。

ですから、その御子にむかって、御子について、宣言します。
「かれに聞け!」「これに聞け!」
もうモイゼではない、もうエリアでもない。イエズス・キリストの教えに従え!これに聞け!これに倣え!と。これほどの、全能の聖なる永遠の天主なる御父の御子が、わたしたちに教えようとされる、これが四旬節です。特にわたしたちに、ご自分の御受難を通して教えようとされること、これを学ぶことが四旬節です。

ではいったい、わたしたちに何を教えようとされるのでしょうか。ピラトの前で、御受難の真っ最中に、イエズス様はこう宣言します。
「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」(ヨハネ18:37)またある時はこうもいいます。
「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人も父のみもとにはいけない。」(ヨハネ14:6)

では、御受難を通してどんな真理を証明しようとするのでしょうか?いったいその真理とは何でしょうか。それは、「御父がどれほど聖なる方であって、どれほど愛すべきお方であって、どれほどわたしたちが従順でなければならないか」ということを、イエズス様がご自分の御受難を持って、証ししようとする。また、「罪が、どれほど御父の御稜威をその威光をその栄光を侮辱し傷つけるか」「罪がどれほど醜いのか、罪がどれほど忌むべきものなのか、罪の結果どれほどの償いが待っているか」「その聖なるイエズス・キリストでさえもこれほどにぐちゃぐちゃになるまで罪の償いを果たさなければならなかったとしたら、どれほど罪が恐ろしいのか、醜いのか、忌むべきか、捨てられるべきものか」ということを、わたしたちに教えたいと思ったからです。

主を、この十字架につけたのは、わたしたちの罪です。栄光の、燦然と輝く主を、十字架の奴隷のように、悪人としてつけたのは、罪でした。また、わたしたちが、本当ならば罪のために地獄に落ちなければならなかったところを贖ってくださった、その聖寵のお恵みの価値の貴さ、わたしたちの霊魂がどれほどイエズス様の目にとって尊いものであるか、ということを教えるためでした。栄光の天主が、屈辱を受けるのを厭わずに、喜んで血を流されて、わたしたちの霊魂を救おうとされた――それほどの価値があると思っておられるからです。天主の栄光をすべて投げ打ってまで救いたいと思った――これは、主がわたしたちを同時にどれほど愛されているかというその愛の大きさをも現わしています。わたしたちを愛するためにすべてを投げ打ちました。わたしたちを愛するために苦しまれました。ですから、これこそ、わたしたちが必ず知らなければならない、四旬節の間によーく黙想しなければならない真理です。

それだけではありません。この栄光を、燦然と輝く栄光を隠し持って、自分の霊魂に隠し、そして敢えて苦しみと死に臨んだのは、ご自分に信頼するようにと思う心からでした。たとえわたしたちが罪を犯したとしても、わたしたちは、主が燦然と輝く方だから畏れ多く、この今日の福音の使徒たちのように畏れ多くておののいて遠くに逃げてしまう必要はありません。そうではなくて、たとえ罪を犯して主の御稜威に侮辱を加えたとしても、ご自分の十字架のもとに引き寄せようとしてくださいます。

十字架の上で何とおっしゃったかというと、御子として、御父の本性による子として、燦然と輝く栄光を持つ子として、「父よ、かれらを赦し給え。」とおっしゃったではないでしょうか。また痛悔した盗賊にも、「汝、今日われとともに楽園にあらん。」と約束されたではないでしょうか。イエズス様の御血は、復讐ではなくて憐れみを与える御血だということをわたしたちに教えようとしています。また最後に、イエズス様は、御受難を通してわたしたちに模範を示されます。柔和・けんそん・忍耐・従順・剛毅・貞潔・敵を赦す・あわれみなど。

もしも罪のない天主が、栄光の主が、これほど苦しまれたのなら、罪を犯したわたしたちが、少しぐらい苦しんで当然ではないでしょうか。もしも聖にして聖にして聖なる方が、反逆された、十字架だ、と汚名を着せられて、そして冤罪をかけられたのならば、わたしたちが他人から屈辱を受けてそれをなんと正当化することばかりを考えることができるでしょうか。

イエズス様はこういわれます。「自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。」(マテオ16:24)
私たちはこの人生において、どうしても苦しみを避けることができません。自分の全て思い通りにするということはできません。イエズス様でもできません。イエズス様は私たちの先頭を歩んで、わたしたちに「俺の後を従え。ついてこい。」とおっしゃいます。わたしたちの将軍、リーダーです。わたしたちがその御跡を慕って従うように、手本を残されたのです。

では、今日、四旬節の選善の決心を立てましょう。イエズス様はこういわれます。「友のために命を与える程大きな愛はない」。イエズス様はわたしたちに対して、わたしたちを友として、ご自分の命を棄ててしまいました。わたしたちは何と偉大な友を持っていることでしょう。全能全知の栄光の天主を友として、その友が友人が親友がわたしたちのためにこれほど苦しまれた、ということです。愛する友です。

子どもはお父さんが亡くなったというと、涙を流します。妻は、夫が病気だ、苦しんでいる、事故にあった、と聞けば、オロオロして夫のために心配して悲しみます。友人は親友が不幸にあったといえば、嘆きます。

イエズス様が私たちのためにこれほどの苦難を受けようとされることを黙想するこの四旬節、わたしたちは、いったいなぜ石ころのように冷たいこころのままでいることができるでしょうか。なぜ、わたしたちの目は岩のようにカラッと乾ききって、涙の一つも一滴も出ないのでしょう。ペトロは、イエズス様を否んでしまいました。女中の声を恐れて三回も。しかし、イエズス様の目をちらりと見て、そのとき「外に出てはげしく泣いた」と福音書には書かれています。わたしたちも聖ペトロのように、イエズス様の眼差しを見て、激しく泣くことができるように、罪を痛悔することができるように、この四旬節のお恵みを求めましょう。

聖パウロはこう言っています。「主のみ旨はまさにこれだ、あなたたちが聖となること。」つまり、イエズス・キリストと似通ったものとなることです。

ではわたしたちは、具体的に、四旬節の犠牲の決心をたてましょう。痛悔の心を捧げましょう。特別の祈りを捧げる、という決心を立てましょう。毎日時間を決めて十字架の道行きをする――すばらしい四旬節の決心です。大小斎を捧げる、毎日大小斎を捧げる――素晴らしい決心です。施しをする、犠牲をする――とてもよい決心です。携帯を使わない、あるいは最小限にする、動画を見るのを断食する、ユーチューブはもう放棄する――なんとイエズス様の聖心にかなう四旬節の決心でしょうか!

ますますわたしたちが世俗から離れて、イエズス様の御受難を黙想する時間を作ることができますように、マリア様に特別のお祈りをいたしましょう。マリア様と共に、四旬節の聖なる時を過ごすことができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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